|
「原発安全神話」をめぐって,これに専門家として荷担した人たちが「御用学者」と呼ばれ,責任が問われている.同時に,新しく流布され始めた「放射線安全神話」はこれから多数の人びとの健康と生命に直接関わるため,緊急に問題とされるべきである.現代社会は専門家による独裁の危険が常にあり,これを防止するには,分野をまたぐ活発な相互批判と,高い水準の「学問の自由」が求められる. |
英文タイトル:Why are "Government-patronized
Scholars" Free of Criticism in the Academic Community? キーワード:福島原発災害(Fukushima nuclear desaster),放射線の健康影響(health effects of radiation),国立大学の法人化(incorporation of national universities) |
「各文化はそれに属する人々に,地域固有の暴政を振るう.しかし,あらゆる文化の中で自由な精神が手を組み,その暴政に反逆する.それが科学なのだ.」(フリーマン・ダイソン『反逆としての科学』みすず書房) |
はじめに ― 「御用学者」とは誰か これまでは一般には脱原発派の宣伝用語とされてきた「原発安全神話」が,福島原発災害という未曾有の事態を経て,国民の間で日常語として公式に認定されることになった.同時に,この神話を語る神官の役割を果たしてきた「御用学者」たちがやり玉にあげられ,批判されている.当然の成り行きだが,しかし「御用学者」とは何か,われわれ一人一人にその要素はないのか,と考えると,幅広く深い問題提起でもあることが分かる. 「御用学者」とは,権力や権益のために科学的真理や良心をおろそかにする学者,と仮に定義してみよう.そうすれば「御用学者ではない」と自信を持って断言できる人は少ないのではないか.つまりは程度問題ということだろう. あるいはそれほど意図的でなくても「組織の論理」によって,また人間としての弱さから,科学的妥当性や良心に百パーセント一致しないことも不本意ながら実行せざるを得ないこともあるだろう.そのような局面ではある意味で「御用学者」として振る舞っている可能性がある.つまり,これはすべての研究者にとっての,またすべての活動の局面に関わる問題である.古文書『葉隠』も「又学問者は,才智・弁口にて本体の臆病・欲心などを仕隠すもの也.人の見誤る所也(聞書第一)」と学者の狡さと弱さを見抜いている. 本稿では前半で,当面最も問題とされるべきと考える「御用学者」への批判を試みる.次に後半では,それが生み出される背景や同僚からの批判もなく放置される原因など,現在の国立大学が抱える構造的要因について,特に国立大学の独立行政法人化に伴う問題について論じる. 1 新たな「安全神話」と御用学者 「原発安全神話」は決して消滅したわけではないが,福島県を中心に多くの住民が被曝を強いられ,また食品汚染は全国的に心配されるという状況では,これに取って代わって出現した「放射能・放射線安全神話」が国民にとっての現在進行中の脅威である.原発問題と同様に集団間の利害対立に深く関わるため,また「ただちに健康に影響しない」場合が主であるため,その神話性は公式に認定されていない.それどころかこれから猛威を振るおうとしている.したがって,この問題こそが現在のせめぎ合いの中心であり,研究者の批判活動は当然この問題と,この新しい神話の媒体となっている「御用学者」に集中されなければならない.原発安全神話のように,大惨事を経験しなければ社会に認知されないということを繰り返してはならない. この「放射能・放射線安全神話」で最も重大な役割を果たしている学者の一人が,長崎大大学院教授の山下俊一氏である.原発事故後まもなく福島県知事の要請で福島県放射線健康リスク管理アドバイザーに就任し,ただちに県下を巡回して,放射線に対する住民の警戒心を解除するような講演を行った.そのあと福島県立医科大学副学長に就任した. 山下氏が不当に住民の警戒心を解除し,そのために被曝を拡大することになった彼の発言はいくつも知られている.講演を聴いた人による書き起こしなど,ネット上には多数の発言が報告されている.ここでは,公的な機関のものを拾ってみよう. 「1度に100mSv以上の放射線を浴びるとがんになる確率が少し増えますが,これを50mSvまでに抑えれば大丈夫と言われています」 このように,「100mSvまで安全」と言いふらしたため,「ミスター100ミリシーベルト」とあだ名されることになるが,実際には100mSv以下でもがんのリスクが存在することは,ラドン222の影響についてのWHOやICRPの見解1-2)で明らかである. これらの文書によると,このがんのリスクに対応する線量のレベルは1 mSvのオーダーである.