臨時 国立大学の「独立行政法人化」は大学破壊.阻止全国ネットの訴え(2001年6月)

  (岩波書店「世界」の1988年3月号289ページから同編集部と翻訳者の許可を得て転載)
(ver.1.4)

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『未来の教育のための提言』


−−フランス共和国大統領の要請に基づき、コレージユ・ド・フランス教授団によ り作成された−−

序…《動機の説明》
 教育の目的や内容の問題は、いとも容易に皆の同意が得られるような、総括的で はあるがあいまいな解答で満足しうるものではない。じっさい、どんな教育も、た えず新しい知識を獲得し、刻々と変化する状況に適応するのに必要な能力と知識を そなえた、開かれた精神を養成すべきだということに、だれも異議をとなえる者は いないだろう。しかしこうした普遍的な目標は、それぞれの時点において、具体的 に確定されていくことが必要である。すなわち、今日、自然界および人間社会につ いてのとらえ方をたえず規定しなおしている学問の変化に応じて、あるいはまた経 済的、社会的環境の変化、とりわけ、技術革新や工、商、農業の再編成によって生 じた労働市場の変化に応じて、その目標は具体的に確定されていくことが必要なの である。これらの変化のうちで、教育制度ともっとも直接的にかかわるものは、学 校活動と競合し、あるいは対立しさえしうる現代的情報伝達手段(とくにテレビを はじめとした)の発達であり、また、家族、仕事場、村や地域の共同体、教会といっ た各種の教育的機関がこれまでに主に倫理面において担って来た役割に生じた深刻 な変化である。
 教育制度それ自体の変貌も見逃されてはならない。だが、そうした変貌を指摘す るにあたって避けなければならないことは、黙示録的言辞をもって危機を強調しす ぎることであり、さらによくないことは、教師の集団やその代表機関にスケープゴー トを探し求めて預言者的な口調で非難を加えることである。分野によりあるいはレ ヴェルにより程度の差はあるが、教育制度を構成する社会的諸関係、すなわち、教 師と生徒との関係、教師と親との関係、異った世代の教師達の関係が、都市化や就 学期間の延長、学校制度と労働市場の関係の変化といった社会的要因の影響のもと に大きく変化したのである。同時に、学校の卒業免状や学位の価値が下落し、それ に伴い、「学校」にたいするまさに集団的失望とでも言うべきものが広がったので ある。
 このような様々な変化が引き起こす困惑や反発の感情は、ひとつには、もともと そうした変化そのものが考えられも望まれもしなかったことだということから生じ たものである。ひとつの社会と「学校」とを結びつけている暗黙の委任契約が、意 識的にであれ無意識的にであれ、問い直されるという事態は、教育制度の基礎その ものにある種の空白をうみだし、それが不安を呼び覚ますのである。教師達も、ま た生徒や親達も、この危機の感情がつのらせる退行的な誘惑(あきらめやなげやり の態度)からまぬがれるためには、可能な限り民主的で、現在の要請に適応し、か つ未来の挑戦に応じうる教育制度はいかなる原則の上に築かれうるのかを、もう一 度考え直すことが必要なのである。

