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ユネスコ高等教育宣言と大学審答申

     −−「グローバルスタンダード* 」と儒教イデオロギーとのギャップ

99年6月バージョン,「科学・社会・人間」69号に掲載

(古いバージョンは佐賀大学教職員組合,「組合ニュース」No.47,1999年2月22日発行に掲載)

                              理工学部 豊島耕一

どれも,あらゆる社会に蔓延しているものだが,その蔓延ぶりにもかかわらず,そうした圧力 にゆさぶりをかけることはできる.そのようなゆさぶりをかけるもの,それをわたしはアマチュア主 義と呼ぼう.(サイード,「知識人とは何か」平凡社文庫126ページ)

 大学改革問題をめぐっては,もっぱら文部省の「大学審答申」1) ばかりが大きく取りざたされ,また現実にこれに沿った法改正も準備されているようです. しかし これと前後して発表されたユネスコの「高等教育世界宣言」という文書については議論されることが ほとんどありません.「グローバルスタンダード」などという言葉を口にする人もこの文書には目 をつぶっているようです.法改正はむしろ,この「グローバル」な文書をこそその規範とすべきでした.

 この文書は大学審答申と共通する部分もあるものの,基本的なスタンスは大きく違っており, 注目すべき視点や問題意識,そして重要な提案が見られます.この「宣言」は昨年の10月上旬に パリのユネスコ本部で開かれた「高等教育世界会議」で合意されたもので,この会議には日本からは 文部事務次官はじめ17名が参加しています.日本語訳は日本私立大学協会によるものが同協会発 行の「教育学術新聞」98年11月11日号に掲載されていますが,同協会の許可を得て私のwebペー ジに転載しています2) .オリジナルは高等教育世界会議のホームページ(注3) にあります.長さは「大学審答申」の約7 分の1と簡潔です.文部省は自ら合意してきたこの文書を国内に広めるどころか翻訳さえ公表せず,「ユネスコ隠し」に始終していますので,出張旅費は返還すべきでしょう.

 これら二つの文書の間での目立った相違点について少し議論したいと思います.以下では「大 学審答申」を答申,「高等教育世界宣言」を宣言と略称します.

 宣言は「高等教育の使命と機能」,「高等教育の新たな展望の形成」,そして「展望から行動 へ」の3つの章から構成されています. 冒頭の「使命と機能」では,高等教育の役割として教育, 研究だけでなく,「倫理的役割」として社会に対して発言することを求めています. すなわち,第 2条(b)では,

「社会が必要とするある種の学術的権威を行使することによって、倫理的、文化的および社会的 問題について完全に独立に、そしてその責任を十分に自覚して発言する機会を与えられ」るべきであ る

とし,その機会を生かして同(d)項では

「UNESCO憲章にうたわれているように、平和、正義、自由、平等および連帯を含む普遍的に受 け入れられている価値を擁護し積極的に普及するために、知的能力およびその道徳的名声を行使し」

なければならないと述べています. 日本の大学の教授会や学会が,社会的問題に対して,例え ば物理学会が高速増殖炉開発の是非について,あるいは土木学会が諌早湾干拓問題で何らかの見解を 出したことがあるのでしょうか? それどころか,授業料値上げなど直接大学に関わる問題に対して さえも「言わザル」を決め込んでいるのではないでしょうか.(もっとも,文部省の指令さえあれ ば独立行政法人化反対のような政治的な声明を非常に迅速に出したりはします.)
 答申は大学の持つべきこのような役割には全く触れていません.というより,政府の批判を奨励するような「答申」を政府機関である文部省に期待する方が間違いで,大学自身から,あるいは市民レベルからこのような大学の文化をつくりあげて行かなければなりません.そして,わが国の国立大学の教員の言論の自由を侵害している国家公務員法102条(注4)と「人事院規則14の7」(注5)の撤廃も視野に入れていく必要があります.

 答申との最大の違いの一つは,教育と大学運営の両面での学生のとらえ方にあります. まず 教育面では,宣言の2章の9条「革新的教育方法−批判的思考および創造力」の(b)項には次のよ うに書かれています.

「高等教育機関は、学生を批判的に思考し、社会の問題を分析してその解決策を求め、それを実 践して社会的責任を受け入れることができる見聞の広い、深く動機付けられた市民となるように教育 すべきである.」

ここに,次に述べるように答申が既成の社会システムにひたすら適応する「人材」を求めるとい う考えとは違った,「実践」する「市民」という能動的,主体的な人間観が見らます. これこそが わが教育基本法第1条の「国家社会の『形成者』」というイメージに近いものだと思います.なお 答申には教育基本法は全く引用されていません.

 一方答申では, 求められる人材として,

「変化が激しく不透明な時代において『主体的に変化に対応し,自ら将来の課題を探求し,その 課題に対して幅広い視野から柔軟かつ総合的な判断を下すことのできる力』(課題探求能力)の育成 を重視することが求められる」(1章3 (3))

とあり,変化に「対応」し「判断」は下すけれども,主体的に変化を“引き起こす”という能動 性には触れていません. このような私の断定は,「学生に高い付加価値を身に付けさせた上で卒業 生として送り出す」(2章1 (1) 2) )という,まるで人を商品扱いするような驚くべき言葉によって証拠づけられるでしょう.  これは決して週刊誌の文章ではなく,またこれが比喩的表現だとの断りもないのです. 財界委員 の本音が出てしまったものでしょうか.

 因みに「批判」という言葉は答申では8回使われていますが,いずれも「大学に対する批判」 の意味で使われています. これに対し宣言ではこの言葉が出現する6回のすべてで大学や学生の批 判力の意味に使われています. 答申は大学に対して教育努力や論文の数を求めるばかりで,教員に も学生にも批判精神などは全く不要と考えているかのようです.

