教育基本法 第十条の条文の成立過程

塚嵜眞剛氏 提供
(参考文献:中谷 彪 編著,「資料 教育基本法の成立過程」, 発行 株式会社タイムス,1985年)



抜粋コンサイス版はこちら(htmlpdf ) 関連資料「教育基本法 歴史と研究」

目次

教育基本法第十条の成立過程
教育行政の項の修正過程について
教育基本法を発想したのは日本側
教育基本法第十条に関する立法趣旨に関する政府当局および関係者の発言
教育基本法第十条の解説とそれに関連する判例について
学校教育法の解説と関係判例

<各種委員会の概略説明>

アメリカの教育使節団の報告書(1946.3.31提出)=1946.3.56に連合国最高司令官の要請に応じて、総勢二七名は「日本の教育」の調査研究と教師・行政官・民衆と協議を続けまとめあげたもの。その中で、日本の教育の欠陥を五点指摘した

戦前の教育は極端に中央集権された制度であること
特権的な学校組織であること
画一的詰め込み教育であること
官僚独善的な教育行政であること
非能率的な国語及び国字を使用していること

日本教育家の委員会=第一次アメリカ教育使節団に協力するために組織された委員会

教育刷新委員会=「日本教育家の委員会」の任務終了後に、改組拡充され恒常的な委員会として発足したもの。内閣に属し、教育に関する重要事項を調査審議することを任務とする。(官僚的要素を含まず、各界の代表者約五十名を委員として構成。総理大臣に答申するだけでなく、自ら進んで自主的に問題を取り上げて審議し、その結果を総理大臣に報告建議することを原則としていた。)

第一特別委員会=教育刷新委員会第三回総会後、「教育の根本理念」を審議するためにもうけられた特別委員会

<教育基本法第十条の成立過程>

第一特別委員会の第三回会議( 1946.9.27)から「教育の根本理念並びに教育の基本法の問題」の審議を始めた。文部省審議室から出された「教育基本法要綱案」(この案は、教育刷新委員会総会の第三回までの審議に出された要求や意見を参考にして、審議室でまとめたもの。 1946.9.21)をもとに審議された。その案に

(九)教育行政教育行政は、学問の自由と教育の自主性とを尊重し、教育の目的遂行 に必要な諸条件の整備確立を目標として行わなければならないこと。

と、教育行政の役割が謳われていた。

そして、十二回の審議の末(1946.11.29)、同日に行われた教育刷新委員会第十三回総会(1946.11.29)に『教育基本法案要綱案』として提出された。

(十)教育行政教育行政は、学問の自由と教育の自主性とを尊重し、教育の目的遂行 に必要な諸条件の整備確立を目標として行われなければならないこと。

この総会で、「教育の理念及び教育基本法に関すること」(第一回建議事項)を確認し、今後、文部省において、建議の主旨に則って教育基本法案を作成することとなった。そこで、教育基本法案の作成は、文部省(大臣官房審議室、1946.12.4以降は調査局審議課)のスタッフによってなされることになる。

教育行政の項の修正過程について

 以後の教育基本法案の『教育行政』の項の修正過程は、以下の通りである。

 教育基本法要綱案(1946.12.21)

(十)教育行政教育は、政治的又は官僚的支配に服することなく、国民に対し独立して責任を負うべきものであること。学問の自由は、教育上尊重されなければならないこと。教育行政は、右の自覚の下に教育の目的を遂行するに必要な諸条件の整備確立を目標として行われなければならないこと。

 教育基本法要綱案(1946.12.29文部省調査局)

(十一)教育行政教育は、政治的又は官僚的支配に服することなく、国民に対して責任 を負うべきものであること。学問の自由は、教育上尊重されなければならないこと。教育行政は、右の自覚のもとに、教育の目的を遂行するに必要な諸条件の整備確立を目標として行われなければならないこと。

 教育基本法案(1947.1.15文部省)

第十一条 教育行政教育は、不当な政治的または官僚的支配に服することなく、国民に対し、独立して責任を負うべきものである。教育行政は、右の自覚のもとに、学問の自由を尊重し、教育の目的を遂行するに必要な諸条件の整備確立を目標として行われなければならない。

 教育基本法案(1947.1.30閣議案)

第十一条 教育行政教育は、不当な支配に服することなく、国民に対して直接に責任を負うべきものである。教育行政は、この自覚のもとに、教育の目的を遂行するに必要な諸条件の整備確立を目標として行われなければならない。

 教育基本法案(1947.2.12文部省)

第十条 教育行政教育は、不当な支配に服することなく、国民に対し直接に責任を負うべきものである。教育行政は、この自覚のもとに、教育の目的を遂行するに必要な諸条件の整備確立を目標として行われなければならない。

 教育基本法案要綱(1947.2.28教育刷新委員会第二五回総会で承認)

