大学が批判力を獲得するには*

佐賀大学理工学部 豊島耕一

言語は単に客観的事実を記述する手段ではなく,むしろ事実を構成する.(グレン・D・フック,「軍事化から非軍事化へ」,p.29,お茶の水書房,1986年)



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A.はじめに

 ユネスコ・高等教育世界宣言はその第二条において大学の社会に対する責任の一つを次のように述べている.

社会が必要とするある種の学術的権威を行使することによって、倫理的、文化的および社会的問題について完全に独立に、そしてその責任を十分に自覚して発言する機会を与えられるべきである.

発言する機会が与えられるということは大学はその機会を生かす義務を負うはずである.しかし今日の日本の大学はそのような義務からはほど遠い状態にある.それどころか,特に国立大学は,自分自身のあり方についてさえ意見を述べることをせず,日本のいろんなセクタの中でも官僚支配に最も従順に追従する部門になり下がっている.なぜそうなったかにはいろんな原因があるだろうが,ここでは日常のなかで何気なく流布されている言葉やレトリックが一つのイデオロギーとして大きな役割を果たしているかも知れないと言うことを指摘したい.まずはそのような言葉のカタログを作ることから始めよう.
 このような,日常の何気ないものをイデオロギーとして取り上げて批判するということはいってみれば「精神訓話」であり,シラガは多いとはいえ私のような「若輩」がやっていいものかどうか疑問ではありますが・・・.当然多くの反論・批判を期待します.

B.大学を金縛り又は思考停止にさせるイデオロギーやレトリックの目録

1. 「忙しさ」の崇拝と自虐的就業態度
 ラテン語辞書によると "schola" とは余暇のことを意味するようだ.(但し勉強のための余暇であって遊ぶためではないが.)したがって "busi-ness" とはいわば反対語である.にもかかわらず大学人も busy でないと肩身が狭いような風潮が蔓延している.もちろん,自らを忙しさに追い込むことによって仕事が進むということはある.しかし少なくとも「暇」を重視する価値観と拮抗していることが必要ではないか.事務職員の方にもこのような「時間泥棒」が忍び寄っていないだろうか?

2. 「生き残り」至上主義
 「大学の生き残りのためにはxxもやむを得ない」,「行政法人化を避けるにはそんなことを言っておれない」などという具合に使われる.組織維持を至上の価値と見なす考えである.個人に引き移せば保身至上主義となり,下品な態度とされるが,なぜか組織だとそう見られない.官僚側から何かを押しつけられたとき,これにきっぱりと「NO」を言えない臆病さをカモフラージュして深刻さを演出するために使われる.

3. 終末論
 かつて教養部解体必然論,いま「行政法人」化必然論が流布されているようだ.これと強く相関して,大学の現状がいかがわしいことは分かっているけれどもどうにもなるものでもないというシニシズムが蔓延している.総評論家化現象である.当事者に許される態度ではない.予言はノストラダムスにまかせておけばよい.

4. お題目としての「困難な力関係」,「一人では何もできない」
 個人のイニシアティブや責任を放棄することの言い逃れになっていないだろうか.現状を悲劇化することにより自己を美化したいということもあるかも知れない.今日では,そして企業社会に比べて格段の自由を与えられた大学教員には,たとえ一人でもやれることはいくらでもあるはずだ.

5. 過度の組織依存
 4と関連して,「一人では何もやってはいけない」という風潮もたしかにある.組合で,あるいはグループで示し合わせたこと以外の言動,行動は「跳ね上がり」というわけだ.
 この点では管理職の立場の人の問題に触れなければならない.批判精神をちゃんと持っていると思われた人でも,ひとたび学部長など「責任ある」地位についてしまうと「組織拡大至上主義者」に変身し,普遍的原則や批判精神の回路のスイッチは切られてしまうか,「スリープモード」になってしまうように見える.管理職が組織の問題に執心するのは当然としても,「組織至上主義」は困る.一般的に見られるこの現象について,制度的な問題の解明だけでなく,ミクロに社会心理学的な解明がなされない限り同じ事が繰り返されるだろう.

6. 「文部省は仲間で,本丸は大蔵省やxx省だ」
 このようにはっきり言い切ったある理学部長がいた.状況の極端な単純化であり,世間知らずにも程がある.文部省に国家権力としての側面が全くないとでもいうのだろうか.

7. 「政治活動」の忌避
 大学に限らないが,社会的な発言や行動を「政治活動」であるとして排斥する風潮がある.民主主義は個人や団体の自由な政治活動をその基盤としているので,このような考えは民主主義と全く相容れない.国立大学に限っては国家公務員法102条とそれを受けた人事院規則14-7の影響があるのかも知れない.一方で自治体などの行政機関への「審議会」への加担は問題にされることはない.「行政」とは文字どおり「政」治を「行」うということであり,それへの協力は純正の政治活動である.このように権力側についた政治活動は問題にされず,自発的な,ないしは在野の政治活動だけを白い眼で見るというのであれば,全く公平を欠いた,権力だけに都合の良いイデオロギーというべきだ.
 大学問題での教員の一般的な不活発さ,教授会の沈黙もこのイデオロギーの影響を受けているのかも知れない.

8. 「特色ある・・・」,「・・・の高度化」
 官製用語への帰順である.教員は日常たくさんの「作文」へのコミットによって官僚化への道を歩まされている.

9. 見せかけの全会一致
 教授会などでよく見られるが,反対意見が述べられた場合でも,採決を取ることをせずあたかも全会一致で決まったかのような形を取ることが多い.コンセンサスによる決定が望ましいのはもちろんだが,反対意見の存在を無視することになるのであれば欺瞞である.個人個人の賛否の表明の忌避であり,責任の回避である.なぜなら「”たとえ”私だけが反対してもどうにもならなかったはずだ」というバーチャルな言い訳が通ってしまうからである.反対意見が何人あったかという記録や証拠は残らない.

