佐賀大学では4月11日から17日までの間,学長が「最終報告」に対する教職員の意見を募集しました.これに応募した私の意見です.


佐賀大学学長

上原春男様

理工学部 豊島耕一  
電話/ファクス 8845
toyo@cc.saga-u.ac.jp

 国大協臨時総会にあたって,学長に要望を申し上げます.

 「最終報告」は通則法と原則的に変わらないものであり,「通則法をそのままの形で適用することに反対」とした国大協のこれまでの立場と相容れません.「そのままの形で」という国大協の表現が,「一字一句違わずに」という意味で言っているのであれば別ですが,そのような姑息な弁解はないと信じます.「中期目標」の官庁による設定は不変です.さらに,有馬文部大臣(当時)の公約に反して「非公務員化」が打ち出されています.したがって「最終報告」がそのようなものであること,つまり従来の国大協の考えの否定であることを明確に表明していただきたいと思います.

 国大協の従来の立場と「最終報告」が矛盾するだけではありません.先生は学長選に際しての対話集会で,「学校への規制が強すぎる」ということを言われ,その撤廃を主張されていました.ところが,独法化は,予算の費目の自由化などいわば「箸の上げ下ろし」は多少は自由になるのかも知れませんが,「計画」や「目標」が役所の認可や「設定」によるというのですから,根幹の部分で規制強化であり,いや,これまでなかったような新たな規制が付け加わるのです.添付の,現行制度と独法化制度との比較表(ファイル:比較表.pdf)をご覧下さい.

 独法化は単に悪い政策というだけにとどまりません.別添の,教育基本法10条に関する資料(ファイル:不当な支配.pdf)をご覧下さい.教育行政に関する専門書からの引用ですが,もしこのような10条の理解が突飛なものでないとすれば,役所が教育機関に「目標」を与えるなどということは,この条項への違反であることは明白です.

 この「違法性」は決して単に形式的な,些細なものということは出来ません.たとえ民主的に成立した行政権力であれ,教育の官僚支配は許されないという,憲法と一体のわが国の法制度の根幹に関わるものであり,過去の戦争による甚大な苦しみからこの社会が学び取ったものです.

 10条の意味がほとんど知られていないので,これを根拠に独法化に反対を唱える人は少ないですが,これはいわば当然の成り行きです.つまり,歴代の文部省はわが国の教育をこの条項に違反して統制し続けており,そのような役所が,わざわざそれを明らかにするような法律についての教育を奨励するはずがないからです.ですからほとんどの人がこの条文の意義を知らないのです.独法化問題での議論はこの条文の意義を再発見するよい機会です.

 当然の事ながら大学は多くの問題や欠陥をかかえており,しかも大学の自発的な改善能力には限界があります.どのような組織でも「他者」の介入がない限り健全さは維持できないというのは普遍的な原理です.しかしその「他者」は行政権力であってはならないというのが10条の,そして憲法23条が命ずるところです.(もちろん会計検査院や視学制度などによる,必要最小限の介入は認められています.)その「他者」もまた,教育基本法10条が言う「国民全体に対し直接に責任を負つて行われる」ような方法を取らなければなりません.

 そのための出発点となる手だてとして次のことを提案いたします.まず,大学改革と大学運営への「学生参加」を認めることが重要です.これは98年のユネスコ「高等教育世界宣言」でも強調されています.(アンケートだけでは「参加」とは言えません.補助手段に過ぎません.)次に,数年前から設置されている「運営諮問会議」の人事を,現状の「お偉方方式」を排し,メンバーに学生とともに地域のふつうの市民に加わってもらうことで,大学運営への市民参加に道を開くべきです.

 文部科学省は自分が大学をコントロールすることで大学を変えていこうとする決意を固めたようですが,長年にわたって小中高をダメにしてきたように,これでは大学までダメになってしまいます.この「お上による改革」方式に賛同する大学関係者もいるようですが,これは,はっきり言って「水戸黄門」ドラマの見すぎです.これはテレビの悪影響,特に中高年への悪影響と言うべきものです.前近代的であり,民主主義とは正反対です.(学則第一条の精神に反します.)

 最後に,総会では,何よりも先生ご自身の信念にしたがって,独立して意見を表明していただくようお願いします.またそのように同僚出席者をも励ましていただきたいと思います.根回しや談合が噂されており,また,国大協総会は大きな会議なので,「大勢は決まっているから」とか,「私一人が発言しても変わるものではない」など,個人の責任を回避する態度をとる学長もおられるかも知れません.しかしもちろんこのような考えは「個人の独立した責任」という基本的な道徳律に反しています.結果がどうであろうと,発言すること自体が重要であり,またその責任があるのです.このような態度を取られる学長がもしおられたら,是非ともそれが無責任であることを訴え,共に「学問の自由」の原点に立って発言されるよう促していただきたいと思います.敬具

2002年4月17日