第十条 教育行政教育は、不当な支配に服することなく、国民に対し直接に責任を負って行われるべきものである。
 教育行政は、この自覚のもとに、教育の目的を遂行するに必要な諸条件の整備確立を目標として行われなければならない。

 教育基本法案(1947.3.4閣議決定)

第十条(教育行政)教育は、不当な支配に服することなく、国民に対し直接に責任を負って行われるべきものである。教育行政は、この自覚のもとに、教育の目的を遂行するに必要な諸条件の整備確立を目標として行われなければならない。

 教育基本法案(1947.3.8枢密院修正、1947.3.12帝国議会提出案)

第十条(教育行政)教育は、不当な支配に服することなく、国民全体に対し直接に責任を負って行われるべきものである。教育行政は、この自覚のもとに、教育の目的を遂行するに必要な諸条件の整備確立を目標として行われなければならない。

そして、無修正で全会一致を以て議決された。

教育基本法を発想したのは日本側

ところで、憲法は占領軍の押しつけだという人々がいるが、教育基本法は、占領軍の押しつけなどではなく日本側からの発想によって制定されたものである。つまり、教育基本法は、田中耕太郎文相とそのスタッフたち、それに教育刷新委員会の委員たちによって自発的に発意され、立案、制定されていったのである。「教育基本法は日本人がつくった」という証言は、教育基本法制定に携わった人々に共通するところである。安達健二氏の回想を例示する。

「当時わたしは文部省の調査局におりまして、この教育基本法の仕事をやっておりまして、またかたわら教育委員会法とか教育公務員特例法などの仕事をしておりましたが、ほとんどがアメリカ側の書いたものを直すという形で作業が進められたのでございますが、教育基本法だけは全く日本側がつくったものであります。もちろん司令部のOKを必要としたものでございますけれども、向こうからこういうものをつくれと命令されてつくったのでもなく、全く日本側の意思に基づいてつくられたものでございます。」


教育基本法第十条に関する立法趣旨に関する政府当局および関係者の発言

<新教育方針中央講習会に於ける前田文部大臣訓示(1945.10.15)>

前田:…従来の弊害であった極度の画一主義の打破であります。人を一様の型にはめる極度の画一主義は往々にして人の思考力推理力を奪い、その結果軍国主義発生の温床となり易いものであります。故に今後の教育新方針と致しましては、出来るだけ画一主義を改め一定の教育方針の範囲内に於いて、各教育機関及び教師は、それぞれ自発的に工夫創意を施す余地を持ち得る 様にし、それぞれが特長を発揮しつつ国家の定めた窮極の教育方針に合致せしめるような伸々した空気を作りたいと思います。又学校の卒業証書が社会若しくは上級学校への当然の入場券と考えられる様な形式主義を捨て、何事も実力本位で行く方針を執りたい。更にこれと併行して重んずべきことは、人格の陶冶道義の昂揚であり、真理の追及と理想の標置及びこれに向かっての努力であることは謂う迄もありません。…

第九十回帝国議会衆議院帝国憲法改正委員会(1946.7.3)での大島多蔵氏の質問に対する田中耕太郎文部大臣答弁

大島:…この政党の多数党の横暴によって、将来我が国の教育というものが何時かは歪められることがありはせぬかということを、もっとも懸念する次第であります。政党に依って日本の過去の教育というものは歪められて来た、それからもう一つはご承知の通り、軍閥によって全く其の方向を他へ転換せしめられた、教育の自由というものは全くなかった次第であります。一面から考えますと其の為に我が国が今日の悲惨な状態に立ち至ったと考える次第でございます。…それで私は今の教育の自主性、自由性、独立性と申しますか、是が是非尊重されなくちゃならない。政党政治に依って是が左右されるようなことがあってはならないということが一つ。もう一つは教育の機会均等ということであります。…

田中:…教育権の独立というようなこと、詰まり教育が或いは行政なり、詰まり官僚的の干渉なり或いは政党政派の干渉というものから独立しなければならないと云う精神は、是は法令の何処かに現したいと云うことは、当局と致しまして念願して居る所でありまして、是は計画致して居りまする教育根本法に、若し法律的の「テクニック」として許しますならば、考慮してみたいと存じて居る次第でございます。…

