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日経99年12月26日24面「教育」欄,日本能率協会コンサルティング,太田実,「大学改革阻む『教員自治』,新たな議決機関 法制化を」の総論的な批判です.


「学問の自由」から「学問をさせる自由」への発展か?

12月26日付け日経新聞の太田実論文を批判する

Ver.1.1.(2000年1月10日)

佐賀大学理工学部 豊島耕一

 この文章は伝統的な「大学自治論」の弱点を,しかもかなりその核心を突いている点で重要である.私は拙文「求められる三無主義との訣別」(注1) の中で,教授会による自治が「公務員の自治」という背理をかかえ込んでいる,と指摘したが,まさにこの点にも重なる.また同時に,自分の属する狭い集団の利害を絶対視するという日本社会の「直躬説話」(注2) 的な様相も指摘されている.「行政法人化」への反対決議の少なさにも見られるように,教授会が堂々と自己主張をするということはなぜか極めて希であるが,このような態度の背景にある心理的要因が,実は自らがうすうすこれらの状況を自覚しているという「負い目」にあるのかも知れない.

 しかし問題は,著者が学問の自由へのさまざまな脅威について,全体的視野からそれらを公平かつ適切に評価しているかどうかである.国立大学におけるそれにとってのもっとも重要な脅威の一つは,単に歴史的にだけでなくまさに今日的にも国家という権力機構(具体的には国家官僚組織や政治家)なのだ.

 太田氏が指摘するように,いわば「直躬説話」的に,学内のミクロな利害の対立においてそれぞれのミクロな集団が自らの利益を守ることに熱心である,というのは事実であろう.しかしいったん相手が政府や文部省となると態度はほぼ180度変わり,それへの従順さや自虐性は目に余るほどである.このような事態が今日直接に学問内容への干渉につながっているわけではないが,長く放置されればいずれこれへの直接の脅威となりうるのだ.

 このような実態は国立大学の関係者ならば誰でも実感していることであるが,太田氏の文章にこの事への言及は全くない.このことは彼の立場が決定的にバランスを欠いていることを示している.個々の指摘に真実があってもその大小関係のウェイトを誤れば現実的な議論とは言えないのである.

 さらにもっと重要な問題は著者の言う「学問の自由」という言葉そのものである.著者によればその最大の侵害者は「教員自治」つまり教授会だと言うのだが,これは多くの人を驚かせるのに十分な異説であろう.さて学問の自由とはそもそも何を意味するのだろうか.これは権利を意味する言葉で,その権利の主体は第一義的には学問をする人であるはずだ.つまり学生と教員である.教員がみずからその自由を侵しているのだろうか.もし太田氏がそのような奇妙な事を言っているのではないとすれば,教員が学生の「学問の自由」を侵している,というのか,あるいは教員は学問をしていない,かのどちらかの主張だろう.このようなこともあり得ないことではないが,少なくともここでの主要な話題ではないだろう.つまり結論を言えば,彼は「学問の自由」に言及しているのではなくて実は,”マネジメント”がだれかをつかまえて学問を「させる」,あるいは「させない」自由のことを問題にしているようである.これは場合によっては「学問の自由」とは正反対の概念かも知れないのだ.

 「学問の自由を侵す」の小見出しの後のパラグラフでの「学問の自由」という言葉の使い方を見ればこのことは明白だ.まず「大学自治機関にとっての学問の自由」と言っているように,問題にしている権利の主体は個人ではなく組織を指している.そして「学校の施設や費用を使ってする学事は大学の自由であり、教員や教員自治の自由に相当しない」として個人に属する自由の権利をほぼ否定し,管理機関(「大学自治」という美名を当てようとも)の教育・研究内容への一元的支配を主張しているのである.もちろん個人に属する学問の自由も無制限でないことは自明だが,そのことと太田氏の自由制限論との間には雲泥の差があるのだ.

 「彼らの自己負担でする学事については、当然に公権力や大学自治から干渉されてはならない」と言っているが,「自己負担」の意味が何なのかは明確でない.時間のこと,つまり勤務時間外にやる,という意味か,あるいは費用のこと,つまり自分のポケットマネーでやる研究の事を言っているのだろうか.だとすればそれが自由なのは当たり前のことで,何も太田氏に保障してもらう必要はない.しかもこれの侵害を排除することにさえ「教授会の賛同が得られること」の条件が必要だとはあきれてしまう.

 そもそも「自己負担でする学事」など今日の学問という「業界」のありかたからすればその多くの分野において空論であろう.少なくとも多額の費用や設備,人員を要する自然科学の実験系の研究者にとっては,これは全く非現実的であり,したがってこれらの研究者には学問の自由は認めないと言うに等しいのである.(繰り返すが無制限,無限定の自由を主張する人はだれもいない.)それとも,ニュートンやガリレオの時代のような手作業の研究スタイルにもどれと言うのだろうか.

 国家や「タウン」と大学・学者との相克の歴史から学問の自由という概念が発展したが,その根幹は学問をする個人の自由権を実質的に保護し保障することにあると思う.それが我が国では憲法23条や教育基本法10条に結実しているはずだ.そして組織に属するとされる権利すなわち「大学の自治」も,その延長ないしそのための「集団的自衛権」のようなものだ.太田氏は集権制による組織の効率を重視するあまり自由の個人への帰属性という最も重要な側面に目をつぶってしまっているのではないだろうか.

 ただし,結論が間違っているからと言って初めに述べたような教授会自治の問題点の指摘までが帳消しになるわけではない.名目上は教授会が基本的に権限を握っているとされながら,実態はその根幹部分で文部省による操縦がまかり通っているというダブルスタンダード状態を解消し,バランスの取れた大学の意志決定のメカニズムを作らなければならない.つまり新しい大学自治の理念と形式を作り上げることを急ぐべきだ.いわゆる「行政法人化」は大学を「自治機関」でなくしてしまうのであるから太田氏も反対に違いない.また昨年の学校教育法,国立学校設置法の改正を忠実になぞるような「改革」もこれに値しないだろう.これには権限集中とバランスするだけのチェック機能という考えが含まれていないからだ.

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(注1) 「激震!国立大 学」93ページ,未來社,1999年.

(注2) 直躬説話について

子路一八 (「孔子」,金谷治著,講談社学術文庫,259ページ)
 葉公,孔子に語りて曰はく,吾が党に直躬(ちょくきゅう)なる者あり.其の父,羊を攘(ぬす)みて,子之を証す.孔子曰はく,吾が党の直き者は是に異なり.父は子の為に隠し,子は父の為に隠す.直きこと其の中(うち)に在り.

 字義どおり本当の家族の間でかばい合うのは当然かも知れないが,私は,会社などの組織が家族に模擬され,その上でこの「直躬説話」の価値観が適用されている様相があるのではないか,と疑っている.この論語の一節それ自体が日本人に大きく刷り込まれているかどうかについてはあまり自信はないが,少なくとも部分的にはそうではないかと思う.そして儒教が今なお生きたイデオロギーであることも確かである.