Date: Sat, 1 Jul 2000 11:01:57 +0900
To: reform@ed.niigata-u.ac.jp
From: toyo@cc.saga-u.ac.jp (TOYOSHIMA Kouichi)
Subject: 「reform:02953,Re: 国大協と教職員」へのコメント
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佐賀大学の豊島耕一です.
Y氏の「[reform:02953] Re: 国大協と教職員」へのコメントです. 投稿だけでなく,往復した私信にもよっています.
同様の言い方は,民間部門が公共部門を批判するときに限らず,民間どうしの間も含めて,もっと普遍的に使われているのではないでしょうか.
もし大学が「安全地帯」から出ればリストラが なくなる,というのなら理解できますが,そういうことはないでしょう.「国民の中に」ある,というよりは,支配グループの宣伝に過ぎないと思います.それを復唱する人は,言わば不幸競争,我慢くらべをやりましょうと言っているようなもので,そのようなレトリックの罠,イデオロギーの仕掛けだと思います.これでは景気も回復しないでしょう.「うちはリストラで厳しいが,君のところはよさそうだ.より権利拡大のために頑張ってくれ」というのが前向きの態度と言うものだと思います.
このようなイデオロギーが「生活がそれほど過酷であること」をもたらす原因の一つとなっているのですから,これを払いのけることが知識人や芸術家の義務です.なおヨーロッパには「解雇規制法」があると聞きますが....
国大協が加わらないと「一本釣り」でどうにでもやられる,と言われますが,「一本釣り」であれば「国大協」の紋章は使えないので,文部省も,国大協がまるごと参加する程の影響力を手にすることはできません.また,国大協が入っても「一本釣り」で協調派を追加することはやれるでしょうし,私大からも入ってくるでしょう.
Y氏:「まずは自主活動の徹底にこそ問題の解決の基礎があると今も信じて疑いません。しかし全国の大学で広範な組織化に成功したという話は今もって、聞こえてきません。その中で、国大協がぎりぎりの選択として、「国大協」の立場を堅持して文部省の水議に参加するとの方針を取ったのはまだましとでもいうべきでしょう。」
また,次は私信の中でY氏が言われたことです.
Y氏:「自主運動をしっかり展開し、それを基礎に国大協をしっかりさせることが何よりも必要です。その観点に立てば、自主運動の力量不足にも拘わらず国大協は内部を割らずによく頑張っていると見るべきでしょう。」
どうもY氏は,段階論,ないしは「二階建て論」とでも言うべき論理を取っておられるように思えます.(以下は彼の論旨に対すると言うより,それを私が推測したものに対する議論です.)「自主運動」がまともに出来てはじめて国大協がちゃんとやれる,というような.あるいは自主運動が成功していないのに国大協に文句をいう資格はない,というようなニュアンスも感じます.どちらも違うと思います.国大協も「自主運動」だし*組合や他の団体も同じく「自主運動」なのです.単にその成り立ちや役割に違いがあるということに過ぎません.何ごともヒエラルヒー的に考えてしまうのは古い癖ではないでしょうか.(水戸黄門イデオロギーとでも名付けましょうか.口が悪くてすみません.しかしわれわれの頭のどこかに,そのような傾向が残っていないでしょうか?)
また,「内部を割らずに」頑張っているとの評価ですが,むしろ多くの学長には組織を割るだけの自己主張もガッツも不足している,と言う方が正確なのではないでしょうか(この予想が外れることを祈るばかりですが).項目3も含めての全会一致の「結束」というのは,実は国大協自身が,一網打尽の行政法人化のための媒介装置になるという危険を示すものだと思います.佐賀の乱や西南戦争の心配もなしに.記者会見での蓮實会長の,行政法人化は「まったく受け入れていない」という大本営発表は,少なくとも結果的には,その重要な演出の一つであり得ます.
なお,Y氏の所属されるS大学L学部教授会は最近声明を出されましたが,大変勇気づけられる事だと思います.私の属する佐賀大学理工学部教授会は,何度か努力しましたが残念ながら声明を出すまでには至っていません.今後も「自主運動」に努力したいと思います.
大学がどんどん後退していく背景のひとつに,大学に対する批判のうち,いわば「左」からの批判が皆無に近い,ということがあるのではないでしょうか.このため大学の自由,自治など頭になく,権力に追従するだけの「曲学阿世の輩」が増えていると思われます.