親類ページ:教育一般大学改革平和 英国の核を廃絶 ホーム
大学問題リンク:独行法反対首都圏ネット全大教近畿北大辻下氏

全大教加盟の組合執行部の皆様へ

佐賀大学 豊島耕一

840-8507 佐賀市本庄町1 佐賀大学理工学部(教授)
電話/ファクス: 0952-28-8845
メール:toyo@cc.saga-u.ac.jp

pdf形式

 拝啓

 たいへん過ごしやすい季節になってまいりましたが,皆様におかれましてはますますご健勝のこととおよろこび申し上げます.

 私は佐賀大学で物理学を教えている一教員です.いわゆる「独立」行政法人化問題に,みなさま同様に大変懸念を持っております.この件では組合の責任は歴史的とも言ってよいほど重大になっていると思い,その動向にも強い関心を持っております.

 先日は札幌で開かれました全大教の教研集会に参加致しましたが,組合,特に全大教執行部はその責任の重大さに対する自覚が十分ではないのではないかという印象を受けて帰りました.そこでこうして,たんなる一個人の資格としてに過ぎませんが,単組の役員の皆様に手紙を差し上げて,私の問題意識を理解して頂こうと思った次第です.近く開かれる単組代表者会議での議論に役立てていただければ有り難く存じます.

 札幌教研で私は「独立」行政法人化問題の分科会に出席しましたが,その席上での全大教委員長の発言は出席者の多くを驚かせました.それは,全大教は「ナショナルセンター」ではなく「協議体」であるので実際の運動は個々の単組でやってもらいたい,というものです.それならそうともっと早く言ってもらわなければいけません!全国の大学の教職員を結集した運動体としての役割を多くの人が全大教に期待していたはずですし,そう信じてこれまで運動してきたのではないでしょうか.そうでないとすればもっと早く全国規模の運動のセンターづくりに着手しなければならなかったでしょう.

 しかし「分担金」を徴収し,「執行」委員会を持つ組織が単なる「協議体」であるはずがありません.このようなピンぼけ姿勢はすぐに改めてもらわなければなりません.この分野では全大教の他に有力な全国組織はなく,その地位は独占的です.運動方針の優劣を比較すべき対象がなく,それこそ「競争的環境」が存在しないことからも,その責任は重大なのです.

 当面の具体的な問題に,国大協の「調査検討会議」への参加をどう見るか,どう対処するかということがあります.文部省が国大協に参加を懇願したという会議ですが,そもそもこの会議とはどのような性格のものでしょうか.文部省の7月19日付けの文書「『国立大学等の独立行政法人化に関する調査検討会議』について」にこれがはっきりと書かれています.修飾語を除いてその構造だけを取り出すと次のようになります.

独立行政法人制度の下で、国立大学等を独立行政法人化する場合の制度の具体的な内容について、必要な調査検討を行う.

 「独立行政法人」とあるのは,”政府から相対的に独立してはいるが,しかし行政とは関連を持つ法人格を有する団体”というような意味の普通名詞ではありません.「中央省庁等改革基本法」と「独立行政法人通則法」で定義された特定の制度に付けられた固有名詞です.そしてそれは,国大協がこれまで国立大学に「なじまない」と言い続けてきたまさにその制度です.国大協が組織としてこれに参加する(文部省はすでに「協力」という言葉を使っている)ということは,事実上反対を撤回して文字どおり協力することなのです.これにノーを言うことは当然のことで,「独立」行政法人化反対を唱えながらこれに参加すると言う態度は,一般国民に理解できるものではないでしょう.(ですからマスコミも「独法化容認」と報じたのです.)

 しかし先日採択された全大教の2000年度運動方針では,国大協の「参加」を既成事実として,あるいはひょっとするとむしろ積極的に認めており,これを批判する姿勢は全く見られません.これでは文部省の筋書きを追認するに等しく,国大協を媒介としての一網打尽の「独法化」の進行に手を貸すことになるでしょう.我々のやるべきことはそうではなく,この「検討会議」の権威をできるだけ低め,あるいはスティグマを与え,これに対比しての真の「対抗案」,すなわち自治と学問の自由,そして国民の要求に応える改革案を人々の前に浮かび上がらせるべきなのです.

