親類ページ:教育一般大学改革平和英国の核を廃絶ホーム
大学問題リンク:独行法反対新首都圏ネット全大教近畿辻下氏

国立大学独法化阻止全国ネットワーク


(ver.2)(ver.2.1,26/10/2000)

文部省の違法行為・従順な大学

    (「科学・社会・人間」* 53号,95年7月発行に掲載.これを引用している書籍

佐賀大学 豊島耕一

1.「改革」という名前の文部省の大学支配

 ジャーナリズムで教育問題が盛んに議論される中で,大学をめぐってはその量はあまり多くはない.かつての「大学紛争」の時代の学生たちのような内部の大量で強力な批判者がいないため,ジャーナリスト以外では大学教員らの批判力が論争の質を決めることになる.大学内部の問題点の分析は多いが,行政権力との関係での議論,特に文部省による官僚支配について述べたものは少ないようだ.これは,このような実態を知りうる立場の人はそれぞれの大学で行政上の責任を持たされており,あまり自由に発言できないためではないかと思われる.この文は,教授会メンバーではあるが,出世しなかったためか専ら「野党」的立場に留まり続けることのできた一人のインサイダーの発言である.
 福沢諭吉は120年も前に「文明論之概略」で,職階の下位のものが上位の者に,あるいは地方が中央に異常なまでに卑屈になる様子を痛憤をこめて次のように書いている.

政府の吏人が平民に対して威を振う趣を見ればこそ,権あるに似たれども,この吏人が政府中にありて上級の者に対するときは,その抑圧を受ること,平民が吏人に対するよりなお甚しきものあり.譬えば地方の下役らが,村の名主共を呼出して事を談ずるときは,その傲慢厭うべきが如くなれども,この下役が長官に接する有様を見れば,また愍笑に堪えたり.(岩波文庫1995年3月発行より引用)

「地方の下役」を大学の学長,学部長に,「村の名主共」を大学評議会あるいは教授会に,そして「長官」を文部省の官僚に当てはめたとき,今日の大学や文部省をめぐる関係とそれほどかけ離れていないのではないかと思えるふしがある.さらに言えば,文部省の上には大蔵省や通産省があるのかも知れない.
 国立大学は数年来いわゆる「改革」騒ぎの中にあるが,これはかつての70年前後の大学紛争の時代と違って,上からの改革,はっきり言えば文部省主導の改革という性格がつよい.しかも「政治改革」と同様に,大学のかかえる最も重要な問題がはぐらかされて,もっぱら制度いじりに終始しているように私には思える.たとえば,かつての大学紛争の時代に叫ばれ,そしてアメリカではそれなりの成果をおさめたと言われる「学生参加」について語られることはほとんどない.「入るのは難しく,出るのは易しい」といわれる,出口では大学教育の水準にかかわり,入り口では異常な偏差値競争をもたらしている大学の問題点が注目されることも少ない.そのかわりに最大の問題とされたのが教養部制度の是非,そしてごく最近では教育学部の縮小あるいは再編である.そして教養部制度は全国画一的に解体が急速に進んでおり,大学全体が一般教養軽視,専門偏重に傾いていくことが危惧される.
 このような改革が国民的議論はおろか,大学内でも自由で掘り下げた議論がないまま進行していることの原因の第一は,国立大学が文部省の支配に対してあまりにも従順なためである.予算や法律を通じて国会からのコントロールを受けるのは当然だが,法的根拠のない官僚支配は違法なはずである.しかしこれがまかり通っている.すなわち「改革」プロセスを文部省がコントロールすることによって,大学の権力支配が貫かれている.
 小中高の場合と違って,今のところ文部省は大学をあからさまに統制するようなことはできない.しかし予算や法律を必要とする「改革」の場合は,必ず文部省の机の上を書類が通過し,これが必ずしもベルトコンベヤーで自動的に国会まで運ばれるわけではないので,ここに文部省がブローカーの役回りをするチャンスが生まれるのである.これに対して大学は何の批判もしていない.
 大学自治と権力との関係は,「大学紛争」の時代以来これまで警察権力との対抗関係で問題にされることが多かったが,今日ではこのように「改革」という操作を大学に要求しそれに介入するという形での,文部省の大学コントロールこそが最も重大な問題であろう.(もちろんすべての改革動向を調査したわけではないが,このような傾向が広く見られることはまちがいない.)
 しかしこの支配やコントロールは大学トップと文部官僚の間の非公式のやりとりを通じて暗黙の形で行われるため,違法性を明確に指摘することがいままで困難であった.たとえば,教授会において「文部省の意向」というものがなぜか支配的な力を持つが,これは明文化されたものではなく,学部長らの文部官僚と接した「感触」の類,あたかも巫女によって伝えられる神の意志のように示されるだけだからである.しかしここで私は,文部省の違法な大学支配の明白な証拠を示したい.国立大学の組織再編手続きについてのある疑問を解くために「教育小六法」の中をさがし回った結果,一つの「発見」をしたのである.


