独法化容認と「闘い」放棄の思想的背景

-- 独法化問題をめぐるイデオロギー その2

(2002年6月28日,佐賀大学教職員組合ニュース)

理工学部 豊島耕一

独法化問題をめぐる最近の「傾向と対策」を論じてみたいと思います.これは昨年11月29日に佐賀大学教職員組合ニュースNo.36に発表したもの(1)の続編です.

自発的譲歩

 独法化を避けられないものと見て,そのなかで「どうしても譲れないものとしての教授会の人事権を守り抜くことが重要云々」などという言い方が見られるが,このような態度では人事権すらも守れないだろう.というのは,外部の圧力から何かを守ろうとするとき,われわれの側にそのためのパワーがなければ不可能だが,このような腰の引けた姿勢ではそのパワーが出てこないからである.あたかも,ワールドカップの日本・チュニジア戦で,日本が試合に勝つことを目指さず,「負けても2点以内を守ることが重要」などと考えていたら,それすらも危なくなったであろうが,これと同じである.もちろん独法化の問題点は人事に関することだけではない.文部科学省の大学への命令権(中期目標,中期計画)が最大のものであろう.

「玉砕」

 独法化に頑固に反対する態度に対して,「それでは玉砕だ」などという人が相変わらずいるようだ.このような態度は,現在に至るまで相当長い期間,左翼と思われる人の間でさえもそうとう蔓延しているように思われる.反対者の命が奪われるわけではないので,このような言葉使いは,「どのような悪い提案であっても最後まで反対するものではない,どこかで妥協するものだ」という意味を暗黙に示すものである(2).

 これは恐るべき相対主義であり,相手に,というより権力に合わせて価値基準をずらしていくことに他ならない(3).あらゆる意味で「闘う」という姿勢を完全に放棄した態度であろう.なぜなら「負ける」というリスクがあるからこそ「闘い」なのである.これを「玉砕」と称して目標をいくらでも下げれば確かに「負ける」ことはないだろうが,しかしそれは負けたのと同じ結果をもたらすにすぎない.いや,むしろ負けるよりももっと悪い効果を後に残すであろう.つまり「最後までスジを通そうとした人はだれもいなかった」という決定的な負の記憶を集団に残すのである.それは,これからもまだ続く歴史への負の遺産となろう.

「正しい」外部からの介入とは

 独法化に本気で反対せず,あるいはむしろ推進しようとする大学関係者の思考を推定すると,次のようなものではないだろうか.

“大学自身の努力だけでは改革は進まない,外部の介入は必要である.その一つとして,あるいはやむを得ない圧力として,文部科学省の指導ということも受け入れるべきである.また,民主主義社会である以上,民意によって成立した政府の指示を受けるのは当然である.”

 このような考えは素朴すぎると思われる.少なくともこれでは民主主義についての理解が粗雑すぎる.この国の民主主義は,いや近代的な民主主義について共通のことであろうが,もっと複雑で精密な構造を持っているのであり,その一つ一つの,いわば細部こそが重要なのである.一例を挙げれば,民意にもとづく公正な選挙で作られた政府であっても,行政府には裁判の権限は与えられておらず,裁判所という独立した機関が担うことになっている.教育に関して言えば,教育基本法10条 (4) や憲法23条により官僚支配や教育・研究内容への介入が禁止されており,政府による支配は,国会による予算の審議・承認や会計検査院による検査など,法律にもとづく必要最小限のものが認められているだけである(5).

 しかし,外部の何らかの介入なしには望ましい発展も健全性の維持もできないということは,どのような組織にとっても例外なく普遍的に成り立つのは確かである.大学も例外ではない.だがそれを「お上」に求めるというのは,上に述べた教育基本法10条の精神に反するのであり,まさにこの条文が求めるように「国民全体に対し直接に責任を負」うようなやり方を求めなければならないのである.すなわち,何よりも学生の意見の反映のための,地域の市民の意見を受け止めるための方策が追及されなければならないと思われる.これが教育への「民意の反映」のやり方であろう.教育基本法10条がその対象を限定していない以上,この原則は私立であろうと国立であろうと変わらないはずだ.