 このような批判に対して,「外野でものを言っても始まらない」というレトリックが使われることがあるようですが,その根底には官僚が設定した土俵にはどうしても出なければならない,という先入観があるように思われます.しかし現在の法制度では国会こそが中心であって,そこにいろいろな団体--官庁であれ民間であれ--が独立してそれぞれの考えを持ち寄る,というのがルールのはずです.大学の意見が文部省で「窓口一本化」されるべきものではないのです.

 あるいは,あきらめが早すぎる言うこともできるでしょう.今日まだ具体的な法案の影も形もありません.国会に上程されるまでにまだ十分な時間があります.この問題を国民に理解してもらうための活動はまだ緒についたばかりです.多少でも理解が広まれば,この制度でしか国立大学が法人格を得る方法はないなどと言うことをだれが信じるでしょうか.

 たしかに文部省に「検討会議」が設けられ,これに国大協が参加を表明したというのは,野球で言えば一回表に5点を取られてしまったような事かもしれませんが,それでもその試合を投げてしまってはいけないのです.スポーツにおける不屈の精神は(だれでも学校で教育されたはずです),スポーツそのものと言うよりはむしろ実生活に役立てるためではなかったでしょうか.

 この他の面でも,全大教の方針はごく一般的な項目を並べているに過ぎず,極論すれば分析だけで行動がないに等しいのです.たとえば次のような戦術を考えるべきではないでしょうか.

 (1) 著名人・オピニオンリーダーへのオルグ,(2) 国会議員,特に民主党への工作 (3) 国大協との交渉 (4) 美術系の人の参入 (5) 教授会決議へのテコ入れ, (6) 何らかの新たな署名運動,そして何よりも,これは「戦略」というべきでしょうが, (7) 対抗案の提示です.

 これらも単に,項目として上げておけばばいい,あるいはとにかく一度はやってみた,と言うことではなく,執行委員がどれだけ本気でやっているのか,単組などに指示を出しているのか,その効果や結果に対してどれだけ真剣であるのかということが問題です.それは議案書などの「書類」を見るだけでは十分には分かりません.あらゆる洞察力や勘を働かせる必要があります.

 また,上に触れた文部省の「検討会議」は来年半ばにも中間まとめを出すようですが,政治的にも内容的にもこれを最大限無害なものにしなければなりません.これは我々の運動の総合的な進展が鍵となるでしょう.また国大協関係で出席しているメンバーがどうしても会議を引き上げないと言うのであれば,その議論の過程でこれらの人々が無責任な態度を取らないよう最低限見守る必要もあるでしょう.

 最後に,もはや論じ尽くされた感もある国立大学のいわゆる「独立」行政法人化というものが,一体どういう問題なのかについて私見を述べさせて下さい.と言いますのは,この問題でしばしば出される全大教の見解はその本質を突いていないのではないか,枝葉の部分を頭に持ってきているのではないかと感じるからです.たとえば,「行政改革の一環として大学改革を取り上げるのはけしからん」というような言い方です.たとえ本質的な項目が後ろに挙がっていたとしても,それはマスコミなどで伝えられる時は消えてしまい,国民一般には届きません.

 この問題は,私たちの雇用条件や,いくつかの大学が潰れるかもしれないとか,授業料が上がるかも知れないというような(これらももちろん重大な問題には違いありませんが)レベルを超えた,大学と学問,ひいては国のありかたにまで係わる,一段も二段も深いレベルのものです.いわば大学という概念そのものの変更と言うべきものでしょう.

 つまり「国立学校設置法」に根拠を持ち,役所,すなわち文部省から曲がりなりにも独立した存在としての「教育機関」であったものが,単なる文部省の一下部機関になろうとしているのです.戦後50数年の国立大学の歴史に終止符を打ち,「生き残り」は文部大臣の慈悲次第という文字どおり文部省傘下の「行政機関」に,です.これはかつてのどのような「大管法」もなし得なかったことです.別の言葉で言えば,憲法23条の実質改憲と教育基本法10条の停止です.通則法を一読された人は,これが誇張でも何でもないことを理解されると思います.

 このような性質の問題に「条件闘争」はありません.最悪のケースのその最後の決定的な瞬間,すなわち法律が国会を通過する瞬間まで,阻止のためのあらゆる努力をすべきなのです.

 どうか,迫っております「単組代表者会議」を皆さまのご努力で是非実りあるものにして頂いて,本当に有効な戦略と戦術を提起していただくようお願い申し上げます.そして「最悪のケース」に至る前に有利な展望を切り開きたいものです.

敬具

2000年10月2日