2.文部省と国立大学の法的関係


 その「発見」について述べる前に,文部省と国立大学大学とは法的にはどのような関係にあるのかを見てみよう.
 文部省は言うまでもなく国家権力機関であるが,一方国立大学は同じ国家機関とはいえ教育・研究をおもな仕事とする機関であり,「学問の自由」の担い手の重要な一部と認められている.このため「大学の自治」という観念が社会に受け入れられているのである.しかしその設置や廃止,その他の組織の大幅な改変などは当然「自治」の範囲の外にあり,「国立学校設置法」という法律の改正によらなければならないし,またこの法律によってその存立の根拠が与えられてもいる.
 このように国立大学はその存立のための十分な根拠法規を持っているのに,奇妙なことに全く別の法律によって,いわば二重定義されている.文部省設置法8条には,「本省に国立学校を置く」とあり,これを文字どうり解釈すれば国立大学は文部省の一部ということになる.(法律の専門家でない私には詳しいことはわからないが,これは文部省の任務とその所掌事務を定めた4条や5条と矛盾しないのだろうが.)大学が文部省という行政機関の一部なら,行政機構の論理によって下位は上位に従うことは当然とされるだろう.大学関係者が文部省の方針や「意向」を無批判に受け入れる性向をもっているのは,この条項に基づくイデオロギーが大学に浸透している証拠かもしれない.
 しかし文部省設置法8条をこのように解釈したのでは,国立大学は文部省の単なる地方出張所になってしまい,教育基本法の「不当な支配」排除の条項など吹き飛んでしまう.霞ヶ関の文部省と全国の国立大学とを一般の行政機関の内部関係のように扱ってはいけないのであって,前者は権力機構としての官僚組織,後者は「学問の自由」に大きく関わる教育・研究機関であることに留意しなければならない.したがってこの条文は,国立学校設置法第1条の2の「国立学校は,文部大臣の所轄に属する」という規定の繰り返しという程度に理解すべきだろう.むしろ文部省設置法のこの条項は不要と言うべきである.
 したがって,文部省と国立大学とを,支配・従属の関係にあるとみなしてはいけないし,法律に明示されたこと以外での前者の後者への権力行使は厳格に抑止されていなければならない.しかし現実には例えば,大学が何かの理由で文部省の機嫌を損ねると,予算配分で不利な扱いを受けるものと広く信じられている.予算を決めるのは文部省ではなく国会であるにもかかわらず,である.このようなある種の「構造的な脅し」が実際に有効に作用しており,このため文部省と大学との間での「意見の違い」などというものが表面化することさえもまずあり得ないのである.
 しかしその脅し道具の一つが,実は法的根拠がないばかりか違法なものであったのである.