テレビの中高年への悪影響

 このような方向への思考が働かず,どうしても「お上」に目が向いてしまう背景には,中高年へのテレビの悪影響(6)があると思われる.私はこれに「水戸黄門イデオロギー」という名前を提案したい.このテレビの永年番組が視聴者に送り続ける暗黙のメッセージは,「権力は究極的には善である」というものである.これが多くの人の「官」への追従姿勢を維持することに貢献した度合いは測り知れないと思われる.

 「水戸黄門イデオロギー」と並んで,あるいはそれと協調して「忠臣蔵イデオロギー」も重要な役割を果たしているように思う.「忠臣蔵」もまた古くからメディアによって繰り返し国民に刷り込まれたテーマであるが,これが運ぶメッセージのコアは自分の属する小集団とその主君への無限の忠誠という観念であろう.これは今日では「わが大学の生き残り」「学部の生き残り」を至上命題とし,これへのリスクを生じるようないかなる言動も封じようとする,あるいは「自粛」しようとする雰囲気の醸成に役立っている.例えば,教授会で独法化反対決議を提案すれば,「お上に逆らうと独法化の時に不利な扱いを受ける」という思考が会議を支配するのである.

古色蒼然の「改革」主義者

 「アカウンタビリティー」や競争原理など近代的な語法で装った「改革」主義者たちが依拠しているイデオロギーが,実は上のような極めて封建的なものではないか,そしてその多くの要素が2000年以上の中古品である儒教イデオロギーと共通するものではないか,と私は疑っている.

 アカウンタビリティーを言うのであれば,これがしばしば「説明責任」と訳されるように,組織の首脳は自分たちの行動や決定をきちんと構成員と社会に説明するという責任も含まれるであろう.これも全くないがしろにされている.佐賀大学の97年の独法化反対決議を撤回することもなく,独法化「準備」と称して複式簿記の研修などが行われていると聞く.また,国大協会長もこの責任に完全に背いているのである.彼はなぜ国大協が独法化反対から「法人化受け入れ」になったのかの合理的な説明をしていない.大学教員有志82名の連名による質問(7)にも全く答えようとしない.それどころか,「答えない」という連絡さえもない.

準備行為の違法性

 最後に,「今からやらないと間に合わない」などと称して実行されている独法化準備行為について触れたい.国会が正式に議論さえしていない独法化を前提に「準備」を進めることは,職務専念義務に反し,もしそのために公金を支出するとすれば予算の「流用」として問題とされるべきだろう.かりに独法化を実施するとしても,国会の承認を待って,それから必要な準備に取りかかるというのが当然である.当然というよりむしろ,法治国の手続きとしてはそれ以外にはあり得ないのである.文部科学省が大学に「準備」を指図するのは,このような違法性に加えて,独法化をいわば既成事実化するということでもあり,二重に国会を無視した態度と言わなければならない.

 たとえ上司の命令であっても,違法な命令には従ってはならないということは,外務省の前島陽・元課長補佐の逮捕で明白になっている.

結論

 当事者であるわれわれ大学関係者の責務は,自らが正しいと思うことを,少なくとも国会審議が終わるまでは正直に言い続けることである.このことは国会と国民が正確な判断をするための必要条件であろう.もし「生き残りのため」と称して役所に迎合すれば,官僚支配という悪弊を増幅し温存するだけである.このような行動様式の過剰さが日本社会を長年にわたって歪めて来たし,このことは日々のニュースでも繰り返し明らかにされている.だれでも分かっていながら「シカタガナイ」と思っていることなので,いつでも「相転移」は起こりうるのである.その確率を常に高める努力をすることが大事だ.



(1) 独法化問題をめぐるイデオロギー
  ../UniversityIssues/ideology.html

(2) 言語分野における戦争の後遺症とも言える.

(3) 先の日本の侵略戦争に対して,「最後まで反対し続けて投獄されるような人はバカだ.妥協して可能な範囲での抵抗をすべきだった」と説教するようなものだろう.

(4) 教育基本法10条については次のページを参照下さい.
 「教育基本法10条の成立過程」
  
../Education/edulaw-art10.html

(5) したがって文部科学省が法律を遵守すれば現行制度でも大学の独立性は相当の程度保たれる.

(6) あるいはテレビの悪影響の中高年での発現.

(7) 「国大協会長への共同質問書」,2002年2月18日.
  
../toMrNagao.html