 「学校」の目的を考察するに際しては、互いに異なり、また相対立さえする様々 な利益に仕えることをもとめられているこの学校という制度のなかに刻み込まれて いる諸矛盾を無視することが出来ない。それらの矛盾は、(たとえば「民主化」と 「選抜」、「量」と「質」、「公立」と「私立」、など)実際の学校活動のなかで はしばしば乗り越え難い二律背反として現われてくるもので、それはあらゆる論争 や政治的な目的に利用されがちである。これらの矛盾は、相反する要求の間にある、 あるいは提示された目的とそれに到る不可欠な手段の間にある緊張関係を克服する 努力そのものの中でとらえなおされねばならない。
 それが誰であれ、ある個人やグループが、これら教育の領域において規則を制定 し、自らの利益にかなった方向へと教育制度の動向に影響力を及ぼそうとしている さまざまなグループの総体にとってかわろうとする権利を主張するとき、ひとびと はこれに異議をとなえることは出来る。そして、あるひとつの教育プログラムが全 体の同意を得るということはほとんどありえない。とはいえ、教育諸制度の現状を みるとき、そうした究極の問いにたいする解答は、事実においてなされているとい える。であるとすれば、教育制度に関する、主導的原理の首尾一貫したまとまりを 明示してみることは、少なくとも、これまで検討されずにきたが故に不確かな基礎 となっている学校教育政策の前提あるいは先入観をそ上にのせ論議することに役立 つのである。さらにまた、学問とその教育の進歩を保証することをめざす技術的要 請と、ひとつの民主主義社会の理念自身のなかに含まれている倫理的要請との間に は、しばしば一致が見られる。したがって、より合理的で、より公正な教育とは何 かの定義に関しては、「学校」の利用者や彼らを代弁する人々をしばしば互いに対 立させている諸問題は別にして、かなりの程度まで論議を深めることはできるので ある。

 本文は、教育改革計画でも改革案でもない。これは、ひとつの考察のささやかで 暫定的な成果にすぎない。研究とその教育にたずさわっているわたしたち執筆者は、 苦労の多い実際の教育現場からは遠く離れていることを十分に自覚している。しか し、だからこそ、目先の争点や目標から自由でいられるともいえよう。

1、科学の統一性と文化の多元性
 調和のとれた教育というものは、科学的思考に内在した普遍主義と、生活様式や 知恵のあり様,文化的感受性などの多様性に着目する人間諸科学が教示する相対主 義との双方を両立させ得るものでなければならない。

