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A1分科会報告(9月9日,札幌)
アクロバット形式 当日会場での口頭発表

行政法人化問題での焦点と,われわれの基本的姿勢の問題について

+ 付録

佐賀大学理工学部 豊島耕一

中期目標に日の丸の掲揚・君が代
文部省は,「中期目標」に,大学の主要式典における日の丸の掲揚・君が代斉唱の完全実施を掲げることとし,その旨を各大学法人の学長に指示した.また,同じく,教養的教育における検定済み教科書の使用率を50%以上にすることを目標に含めることも検討している.法人大学協会はいずれについても「大学の自由を損なうもの」と批判しているが,どの学長も更迭を恐れて撤回は求めない方針.組合側は,文部省の法人審議会と評価委員会に対して傍聴「行動」を組織するなどこれに強く反対している.[読捨新聞,2005年9月8日]

1.はじめに

 冒頭の「作品」は一年以上前に書いたもので,その時点では書いた本人も,本当にそこまで行くものだろうか,という気持ちが多少はあった.しかし最近の動きを見ていると,少なくとも前半に関してはこれ以上のスピードで進んでいるようだ.にもかかわらず「アレルギー」反応はあまり激しくはない.このように,事態は小刻みな一つのズレが「現実的なもの」として慣らされたときにさらに次のズレが積み重ねられると言う具合に進んで行くものなので,真摯な生き方を求める人には「現実的なもの」に冒されない精神的な強さが求められる.

2.行政法人化問題の性質

 この問題は,雇用条件が悪くなるとか,いくつかの大学が潰れるかもしれないとか,授業料が上がるかも知れないというような(それぞれもちろん重大な問題には違いないが)レベルではない,大学にとってもう一段深いレベルのものであることを認識することが重要だと思う.いわば大学という概念そのものの変更と言うべきものである.すなわち,「国立学校設置法」に根拠を持ち,役所,すなわち文部省から曲がりなりにも独立した存在としての「教育機関」であったものが,単なる文部省の一下部機関になろうとしているのである.いわば文部省傘下の「行政機関」である.通則法を一読した人であれば,これが誇張でも何でもないことを理解されると思う.別の言葉で言えば,憲法23条の実質改憲と教育基本法10条の停止である.

 このような性質の問題に「条件闘争」はない.最悪のケースのその最後の決定的な瞬間,すなわち法律が国会を通過する瞬間まで,阻止のためのあらゆる努力をすべきなのである.このための犠牲として受け入れられないものに何があるのか,今のところ私には見当がつかない.

3.国大協の「調査検討会議」参加問題

 文部省の「調査検討会議」への国大協の参加の問題については,組合サイドの反応は少ないようだ.しかしこれは現在問題の最も重要なかなめの部分をなしているので,この問題にまじめに取り組もうとするならば避けて通ることはできない.「調査検討会議」が行政法人化推進のための道具以外の何物でもないことは,文部省の7月19日付けの文書「『国立大学等の独立行政法人化に関する調査検討会議』について」に書かれたこの会議の目的を述べた文を読めば明かである.修飾語を除いてその構造だけを取り出すと次のようになる.

「独立行政法人制度の下で、国立大学等を独立行政法人化する場合の制度の具体的な内容について、必要な調査検討を行う」

 「独立行政法人」とあるのは,”政府から相対的に独立してはいるが,しかし行政とは関連を持つ法人格を有する団体”などという意味の普通名詞ではもちろんない.「中央省庁等改革基本法」と「独立行政法人通則法」で定義された特定の制度に付けられた固有名詞である.そしてそれは,国大協がこれまで国立大学に「なじまない」と言い続けてきたまさにその制度である.国大協が組織としてこれに参加する(文部省はすでに「協力」という言葉を使っている)ということは,事実上反対を撤回して文字どおり協力することなのである.これにノーを言うことは当然のことで,行政法人化反対を唱えながらそうしないと言う態度は,私には精神分裂症以外には考えられない.

4.基本的姿勢ないし「生き方」の問題

 しかしなぜ分裂症的な態度が不思議に思われないのだろうか.これは,今までの文部省-大学-組合をめぐる事態の成り行きと関係がある.つまりこれまで「改革」に関するほとんどの問題で組合側は「連敗」を重ねてきており,今度も文部省が決めてしまった以上,経験則からして反対しても無駄だろう,だとすればほんのわずかでも害悪を少なくする努力として,文部省の会議に参加するのは当然だ,というような思考によるものと思われる.そのように考える人にとっては,「調査検討会議への参加反対」を唱える人間は”玉砕”主義者に見えるかもしれない.

 しかしこのような態度こそ諦めが早すぎるというもので,可能性を塞ぐという意味で「自殺点」を入れるようなものなのだ.あまりにも物分かりのよい集団というものは,権力にとって最もたやすい相手なのである.