このような事実を山下氏が知らないはずはない.また,外部被曝に限ってということでもない.「こども健康倶楽部」の昨年6月29日のインタビューで,「外部被曝も内部被曝も基準が一緒」と答えている.それとも,アルファ線やラドン222は例外とでもいうのだろうか. 仮に「100mSv以下は安全」が彼の個人的見解だとしても,それをわが国の放射線安全管理の法律とその前提とを無視して,公的立場で発言することが許されるはずはない.学会発表とはわけが違うのだ.わが国の法律はICRPの「閾値なしの線量―効果比例関係」,いわゆるLNT仮定に基づいて,公衆の追加的被曝の限度を年1mSvと定めている3).このことを無視した住民への「アドバイス」活動は違法性の疑いさえあるだろう.(実際,氏は広瀬隆,明石昇二郎の両氏によって刑事告発されている). このような事実や文脈に照らせば,同氏の「放射能の影響は実はニコニコ笑っている人には来ません.クヨクヨしている人に来ます」という言葉も,決してたとえ話や精神訓話とみなすことはできない.山下氏は,副学長に就任した福島県立医大の入学式のあいさつで学生に,放射線について「世界一の学識」が得られると述べたと伝えられる.もし,避難者を少なくすることでより多数の被曝データを得たいという意識が彼にあったとすれば,現代の「731部隊」と呼ばれることになるだろう. 住民の追加的被曝の罪に連座する学者たちは他にも多数いる.12月22日に長瀧重信氏らを共同主査とする「有識者会議」は,年間20ミリシーベルトを避難区域の設定基準としたことを追認するだけの報告書4)をまとめたが,この会議メンバーも該当するだろう.(避難のリスクと被曝によるリスクとの競合を考えることは当然だが,この報告書には突っ込んだ議論はまったく見られない). 2 「科学僧官」宣言? はじめに述べたように,分野内外を問わず,科学者の間での相互批判の欠如が問題だが,しかし前記の「有識者会議」の長瀧重信氏はこれとまったく反対のことを主張しているようだ.業界誌『医学のあゆみ』239巻10号(昨年12月3日)は「原発事故の健康リスクとリスク・コミュニケーション」と題する特集を組んでいるが,長瀧氏による「はじめに」5)の文章には,放射線の影響についての国連科学委員会などの「国際合意」について次のようにその至高性,独占性を主張している. 「この科学のみ(個人的,政治的,社会的主張にではなく)に基づいた国際的な合意に間違いがないとは言えないが,この合意に対抗できる研究結果をもつ,あるいは反対の論拠をもつ個人の専門家は世界のどこにもいない.したがって科学者は,個人の主義主張とは別に,この国際的な純粋に科学的な合意を一致して社会に説明する義務があるのではないかと考える.」 学者の組織であれば,集団や個人の社会的背景などから完全に独立して,論理的・科学的な要因だけでその合意や結論が出てくるとでもいうのだろうか.もしそうなら科学者は聖人ということになろう.さらに彼はこの「合意」を絶対化し, 「様々な主張が科学の名前で社会に直接に伝わることで混乱をまねく状況下では……社会に対して発せられる科学者からの提言は,一致したものでなければならない」 と述べる.そしてこれに異議を唱える者を次のように排撃する. 「非専門家が,様々な自分達の政治的,社会的,その他もろもろの立場からの主張を科学という衣を着せて発表し,その間違った科学をマスコミ(一部の)が宣伝しているようにみえる.」 「科学という衣を着せて発表」するという「非専門家」が具体的に誰を指すのか訊いてみたいものだが,この,権威付けられた科学者の組織とそれが出す結論とを絶対化する態度は「科学神官」,「科学僧官」と名付けられ,これによるシステムは「科学者独裁」,「専門家独裁」と呼ばれるのがふさわしいだろう6). 古代においては,王の権威を理論づけ,祭式のプロトコル(儀典)を独占する神官や僧官が知識人として支配の不可欠の道具であった.専門的・科学的な知識なしには成り立たない現代の国家・社会では,国家によって認証され,権威づけられた科学者集団がこの役割を果たしていることは疑いない. つまり「科学者独裁」,「専門家独裁」の要素はすでに社会に組み込まれているのであり,もし民主主義を信奉するのであれば,これが実質的独裁にならないような歯止め,対抗策を常に準備し,実行しなければならないはずだ.「すべての科学者は“合意”に従え」という長瀧氏の論理はこれとは逆に,まさに独裁徹底宣言そのものである. もしこの「科学神官」,「科学僧官」制度に与しないのであれば,今回のような論争的課題では科学者間で激しい議論が起きてしかるべきである.ところが実際には,山下氏のような学者の言動に対し,大学社会からのあからさまな批判がまったくといっていいほど見られない.いわば“ピア・レビュー”の不在である.