 「学校」というものは、ある特定の道徳的方向づけをなすものであってはならな いが、しかしそれが不可避的に課せられている諸々の倫理的責任を免れるわけには いかない。だからこそ、「学校」の主たる目的の一つは、自然科学と人間科学とが 教える批判的態度を身につけさせることにおかれてよいのである。このような観点 のもとに、科学と文化的業績の歴史が、それぞれの教育のレヴェルで適切な形で教 えられることによって、旧来のないしは新しい形態の非合理主義あるいは理性の絶 対信仰{ファナチスム}に対する解毒剤を提供することになるにちがいない。同様に、 社会科学は、社会についての啓蒙された判断への入門となり、あらゆる種類の人心 操作{マニピュラシオン}に抗するための武器を供すべきであろう。たとえば、世論 調査の機能および役割についての批判的検討や、政治制度史にもとづく代表委任の メカニズムの究明などは、そのために大いに効果的であろう。
 教養の果たすべき機能のうち最も重要なもののひとつは、あらゆる形態をとった イデオロギー的、政治的あるいは宗教的圧力に抗する防御術としての役割にある。 この自由な思考{パンセ・リーブル}の道具は、武術の護身術がそうであるように、 今日の市民が、彼らがさらされている象徴権力の濫用、すなわち宣伝・広告や、プ ロパガンダによる、あるいは政治的、宗教的狂信による象徴権力の濫用から、身を 護ることを可能にしてくれるのである。
 こうした教育の方向づけは、理性的活動の完成された形としての科学を物神崇拝 的にではない仕方で尊重する態度を発達させることをめざすと同時に、科学的活動 とその所産の或る種の使用にたいする武装された警戒心を発達させることを目標と するものである。ここで問題なのは、それが現実的なものであれ理想化されたもの であれ、科学についての道徳を打ち立てることではなく、科学とその使用に関わる 批判的態度、即ち、科学それ自体から導きだされる、あるいはまた科学の社会的使 用についての認識から導きだされる批判的態度を伝え広めることなのである。
 ひとびとがひとつの文化に与えうる唯一の普遍的な土台は、その文化がそれ自身 の歴史性に負うている恣意性の部分を認識するということの中にしかありえない。 それ故に、この恣意性こそが明るみに出されねばならず、別の文化の形態を理解し 受け容れるのに必要な手段(哲学、言語学、民族学、歴史学、また社会学が提供す る諸手段)が念入りに準備されなければならない。そこからまた、科学的業績をも 含めたすべての文化的業績がいかに歴史性に根ざしたものであるかを思い起こさせ る必要もあるのである。(たとえば国民的統合の問題や、現代世界の理解、科学の 成立過程の理解といった)歴史的教養を身につけることで果たしうる機能のうち、 この観点からもっとも重要なもののひとつは、様々な文明の間にある差異とともに、 その結びつきの発見を通して、寛容の精神を学びとることにそれが寄与しうるとい うことである。
 とりわけ比較研究の方法によってもたらされた進歩に見られるような、純学問上 の理由は、社会的理由、−−とりわけ、移住者や移民の動きの拡大のために、互い に異なった伝統に属する人々が交流し共存する機会がますます多くなっている社会 での様々な変化といった社会的理由と相俟って、教育を、歴史上の諸文明と諸宗教 の総体、−−それぞれの内的な一貫性と同時にその出現と発展の社会条件のなかで とらえられた文明と宗教の総体に向かって開くことを求めている。
 過度にカリキュラムに負担をかけずにそのことを行うためには、何よりもまず、 ヨーロッパをあらゆる発見と進歩の起源とみなすような人類史に関する自民族中心 的な見方を断ちきることが重要である。そして、すでに小学校から、子どもに、 (身体技法や、衣、食、住における)習慣の多様性や思考システムの多様性を受け 入れることに慣れさせるような地理学的、民族誌学的な要素を導入し、とくに、歴 史、語学、地理教育では、それぞれ異なった諸文明に固有の選択を性格づけている 生態学的、あるいは経済学的必然性と社会的恣意性との混ざり合ったすがたを明ら かにすることが重要である。そしてそれと同時に、ヨーロッパ文明を始めとして、 相異なる諸文明の成立を支えてきた無数の技術や道具が他の文明から借りたもので あることを思い起こさせることである。
 教育は、このように、科学がめざすものに内在する理性の普遍主義と、歴史諸科 学の教える文化的な知恵と感性の多様性に注意を向ける相対主義とをあわせ持つも のでなければならない。科学的理性{レゾン}の統一性にたいする信頼と、文化的根 拠{レゾン}の多元性の意識とを両立させることは、変化に富み、絶えず更新され続 ける自然と歴史の世界に対する、思考を通っての不断の対決によって獲得される、 認識の柔軟さと適応力を強めることによってのみ可能となるのである。

2、優秀さの形態の多様化
 教育は、あらゆる手段を尽くして、様々な知的達成の形態をそれらのなかの一つ の形態との関係において序列化するような《知性》についての一元論的な見方と戦 い、社会的に認められる文化的優秀さの形態を多様化すべきである。
 それぞれの職業的教育がもつ価値は、その教育が道をひらく職業上のポストの価 値に密接に依存するものであり、学校制度は、それが保証する諸々の能力の序列 (ヒエラルキー)を完全に管理する力を持ってはいないとしても、それが果たす能 力の社会的判定効果を無視することはできない。様々な能力適性の間にある序列を、 制度の運用面で(例えば、科目の重要度を決めている係数をかえるなど)、また教 師と生徒の意識面で、弱めあるいは廃止しようと努めることは、実社会における様々 な序列を(教育制度の限界内で)弱めることに貢献する最も有効な手段の一つであ ろう。今日の教育制度で最も目立つ欠陥の一つは、知的優秀さについて唯一つの形 態しか知らず、またそれしか認めようとしない傾向がますます強まっているという ことである。それは高等学校(リセ)のC科(またはS科(注1)),さらにはその延 長としての大学校(レ・グランド・ゼコール)によって代表されるものである。あ る種の数学技術が、選抜または足きりの手段として扱われることによって、それに いっそう絶対的な特権が与えられることで、今日の教育制度は、その他すべての能 力の諸形態をより劣ったものとして示す傾向がある。そうした貶められた能力の保 持者たちは、彼らが受けた教養と学校制度の中で支配的な教養の双方について、多 かれ少なかれ不幸な体験をすることを余儀なくされる(おそらくは、現在流行の反 理性主義の原因の一つもそこにあると思われる)。また、学校制度の中での優れた 能力の持ち主たちといえば、格別の努力をしたり、好都合な社会的環境や条件に恵 まれない限り、様々な知的いびつさを伴う早過ぎた専門化を宿命づけられることに なるのである。