第九十回帝国議会衆議院帝国憲法改正案委員会第十三回(1946.7.15)における加藤一雄氏の質問に対する田中耕太郎文部大臣の答弁

田中: 戦争放棄の問題に付きまして只今教育との関係に付いても十分考慮しなければならない。是は全く御説の通りでありまして、是は詰まり民主主義的、平和主義的教育を今後遂行致して参りますのに付きまして、非常に意味あることであります。…詰まり戦争放棄をなぜ致したかと申しますると、西洋の聖典にもございますように、剣を以て立つ者は剣にて滅ぶと云う原則を根本的に認めると云うことであると思うのであります。…不正義は世の中に永く続くものではない。剣を以て立つ者は剣にて滅ぶと云う千古の真理に付いて、我々は確信を抱くものであります。そう云う場合に於いては、世論の力が今後は国際政治に於きましても益々盛んになることでありますし、又或いは仮に日本が不正義の力に依って侵略されるような場合があっても、併しそれに対して抵抗することに依って、我々が被る所の莫大なる損失を考えてみますると、まだまだ日本の将来の為に此の方を選ぶべきではないか。併し世界歴史的の大きな目を以て考えて見ますと、世界歴史は世界審判だと云うことを申します。大きな目を以て考えますと、戦争放棄と云うことも決して不正義に対して負ける、不正義を容認すると云う意味を以て居ないと思うのであります。…教権の独立、此の頃是は世論になって参ったと申しても宜しいのでございますが、其の教権の独立、詰まり或いは文部省行政なり、或いは地方教育行政がどう云う風に今後進んで行かなければならないものかと云うような問題に付きましても、十分研究の上、或いは適当な形を以て規定に表さなければならないのじゃないかと思います。…

教育刷新委員会総会第一回会議(1946.9.7)における山崎文部次官の「現下教育上緊急に解決を要する書重要問題について」の説明

山崎:…(六)教育内容について
又教育の内容につきましては従来生徒児童の能力に適用しないのみならず、画一的でありました。この際教科内容の全面に亘り真理の探究と人格の完成並びに社会連帯の責任と自覚を有する世界的日本人を育成する見地にたって再検討を行い、知育徳育体育の調整を図ると共に職業教育を重視すべきではないかと考えます。 …
(九)教育行政について
次に我が国に於いて真の民主主義的な教育がせられなかった一つの 理由は中央及地方の教育行政に於ける官僚主義が災いをなしたと考えるのであります。中央集権的画一的統制の弊に陥り、ために教育者が溌剌とした態度でその高貴な使命遂行に精進することを阻害された憾がありました。例えば教育に関する重要事項は殆ど議会の協賛を経ることなく、勅令以下の法規で規定せられその内容は甚だ繁鎖で学科目・授業時間・教科内容・教科用図書に至るまで細かに規定されて居ります。その上運用についても教育の第一線に於ける経験に乏しい行政官吏によって行われたため最も大切な学問の自由と教育の自主性とが阻害されて来たのであります。この弊害を打破し教育の地方分権を実現することが絶対に必要であります。…

教育刷新委員会総会第三回会議(1946.9.20)における田中耕太郎文部大臣の答弁

田中:…最後は、教育行政の問題であります。文部省なり地方の行政官庁なりが終戦まで執って居った態度は我々の考からいってはなはだ遠いものがあるのでありまして、文部省にしろあるいは地方の行政官庁にしろ教育界に対して外部から加えられるべき障壁を排除するという点に意味があるのであります。又一方には教育界の世話を焼き、保護する屋根のようなものである。教育の指針をかれこれと指導すべきではない。ただ教育理念に関します限りは、民主主義的な教育を実現し徹底させて行くという大きなことは大いに促進しなければならないでしょうが、その方針はやはり民主主義の方法でなければならない。官僚的な弊害に陥ってはならぬことは当然であります。要するに学校行政はどういう風にやって行かなければならないものであるかということ、あるいは学問の自由、教育の自主性を強調しなければならないということ、あるいは他にあるかもしれませんが、そういう建て前をもって教育の目的遂行に必要な色々な条件の整備確立を目的とするようにやって行かなければならぬというようなことを考えて居る次第でございます。…

第九二回帝国議会衆議院教育基本法案委員会議第一回(1947.3.14)の中で、永井勝次郎委員の質問に対しての高橋誠一郎文部大臣と辻田力文部事務官の答弁

永井: 文部当局の考える(教員の)身分の尊重というものの内容には教員をある一つのわくにはめて、このわくの中にあるのが教員らしい、教員としてのあり方であるというような、一つの大きな制約をつけるのが常套手段でありまして、たとえばストをやることは教員の身分として不適当であるとか、あるいは罷業権というものが、労働組合法においても、憲法においても認められているのであるが、教員の立場に対してはこれを制約するとか、尊重するという言葉は結構でありますが、尊重するという理由に隠れて教員の身分を制約して、そうして文部省が頭で考えておる一つのわら人形のようなもの、あやつり人形のようなもの、そういう教員の型をつくり出そうというような考え方が、考え方の内容として潜在しておるのではないかと思うのであります。もちろん教員は一般公務員と同様な扱いにおいて特別な権利も与えられないが、特別な一つの制約も受けない。そうして教員は教員としての身分使命は自ら一般公務員とは違うのでありますが、それは教員の自覚と責任と、それから教員組合その他の団体的な一つの自助錬磨によって、運営においてそれを期していくということをすればよろしいのであって、法的にこれを制約する必要はないと考えるのでありますが、これに対する文部大臣の所見を承りたいと存じます。

