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求められる「三無主義」との訣別

豊島耕一

岩崎稔・小沢弘明編「激震!国立大学」に所収. 旧いチラシはここ
(11月1日出版予定.四六判・224頁.本体1,600円)
出版社了解のもとに転載

 これまでのどのような「大学管理法」もなし得なかった事がひとつの呪文を唱えることで実現されようとしている.その呪文は「ギョーカク」である.これによって国立大学は政府の命令で動く「行政機関」に変えられる.それは憲法23条の実質改憲と教育基本法10条の停止である.この動きを阻止することは,国立に限らず全ての大学関係者の重要な責務である.

 このような基本的な問題を含むにもかかわらず,ジャーナリズムの論調を見ても,あるいは国大協や組合サイドの議論にも,憲法23条を正面に据えた議論がみられないか,あまりにも少ない.すなわち今回の問題で最も感じられるのは「憲法感覚の麻痺」ということだ.「3年や5年の単位の計画と評価は大学になじまない」というすでに「官」の介入を前提として,その方法に議論を限定するような言い方が正面に出てきて,「学問の自由」という言葉が見つかるとしてもずっとあとの方だ.まるでこの言葉は単なる「お題目」になってしまったかのようだ.9条の「戦力の放棄」が蹂躙されて久しく,それどころか9条を変えてしまえという論調の見られる頻度が高まっているが,今度は23条が辱められようとしているのだ.もし憲法にかかわることと知りながらそのことに言及することが疎んじられるとすれば,我が国のアカデミズムは「法治国」のそれに値しない水準にあると言わなければならない.

 なぜ今回の「法人化」が憲法23条の「実質改憲」なのか.それを理解するには「通則法」の二,三の条文を一瞥するだけで十分だ.「法人の長」,つまり学長または理事長は政府の指名である.また,29条では業務の目標を大臣が命令することを規定し,これを受けて大学はそのための計画を作り,大臣の許可を得なければならない(30条).「目標」という言葉はありとあらゆるものを含み得る名詞である.このように人事と活動内容の両面で「大学の自治」がその根幹で否定されている.「大学の自治」は憲法23条の言う「学問の自由」の重要な内容として含まれていたはずだが,これが少なくとも国立大学に関しては失われることになるのだ.大学版「学習指導要領」も可能になるだろう.

 残念なことに今日「大学の自治」という言葉が色褪せかけている.しかし仮に「大学の自治」に懐疑的な立場の人にとっても,今回の国立大学の「独立行政法人」化は,官僚組織への従属が強まるものを「独立」と呼び,行政機関でもないものを「行政」法人と呼ぶという,二重の意味で紛れもなく詐称であることは,条文を読めば理解されるだろう.むしろ後者については,詐称と言うよりは,行政から独立した「教育研究機関」であったものを行政機関のタテの系列にあからさまに組み入れるという政策であり,教育への「不当な支配」を禁止した教育基本法10条に背く違法なものだ.前者の,本当は”行政従属法人”とでも言うべきものに対して「独立」というニセ広告がまかり通ってしまう背景には,大学だけでなくあらゆる面で官僚支配のくびきからこの社会を解放したい,という潜在的な欲求が「希望的観測」を生んでしまうという事情があろう.実は私自身,条文を読む前は多少そのような見方をしていた.

 たしかに現在の国立大学は「自治」や「独立」といえる状態からはほど遠いと感じられることが多い.しかしその原因がどこにあるかを分析しなければこれを回復するための正確な処方は出てこない.はたしてその原因は国立大学という制度とそれをめぐる法律にあるのか,それともその運用の仕方,あるいはそもそも法律が守られていないことに原因があるのかということが問題なのだ.私の見方は後者である.

 では現在の「大学自治」が制度的にはどのような状態にあるかを見てみよう.まず,学長や大学の教育スタッフの人事権は大学自身が握っており,文部大臣による「任命」は形式的なものにすぎない.(事務局長の人事権は文部省が握っているため,事務機構に関してはすでに「通則法」が適用されているようなものである.しかしその法的根拠は不明だ.)また,学部の再編などの組織設計についても,法的には実は大学に大きな権限が与えられている.国立学校設置法第七条三項の5は大学評議会の審議事項を規定しているが,そこには「学部,学科その他の重要な組織の設置又は廃止及び学生の定員に関する事項」が明記されている.

 法律で規定された「審議権」というものは,ただ「話し合ってもよい」などというレベルではもちろんない.最終決定ではないにしても,その審議結果は法的にも相当の重みを持つはずだ.そしてその「決定」は,現行法では「国立学校設置法」の改正案として国会審議の対象となる.これを,何の法的根拠もなく文部官僚が事前に変更を指示したり,ましてやボツにしたりすることは,大学評議会の審議権だけでなく国会の審議権をも否定する違法な行為である.しかしこれがまかり通っているのが現実である.文部省設置法6条の「指導と助言」に根拠を求めることもできない.なぜなら大学自身が「文部省のOKがなければ何もできない」と思いこんでいること自体が,合法的な「指導と助言」からの逸脱を証明しているのである.このことは大学側に,大学のあり方を真剣に考えるよりはむしろ文部官僚の顔色に重点を置いて「概算要求」を作るという無責任な体質を作り上げた.(文部省と国立大学との法的な関係の議論は,拙文「文部省の違法行為・従順な大学」(注1)を参照して頂きたい.)