 わたしたちは学問上と同時に社会的な理由から、実践と知に関する序列化の、そ の最も巧妙で目立たないものをも含めて、あらゆる形態と戦わねばならない。とり わけ、フランスの学校制度の伝統においてとくに根強い「基礎」と「応用」との、 「理論」と「実践」または「技術」との間にたてられる序列化の諸形態と戦うべき である。それと同時に、それぞれに異なり、互いに還元しえない多様な能力の評価 規準もまた多元的であることが社会的に承認されなければならない。
 教育と学術研究の制度は、そのあらゆるレヴェルにおいて、「基礎」と「応用」 との間の序列的分割がもたらす様々な影響の弊害を受けている。この分割は各学問 分野の間に、そしてそれぞれの学問分野内に作り上げられた、それ自体「知的労働」 と「肉体労働」との社会的序列が変形された形態にほかならない。そこから帰結す る二つの異常さを、制度及び人々の精神に働きかけることによって系統的に排除し なければならない。その第一のものは、[学習や方法の]抽象化、形式化の傾向であ り、それが、ある種の人々に意欲を失わせているのである。その第二は、具体的な 知や実際的な操作、そしてそれらに結びついた実際的知性の価値低落である。調和 のとれた教育というものは、数学のような思考の道具の習得による合理的な論理の 訓練と、経験的な方法による実践とのあいだに、正しい均衡を実現せねばならず、 そこではまた、手先の器用さや巧みな身のこなし方などといったさまざまな形態も また見逃されてはならない。思考の一般的諸形態の教育に重点を置くこともまた考 えられてよい。さまざまな科学や技術も、それらを通して、何世紀をも経て、成立 したものなのだ。数学はギリシャにおいて誕生したとはいえ、われわれの科学は、 その後二千年をへてやっと真の意味で、数学的なタイプである理論を縦糸に、実験 を横糸に、理論的仮説とそれに情報や裏付けを与える経験とのあいだの絶えざる往 復によって、一枚の布地に織り上げられてきたのである。
 現実の世界を理念的状態における観察と実験の網の中に閉じ込めることで、科学 は近似的真理の世界の征服を可能にしたが、そのますます増大する近似度それ自身 もまた、尺度の概念そのものに対して適用される誤差計算あるいは確率計算によっ て測りうる。さまざまなパーセンテージや確率が介在する世界においては、科学的 操作とその結果の有効性の限界についての批判的警戒心が是非とも必要とされる。 ある経済指数が一パーセント上昇(あるいは下降)すると十年後にはどんな結果を もたらすかをはっきりと理解し、統計学的根拠に基づいたこのような指数の、人工 的だが、有益でもある性格を意識している市民はきわめて少数なのである。しかし、 われわれの日常の決定は、その多くの場合、われわれの知らぬうちに、そのような 統計的な根拠に基づいてなされているのである。例えば、ある一台の自動車は、そ れだけを取りだしてみるなら、それと比較しうる競争相手のメーカーの車より優れ ているとは言えないとしても、同じモデルの十万台の車を対象とするならば、それ が優れていると言うことができる要素を見いだす可能性もまたあるといった具合で ある。天気予報は、それぞれの地域に関して、降雨の確率を概算することしか出来 ないし、じっさい、アメリカでは、新聞はそのような仕方で予想をかいている。し たがって、義務教育のレヴェルから行われる人間教育を通じて、各人が少なくとも 直観的にであれ、様々なリスクを測ることができるようになることは重要なことな のである。

