中教審の辞書に「権利」はない

佐賀大学理工学部 豊島耕一(97年12月,98年5月)

(その後の「中間報告」についても分析しています.)

 「『ゆとり』の中で、子供たちに『生きる力』をはぐくんでいく」などというソフトなコピーのせいか,無批判に答申を受け入れこれらのスローガンを押し頂く向きもあるようですが,はたして中教審答申とは今日の教育をめぐるさまざまな問題に対して,ちゃんとピントの合ったとらえ方をしているのでしょうか.第一次,第二次答申の長文を読んで検討する前に,とりあえずキーワード検索でこの答申の「傾向」を探ってみました.その結果かなり驚くべき結果が得られました.

 「答申」は日本の教育を全体として対象としているため,包括的な現状分析がなされているはずです.たしかに,今日多くの人が問題意識を共有している「過度の受験競争」には多くのスペースが割かれていますが,もう一つの,あるいはこの受験競争とも関連する大きな問題点として,「体罰」や「校則」という言葉に代表される今日の学校の抑圧的なあり方にも注意が向けられるべきだと思われます.数年前に批准された「子どもの権利条約」が守られているかどうかを検証することでもあります.

 このような観点から,「子どもの権利」や「自治」,あるいは「体罰」といった言葉の使われ方を見るために,これらの言葉で検索をかけてみました.その結果,二つの答申のどちらでも,これらの3つの言葉のいずれも見つけることができませんでした.驚くべきことに,そもそも「権利」という言葉が「答申」には一回も出てこないのです.今日の日本の学校には,体罰は存在せず,子どもの権利も教職員のさまざまな権利も,あえて口にする必要のないくらい十分に守られているとでも言うのでしょうか? そうではなく,私の推測ですが,教育の場での「権利」などと言う概念がそもそも中教審メンバーの頭の中には存在せず,もっぱら儒教的価値観で物事を考えているということではないでしょうか(注1).類語の「人権」という言葉は第一次答申で8回(第二次答申ではゼロ)使われていますが,しかしそのいずれの箇所でも,中教審自身の言葉としてではなく,「人権擁護」,「人権を尊重する心」という決まり文句の引用にすぎません.このような問題意識に関連するいくつかのキーワードでの検索の結果を下に示します.

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 キーワード                   1次答申  2次答申
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 子どもの権利 or 子供の権利 or 児童の権利   x     x
 権利                       x     x
 人権                       8(a)       x
 学習権 or 教育権                x     x
 自治 or 生徒会                 x     x
 自主的                      7     3
 自由                       4(b)       7(c)
 民主的 or 民主主義 or 民主化         x     x
 批判                       x     x
 体罰 or 校則                  x     x
 労働条件 or 勤務条件 or 待遇         x     x
 勤務時間 or 労働時間              2     x
 ユネスコ or 国連                x     x
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(a)「人権擁護」,「人権を尊重する心」の二つの決まり文句として
(b)「自由な発想」3,「自由に楽しく遊ぶ」1
(c)多くが「選択の自由」

 「答申」の各部分だけを取り出せば,当然ながら常識的なことも書かれているのでもっともだと思うこともあるでしょう.しかしこれが今日の重要な問題をはぐらかしているとしたら,それは全体としては「目眩まし」の役割をすることになり,国民の間での教育をめぐる議論にとって大変有害です.そしてこのような「答申」に有力な対案が存在しないのは大いに問題です.NGOとしての「民間中教審」が必要ではないでしょうか.

 中教審に対抗するそのような「第二極」を形成して,批判だけではない積極的なオルターナティブを提案することが教育問題での国民的な議論をまともに発展させるための最も重要なポイントではないでしょうか.今日これがないために,「答申にも積極面がある」とか,いや「ダメだ」という議論に止まってしまっていると思います.繰り返しますが,中教審を批判するだけで(批判しないのは論外),国民に影響力を持つ体系的な教育政策の提案の不在を放置するのでは,教育界にある人間はその責任を果たしていないような気がします.

 二つの答申の全文は文部省のwebページから取れます(注2).検索をかける場合は,文章の途中に改行やスペース,htmlタグが入っていたりするので注意が必要です.
 なお,フランス版中教審答申(注3)と読み比べられることをお奨めします.(1998年1月16日)

(注1)メンバーの一人である河合隼雄氏は,岩波の月刊誌「図書」の96年11月号の鶴見俊輔氏との対談「日本の文化を語る」の中で,鶴見氏が「1945年に日本は変わったと人はいうけれども,変わっていない.さっき話したようにファシズムは無傷のまま学校の中に温存されています」と述べたのに対し,後ろの方で「学校でも『うちは家族的に運営しています』ってところはおよそ恐い.さっき話しに出たファシズムの別名みたいなものになりかねない」と鶴見氏の意見に肯定的に受け答えしています.このような人が中教審の中でどのような発言をしたのか,答申に満足なのか,大いに知りたいところです.(7ページと11ページ)
(注2)http://www.monbu.go.jp/singi/indexnew.html#cyukyo
(注3)『未来の教育のための提言』,コレージユ・ド・フランス教授団,岩波書店「世界」の1988年3月号289ページ.または,http://pegasus.phys.saga-u.ac.jp/Education/PPEA.HTML

初版 [reform:812]Date:Sat,13 Dec 97, 最終改訂98年3月10日.

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