破   天   荒      
-- 変えるべきもの 守るべきもの 創るべきもの --
(2001年度 明善大運動会スローガン)


4年で価値規範は変わらない

10.5国会内集会レジュメ,豊島耕一,ver.2

「ウソも百編言えば本当になる.」今起きていることはまさにこれである.97年に文部大臣は記者会見の中で次のように述べている.

 「独立行政法人のねらいは,効果的な業務の実施にあるが,文部大臣が3〜5年の目標を提示し,大学がこれに基づき教育研究計画を作成,実施する仕組み,及び計画終了後に,業務継続の必要性,設置形態の在り方の見直しが制度化される仕組みは,大学の自主的な教育研究活動を阻害し,教育研究水準の大幅な低下を招き,大学の活性化とは結びつくものではないこと.
 また,効率性の観点から一律に大学を評価することは,各大学の特色を失わせ,現在進めている大学の個性化に逆行すること.」

正論である.そして今文部科学省がやろうとしているのは,この,わずか4年前に非難したはずの「教育研究活動を阻害」し「教育研究水準の大幅な低下を招」くことなのだ.上に述べられた問題点は先月出された「中間報告」でもそのままであり,何の変化もない.単に時間が経過しただけである.「独立行政法人化は大学改革である」という言明は4年前にウソであったし,それは大学関係者の常識であった.それが時間が経ったと言うだけで,文部科学省が方針を変えたと言うだけで「本当」になるのを許せば,人間としての良心に背き,また大学教員にとっては,教育と研究に従事する者としての職業的良心に背く.

 最近出された「大学版構造改革」なるものは,教育基本法10条を全く知らない人間しか言い出せないことで,さらにこれを実施すべく学長らを「脅し」,従わなければ「見捨てる」という文部科学省官僚の暴言は,今日に至るまで「野放し」にされている.これは教育基本法の二重の「解釈改定」を放置することに他ならない.すなわち「教育基本法違反予備罪」と「現行犯」とが不問に付されるからである.「教育基本法を守るべきだ」と主張する人は,だまっていてはいけないはずである.

 これに対して正面から批判しているのはむしろ保守派(と思う)の加藤寛氏で(日経9月8日),国立大学の学長らは沈黙したままである.それどころか,山口大学の広中学長は,文部科学省と国立大学とを親子関係にたとえてこれを支持するなど,教育基本法を知っているのか疑いたくなる言動をしている.

 大学を変えていくための重要な指針はすでにユネスコの勧告(97年)や宣言(98年)出されている.「グローバルスタンダード」を口にしたがる人々がなぜかユネスコを無視しているのは不思議である.上の二つの文書の日本語訳を文部科学省は公表していない.これらの文書には,学生の権利の尊重,特に学生を,「高等教育の革新における主たるパートナー、そして責任のある当事者」と見なすべきだとある.(文部科学省は「アンケート」を口にするだけで,このような観点は全くない.)また,大学構成員の諸権利の尊重と意見の反映,高等教育機関の自治の重要性を謳っている.

 これを踏まえて管理運営面の改革の重要ポイントを挙げる.

1. 文部科学省と国立大学との関係の正常化
 法に根拠を持たない文部科学省による大学支配が行われている.これが大学の「独立」性を阻む最大の要因である.これを法律どおりの関係にもどす.「天下り」を廃止し,大学事務官の人事権を大学が持つ.

2. 大学予算編成権の文部科学省からの分離
 大学が文部科学省にすべて従う理由は,実際にか心理的にかは別にして「概算要求で自分の大学が不利になる」ことである.これを取り除くため大学と政府の間の独立した中間機関が国からの資金の配分を行う.

3. 大学運営への学生の関与
 数多い学内の委員会のいくつかに学生代表を入れる.少なくとも「運営諮問会議」には学生代表を複数名入れる.

4. 「運営諮問会議」への市民の参加
 現在,「あて職」システムによって財界や権力者,有力者によって構成されている「運営諮問会議」を,ふつうの市民の意見を大学運営に反映させる制度に変える.

5. 大学評価は自由である.ただし政府による評価は認められない.ましてこれと予算とを結びつけてはならない.

 先月27日に文部科学省調査検討会議の「中間報告」が出されたが,これと国大協の,この問題を検討する委員会のメンバーとを比べてみると,これらがおよそ相互に独立した委員会ではないことが明らかになる.すなわち,国立大学協会の「設置形態検討特別委員会」の28人のメンバーのうち24人(86%)が文部科学省の「調査検討会議」の委員を兼ねている.これは委員会のクローニングでありしたがって出てくる答申もクローン答申であろう.このようなやり方は,「衆知を集める」という考えとは正反対の,談合精神を基盤とした「衆論の整列化」とも言うべきものであろう.

 「文部科学省の案に国立大学の意見を反映させる」という口実で国大協はこの委員会への参加を正当化した.しかし結果的には,24人のメンバーは文部科学省の委員会の中で財界の委員などから「情勢の厳しさを認識」させられ,逆に文部科学省や財界の意向のメッセンジャーになったでのあろう.

 このように,大学の自治,学問の自由に責任を負うべき国立大学の学長らがこれに背こうとしているとき,もはら彼らに事態を委ねるわけにはいかない.彼らが自ら自治を破壊しようとしているとき,大学関係者はもちろん,一般国民もこれを座視していてはいけないだろう.すなわちなん人もこれを批判するのを躊躇してはならないだろう.