高橋: 文部省の一定のわくに入れていくというような考えは、毛頭もっておりません。またかくのごとき方針をとっていこうとも考えておりません。

永井: 次に教育行政の問題でありますが、ここに「不当な支配」ということがありますが、「不当な支配」ということは、具体的にはどういうものを指すのであるか。それから国民全体に対して直接に責任を負うということは、具体的にはどういうことであるか。そうしてこの教育行政については、もちろん地方教育行政法が出るようでありますが、文部省においては、内務行政から離れた文部省の直轄行政を目途として計画を立てておられるのであるか。もしそうだとするならば、その進捗状態はどうであるのか、その具体的な実現の見通しはどうであるか、どういう構想であるか、その具体的な内容を承りたいと思います。

辻田: お答えを申し上げます。第十条の「不当な支配に服することなく」というのは、これは教育が国民の公正な意思に応じて行われなければならぬことは当然でありますが、従来官僚とか一部の政党とか、その他不当な外部的干渉と申しますか、容喙と申しますかによって教育の内容が随分ゆがめられたことのあることは、申し上げるまでもないことであります。そこでそういうような単なる官僚とかあるいは一部の政党とかいうふうなことのみでなく、一般に不当な支配に教育が服してはならないのでありまして、ここでは教育権の独立と申しますが、教権の独立ということについて、その精神を表したのであります。次の「国民全体に対して直接に責任を負って行われるべきものでる」と申しますのは、さればとて、教育者が単なる独善に陥って、勝手なことをしていいということではないのでありまして、教育者自身が国民全体に対して直接に責任を負っておるという自覚のもとに、教育は実施されなければならぬということを徹底いたしますために、まず、教育行政上において教育自体のあるべき姿をうたったわけであります。なお第二の点といたしまして、教育行政に関する法律についてのご質問でありましたが、これは教育刷新の委員会におきまして御意見の御開陳がありまして、それによってわれわれとしては研究しておりまするが、なおそれぞれ関係筋ともいろいろ打ち合わせして研究をしておるわけありますので、今ここではっきりとしたことを申し上げることは許されないのでありますが、大体におきましては市町村とか都道府県という所に教育委員会を設けて、その民主的な教育委員会において教育行政が運営されるというふうな考え方でございます。

第九二回帝国議会衆議院教育基本法案委員会議第二回(1947.3.15)での小川原政信委員の質問に対しての辻田力文部事務官の答弁

小川原:次に視学制度の問題についてお尋ねをしたいと思いますが、今後も視学制度というものをおつくりになるおつもりでありますか、いかがでありますか。

辻田: 教育行政全般の問題につきましては、昨日も大分お話がありましたように、目下関係筋と折衝しておりますので明確なことは申し上げられませんが、しかし今仰せになりました視学というふうなものは、残るだろうと思います。残りますが、ただその職業等につきましては、従来と変わった形のものになるかもしれません。たとえば、これは先生方の相談相手というふうなことを本質といたしまして、今までのようなただ監督というふうな面が強く出るということでなしに、相談相手となって、先生方と一緒に教育の振興に当たるということに行くような傾向があると思います。大体視学というものは残っていくと思います。 

小川原:大変よい制度に改まることと考えられます。大変御苦心なされたことと思うのですが、その視学という方面には、ごくわずかの二、三の人では非常に弊害が起こると私は思うのです。その弊害と申しますのは、教育などというものは、多方面から指導すべきものが教育であります。今までのような工合に、二、三の人が、ただ学校の優秀な教員で変わった何かひとつ仕事をやってみて、それがその当時の教育行政官のお気に入って、お前を視学にするから人を指導せよなどと言うものですから、そういう観点からの学校教育の指導などということになると、非常に間違ったことになる。今までそれから起こったところの弊は、学問をもてあそんだということだと思う。今後はそうではなくて、民間からもあげられて 何も民間の人は教育の体験がないというわけではないのであります。特の高い人も民間にはおると思います。あるいは大学の先生の中にもおりますれば小学校の先生の中にもおるのでありますが、そういう多角形な方法によって学校の先生の相談相手としていくというお考えをもっておられまするか。前の田中文部大臣は、この制度については変えたいのである。こう第九十議会で私に御答弁になっておるのでありますが、どういうような方法でお進みになるお考えでありますか。これはまた関係の筋もあろうと思いますから、文部省の言う通りにも行きますまいと思いますけれども、文部省の内案でもありましたらならば、一つお話を聞かせていただきたい。かように考えております。