 組織設計などを最終決定する国会の審議権についても,国会内部の議論においてさえむしろこれは不要で全面的に大学側の自主性に任せるべきではないか,という考えが述べられている.一九九六年三月二十八日の参議院の文教委員会で当時の平成会の浜四津敏子氏は,学部の改組を法律事項とする必要はないと述べたあと,もしそれを「政令事項にした場合には,むしろ文部省の裁量が非常に大きくなる,かえって不透明になるかなという危惧もありますので,むしろ大学の自主性に任せるべきである」と発言している(注2).このように官僚支配に対してもはっきりと批判が述べられている.世界的に広く読まれた「日本/権力構造の謎」という本の中に「官僚が法的根拠なしで支配的な権力をふるう点に,疑問を持つ日本人はごく少数しかいない」という指摘があるが(注3),知識人の重要な一角を占めるべき国立大学の教員までがそういうことでは困る.このような状況は大学と文部省の関係においても例外ではないのだから.

 次に「自治」の実態を見てみよう.「大学の自治」に懐疑的になりがちな理由の一つに,ほぼそれが閉鎖的な「教授会の自治」を意味してしまうということがあげられる.しかも国立大学の場合は教授会に限らず構成員すべてが国家公務員であるため,本来あり得ない「公務員の自治」という背理をかかえ込んでいる.したがって,自治概念のコアは教授会に置くとしても,それをこの枠からいかに広げていくかということを追求する態度と結合されなければ,前に進むことができない.しかしそのための方策は,例えば学生や職員の参加など,すでに70年前後の「大学紛争」の時代以来多くの蓄積を持っているのであり,実行が棚上げにされているだけである.少なくとも「学生参加」によって「公務員の自治」に止まることは防がれる.また,最近(99年)の国立学校設置法の改正で各大学に「運営諮問会議」が設置されることになっている.文部大臣による任命という問題を含んだ制度ではあるが,このメンバーに学生とともに地域の市民に加わってもらうことで,大学の運営への市民参加に道が開かれよう.大学は,この種の委員会にありがちな旧来型の人事,すなわち財界人や行政の首脳を「あて職」でメンバーにするというようなやり方からきっぱりと脱皮し,この制度が真に「普通の市民」が公平に参加できるシステムとなるよう努力すべきだ.

 「学問の自由」や「大学の自治」がウケない,つまり切実なものとして受け取られないのにはもう一つ理由がある.大学はそのメリットを生かしていないどころか,みずからそれを裏切る行為を積み重ねているからだ.すでに述べたように文部省への追随が国立大学の長年の習いとなっている.「自治を守れ」と言っても,そんなものがどこにあるのか,というわけだ.したがってこのことの重要性を理解するには想像力が必要だ.もし大学が「官」への気兼ねから自由になり,国家公務員法102条による政治的自由の制限が撤廃されて,社会が必要とする,そしてユネスコの高等教育世界宣言(注4)が求めるところの独立した批判力を十分に発揮すればどうなるか,ということを考えればよい.多くの社会的な論争に対して大学が積極的に発言することで問題点をより明らかにし,企業独裁・官僚独裁への大きな歯止めが形成されよう.(逆に,現在のレベルの自治さえも失われてしまったら社会にどんな危険が及ぶか,ということを考えることも重要だ.)

 大学教員の間には,「独立行政法人」化をすでに既定のものであるかのように話題にし,いかにも「先を読んで」ことに対処しているように装う,非常に小賢しいムードが存在する.十年ほど前の教養部解体前夜と同じである.まるで「反対」を言い続けて「予想が外れる」ことをひどく恐がっているかのようだ.このような態度は,自らが責任ある当事者そのものであることを忘れた,無責任で,アカウンタビリティーとは正反対のものである.このような受動的心理こそがこの政策を推進させる重要なファクターの一つに他ならない.大学に対する政府・官僚側の最近の一連の「楽勝」をもたらしている主な原因の一つは,この種の基本的な問題(つまり最も重要な問題)に関しての大学教員の「三無主義」(注5)である.阻止できる可能性を信じなければ阻止するための力も出てこない.われわれはそのような「非線形」なシステムの一部なのである.

 国大協は「条件闘争ではない」などと言いながら文部省との談合に走ろうとしているが,そうして「次善の策」に自ら手を染めてしまうことの意味を理解しているのだろうか.それは,この問題が正式に国民の前に提起されたあかつき,すなわち国会に法案が提出されたときには,もはや原則的な立場を表明する資格さえも失っているということだ.(佐賀大学理工学部,toyo@cc.saga-u.ac.jp

(注1)豊島耕一,「科学・社会・人間」53号,95年7月.../UniversityIssues/obedient-universities
(注2)ftp://pegasus.phys.saga-u.ac.jp/pub/UniversityIssues/upperhouse.txt
(注3)カレル・ヴァン・ウォルフレン,「日本/権力構造の謎」,ハヤカワ文庫,1994年,下巻63ページ.
(注4)「教育学術新聞」98年11月11日号.次に転載.
../UniversityIssues/AGENDA21.htm
オリジナルは次のアドレス.http://www.unesco.org/education/educprog/wche/index.html
(注5)かなり昔の言葉で,無気力,無感動,無関心のこと.