持つべき「危機感」とは何か

(佐賀大学理工学部広報誌 ScienTech* No.18. 4ページ. 03年3月発行 過去の掲載文

物理科学科 豊島耕一

権利者は自分の権利を守ることによって同時に法律を守り,法律を守ることによって同時に国家共同体の不可欠の秩序を守るのだと言えるとすれば,権利者は国家共同体に対する義務として権利を守らなければならぬと言えないわけがあろうか?
(イェーリング,「権利のための闘争」,岩波文庫85ページ)

 今日,どの大学の,あるいはどの学部の将来像を考えるにしても避けて通れない問題,国立大学の「独立行政法人化」(行法化)が切迫した状況にある.すなわちこのための法案が今度の通常国会に提出されると見られており,この冊子が発行される時点では審議がすでに始まっているかもしれない.

 この問題については,政府がこれを検討しはじめた97年頃からこれまで,すでに数え切れないほどの議論がなされてきた.インターネットで閲覧可能な文書だけでもおそらく1,000を超えるだろう.佐賀大学や本学部が関係した文書を見ても,97年の佐賀大学名による反対声明,99年の国立大学理学部長会議による反対声明があり,また私の所属する物理科学科でも01年9月に同じく反対声明を出している.また組合も数多くの文書を発表している.いずれもこの制度が大学に適合しないことを主張している点では一致している.このような文書量の膨大さは,この問題の重大性を示すと同時に,今からこれに取り組もうとする人にとっては,むしろ情報選択の障壁となるほどのものである.

 それから5年以上が経過した今日,これらの反対の意志が明示的に撤回されることもなしに,教授会や組合も含めて大学社会はこれへの「準備」に追われている.すなわち,独立行政法人制度が規定する「中期目標」,「中期計画」文書の作成が各大学でさかんに行われている.しかしこれらのことは,「アカウンタビリティー」の観点から二重に問題がある.

 すなわち,世間に公に発言したことをみずから否定する行動を取る場合には,それと同等の伝達方法と形式によって公然と,理由を明示して撤回を表明しなければならないはずであるが,これがなされていない.すなわち「なし崩し」の撤回であり,文字どおり「説明責任」を果たしていないという点である.

 また,国会が審議も始めていない,それどころか法案さえ提示されていない制度を先行実施するような業務に従事することの問題がある.この事態を一般市民が知ったらどう思うだろうか.このような活動は,それに従事している人だけでなく一般の人にも「行法化はすでに既定事実」という印象を与えるであろう.すなわちこれは,行法化の推進に心理的な暗示で協力するという政治活動そのものであり,大学がこのように大規模にかつ組織的にこれに関与することが正当化されるか疑問である.決してカレンダーの印刷と同じように考えることはできない.

 この制度が大学に適合しない理由はさまざまに述べられて来たが,私はここでは教育基本法十条に違反するということを述べるにとどめる.わが国が法治国である以上,仮に行法化が法律として成立しても,上位の法に反する制度は常にその「違法性」を問われ続けるだろうし,何よりもわれわれ自身,職業的な良心に懸けてもそのような無法を許してはならないのである.

教育基本法第10条(教育行政)
教育は,不当な支配に服することなく,国民全体に対し直接に責任を負って行われるぺきものである.
(2) 教育行政は,この自覚のもとに,教育の目的を遂行するに必要な諸条件の整備確立を目標として行われなければならない.

 物理の人間の法律論は信用されにくいだろうから,専門家の発言を聞いてみよう.教育学者, 伊ヶ崎暁生氏の,「国立大学法人化と教育基本法第10条」と題する私信から一部を引用する(全文はウェブ参照[1]).

「教育は政治よりいっそう理想を求めるものであり,現実との妥協を排除し,教育は国民のものであり,国民のために,国民の発言が広く認められなければならないということが『国民全体に対し直接に責任を負』うことを意味しています.そして(2)項は教育行政の任務とその限界を定めたものです.『教育の目的を遂行するに必要な諸条件の整備確立』とは『教育行政の特殊性からして,それは教育内容に介人すべきものでなく,教育の外にあって,教育を守り育てるための諸条件を整えることにその目標を置くべきだというのである』(教育法令研究会編『教育基本法の解説』1947年12月)というのが制定時の趣旨でした.それは[支持すれど統制せず』(support without control)という教育財政の民主的原理でした.したがって,学問の自由と大学の自治の保障された大学ではこの原理は自明の理といってよく,最高裁判所判決でも承認されておりました.」
        (中略)
「・・・・・各大学が教育研究の目標・計画を自ら決める現行から,国立大学法人では文部科学大臣が各大字の『中期目標』(6年間)を策定し,達成できなければ予算が削られることになります.各大学では『中期目標・中期計画』原案を作成するために膨大な作業に迫われていますが,この中期目標・計画の細かい枠粗みまで文部科学省は示しており,この行政手法を通して『大学の自治』の空洞化,『学問の自由』の侵害の危険性が生じてきています.国家戦略になじまないもの,あるいは批判するものは排除されかねません.」
        (中略)
「このような文部科学行政権の拡大・強化は,さきにみた教育基本法第10条の趣旨に照らしても,教育行政の任務と限界を著しく逸脱しているものです.」

 すなわちこの「違法性」は決して些細なものではなく,大学の存立原理そのものにかかわり,さらにはこの社会の根本的な価値自体を左右するものであり,決しておろそかにはできないものなのである.

 ポジティブな「将来像」に触れようとする前にすでに紙幅が尽きた.しかし一言だけ触れるとすれば,ユネスコが98年に出した「高等教育世界宣言」[2]に述べられていることで,これまでの「改革」に大いに欠けていた点を3つ指摘したい.

 このような理念を実行するにも行法化がいかに大きな障害であるかは明白である.大学関係者にとっての最優先の課題は,ネガティブな,暗黒の「将来像」が大学を支配する前に,是非ともこれを阻止しなければならないということである.この活動こそが法律が通る前にやっておかなければ「間に合わない」のである.

 私学高等教育研究所主幹の喜多村和之氏は,「大学は生まれ変われるか」(中公新書,2002年3月刊)という本の中で,「学問の自由とその制度化としての自治を喪失した大学は,もはや大学の名に値しない.仮に大学の形態は保ち,生き残りは保てたとしても,それはもはや大学ではないと著者は考える」と述べている.まさに国立大学はそのような瀬戸際状態に置かれているのである.この危機感が多くの人に共有されることを願いたい.(03年1月執筆)


*ScienTech は名目3月刊行ですが,本号は5月9日に発行されました.国の機関,ほとんどの国立大学,45の私立大学,23の高等専門学校,15の外国の大学,その他に発送されます.

[1] 伊ヶ崎暁生(元富山国際大学教授・教育学),「国立大学法人化と教育基本法第10条」,私信,2002年12月.
../znet/docs/igasaki021227.html
関連した同氏の近著「学問の自由と大学の自治」(三省堂,2001年10月)も参照されたい.
*校正の時点でこの問題をより詳しく論じた文書が公表された.
「国立大学の『
行法化』と教育基本法10条」,成嶋隆(日本教育法学会事務局担当理事),「独法化阻止全国ネット」への投稿,2003年2月.
../Education/NARUSHIMA.html

[2] UNESCO, WORLD DECLARATION ON HIGHER EDUCATION FOR THE TWENTY-FIRST CENTURY: VISION AND ACTION.
「21世紀の高等教育 展望と行動」,1998年.「教育学術新聞」'98年11月11日号に訳がある. ユネスコホームページ,または次を参照.

../UniversityIssues/AGENDA21.htm