物理科学科 豊島耕一
テ−マの「学部教育」を大学院教育との対比で捉えれば,前者には教養教育も含まれる.かつて教養部に所属し,また現在は全学教育センターの運営に係わる者の一人として,私は教養教育の問題について少し議論してみたい.
本学の教育課程,「全学教育」の中に位置づけられている教養教育は,学生が専門的知識や能力を身につけるだけではなく,政治的な文脈では一人の主権者であるための能力を持ち,文化的な面では豊かな精神生活を楽しめるようにするために実施されているのだと私は理解している.またあるいは,学問分野の区分というものは多かれ少なかれ便宜的・暫定的なものかもしれないし,「学問」という一冊の巨大な本の他のページに何が書いてあるかを知っておくのも時として役に立つだろう.学問の新しい展開はしばしば「異業種間交流」から生まれるし,また「アナロジー」の効用も捨てがたいからである.
高校までの教育で十分ではないかという疑問に対しては,私はこれは専門知識とのバランスのために必要だと理解している.つまり自分の専門知識を相対化して眺める知性を得るためであり,生じやすい専門知識への信仰や自信過剰(ファナティスム)を解毒する1)
ためであろう.
公式には,学則はもちろん,大学設置基準に教養教育の必要性が文章化されており,さらに遡れば教育基本法第一条の「教育の目的」の中にもこれが読みとれる.特に後者の中で,「国家及び社会の形成者(中略)を育成する」とあるが,私はこの「形成者」という言葉に注目したい.何かの役に立つ人間,既成の社会に適応できる人間に育てるという考えが中心にあるのではなく,教育の対象である学生・生徒は実は社会の主人そのものであるという意識が込められているように思う.「主人」といっても殿様のことではないので「役立たず」でも困るが,かといって法律は決して「人材」を育成するというイデオロギーには立っていないのである.因みに昨年出された大学審答申の姿勢はこれとは反対のように思える.
文部省著作の「民主主義」という本2) の中に,子どもが何冊もの本を積み重ねて踏み台にし,背伸びをして棚の上にある「出世」というラベルの貼ってあるビンを取ろうとしている挿し絵がある.横に「就職目あての勉強は困る」と書かれている.50年も前の本だが「再利用」の価値は十分ある.もちろん職業と教育の内容とを絶縁すべきだということではないだろうし,いまさら「学問のための学問」でもないが,学問が何かの目的達成のための手段にとどまるものではない,というメッセージとして受けとめることができる.そして教養教育への応援のメッセージとしても.
そのように教養教育を眺めたとき,カリキュラム作成者は今日の社会の様相に無関心ではいけないし,また,新しい学問分野にも目を配って,豊富なメニューが学生に提供されるようにしなければならない.(そもそも「カリキュラム作成者」が存在することがまず必要で,実はこれから始めなければならないのだが.)
二つの授業をメニューに付け加えることを提案したい.「主権者であるための能力」にかかわっては「メディア・リテラシー」の授業が重要だということと,いまひとつは男性の自立のための調理実習を含む家事教育の必要性である.
今日の社会では「事実」はマスメディアによって独占販売されている.そしてその「商品」によっていわば心理的な「力の場」が生み出され,その「力線」に沿って個々人の意見が統計的に方向付けられていく,というプロセスで世論が形成される.したがってメディアによる「力の場」の形成のメカニズムを解読する国民の能力と,逆にメディアのありかたに対する国民の影響力とが民主主義の質を決める.すなわち,メディアによる世論操作を見抜き,その背後にある真実を掴み取ろうとする姿勢と,メディアを自分のものにする力,つまりメディアへのアクセス権の意識やメディアのありかたについての議論である.このようなメディア・リテラシー教育の必要性については,すでにいろんなところで言われているが,私もその合唱に加わりたいと思うのである3)
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2番目の調理実習については,「生きる」ことの基本である家庭での食生活の実務が今日ほとんど女性によって行われているという非対称性を補正するのがねらいである.自分の経験からも,大人になってから始めた男性はもっと早くから基礎を学ぶべきだったと後悔する.家事の分担で夫に苦情を言い続ける女性も,はたして自分の娘だけでなく息子に対しても差別なく家事教育をしているのだろうか.高校までの教育でも,くだんの「受験体制」によってこれは片隅に追いやられている.大学教育がこの隙間を埋めなければならない.また,自分で材料を買い,調理することは環境問題への実践的なベースを作ることでもあろう.
教養教育の大幅な再編が行われて間もなく5年が経過しようとしている.この再編にあたっては,それが改善につながるのかそれとも改悪なのかで大いに議論がなされたが,今日われわれはこれが改善であったという結論のための努力を義務づけられている.
評価の一つの指標として,講義の開講数とクラスの平均人数を十年前と比較してみよう.以前,教養教育改善のためのある委員会で作業をしたことがあるので,1988年前期についてのこれらのデータが手もとにあった.
1988年後期の教養部制度での「人文・社会・自然」全体と,昨年(1998年)後期での対応する「教養教育科目」,すなわち第1分野から第6分野までの授業クラスの数と一クラスの平均の規模をまとめたのが表1である.開講数は十年前に比べて15%ほど減っているが,このカテゴリーでの最低修得単位数が36から20に減らされたことでノーマライズすれば,学生の授業選択の幅は相対的にはむしろ広がったと言えるかもしれない.また「マスプロ教育」と言われた事態もわずかながら改善されている.今後は,少なくともこの水準を維持しながら,内容面での改善をはかる努力をしなければならない.しかし教養科目全体のdosage(投与量)は明らかに減ったのであり,この問題,つまり単位数そのものについての再論議も必要ではないだろうか.組織再編によって教養と専門との間での単位の配分が変わり,前者の大幅減と後者の微増が行われたが,このこと自体の再検討である.
表1
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授業開講数 クラス当たり平均人数 最低修得単位数
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1988(前学期) 105 (人文・社会・自然) 118 36
1998(後学期) 89 (第1〜第6分野) 107 20
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1) フランス,コレージユ・ド・フランス教授団の「未来の教育のための提言」(岩波の「世界」1990年5月号に掲載)の中の表現を借用.../education/PPEA.HTML
2) 文部省著,「民主主義」,径書房,1995.(復刻版)
3) この問題では次の本を推薦します:渡辺武達著,「メディア・リテラシー」,ダイヤモンド社,1997.