放射線防護など同一の専門分野の人たちの責任が最も大きいが,核物理や放射線医学など隣接分野も同様だ. 3 「安全神話」問題からの一つの教訓 このような批判不在の状況や「御用学者」発生の原因や背景について議論する前に,原子力問題についての日本と米国の物理学会の対応の大きな違いについて指摘したい.物理に限らず学会一般のありかたを考えるうえでも示唆的な事例と思われる. 米国物理学会は1975年と1985年に,原発の炉心溶融事故について研究し,詳細な報告書を公表している7).アメリカの物理学者は,原爆開発の一環としての原子炉開発に当初からかかわり,むしろそれをリードしてきたという歴史が背景にあるのだろうが,それから30年以上も経てば「業界」ごとの専門化は相当進んでいたはずだ. これに対してわが国では,個人としては多くの物理学者が批判や分析に関わってはきたものの,物理学会としての公的な関わりはまったくなかった.もし物理学会が違った政策を取っていたら「フクシマ」は防げたかも知れない. 米国物理学会の事例と併せ,「原子力安全神話」の経験からの重要な教訓の一つは,大勢の人びとの安全など社会に大きな影響を及ぼすような技術では,同業者はもちろん,隣接分野からも活発な批判活動が行われる必要があるということだろう. 大学に関しては,1998年の「ユネスコ高等教育世界宣言」8) は,その批判的機能を「高等教育機関およびその職員と学生の役割」の一つとして掲げている(2条c項). 4 なぜ批判がないのか―劣化する相互批判の環境 このような批判活動が活発に行われ,実際的な影響力を持つためには,大学や研究者のコミュニティーが民主的でなければならず,また個々の研究者が幅広い視野を持たなければならない.しかし1970年前後と比較すると,他分野への関心はもとより,自己の専門分野に関してさえ,その社会的影響について研究者が自問自答したり深く考えたりすることが非常に少なくなっているのではないだろうか. 一方,公式スローガンとしては,大学と教員の「社会貢献」が盛んに喧伝されるようになって久しい.「社会貢献」には,研究成果の還元などでいわばポジティブに社会に関わっていくことだけでなく,ウオッチドッグとして社会に危険を知らせる「ネガティブ」な関わり方も重要なはずだ.しかしこれが公式に強調されることはまずない.むしろ,京都大学の「熊取六人衆」のように,そのような立場の学者は大学で冷遇されてきた. 「ネガティブ」な発言をする「反体制派」が社会から歓迎されないどころか,排斥ないし迫害されるというのはありふれたことかも知れない.しかし大学でそれが行われるとなると,一般社会とは違った深刻さを帯びる.なぜなら大学は「学問の自由」の砦として,とりわけそのような扱いから保護されていなければならないからである. しかし現実には,その「砦」は,2004年に実施された国立大学の「法人化」(独立行政法人制度と類似性が大きいため以下では「独法化」と略)を境として急激に劣化のスピードを上げているように思われる. もちろんこの「砦」が昔は強固であったわけでもないし,むしろ「砦」と言えるものであったかどうかも疑わしい.独法化が深刻なのは,学問の自由の「砦」としての大学自治が名目としても失われたということである. 5 国立大学の「法人化」と大学自治 国立大学の法人化=独法化は,大学の「批判的機能」の重大な阻害要因である.この制度は,衆院での法案審議の冒頭で山口壯議員が指摘したように9),「戦前の日本にも存在しなかった,文部科学省が大学をコントロールし得る仕組み」であり,「憲法二十三条の学問の自由及び大学の自治を侵しかね」ない制度である.この制度では,文部科学大臣が各大学に「中期目標」という,およそ何事も包括できるような命令を与え,大学はその実行を迫られる.大学を政府の一行政機関のように扱うという信じ難いような暴挙が,肝心の大学人によるさしたる抵抗もなく強行されてしまった. 独法化問題を論じるのが本稿の主眼ではないので,この問題についての筆者の分析と態度については過去の文章10-12)を見ていただければありがたい.しかし簡単にこの制度の問題点をまとめると,大きく次の3点に集約されるだろう. このシステムに変わってから教員が日常的に感じるのは,会議や書類の果てしない増大と,それによる本来の教育と研究に割くべき時間の浪費だ.一例を挙げれば,筆者の大学で2008年5月に配られた「年度計画進捗状況管理表」のエクセルシートは8列1245行に及ぶ.しかしもっと重大なのは,教授会の権限縮小による教員たちの大学運営に関しての無気力化,すなわち「エンパワーメント」ならぬ「ディスパワーメント」だろう.かつての大学教員特有の気難しさは消え失せ,何事も「上で」決められるものとされる. このように,「自治」への意欲の希薄化によって視野を広げる機会も奪われ,また高まる研究業績へのプレッシャーも背景に,物事を,あるいは自らの研究の意味について,根本的,哲学的に議論したり思いをめぐらせるということがますます少なくなっているように思われる. 