批判のない真面目さは悪を為す / 他山の石 /
文化省にもムネオが? / 世の中が変わる前に・・・ /「法人化」の語を使うべきではない /「護送船団」 /思考の断熱変化過程 /「玉砕」の呪い /茹でガエル /文部省対策マニュアルの必要性 /「地域に開かれた大学」? /官僚への説明を「ヒアリング」とは /根強い「お上」意識 /職員録イデオロギー /”君子危うきに近寄らず” /有馬朗人氏の責任
2004年5月16日久留米市民会館で開かれた「母と女性教職員の会」主催の講演会.
講演者,吉武輝子さんは,その話の中で,自分の先生が戦後退職するときに残した言葉を紹介している.そのオカモト先生は,戦中は「忠君愛国」の教育を完全に真面目に実行した人だが,敗戦の180度の転換では,授業で教科書にたくさんの墨塗りを指示することになった.ある日の授業では,しばらく絶句して,たくさんの生徒を戦場に送り出して死なせてしまったことを生徒たちに詫びた.その時に語った言葉を,退職時に駅に見送りに来た生徒たちに混雑した列車の中から大きな声で繰り返した.オカモト先生の言葉
「忘れないで下さいね.批判のない真面目さは悪を為すのですよ.民主主義は疑うことから始まるのですよ.」
「“我々は”ではなく,“私は”からものごとは始まるのです.」
独法化は,たしかに阻止が困難であることはまちがいない.しかしだからと言って阻止行動,抵抗運動を止める理由は全く存在しない.いわば「ダメでもともと」という性質の運動である.そこから「無償の行為*」としての反対運動の強さが生まれる.もちろん「取引き」があれば別だ.つまり,抵抗をやめて妥協してくれればこれこれの条件を差し上げますよ,というオファーがあれば別だ.しかしそのようなものがあるはずがない.唯一,「生き残り」のためには抵抗は得にならない,という脅しの言説がはびこっているだけである.しかしこれもおかしな話だ.それぞれの大学が「生き残る」かどうかは国民が決めることであって,つまり国立学校設置法の改正によるのであって,独法化への態度で判断されるはずのものではない.もし文部科学省,つまり「官」に従うことが「生き残り」の条件だと考えるなら,またそのような状況がもしあるとすれば,これは「ムネオ疑惑」どころのスケールではない官学一体となった甚だしい教育行政の歪曲である.
(* 結果はどうでもいいとか,「参加することに意義がある」などと言う意味ではない.「結果を出す」ために常に方針・方策の「最適化」を図らなければならない.)
外国省にはムネオという後見人がいて,恫喝が上手だったので多くの人がそれに怯えて彼のいいなりになった.でもムネオはただのチンピラだった.文化省にはチンピラさえも付いていないのに,天下の国立大の学長や教授たちが,「生き残り」がどうのこうのと,なぜかひどく怯えている.一体どうしてだろう.それとも駆動局長の有名な「脅し」はムネオよりももっと上手だったのだろうか.
コマーシャルコピー「世の中が変わる前に,自分を変えよう」のパロディー
独法化案に対し「大学の『自治・自律性』を高める制度設計がなされるよう」*求めることは,人権を守るような有事法制を求める,ということに等しい.独法化と変わらないものを「法人化」と呼んで感覚を麻痺させようという作戦に,反対派までが協力してはいけない.
*02年 2月 6日,全大教の国大協への要望
大学教員でもこの言葉を使う人がいる.この言葉を国立大学に使用することは,これまで「護送」されていたということと,それを外すべきだ,という文脈の中で使われることが前提である.「護送」というのが経済的・財政的な意味であればまさにそうであろう.それを外すと言うことは,高等教育への公的支援を,今でさえOECDレベルに比べて少ないとされるのを,一層縮小せよという意味であろうか.教育分野も「市場原理」にさらすべし,というのは,いかに「新自由主義」がもてはやされるとは言っても,その主義の中でも「極右」に属するのではないだろうか.
もし「護送」というのが,研究や教育の業績ということであれば,これについて国立大学が政府から直接支援を受けることなどありえない.どこかの雑誌にたくさん論文を載せてくれるよう政府が口利きをしたなど,全然聞いたことがない.