 今日まだ法案の影も形もありはしない.国会に上程されるまでにまだ十分な時間がある.国民に理解してもらうための活動はまだ緒についたばかりである.国大協会長,あるいは国立大学の学長のだれでもいいが,テレビに出演して行政法人化の問題点をわかりやすく説明するだけでもかなりの効果があろう.著名人などへの工作もまだ行われていないように思われる.

 問題の性質がこのように原理的なものに関わる場合は特に,運動の「成果」は目に見えるものだけではないという点にも注意すべきである.個別の具体的な要求にだけ関わる問題でないということは,社会的な普遍性を持つ課題であり,日本社会のすべてとリンクしているということである.不幸にも行政法人化が通ってしまったとしても,反対勢力の側がどこまで原則的な立場を保持し得たのかということは歴史の記憶として残るのであり,他の分野での運動に大きな励ましを与えるものである.このような,運動の影響の不可視な部分も重要なのであり,あるいは「成果」の一つとして位置づけられるべきかもしれない.

 国鉄解体をめぐる議論で,しばしば国労の運動のありかたが取りざたされる.世論の支持を得る努力が足りなかったとか,戦術がまずかったなどなど,もっぱら国労運動の「欠陥」を批評する議論が多い.もしそれが当たっているとしても,同時に国労が成し遂げたことも正当に評価しなければ公平を欠く.もし国労が,国家による不当労働行為に対してさして異議も唱えず,差別的解雇を易々と受け入れていたとすれば,そのことの労働運動に与えた影響は計り知れないだろう.大変な犠牲にも関わらず今もこれを撤回させる闘いを続けているのである.

 憲法99条は公務員の憲法擁護義務を規定しているが,「調整法」や「特例法」という形でも行政法人化を受け入れるとすれば,問題点を知りながら沈黙・容認したことになり,この意味でも重大な責任を負わなければならないだろう.

5.独自法案の重要性

 国大協の「調査検討会議」参加を撤回させる運動は,組合全体で取り組むに値すると思うが,今のところ署名運動という形で有志でこれに取り組んでいる.筆者toyo@cc.saga-u.ac.jp宛メールを下さるか,次のサイトで署名にご協力を頂きたい.

../UniversityIssues/appeal.html

 国立大学をめぐる制度が大きく変えられようとしている事態は同時に,われわれの側にとっても大きなチャンスが与えられていることを意味するのである.「独立行政法人」に代わる,憲法と教育基本法,そしてユネスコ高等教育世界宣言に準拠した本格的な選択肢を国民に示すことができれば,大きな国民的議論を引き起こすことができるだろう.そのための専門的知識を持つ人が集められないはずはない.これについては下記の北大の辻下徹氏のサイトをご覧頂きたい.

http://www.geocities.co.jp/CollegeLife-Cafe/3141/dgh/philosophy.html
または
http://fcs.math.sci.hokudai.ac.jp/dgh/philosophy.html


(ここまでがレポートの紙幅いっぱいです.以下はこのページだけの文章です.)

6.「政治」偏重の態度をやめること

 全大教も含め,反対勢力の国大協への対処の仕方を見ていると,どうも「言葉の力」を十分には信じていないように思えるのである.調査検討会議への参加がおかしいということは,少なくとも「通則法」反対の人であれば十分理解できるし,また学長や調査検討会議の参加者のすべてが,率直にものが言えない臆病者であるということもありそうにない.つまり説得と宣伝活動によって国大協や検討会議参加者の考えを変えたり,少なくとも後ろめたい思いをさせるぐらいのことは十分可能なはずである.ところがこれに取り組もうとする組織は見られないのである.政府や,組織のトップが決めたらもう動かないもの,と決めてかかっているようだ.
 「言葉の力」を信じないということは実は,民主主義を信じないということとほとんど同じなのである.なぜなら民主主義とは討論や説得のプロセスを通じて多数の意志を形成していくということが中心にあるからだ.単に数の力(これをかりに「政治」と呼ぼう)ということではなく,そのプロセスが重要なのである.(もちろん「数」にしても賛成派が多数という証拠はない.)ましてわれわれ研究者はロゴスに仕える身である.その職業的特質から見ても「政治」に偏重した振る舞いは似つかわしくないのである.
 このような「政治」偏重とでも言うべき態度が大学関係者の対応をおかしくし,実のところかえって政治的な影響力そのものを弱めてしまっているのである.この傾向の最たるものとして,「革新勢力」が政権を握るまではやむを得ない,などと思っている人が意外と多いのではないか.これでは原理原則を踏まえた実践というものは永遠に棚上げにされ,「不当な支配」との闘いも常に回避される.そのような傾向に支えられた政治勢力というものは,かりに政権を握ったとしてもその中味は空洞に過ぎないので,何もできないか,変質するか,すぐに崩れ去るかのいずれかだろう.(2000年8月25日)