10. 「電線が切れている」
 組合の集会ではある問題に対する反対決議に加わったりするのに,同じ問題に対して,教授会では沈黙したりむしろ賛成してしまう,という例も多いのではないか.もちろん組合と教授会とは違った役割の組織であり,扱うことがら,強調点が異なるのは当然としても,同じ人間が同じ問題で反対の態度をとるのは不可能のはずだ(注1).このことに無感覚なことを「電線が切れている」と言う.または,別の業界で問題となっていることが自分の業界で類似的にあるいはそっくりに当てはまるときは,当然それを「他山の石」とすべきだが,それができないこと,その想像力が麻痺していること,これもやはり「電線が切れている」.他の応用問題も考えて下さい.

11. 「組合決議」の支持を教授会での沈黙の免罪符にしないこと
 前の項目とも関連するが,集会に出て「組合決議」を支持したので,あるいは「署名」をしたので義務は果たした,教授会では「力関係がそこまで行っていないので」云々・・という態度もよくありがちだ.たしかに,それが現実ということも実際あるだろうが,しかし困難なことに挑戦してこそ正味の貢献と言える.しかも,こと人間関係に関する限り,本当に困難かどうかも実際にやってみなければ分からないのである.

12. 文部省設置法8条:「本省に国立学校を置く」
 この一文が大学を文部省の地方出張所のようにみなす深層意識の原因になっているのかも知れない.実は「国立学校設置法」によって大学は存立根拠を与えられており,文部省とは「国会の前に平等」であるということを自覚する必要がある.

13. 「あて職」の弊害
 最後に,イデオロギーと言うより半ば制度的な問題として「あて職」の弊害に触れたい.
 何かの役職が別の役職の兼任として自動的に指定されている例が多い.行政に限らず,大学や,PTAなどの民間団体でも見られる.このようなシステムのことが「あて職」と呼ばれているのを聞いたことがある.広辞苑には載っていないので一般に使われる言葉かどうかわからない.
 このようにして「あて職」された人は,つまり意識してなった職に知らないうちに別の職がくっついていたとき,別の職の方にも同じ熱意で取り組むことができるだろうか.多くの場合はただ無難に過ごそうとするだろう.民主主義は「便利さ」によってしばしば蝕まれるという例である.また,一人の人間に多くの権力を付与することでもあり,この意味でも全く反民主主義的である.国立学校設置法改正案の「運営諮問会議」のメンバーも知事,市長などの「あて職」となることがじゅうぶん予想される.現文部大臣の有馬氏は理研の理事長時代に100もの肩書きがあったと聞く.

D. ユネスコ宣言は役に立つ

 ユネスコ宣言を全大教があまり宣伝しないのはなぜだろうか(注2).これは現在のところ「答申」=法改正へのほとんど唯一の対抗軸であるのに,である.(残念ながら国内反対派,つまり我々の陣営からは有力な対抗軸が示されていない.)
 この宣言を採択した昨年の「高等教育世界会議」には日本からは文部事務次官はじめ17名が参加し,これに合意してきているにもかかわらず,日本語訳さえ発表していない.怠慢と言うより,意図的な「ユネスコ隠し」の疑いが強い.
 大学審答申とこの宣言との比較については,拙稿「ユネスコ高等教育宣言と大学審答申」(注3)で述べたのでこれを参照して頂きたい.いくつか特徴を述べると,この文章の冒頭でも述べたように,まず高等教育の「倫理的役割」を強調,社会に対して発言することを求めている点が挙げられる.初めに述べた「忙しさ」の崇拝は,研究を阻害することはないかも知れないが,この側面での大学の活性度を低下させることは明かだろう.社会的問題に思いをめぐらせたり,議論したりすることは後回しにされ,ついには忘れ去られるだろう.これは今日の大学で一般的になってしまった状況そのものである.
 また,改革における学生の能動的役割を認め,教育目標についても,答申の「総合的な判断」能力だけでなく「実践する市民」となるように教育すべきだと述べている.さらに,高等教育の平和への貢献を強調し,平和教育を強化すべきだとしている.
 二つの文書の違いはその用語を比べることで鮮明になる.宣言で繰り返し使われる「権利」や「人権」という言葉は答申ではただの一回も使われず,そのかわり「競争」が頻出する.(次表参照)

(表)二つの文書の間で互いに排他的に出現するキーワードとそれらの頻度
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キーワード 民主 権利 人権 学問の自由 平和 競争 協調 連帯
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 宣言    6  8  8   2   7   0  0  4

 答申    0  0  0   0   0  19  6  0
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                   (答申は宣言の約7倍の長さ)

 大学の批判力のなさは大学だけの問題ではないことを肝に命じるべきだ.社会はそれを構成するいろんなセクターが相互にチェック・アンド・バランスの作用をし合うことにより辛うじて健全さが保たれる.大学が沈黙するとき,社会の,国家の内蔵するリスクは高まる.(1999.4.28.最終改訂5.21)


* 日本科学者会議長崎支部・教職員組合主催の4月24日の学習会での話に少し付け加えるなどしてまとめたものです.当日の仮題は「大学審答申とユネスコ・高等教育世界宣言」でした.

(注1) どちらも「大勢に従っている」という点では首尾一貫している.
(注2)「高等教育教職員の地位に関する勧告」のほうは全大教ホームページにある.
(注3) [reform:1152] 「高等教育宣言と大学審答申との比較」14 Feb 99
  「ユネスコ高等教育宣言と大学審答申」(佐賀大学教職員組合,「組合ニュース」No.47,1999年2月22日発行),../UniversityIssues/compare.html