極端な,あるいは明白な言説で人の考えが変えられる場合よりも,次のような場合がより重要だろう.つまり,大筋で大勢に順応しているが,その中に隠し味的に批判的言説も含むような言説によって多くの人の考えが,いわば「断熱的」に変えられていくというプロセスである.批判的言説が含まれることによって,だれにもある多少の批判精神が擬似的に満足させられ,心理的な防衛システムが解除させられる.
玉砕とは言うまでもなく,アジア太平洋戦争の末期に日本軍が取った,狂気の,作戦とも言えない作戦である.しかしこの言葉は今日でもよく使われる.そして言葉の世界において今なお戦争の後遺症をもたらしているかのようである.
最後まで原則を主張してそれが通らず敗れるということはごく当たり前の事のはずだが,なぜかこのようなことに「玉砕」という言葉が使われたりする.そのとき,あたかも最後には必ず「折れ」なければならない,世の中はそうしたものである,というメッセージが暗黙に込められる.もちろん通常の利害調整的な問題ではそれでよいが,原理原則に関わるときにはこの暗黙のメッセージは害悪をもたらすのである.(1/3/01)
最近この言葉がよく使われる.原典は知らないが,何でもミシガン大学のティーシー教授の実験ということらしい.カエルを熱い湯に入れると飛び出して逃げるが,水から少しずつ温度を上げると逃げずにそのまま死んでしまう,という実験である.
この「故事」を使って例文を作ることは誰でもできるが,やはり自分自身に適用することは難しいようだ.
行政法人化は数年前まではとんでもないこと,大学にとって致死的なものだったはずだが,文部省の妥協,国大協の玉虫色化というように少しずつ徐々に「温度」を上げられると,みんななかなか暴れて飛び出そうとはしない.むしろ苦しみもだえている人間が風変わりに見えるようだ.茹でガエル第1号はどうやら国大協になりそうだ.しかしみんなが道連れになる必要はない.
一般的な教訓は,体感温度に頼ってはならず,絶対温度計をいつも見ていなければならないということだろう.その温度計の重要な目盛りは憲法23条と教育基本法10条のはずだ.
文部省と大学との関係というものは法的には本来どうあるべきなのかということを,教育行政の専門家がきちんとまとめるべきである.さらに,「改革」が文部省の違法な介入を受けないように,これをもとに対文部省交渉のマニュアルを作成すべきである.
私は,法律からの大きな逸脱が,特に文部省設置法6条の2項からの逸脱があると見ている(例).文部省はそれらを「既成事実」としたうえで,「『行政法人』の方が独立しているではないか」などという詭弁を使っているのだ.(しかし,教育行政の専門家自身が文部省との関係が密接すぎて,批判的なことは書けないのだろうか?)
それぞれの大学が「改革」案を作るに当たって,一体どれだけ地元の意見を聞いているだろうか.文部省との談合の10分の1の時間も割いているとも思えない.これで「地域に開かれた大学」とはいえないだろう.文部省は「事務を遂行する」オフィスにすぎないということを忘れていないだろうか.
単なる文部省への説明の事を「ヒアリング」などと言っているようだが,これは言葉に対する無感覚を示すものだ.広辞苑で「ヒアリング」を引くと,公聴会あるいは聴聞会とあるが,ここで「聴」いたり「聞」いたりする人は一般市民であって,これを「お上」に当てはめるという感覚はどこから来るのだろうか.
民主主義社会では,政府機関といえども,法によって規定されている以外の権威や権力を持つわけではない.その意味で他の団体と「対等」である.しかし実際には,「下」は,いつでも,どんなことでも頭を下げていなければならないという意識があるように見える.このように「上」に限らず「下」にも「お上」意識は根強いようだ.「水戸黄門の印籠」にひれ伏す光景が今もくり返されている.
国立大学の教員は,自分の名前が「文部省職員録」に載っているので,自分もその組織の「末端」に位置すると考えてしまうようだ.教「官」という言葉を平気で使うのもそのためかも知れない.
出典不明の似非格言,”君子危うきに近寄らず”によって臆病さが正当化されているのかも知れない.
理学部長会議声明は「10ないし25%という未曾有の大幅定員削減は,理学部及び関連大学院における教育・研究を根本から崩壊させる恐れ」があると述べた.この定員削減の閣議決定に閣僚としてコミットした有馬朗人氏の責任を追及する声が,この声明を出した当の会議から上がらないのはなぜだろうか?