3.国立大学の学部再編手続きにおける文部省の違法行為


 国立大学の組織再編において,それが学部の新設をともなう場合は,その改革案の内容と配属される教員の資格の両方が,私学の場合と同様に,大学設置・学校法人審議会の審査にかけられるというのがこれまで常識のようにされてきた.しかし実はこれには法的根拠が全くないのである.
 私立学校に対しては,学校教育法4条は,学校そのものの設置だけでなく学部を新しく作ることも監督庁(文部大臣)の認可の対象となることを規定している.そして同60条の2で,監督庁はこれを大学設置・学校法人審議会(設置審)に諮問しなければならないとある.したがって私立学校がその設置や学部の増設をしようとする場合は設置審の審査を受けなければならない.しかし国立大学の場合はこれは国会による立法行為なので,それが文部省という一省庁の認可の対象となることなどありえない.これは国会が「国権の最高機関」(憲法41条)であれば当然のことである.したがって,文部省から設置審への諮問もあり得ない.
 にもかかわらず,文部省は国立大学に対して,このような場合に設置審への書類提出と審査とを義務づけているのである.さすがに文部省もこれが学校教育法4条によるものだとは言っていない.文部省の公式見解ではないが,執筆者全員が文部官僚という「大学事務職員必携」(1)という本によれば,文部省が法案あるいは予算案を国会に提出する際の,設置審への「意見伺い」だそうである.はたしてこれは,政策立案において「文部大臣の恣意的な判断をさけるため」のものと見なせるような性質のものだろうか.
 すでに述べたように国立大学の設置や再編は最終的には国会による立法行為である.そこで問題はこれへの提案内容を決める権限を持つのははだれかということである.文部省か,大蔵省か,それとも大学にあるのか?(国会の役割がほとんど形式的なものにすぎず,実質的に提案イコール法律という現状ではこのことは特に決定的な意味を持つ.)もちろん形式上は内閣総理大臣であり,閣議に提案するのは文部大臣であるので,文部省ということになりそうである.しかし「大学自治」と,それにまつわって大学の自主性が尊重されるのであれば,大学側の意志とかかわりなく文部省がこれを決定できるとは考えられない.ではどの程度大学側の意志が重みを持つのだろうか?
 「国立大学の評議会に関する暫定措置を定める規則」という省令がある.「暫定措置」と言いながら42年間も生きている規則である(注a).その第6条に,評議会の権限として,「学部,学科その他の重要な施設の設置廃止に関する事項」を審議するとある.審議権があるということは当然そのレベルでは決定権があることも意味する.さらに,この省令を受けてすべての国立大学に,その評議会に関する規程に同様の条項があるはずである.
 このことから国立大学の学部の新設・廃止は大学評議会で意志決定できることがわかる(ただしあくまでも国会への提案内容を,である).これに文部省が介入したり,変更を要求したりするにはそれなりの法的根拠が必要だが,省令より上位の法令にこのようなものは見当たらないのである.このように大学には国会への大きな発言権が与えられていたのである.国会への提案内容の実質的な決定権を与えられていない文部大臣がそのことで設置審に「意見伺い」をすることなどあり得ないのである.
 こうしてみると,設置審審査の義務づけの残された言い訳は,「指導・助言」権に基づく行為だと言うことになろうが,これも成り立たない.「指導・助言」であればこれを受け入れるのも断るのも自由なはずであが,現実には設置審にかけることを前提に「そんな案では『審査』に通らない」と言って難くせをつけ,「改革案」を官僚の言いなりに誘導しているのが実態である.(しかも後で述べるように「審査」の内容そのものにも違法性がある.)このような「指導・助言」権の運用は権限の濫用であり違法である.文部省設置法6条2項には「文部省は,その権限の行使に当たって,法律に別段の定がある場合を除いては,行政上及び運営上の監督を行わないものとする」とあり,このような越権行為は禁止されている.
 文部省側の,許認可権の行使ではないという態度にもかかわらず,大学改革の文部省による予算案作成が設置審の合格を前提にしている以上,大学の側から見れば明らかに私立の同様の「認可」に等しいのである.これは,大学の決定をあらかじめ文部省の手でふるいにかけることであり,国会の審議権の侵害にあたるかも知れない.