6 「法人化」に無抵抗だった国立大学 政府による独法化の動きに対し国立大学は最終段階ではほぼ無抵抗にこれを受け入れた.実際,この法案にたいして公然と反対を表明した教授会は一つもなく11),国大協は最終的には推進側に回った. また国立大学などの教職員の組合「全大教」(全国大学高専教職員組合)も本気で阻止するという態度ではなかった.それは組合員全体の意識を反映したものでやむを得ない面もあるが,必要とされるリーダシップを東京の本部が発揮したかどうかは疑問が残る(そのために筆者らは「全国ネット」12)なる任意団体を設立した). あるパーティーで全大教の幹部と話したとき,筆者のことを「どうしてそんなに熱心に反対運動するのか不思議だ」と訊ねられた.不思議の対象が筆者のことを指すのか,つまり「私」がなぜ熱心なのか不思議だというのか,それとも「熱心さ」が不思議なのか,いずれかははっきり断定できないが,後者の意味も含まれていたという印象だ. もう一つの,日教組大学部の後継組織「UIPセンター」は労働基本権が得られることを主な理由に,独法化をむしろ支持していた. この10年ほど前の「教養部解体」キャンペーンが,これもさしたる抵抗もなく容易く行われたが,これは独法化のためのいわば予行演習だったのかも知れない.独法化を推進した側は,国立大学の教員の抵抗など口ほどにもないと思ったのであろう. 教養部解体という中身もさることながら,この「改革」の最大の問題点は,国民的議論はおろか,大学内でも自由で掘り下げた議論がないまま,それどころか,問題点があるとしても初めから「抵抗しても無駄」というような,大学関係者,特に当の教養部在籍の教員の当事者意識の欠如の上に進行したということである(このあたりの状況については,拙文「文部省の違法行為・従順な大学」13)を参照いただければありがたい). 教養部解体の評価もまだきちんとなされていないように思われるが,しかし独法化に関しては今やそのデメリットが誰の目にも明らかではないだろうか.推進した者の責任,容認した者の責任が当然問われなければならない.同時に,このように権力の操作に対して烏合の衆でしかあり得なかった大学人とは何かが問われなければならない. 7 知識人論,大学論の不在 「科学独裁制」に歯止めを掛け,この社会が少しでも民主主義に漸近するためには,当の科学者コミュニティーの中に,とりわけ大学社会の中に総合的な批判精神と批判力とを高めなければならない.しかし上に述べたように,独法化など制度的圧力のもとでそれはますます困難になっている. したがって,なぜ大学人はこの何十年もの間,政府の大学介入と変質に抵抗できなかったのか,その原因をも問わなければならない.そうしなければ自らの砦であるはずの大学の自由を「防衛」できず,ますます「侵略」を許し続けることになるからだ. 少なくとも,大学論,知識人論を練り上げる必要がある.説得力ある「大学かくあるべし」の理論を持たなければ,文科省詣での大学首脳部も,この国の伝統的な官僚優位の文化の中では東京官僚の圧力や洗脳の前にひとたまりもないはずだ. 一般の大学教員も同様で,東京の密室で行われたやりとりの詳細を知るよしもなく,学長や学部長が巫女となって告知する「社会の要請」や「厳しい情勢」にただひれ伏す他はない.あるいは,中教審など「御用学者」が作ったであろう方針を「先読み」するのが関の山だ.わが国では,本格的な大学論は,このほぼ半世紀の間,ほとんど更新されていないのではないか. 大学論について国外の状況を見てみよう.といっても筆者の乏しい文献学では三つの書籍を紹介するのみだが,フランスでは著名な社会学者P.ブルデューによる大学論「ホモ・アカデミクス」が1984年に出版されている(日本語訳は1997年). アメリカでは,トップクラス2大学の軍学共同の実態を暴いた“Cold War and American Science”14)が出たのは1993年である.日本の大学を扱った“Japanese Higher Education as Myth”15)という本もいくつかの興味ある視点を提供している. わが国の大学においても,大学自身の組織の中にこのような分野の研究者を増やす,あるいはそのような部門を創設ないし拡充しなければ,理論的な蓄積は期待できないかも知れない.創設された部門がたとえ権力に都合の良い「御用学問」としてスタートしたとしても,それを担うのが「科学」者であれば,それはすぐに「反逆」を起こし「科学」として成長する可能性がある. おわりに― ラディカリズムの再生を 同僚による「御用学者」批判の欠如という問題を「独法化」制度への批判に,さらには大学論にまで拡大させてしまったが,もちろんこれ以外にも,今なお幅広く,かつ根深く大学社会を覆っている封建的後進性の問題も大きい.