辻田: お答え申し上げます。視学制度の問題につきましてはその任用の方法もありますし、また視学というものの職務の問題もありますしその他いろいろ考うべき点がたくさんあるだろうと思っております。われわれの方におきましても、この点についていろいろな面から研究しておるのでありますが、先ほどもちょっと申しましたように、従来は視学が特に人事を中心として、監督というふうな面が非常に強かったのであります。視学の御機嫌を損なうと、先生方は立っていけないというふうなことで、視学の前には戦々恐々としておる面もないのではなかったのであります。そういうことで視学と学校の先生方が互いに対立と申しますか、監督、被監督だけの冷たい関係であってはならないのでありまして、視学はやはりその一種の先達である。また相談相手となるだけの、人格識見を具えた人でなければなぬと思っております。従ってその相談相手として十分立派な人であるためには、もちろん教育界からその先輩、あるいは優秀な人がたくさん出ていただくことは当然でありますが、これは場合によっては、民間におって教育にいろいろ熱心であり、教育のことについて意見のある人は、これを視学に任用するということも考えられるとも思いますけれども、場合によっては、こういう方々について視学委員ということも考えておりますので、そういう視学委員というような形でお世話を願うということも一案として考えております。

第九二回帝国議会貴族院教育基本法第一読会(1947.3.19)の沢田牛麿議員の質問に対しての高橋誠一郎文部大臣の答弁

高橋: それから尚第十条「教育は、不当な支配に服することなく、」云々とありまするのは、是迄に於きまして、或いは超国家主義的な、或いは軍国主義的なものに動かされると云うようなことがあったものでありまするからして、此の点を特に規定したものであります。今回新たにせられました所の憲法、改正せられました所の憲法精神に則りまして、此の教育基本法が制定せられ得たのでありまして、憲法の改正せられました今日、矢っ張り此の教育方面に於いても此の法案を出しますることが刻下の必要であると考えた次第でございます。


教育基本法第十条の解説とそれに関連する判例について

第十条(教育行政)教育は、不当な支配に服することなく、国民全体に対し 直接に責任を負って行われるべきものである。教育行政は、この自覚のもとに、教育の目的を遂行するに必要な諸条件の整備確立を目標として行われなければならない。

 法学者 尾吹善人(千葉大学教授)・藤井俊夫(千葉大学助教授)・上井長久(明治大学助教授)による解説と判例

<解説>
(教育と教育行政の分離)
本条は一項において教育権の独立性を認め、二項においては、教育行政の任務およびその限界を定めている。すなわち、教育と教育行政の分離を確認したものである。これは、明治憲法下における教育が、強力な権力的国家統制下におかれ、その結果、教育者が軍国主義および極端な国家主義等に対する批判を行い得なかったということに対する反省にもとづくものである。(不当な支配の禁止と教育権の独立性の保障)ここで禁じられている「不当な支配」とは、政党、労働組合、財界、宗派などの政治的・社会的勢力一般による介入だけでなく、教育行政権を通じての公権力による教育内容への不当な介入をも含むものである。そして、とりわけ教育行政権を通じての公権力による教育への関与は制度的、恒常的なものであるから、とくに重視されるべきである。これに対して、行政解釈では議会制民主主義を根拠として、国会において立法上認められた範囲内における行政上の支配は本条にいう「不当な支配」に当たらないと解している。しかし、元来、教育内容、方法等の決定は多数決原理による決定になじむものではなく、また、現実には、この主張は与党を形成する政党による教育内容の支配を肯定することになり、かえって本条の趣旨に違反することになる。教育の目的を定めた本法の前文および一条、学問の自由の尊重を定めた二条政治教育の尊重を定めた八条などの規定と本条の立法趣旨とをあわせて考慮した場合、本条一項はむしろ、主として教育行政権を通じての公権力による教育内容への不当な介入を禁じ、二項では、「この自覚のもとに」教育行政が遂行すべき任務について定めたものと解すべきである。したがって、一項は反面においては教育活動の自主性、あるいは教育内容に関する教育権能の独立性を認めたものである。その意味では本法二条の趣旨(学問の自由および教育の自由)を反面から規定したことになる。なお、判例(北海道学力テスト判決)は、「不当な支配」にならないかぎりは法律にもとづき国が教育内容を決定する権能は否定されないとするが、この場合「不当な支配」の範囲如何が問題となる。

(教育の直接責任)
ここで教育が「国民に対し直接に責任を負う」というのは、教育が議会を通じて国民の間接的なコントロールを受けるということではなく、一項前段において、教育活動の自主性を保障された教員等が、子ども、父母さらに国民一般の教育要求に対して、自らの自主的な判断に基づき直接に応えて行くべきことを定めたものである。したがって、この規定は、その反面において子どもの教育を受ける権利など、国民一般の教育要求権を前提としていることになる。これらの権利と教育活動の自主性の接点が、ここでいう教育の直接責任の実現であり、具体的な手段としてはPTAの活動などがあげられるしかし、本条が、その手段として本来予定していたものは公選制の教育委員会の制度であったとされている。その意味では、現行の任命制の教育委員会制度(教育行政四)は問題があるということになる。