4.大学側の対応について


 上に述べたようにそのこと自体の正当性も全く疑わしいのだが,文部省の公式立場は実は「意見伺い」であった.しかし文部官僚らが執筆したマニュアル(2)には「審査を経る」という表現がなされており,少なくとも教授会レベルでは当然の義務づけられた審査であると完全に信じられていたのである.この「誤解」の原因追及も重要である.なぜなら,これによって「文部省や設置審が認めないような案はダメ」ということで大学の改革の方向がこれまで完全に規制されてきたからである.大学の従順さの大きな原因も実はここにあった.
 文部省が大学に故意に誤解させたのか(はっきり言えば騙したのか),それとも大学上層部が教授会を騙したのか,ということが解明されなければならない.もちろん騙された方の責任も含めてである.その中には教育行政の専門家が何人もいたはずではないのか.
 違法にも設置審での審査が義務づけられていることの問題点は,大学側の改革案が官僚に気に入るように誘導されるということだけではない.自らに本当の立案権がないのに,改革に本気で取り組めといっても無理で,改革案自体がいい加減なものになりやすい.そして,自らリスクを負って決断する責任は回避され,改革の結果が思わしくなかったときには「文部省の責任」にできるので,大学の無責任さを助長するだろう.さらにこの無責任さは,文部省の担当者に「責任感」を呼び起こし,これがまた官僚支配を強化するという悪循環につながるのかも知れない.
 大学は「大学設置基準」という省令に適合しなければならず,再編計画などがこれに合致しているかどうかの判定は国立大学といえどももちろん必要である.私立大学の場合はこれが「認可」に際しての文部大臣の設置審への諮問であった.国立大学に関してはすでに見たようにこの手続きについての法的な規定がないのだから,法律を審議する国会自身が判断することになろう.そのための資料,すなわち設置の構想・内容はもちろん,教員の配置やその資格にかかわるデータなども国会審議のために大学が準備し,設置基準への適合性を主張しなければならない.
 このために,大学が自発的な選択として直接設置審に審査を依頼するということは可能かも知れない.しかし設置審は文部大臣の任命による行政機関であり,もし外部に依頼するとしても行政とは独立な,たとえば大学基準協会のような(その実態を詳細に検討していないので留保付きだが)自治的団体に拠るべきであろう.


5.設置審の審査内容にも違法性


 設置審の審査自体についても,これが最近違法な審査形態をとり始めたことを指摘しなければならない.92年から「大学設置分科会」の中に「設置構想審査委員会」が新設されたのである.これがどのような機能を果たすべきかについて,その「審査内規」(3)は次のように述べている.
 「教育研究上の理念・目的が(中略)今後わが国高等教育が全体として目指すべき基本方向(教育機能の強化,教育研究の高度化,生涯学習への対応)に照らし適切かどうか」
 これが学問の自由,教育の自由の侵害であるとすぐに直感出来ないならば,その人は憲法的,教育基本法的感性にヤスリがかけられ磨滅させられてしまっていると言いたい.いつのまにか「理念・目的」で大学の認可が判断されるようになってしまっているだけでなく,あからさまに「国策に沿わない大学は認めない」と言っているのである.(これは決して補助金の基準ではない!)このことには私大関係者も黙っていてはいけない.
 学問の自由とは個人にかかわることだけではなく,どのような組織でこれを実行していくのかということもその重要な内容である.これへの国家の介入は法に基ずく限定されたものでなければならない.「大学設置基準」以外を判断根拠とするのは許されない.野球でいえば,審判が勝手にストライクゾーンを狭くしてボールと判定するようなものだ.教科書検定の問題にたとえれば,教科書の「理念・目的」で合否を判断すると言っているのと同じことである.