 大学運営の面でも同様の違いがあります. 答申は「学生による授業評価」を求めるなど一見 学生の関与を認めるような姿勢を見せていますが,しかしあくまでも「教育の受け手」というとらえ 方にとどまっています.

「学生は,教員等とは立場が異なるが,特に教育内容や学習環境などの関係の深い事項について は,学習する側の立場の意見が重要であり,授業評価やアンケート調査などを通じ,広く学生の意向 を把握するよう努める必要がある」(2章3 (1) 2))

主語であったはずの「学生」という冒頭の言葉がいつのまにかその地位を失い,文章の後半では 暗黙に教員あるいは大学にとって変わられています. これに対して宣言では学生は高等教育の主な 「当事者」であるとして,その能動性を強調しています. 第10条(c)項を全文引用します.

「国および教育機関の意思決定者は、学生および彼らのニーズをその関心の中心に置き、彼らを 高等教育の革新における主たるパートナー、そして責任のある当事者とみなさなければならない。  これは、教育レベルに影響する問題、教育法やカリキュラムの評価、改革、そして教育制度の施行、 方針の作成と運営における学生の関与を含まなければならない。 学生は組織化し、代表者を立てる 権利を有するので、これらの問題への学生の関与は保証しなければならない。」

驚くべきことに,大学審答申ではその長大さにもかかわらず「権利」という言葉がただの一回も使われていないのです.(宣言では8回出現.)大学審には「学生の権利」という考え方がそもそも欠けているようです.(実は私の所属する佐賀大学の学則にも「権利」の語はありません.)

 生産活動と大学の関係を重視することでは両方の文書は共通しているように見えますが,その 考え方には多少違いがあるように思われます. それは,答申で27回と頻出する「産業界」に相当 する言葉として,宣言では "buisiness and industry" ではなく "the world of work" が使われていることに表れています. 私はこの言葉のニュアンスを良く知りませんが,少なくとも, この分野を経営者対労働者という射影軸で見たときに,「産業界」が経営者・資本家寄りのニュアン スを持つのに比べてずっと中立的な言葉のような印象を持ちます. 私立大学協会による訳ではこれ に「実業界」という言葉が当てられていますが,直訳的に「労働世界」とすべきではないでしょうか.

 訳語の問題のついでに言えば,"autonomy"が1回を除いて「自律」と訳されてお り,しかもそのうち1回は「自律権」という造語までなされています. 大学自治の意味で使われて いるのですからすべて「自治」と訳すのが当然でしょう. その使われ方は,宣言ではすべて大学自 治を称揚する意味で使われていますが,答申では「自治」という言葉はすべて否定的な文脈でのみ使 われています.

 最後に,ユネスコの宣言が高等教育の平和への貢献を強調していることを付け加えたいと思い ます. 前文で「教育は、人権、民主主義、持続可能な開発および平和のための基本的な柱」である としているだけでなく,最後の17条では明確に「平和のための教育に高い優先順位を与え」ると述 べています. 一方答申は平和教育に触れないどころか,「平和」という言葉じたいが一回も使われ ていないのです.
 ところで今日の大学でどのくらいの量の平和教育が行われているでしょうか?「平和」の接頭語を看板に持つ授業だけでなく,また歴史や政治の分野の授業だけでなく,物理学も含めいろんな授業の中で平和の問題をとりあげる習慣と工夫が必要だと思います.平和授業が必要なのは,その看板に引かれて集まってくるような学生よりはむしろ,そのようなことをあまり考えない学生にこそ必要なのですから.スローガンは「いつでもだれでも平和授業」としましょう.

 二つの文書のこのような違い,特に答申が権利という言葉を避けていること,そしてこのことを読み手が特に気にもしないということの背景には,わが国の根深い儒教イデオロギーがあるのではないでしょうか.私たちにとって空気のように透明に感じられるために,それをイデオロギーとしては知覚されないイデオロギーです.そしてそれを最も固陋に体現する官庁が文部省なのでしょう.戦後一度は生まれ変わったはずのこの官庁はかなり昔すでに先祖帰りをしてします.いま,国立大学を「エージェンシー化」するという動きがあり,そしてすでに文部省と国大協とで談合が成立したような雰囲気が感じられます.しかしもし何かを「エージェンシー化」しなければならないとすれば,そこには文部省と大蔵省が筆頭に挙げられるべきです.そうすればこれらの官庁にも少しは「公に奉仕する」精神が身につくかも知れません.

 以上,「宣言」の中で私自身の関心ある部分を取り出して紹介,比較しましたが,「答申」に 比べてはるかに短いので,是非みなさんご自身で一度お読みになることをお奨めします.(1999年2月11日, 6月25日改訂)

(付録) 二つの文書の間で互いに排他的に出現するキーワードとそれらの頻度

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 キーワード 民主  権利  人権 学問の自由 平和  連帯  競争  協調
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  宣言    6   8   8    2   7   4   0   0

  答申    0   0   0    0   0   0  19   6
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                         (答申は宣言の約7倍の長さ)

* 問題のある言葉ですが,あえて使っています.
1) 文部省のホームページにあります.
2) 次に転載しています.現物は図書館にあります.
 ../UniversityIssues/AGENDA21.htm
3) http://www.unesco.org/education/educprog/wche/index.html
4) 国家公務員の政治的行為の制限の条項
5) 政治的行為の定義など.(頭はhttpではないので注意.)
 ftp://pegasus.phys.saga-u.ac.jp/pub/law/kisoku14-7

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