(教育行政の任務と限界)
二項は、社会権(文化的生存権)としての国民の教育を受ける権利を保障した憲法二六条の趣旨を受けて、教育行政権を通じての国の教育条件の整備義務を明記したものである。但し、この場合教育内容や方法、教育計画や教育課程などの、いわゆる教育の内的事項については、一項の趣旨にもとづき立法あるいは行政的に決定すべきものは必要最小限度のものとし、それ以外は原則として教員あるいは教員集団(職員会議)の自主的決定にゆだねるべきである。なお、現行法制上、文部省および指導主事、校長などには指導助言権が認められているが、あくまでも教育の専門家としての立場からの指導・助言にとどまるべきであり、法的拘束力は認められない。学習指導要領について適法とした判決(学力テスト判決)も法的拘束力については明示的には認めていない。
 したがって、教育行政の任務は、学校制度の設置、学校の施設・設備の充実など子どもの学習条件とか給与、勤務時間、身分保障など教員の勤務条件などのいわゆる教育の外的条件の整備が中心とされることになる。そして、この意味での条件整備はとりわけ学校教育にとってはきわめて重要な意義を有するものである。この点は、例えば養護学校の義務設置(学教七四)、およびその義務制実施の遅れ( 1979年4月実施)によって生じたさまざまな問題を見れば明らかである。これは財政面の問題と表裏一体をなすものであるとはいえ、教育行政によるこの条件整備義務の十分な履行が望まれる。


 <判 例>

(「不当な支配」の主体)
☆ 教育行政機関は教育関係法律を運用する場合にも教育基本法十条一項にいう「不当な支配」とならないように配慮しなければならない。その意味で、同条は法令にもとづく教育行政機関の行為にも適用がある。(最高裁大法廷判例1976.5.21刑集30.5.615)

(教育行政権の範囲と限界)
☆ 教育基本法十条は、教育の目的の遂行に必要な諸条件の整備確立のための措置を講ずるにあたり、教育の自主性尊重の見地からこれに対する「不当な支配」とならないようにすべき旨の限定を付したところにその意味があり、したがって、教育に対する行政権力による不当、不要の介入は排除されるべきであるとしても、許容される目的のために必要かつ合理的と認められるものは、たとえ教育内容および方法に関するものでも必ずしも同条の禁止するところではないと解するのが相当である。(最高裁大法廷判例1976.5.21刑集30.5.615)

(学習指導要領と「不当な支配」)
☆ 本件当時の中学校学習指導要領は、ある程度細目にわたり、かつ、詳細にすぎ、適切でないものが含まれているが、全体としては、なお全国的な大綱的基準としての性格をもつものと認められ、また、内容においても、教師に対し一方的な一定の理論ないしは観念を生徒に教え込むことを強制するような点は全く含まれていない。それ故、教育政策上の当否はともかくとして、少なくとも法的見地からは、教育における機会均等の確保と全国的な一定水準の維持という目的のために必要かつ合理的な基準の設定として是認できる。(最高裁大法廷判例1976.5.21刑集30.5.615)

(学習指導要領の法的拘束力)
☆ 教師の自主性および教育現場での創意、工夫を損なわない範囲において、教育における機会均等の確保と全国的な一定の教育水準の維持をはかるべき基準として、かつ、教育に関する地方自治の原則を考慮して、学習指導要領の拘束性をみた場合、学習指導要領は、法的拘束力がある条項と、指導助言文書たる条項とに分けられる。すなわち、本件学習指導要領の条項中には強行規定に相当する部分がありこれについては法的拘束力があり違反に対する法的制裁が及ぶが、その余の条項は訓示規定として法的制裁が及ばないと解すべきである。
 具体的には、教育課程の構成要素、各教科科目及びその単位数、高等学校卒業に必要な単位数及び授業時数、単位修得の認定等いわば学校制度に関連する教育課程の規則に関する条項について法的拘束力があることは疑いない。これに対して、各教科、科目の教育内容に関しては、教師は当該教科について資格を有する専門家であるから、これら教科の教育「内容」については学習指導要領を参考としつつ各学校、各生徒の能力等を考慮しながら現実に即した適切な教育をするほかない。換言すれば各教科の「内容」の実現は法的拘束力をもって教師を強制するには適しないし望ましいものでもない。したがって、教育「内容」については訓示規定と解するのが相当である。(福岡地裁判決1978.7.28判例時報900.3)

☆ 学習指導要領が文部省告示として公示されても、告示は法令等行政措置の公示形式にすぎず、この形式がとられたことから学習指導要領に法的拘束力が付与されたものとはいえない。(東京地裁判決1974.7.16判例時報751.50)

☆ 中学校学習指導要領は、教育課程につき大綱を示すにとどまらず、教育内容、方法、教材等につき詳細に定めており、文部大臣による国の基準立法の限界を逸脱しているものもあり、これらは、法規命令としての法的拘束力を持ち得ない。ただし、指導助言行為としては適法と解することができる。(福岡高裁判決1964.5.4判例集17.4.329)