しかもそれは独法化と「負の相乗効果」を生むのでタチが悪い. 国立大学をおかしくした「独法化」を是正していくことが批判力を高めるうえで重要だ.しかし世の中の実質は日々の些細なことがらの集積である.最終的にはその中で個人個人がどう振る舞うかが問われるのであり,たとえどんな暴政であろうとも,自らの怯懦をすべて「客観情勢」のせいにするわけにはいかないだろう. 大学人はその職業柄「観察者」という習性が強いが,こと大学コミュニティーの問題に関しては自らがアクターであり,「現象」を担う存在そのものである.その行動パターンを決めるのは文化であり,個人の姿勢つまり「心の持ち方」である. 強気と弱気,信念の強弱という人びとの広いスペクトルのすべての部分で,それぞれが可能性を信じ,少しでもアクティブな方向へシフトすることが重要だ.単に研究を進めるだけでその社会的な意味を深く考えず想像力をめぐらせることがなければ,研究成果は社会に重大な害を及ぼすということを「フクシマ」は教えている. あるいは,67年前にロスアラモスで成し遂げられた,科学的・技術的には驚異的に素晴らしい成果が,広島と長崎の人びとに何をもたらしたかを考えるだけでも十分だろう.マンハッタン計画に携わった科学者による「フランク報告」16)は,「過去において科学者は,彼らの純粋な発明の利用方法については直接的な責任を否認出来たが,今日同じ姿勢を取ることはできない」と述べていることを想起しよう. |
注および引用文献 1) WHOファクトシートNo.291(2005年6月)によると,家庭内のラドンに起因すると考えられる肺癌の率は6%から 15%としている.室内でのラドン濃度の世界的な平均値を39Bq/m3とし,ICRP2007年勧告にある線量との関係(293節)を使うと,この濃度は約0.6mSv/年に相当する. 2) ICRP 2007年勧告(ICRP Publication 103)289節から293節参照. 3) 次の連鎖による.原子力基本法21条→放射性同位元素等による放射線障害の防止に関する法律19条→文部科学省令第33号14条の11第1項4号ロ,5号イ,19条1項2号ハ,5号ハ→平成12年科学技術庁告示第5号14条4項2および4. 4) 低線量被曝のリスク管理に関するワーキンググループ報告書,内閣官房,2011年12月22日. 5) 長瀧重信「原発事故の健康リスクとリスク・コミュニケーション」『医学のあゆみ』239巻10号,2011年12月3日,p.939-943.ネット上に公開されている. 6) 私信.田島直樹氏の「平和への結集」メールリストへの2011年12月30日の投稿. 7) Rev. Mod. Phys. 47(1975), S1 およびRev. Mod. Phys. 57(1985), S1. 8) ユネスコのサイトに原文.教育学術新聞によるものなど日本語訳あり. 9)2003年4月3日の衆議院本会議議事録. 10)豊島耕一「政府が実施を急ぐ独立法人化 大学の“独立”は逆に失われる恐れ」『週刊金曜日』2002年4月19日号,p.45. 11)独法化反対が「常識」であった2000年前後まではいくつかの教授会等で反対決議がなされたが,2000年6月の国大協の方針変更以来,公然たる反対は影を潜めた. 12) 「国立大学独法化阻止全国ネットワーク」,2001年5月〜2004年8月.(ミラー) 13) 豊島耕一「文部省の違法行為・従順な大学」『科学・社会・人間』53号,1995年7月発行. 14)Leslie, S. W.: The Cold War and American Science - The Military-Industrial-Academic Complex at MIT and Stanford, Columbia University Press, New York, 1993. 15)McVeigh, B.: Japanese Higher Education as Myth, M. E. Sharpe, Inc., New York, 2002. 16)Report of the Committee on Political and Social Problems Manhattan Project "Metallurgical Laboratory" University of Chicago, June 11, 1945.日本語訳あり. |
● 豊島耕一(とよしま・こういち)●
1947生まれ.九州大学大学院理学研究科修了.理学博士.所属:佐賀大学大学院工学系研究科.専門:原子核物理学.著書:共著『原発事故緊急対策マニュアル』(合同出版,2011)