著者,加藤寛氏と日本経済新聞社の許諾を得て転載


【日本経済新聞 9月8日付け「教育」欄より加藤寛氏の論文全部を転載します.】


 加藤寛・千葉商科大学長は、文部科学省の「大学構造改革の方針」(遠山プラン)を、特定大学を選抜、支援し国費を使って大学間格差を人為的に作り出すなどの理由で批判する。加藤学長に寄稿してもらった。

大学版構造改革「遠山プラン」

平等な競争条件が前提

助成で人為的格差

私学への直接補助に疑問

 かねてより私は遠山文科相の文部省時代からその考え方に私淑していたから、文部科学省の体質も少しはよくなるだろうと考えていたのだが、どうにも理解しがたい提案がでてきた。

 大学の競争を促進する一環として、全国の国公私大学五百八十六の中から、三十大学に四百二十二億円を特別枠として配分するという。そして残りの私学の中で研究や教育が充実している私立人学に対して競争的資金として五百七十二億円の直接補助をするという。

選抜志向目立つ

 この「大学構造改革の方針」(遠山プラン)は国公立大学学長会議で示された。国立大学に限っていえばすでに十三大学重点化がおこなわれているのだから三十大学特別枠は目新しくない。しかしなぜ、私学を含めたのかという考えが理解できない。天野郁夫教授の指摘する通り(本紙八月四日付)、これは、小泉改革に突き上げられての文科省の悪乗りだろうか。

 国立大学はすでに独立行政法人化に向かって進んでいるがこれにしてもインフラ整備、身分保障の上で、民間的経営手法を拡大するというのだから、どこまで効果があるか疑わしい。しかし、ここまで後押しして、も、これにすら腰をあげない国立大学に対する文科省のいらだちは分からなくはない。だが、これに私学まで含めるのはあきらかに日本の教育を崩壊させるものである。

 この遠山プランは、大学の効率化・選抜にばかり目を向けた誤れる政策である。第一に、特定大学を選抜して支援し、国費を使って大学間の格差を人為的に作りだそうとしている。現状でも国立と私立とに格差を設けておきながら、大学間の競争がひとりでにおこなわれていると遠山プランは信じているのだろうか。

 競争は平等な条件でおこなわれるべきなのに、ますます格差をつけることを人為的におこなっていいのだろうか。三十大学の他の私立大学には競争資金として直接助成金を補助するというが、私学を国費では助成すべきではなく、それは憲法違反であるとして第三者機関を通して国費を出すという仕組みをとってきた文科省がなぜ、直接助成などといいだしたのだろうか。これは,法違反にならないのか。

小泉改革に逆行

 第二に、逮山プランはどうやって、大学の選抜をおこなうというのだろうか。いま、金融界のように収益に一点をしぼった不良債権の格付けにしたって、そのあいまいさに批判がある。人によっては大学の格付けは競争によってひとりでに世評で分かるというが、米国でも長らく大学のランキングを第三者機関によって格付けしてきたが、本当にその実態をあらわしているだろうか。ましてその格付けによって大学助成を決めることなど米国ではやっていない。それを遠山プランでは、ランキングによって国費助成をしようというのだから、とんでもない。民営化・自立化という小泉改革の逆行ではないか。

 第三に、大学は同じ条件で競争しているのではない。国立・私立の区別をやめて、すべて私学として同じ条件で競争すべきではないのか。それを国費のほとんどを国立大学に投人して私学助成と格差をつけてどこに競争があるのか。しかもセンター人試で受験勉強を強制する偏差値主義の中から、どうして子供たちの個性が育つのか。私学はほとんどいまAO人試(面接)制度を採用して、子供たちの個性に適して能力を伸ばせる人試をおこなっている。センター入試制度では、没個性の人材を多額の国費で養成しているにすぎない。

 第四に、ランキング付けに大きな誤りがある。一般的に研究教育の充実した大学は、その財政基盤で順序付けられることが多い。たしかに理工系の分野では、インフラ整備は重要であるからそのランキング付けはうなずける面もある。さらに米国などでは、教師の研究業憤(国際学会での論文、さらにそのリファレンスの広さなど)で評価されることが多い。日本でもそれを模した評価が多い。

 それはそれなりに意味はあるが、社会・文科系ではなかなかそうした評価は難しい。そこで近ごろは、コンピューター端末の一台当たり学生数とか、教師の数などでランキングがおこなわれるが、これほど奇妙なものはない。まだいまはコンピューター普及が発展途上だが、やがて大学入学以前にそんなものに習熟した学生が圧倒的になる。そうなれば、個人用として端末は持つようになるし、無線LANの時代にもなる。そうなったときこんなものが大学充実の基準にはならない。

研究の意味、再考を

 第五にランキング付けは疑わしいとして最近米国でも批判がおこっている(ニューヨーク・タイムズ紙八月二十日付)。いままでの評価付けは、ほとんど供給側からみたランキングであるが、大学は研究ばかりでなく教育をやっている。ということは、供給サイドではなく、消費者サイドからの評価が当然ではないか。つまり、学生の大学教育に対する満足度である。教育の満足度の高い大学ほど充実した大学なのである。大学は消費者である学生が評価すべきであって、国が勝手に格付けをするものではない。もしそうなれば、大学は国費を多く配分してもらうことに集中して自由な自らの教育ビジョンにのった競争などだれもしなくなるだろう。これこそ教育の崩壊である。

 なぜ、文科省は、こんな筋運いな政策を掲げるのか。教育改革にあせってはいけない。確実に大学改革は進み、大学間統廃合ももう目前である。そこにはひとりでに充実した大学のみが残っていくのであり、国がそれを主導するなどという明治政府のような過ちをおかしてほしくない。

 国が介人すれば必ず教育は崩壊し研究水準は落ちていく。とりわけ私学への直接助成をするくらいなら、国立を私学にすればいい。そして助成は、大学へではなく、個人(教師・学生)になされるべきである。「研究」とは何か、「教育」とは何かについてもう一度、文科省はきちんと考えてほしい。



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