6.教育基本法にてらしての「設置審」制度自体の問題点


 私大に関する文部省の「許認可権」自体は当然のことかも知れないが,その権限は憲法や教育基本法に合致するように限定して行使されなければならない.しかし現行の設置審はあくまで行政機構の付属物であり,そのメンバーはすべて文部大臣の任命による.したがってこの制度で文部大臣や官僚の恣意性が排除できるというのはよほど幸運な偶然が重なった場合だけだろう.実際,前節で指摘したように,行政権力の意向を受けての違法な運営が見られるのである.行政とは独立な,たとえば大学基準協会に諮問するか,あるいは設置審のメンバーを大学関係者の選挙で選ぶようにすべきである.
 この種の「審議会行政」は政府のあらゆる部門に見られるが,これらが専門家や国民の意見を政治に反映させるというその名目とは反対に,その形式を整えたことにして批判や反対を封じ込めるための,いわば官僚独裁のための道具になっているというのはもはや常識である.結果として国会の審議権さえもないがしろにされる.設置審だけ例外だという証拠はないのである.


7.まとめにかえて


 「国立大学の評議会に関する暫定措置を定める規則」という省令の第6条が認めている大学の意志の重視は,考えてみれば当然のことであって,教育・研究の専門家でもない文部省という小さな役所に−ただ東京にある中央官庁と言うだけで−個別の大学についての決定権があると考える方がよほど異常だったのである.42年も前の省令だから古くて時代に合わないなどと言ってはいけない.地方分権化という時代の潮流にもマッチした実に今日的なイデオロギーですらある.しかし大学側はこれまで,自分の大学の規程集にも明記されているこの権限と責任に気付かず,ひたすら文部省のいいなりになってきた.これは知的怠慢といわれても仕方がないだろう.
 評議会を持たない単一学部の国立大学はどうなるのか,教授会自治が基本で,評議会が大きな権限を持つと考えるのはこの否定ではないのかという意見もありうる.私は,評議会の決定は教授会の権限に由来すると考えており,教授会に超越する評議会の権限を主張してはいない.複数学部の大学では,学部の新設のような大きな問題を一つの学部の教授会単独では決定できないので,全学的合意の確認として評議会決定が必要なのである.なお一つの学部しかない大学でも評議会を置くことが可能である.
 また,法令に根拠を持たないで実施されている行政上の行為はいくらでもあるので,それだけで違法と決めつけるのは無理があるという意見もあるかも知れない.しかし本来任意のはずの手続きを強制することは明らかに違法で,もしこれさえも幾らもあるというのなら,そのこと自体が問題である.法令に書かれていることが無視され,法令にないことが大学に強制されている.しかもこれが教育基本法の言う「不当な支配」の手段に使われている実態があるからこそ,問題にすべき強い違法性があるのである.
 世界的に広く読まれた,「日本/権力構造の謎」という本の中で,著者のウォルフレン氏は,「官僚が法的根拠なしで支配的な権力をふるう点に,疑問を持つ日本人はごく少数しかいない」(4)と述べた.大学が知的権威を保つためには,これにはっきりと疑問を呈することで,まず自らの姿勢を正さなければならない.
(1995.5.22)



1) 文教ニュース社,「大学事務職員必携」,478頁,1985年7月.
2) 同上
3) 大学設置・学校法人審議会 大学設置分科会決定,91年6月24日,92年5月14日改正.
4) カレル・ヴァン・ウォルフレン,「日本/権力構造の謎」(ハヤカワ文庫,1994年)下巻63ページ.
*「科学・社会・人間」の事務局は1999年8月現在,慶應大学日吉,物理学教室,藤田祐幸氏です.

(注a.2000年6月記:評議会は99年の法改正で国立学校設置法に組み込まれた.その第七条の三の5に審議事項が挙げられている.省令から法律に上がったので,上の論拠はむしろ強化されている.)

本稿は次の書籍で引用されています.
中村龍兵,「挑戦する立命館」,エトレ,1997年,12ページ
岩崎稔ほか,「激震!大学改革」,未来社,1999年,99ページ(著者自身の引用)