<学習指導要領の法的拘束力についての解説>

 ☆ なお、学習指導要領の法的拘束力の有無について争いがある。1958年に指導要領を官報に告示して以降、特に行政解釈では、指導要領は法的拘束力を持つものと解されている。しかし、告示というのは単なる「公示」のための一形式にすぎず、したがってそれだけでは法的拘束力が与えられるものではない。そこで、指導要領はあくまでも教員の参考書、手引書にすぎないと解すべきである。また、かりに学習指導要領が本条による委任にもとづく命令として法的拘束力をもちうる法形式であるとした場合、逆に教育基本法第十条により指導要領は大綱的な基準あるいは学校制度的基準にとどまらなければならないという内容面での拘束をうけることになる。したがって、指導要領に法的拘束力があると解する場合には、かえって、現行学習指導要領自体の違法性の疑いが問題となる。 

学校教育法の解説と関係判例

第一七条(目的)小学校は、心身の発達に応じて、初等普通教育を施すことを目的とする。

<「普通教育」についての解説>
普通教育とは、全ての者にとって共通に必要とされる一般的、基礎的教育をさす。これは職業教育または専門教育と対置される概念として用いられているが、しかし、この普通教育とはこれらに比して低次の教育と解すべきものではない。普通教育は初等(本条)・中等(三五条)・高等(四一条)の各段階に分けられるが、いずれも、「心身の発達に応じて」教育が実施されるべきものと定められている。このように、普通教育とは一方的、画一的教育を意味していないことも注意すべきである。

第一八条(教育の目標)小学校における教育については、前条の目的を実現するために、次の各号に掲げる目標の達成に努めなければならない。
一 学校内外の社会生活の経験に基づき、人間相互の関係について、正しい理解と協同、自主及び自立の精神を養うこと。
二 郷土及び国家の現状と伝統について、正しい理解に導き、進んで国際協調の精神を養うこと。
三 日常生活に必要な衣、食、住、産業等について、基礎的な理解と技能を養うこと。
四 日常生活に必要な国語を、正しく理解し、使用する能力を養うこと。
五 日常生活に必要な数量的な関係を、正しく理解し、処理する能力を養うこと。
六 日常生活における自然現象を科学的に観察し、処理する能力を養うこと。
七 健康、安全で幸福な生活のために必要な習慣を養い、心身の調和的発達を図ること。
八 生活を明るく豊かにする音楽、美術、文芸等について、基礎的な理解と技能を養うこと。

<解 説>
本条各号に掲げる目標は、たとえば一号から三号までは社会科、家庭科四号国語科、五号は算数科、六号は理科など、小学校の教科(学校教育法二十条、学校教育法施行規則二四条)と対応しているものと考えることもできる。しかし、各号の目標はそれぞれ切り離してとらえるべきではなくむしろ、各号は相互に関連して、本条全体として小学校の教育目標を示したものである。したがって、それぞれの目標を各教科にあえて対応させる必要はない。

<学習指導要領についての解説>
 現実には本法施行規則二五条に基づく教育課程の基準として、文部大臣が公示する小学校学習指導要領が定められ、そこでは、各教科について各学年ごとに更に詳細な目標が掲げられている。しかし、解説にみたように本条の目標は必ずしも各教科に限定せず努力目標を定めたにとどまるものであり、また、このように教育の目標を法によって示すこと自体が教育の創造性を妨げるものとして立法論的に問題があるとの批判もなされているその意味では、更に下位規範たる施行規則及び学習指導要領により、教育の内容をより具体的に拘束しようとすることについては、国家権力による教育内容への介入として更に強い批判を受けることになろう。

第二十条(教科)小学校の教科に関する事項は、第十七条及び第十八条の規定に従い、監督庁が、これを定める。

<小学校の教育課程についての解説>
 監督庁(文部大臣)の定めとして、本法施行規則(二四条から二八条まで)が制定されている。それによれば、小学校の教育課程は、国語・社会・算数・理科・音楽・図画工作・家庭及び体育の各教科と道徳ならびに特別活動によって編成される(施行規則二四条の一項)。但し、私立小学校においては、これらに宗教を加えることができ、また、この場合宗教をもって道徳に代えることもできる(施行規則二四条の二項)。また、小学校の一・二学年では一部の教科について合科授業を行うことができ(施行規則二五条の二項)、児童が心身の状況によって履修することが困難な各教科は、その児童の心身の状況に適合するように課さなければならない(施行規則二六条)。更に、教育課程研究のための特例(施行規則二六条の二項)及び特殊学級の教育課程編成の特例(施行規則七三条の一八項)も認められる。なお、小学校の教育課程の基準として、文部大臣が別に公示する小学校学習指導要領が定められる(施行規則二五条)。このほか、授業時数(施行規則二四条の二項)、課程の修了・卒業の認定(施行規則二七条)卒業証書(施行規則二八条)などの定めがある。

