|
国家公務員の政治活動の制限・禁止について
1996年3月2日
[reform:151] Restrictions on political activities of public service personnel , Posted: Sat, 2 Mar 1996 14:26:39 +0900)大学改革をめぐってアカデミズムの独立の問題についていろいろ考えていたところ,最近は法律に凝るようになりました.そこで,国家公務員の政治活動を制限・禁止した次の法律と関連規則を分析してみました.お読みいただいた方,どうぞコメント下さい.おそらくこのような議論は専門家によって既にやりつくされたものでしょうが,それでもこのような法律や規則が生き残っているからには,同じ議論でも繰り返さなければならないと思います.
引用している規則等は次の二つです.
−−−−−条文本体−−−[字下げは筆者による]−−−国家公務員法百二条(政治的行為の制限)
職員は,
政党又は政治的目的のために,
寄付金その他の利益を求め,若しくは受領し,又は
何らの方法を以てするを問わず,
これらの行為に関与し,あるいは選挙権の行使を除く外,
人事院規則で定める政治的行為をしてはならない.
(2)職員は,公選による公職の候補者となることができない.
(3)職員は,政党その他の政治的団体の役員,政治的顧問,その他これら と同様な役割を持つ構成員となることができない.
−−−−−−−議論−−−−−−−
日本の公務員はおよそ民主主義の国とはいえないほどその政治的自由が制限されている.さらに重大なことに,国立大学の教員は「国家公務員」とされているため,この制限がアカデミズムの独立という近代国家の原則とも矛盾している.
国家公務員法102条は,「人事院規則で定める政治的行為をしてはならない」として政治活動の禁止を述べ,それを受けて人事院規則はこと細かに禁止事項を並べている.いわく,政治的団体の結成を企画したり援助してはならない(6項-5号),政治的団体への勧誘運動をしてはならない(6-6),集会などで拡声器を使って政治的な意見を述べてはいけない(6-11),政治的な演劇を演出してはならない(6-14)など十七項目にも及ぶ.しかもこの制限は勤務時間外にも,また,常勤の職員だけでなく非常勤職員にまで適用されるのである.
政府活動に携わる公務員が,その公平,公正さを保つために,政治活動において何らかの制限を受けるということはあり得るだろうが,このような,言論の自由の原則を踏みにじるほどの規則は憲法に照らせば違法である.しかも政府活動とは関係のない国立大学までも縛っている.しかし問題はそれだけではない.国家公務員法102条は,「法の支配」という根本原則にすら反しているように思われるのである.それは,禁止する行為である「政治的行為」の定義を法律ではなく「規則」に委ねていると言う点である.「規則」は立法府によることなく省庁などの官僚組織だけで決めることができる.このことは,何を禁止するかを官僚組織に自由に決めさせるということで,「法の支配」とは正反対の「人治」そのものである.
同じような,実質的な事がらをより下位の規則で決めるというやり方は,人事院規則とその「運用方針」の間でも見られる.たとえば,規則5項五号で「政治の方向に影響を与える目的で特定の政策を主張し又はこれに反対すること」は禁止の対象となるべき「政治的目的」を持つものとしている.しかしこの条項の「運用方針」では,「政治の方向に影響を与える目的」とは「日本国憲法に定められた民主主義政治の根本原則を変更しようとする意思をいう」として,単に諸政策を議論し批判するのはこれに当たらないとしている.
日常的語法では,人が何らかの政治的発言をするとき,それは何らかの意味で「政治の方向に影響を与え」たいからだと考えるのは当然だろう.普通の人がそのような気持ちで規則5項五号を見れば,政治的な事は何も言ってはいけないのだと思ってしまうに違いない.さすがにこれではあんまりだと思ったのか,「運用方針」で限定を加えているのである.しかしこの「限定」はまさに人事院という役所の慈悲次第であり,そのような「運用」が常に行われるという保障はないのである.これはまさに最近よく言われる「官主主義」の見本のようなものだ.いわば,このような法やその運用のありかたそのものが「日本国憲法に定められた民主主義政治の根本原則を変更しようとする」こと,そのものである.
「運用方針」の最後の第五項では,「この規則は憲法第二十三条に規定する学問の自由を拘束するような趣旨に解釈されてはならない」として学問の自由への配慮を示しているが,このような「注意書き」が必要なこと自体,規則そのものにこの危険性があることの証拠である.
なお,規則の中で「政治的団体」という言葉が何度も使われるがその定義がされていない.これは単純ミスだろうか.
−−−議論 おわり−−−
追記
上の文章は,fj.soc.lawに投稿したものですが,その際コメントがあったの
でこれへの回答をつけ加えます.> ← 上位 下位→
> 国 ----- 文部省(行政機関)
> 文部大臣(行政庁)----- 国立大学(企業機関)という行政ピラミッドに
> 組み込まれています。国立大学は法令上は文部省の下部組織ではないかという議論ですが,法令によって教授会や大学評議会の独立した権限が認められており,他の行政機関と同様に見なすべきではありません.国立大学は「国立学校設置法」という法律にその存立根拠を持っており,同様に文部省も「文部省設置法」という法律で設置されていることを考えれば,両者は「国会の前に平等」です.文部省設置法8条「本省に国立学校を置く」や国立学校設置法第1条の2「国立学校は,文部大臣の所轄に属する」を,無限定な上下関係の根拠にしてはいけないということです.この点に関しては私の文章「文部省の違法行為・従順な大学」
(ftp://pegasus.phys.saga-u.ac.jp/pub/UniversityIssues/obedient-universities)
をお読み頂ければありがた いのですが.(2002年現在,ftpサーバーの運用はしていません.上のhttpリンクをご利用下さい.)> 行政内部の規律は、大まかなところを特別法で定め、細かいところは規則、
> 通達、訓令で管理するということになってるみたいです。問題は「政治的行為」とは何かという極めて「大まかなところ」を下位の 規則に委ねているという点ですね.
> 等など、「公務員である以上、政治的活動の制限はやむを得ない」というの
> が司法的判断になっています。最初の投稿で「政府活動に携わる公務員が,その公平,公正さを保つために,政治活動において何らかの制限を受けるということはあり得る」と書きましたように,すべて一般市民と同等だということを主張しているわけではありません.制限するにしても,最高法規である憲法の表現の自由などの原則を考えれば,合理性のある必要最小限の範囲にすべきだということです.人事院規則はその範囲をはるかに越えていると思います.まあ,旧ソ連なみの極端な「民主集中制」とでも言いましょうか.
憲法は最も重たいもので変化しにくいものですが,下位の法律や規則,まして判例などは時代に合わせて変化すべきものです.その変化のための指針は,憲法や,さらに普遍的な,自由や民主主義の概念だと思います.(1996年3月2日)