<教科の意義について>
 ここで問題となるのは、まず、本条にいう「教科に関する事項」とは何を指すかである。行政解釈では「教科」と「教育課程」とが同意義のものとされ、施行規則でもそれを前提としている。すなわち施行規則第二章「小学校」第二節「教科」の下で教育課程に関する諸条項が定められている しかし、教育学上は教育課程は「教科」と「教科外活動」を含む、より広い概念としてとらえられている。そして、この理解を前提にした場合には、施行規則の中での諸条項は、本条による委任の範囲を超えた定めをしていることになる。

<教育課程の編成権について>
この問題は教育課程の編成権の所在をめぐる論争とのかかわりで重要性をもつ。すなわち、前記の行政解釈のように本条にいう教科=教育課程と解する場合には、本条により教育課程の編成権は監督庁(当分の間文部大臣学校教育法一〇六条)に付与されていることになる。これに対して、教科と教育課程とは異なると解する見解からすれば、本条はそれについて何ら定めをするものではなく、むしろ教育課程の編成権は条理上、教職員集団によって構成される「学校」にあるとされることになる。
 この教育課程の編成権についての判例をみてみよう。この判例は、学校教育法第三八条「(教科)中学校の教科に関する事項は、第三五条及び第三六条の規定に従い、監督庁が、これを定める。」に対する判例である。
☆ 学校教育法三八条・一〇六条一項に基づく同法施行規則および中学校学習指導要領の定めは、教育課程の編成そのものではなく、教育課程の基準の制定であって、文部大臣には教育課程編成権は存しないものと解するのが相当である。(仙台高裁判決1969.2.19刑事裁判月報1.2.76)

第二八条(職員)小学校には、校長、教頭、教諭、養護教諭及び事務職員 を置かなければならない。ただし、特別の事情のあるときは、教頭また は事務職員を置かないことができる。
 小学校には、前項のほか、必要な職員を置くことができる。
 校長は、公務をつかさどり、所属職員を監督する。
 教頭は、校長を助け、校務を整理し、及び必要に応じ児童の教育をつ かさどる。
 教頭は、校長に事故があるときはその職務を代理し、校長が欠けたと きはその職務を行う。この場合において教頭が二人以上あるときは、あらかじめ校長が定めた順序で、その職務を代理し、又は行う。
 教諭は、児童の教育をつかさどる。
 養護教諭は、児童の養護をつかさどる。
 事務職員は、事務に従事する。
 助教諭は、教諭の職務を助ける。
 講師は、教諭又は助教諭に準ずる職務に従事する。
 養護助教諭は、養護教諭の職務を助ける。
 特別の事情があるときは、第一項の規定にかかわらず、教諭に代えて 助教諭又は講師を、養護教諭に代えて養護助教諭を置くことができる。

<本条以外の職員についての解説>
 本条に定める職員のほか、特別の身分の職員として学校保健法により学校医、学校歯科医、学校薬剤師(学校保健法十六条)が置かれる。また、教諭をもって充てるべき職名として本法施行規則により、教務主任、学年主任、(施行規則二二条の三項)、および保健主事(施行規則二二条の四項)が置かれ(但し、特別の事情があるときは置かないことができる。)
 学校図書館法により司書教諭(学校図書館法五条)が置かれる(但し、当分の間置かないことができる学校図書館法付則項)。このほか、必要に応じ校務を分担する主任(施行規則二二条の六項)および事務主任(施行規則二二条の五項)を置くことができ、また、教育委員会規則などによりその他の職員を置くことができる。

<校長の職務権限についての解説>
 本条三項により校長は学校管理者としての地位を与えられているが、その職務権限の内容については争いがある。行政解釈では、校長は職務上の上司であり(1956.1.5初中局長)、学校業務の全体が全て校長の決定権に属するとされる。したがってその監督権限にもとづいて、それぞれの教員の教育活動についても職務命令を発しうるとされている。しかし、学説上は、本条六項および教育基本法十条一項(不当な支配の禁止)に照らした場合、各教員の教育活動については、校長は教育専門家としての指導助言を行うにとどめるべきだとする見解が有力である。

<職員会議の性格についての解説>
 小・中・高等学校の職員会議については、大学の教授会(学校教育法五九条一項、教育公務員特例法二五条一項)とは異なり、法律上何らの定めもないため、その性格づけについて争いがある。行政解釈では、職員会議は法律上の根拠がないもので、本条に定める校長の権限を補助執行するための補助機関にすぎないとされている。しかし、これに対しては、本条六項および教育基本法十条一項を根拠として、教育の内的事項に関しては職員会議に教育自治権があるとする批判が対立している。この見解によれば校長は教育の内的事項に関しては職員会議との協働により本条の職務を行うべきことになる。

(1997.6.25作成 塚嵜眞剛)