 その厳密な定義において、形式主義とも言葉主義とも混同されてはならない理論 {テオリー}と、その推論の方法の厳密さのゆえに何ごとかの発見を可能にする格別 な力を秘めている論理的方法との双方に相応の正当な場をあたえながら、しかもあ らゆる領域において、学習者が実際になにかを作り出せるようにすること、そして、 自分でなにかを発見できるような立場{ポジシオン}に立つことができるようにする こと、教育はこのことをこそ目的としなければならない。生徒達は、化学や物理の 「実験」を、まったくお膳立てされたものとして受け取り、結果だけを記録するの ではなく、自分達でそれを作り出すことができるようでなければならない。また、 単にあるテーマにつき小論文を書くかわりに、戯曲、映画、オペラの制作はもちろ ん、演説、映画評、読書評(ほんものの生徒・学生新聞のためであればなお好まし い)を書いたり、あるいはまた、社会保障機関への手紙、使用手引書、事故調書な どの作成も考えられる。論理学や数学といった高度に理論的な活動においても、 [生徒達による]積極的な発見ができる余地はあるものである。同様の精神にもと づいて、芸術教育も、(音楽、絵画、映画など)芸術実技のひとつを、今日のよう に間接的に押しつけられたものとしてでなく、自由に自主的に選択して掘り下げる ものとして構想されるならば、それは再び教育における重要な地位を見いだすこと ができるだろう。この領域においては、他のいかなる領域にもまして言説{ディスクー ル}を実践(楽器の演奏、さらには作曲、デッサン、絵画、生活空間の整備などの実 践)に従属させるべきである。[基礎と応用、理論と実践などの]序列の廃止は、 とくに初等レヴェルにおいては、純粋美術と同じくらいに、日常生活において大い に役立つ応用芸術、すなわち、グラフィック芸術、出版・広告芸術、インダストリ アル・デザイン、視聴覚芸術、写真などの応用芸術を、教えることへとつながるで あろう。

3、機会の複数化
 学校による成績判定のもたらす影響を可能な限り弱め、学業における成功が聖別 化の効果をもち、逆に失敗が終身刑の言いわたしの効果をもつことを防ぐことが重 要である。そのためには、学科系統の数を増やし、学科系統間の移動の可能性を大 きくし、やり直しの効かぬあらゆる断絶を弱めることが必要である。

 [生徒の将来の成功・失敗について自分がそうなるものと思い込むような]自己確 認的な預言として作用する学業成績判定の否定的な効果を弱めるために、あらゆる 手段が講じられなければならない。”聖別化の効果”が社会的地位の保証につなが る場合には、それは最小限に止どめられるべきであり、とくに、学業判定の犠牲者 たちを社会的にも失敗者とみなすことによって挫折の悪循環の中に閉じ込めてしま うような”烙印づけの効果”は出来る限り減少させなければならない。他のどんな 年代にもまして、自分達のアイデンティティーの問題に直面し、程度の差こそあれ 特別に重大な危機にさらされている青年期の若者達にたいして、そのような否定的 な判定がなされる時には、かれらを、自信喪失、自己放棄、さらには絶望にまで、 追いやってしまうことがある。そのような学校での成績判定の歯止め知らずの影響 をできるだけ少なくするようにつとめることは、親達のあいだにも、子ども達のあ いだにも、さまざまな心理的、精神病理的、そして社会的な影響をもたらしながら 拡がっている学校についての不安を軽減することに寄与するはずである。
 それはしかし、よく言われる「失敗による選抜」の問題を、選抜そのものを拒否 することによって解決すべきだということを意味するものではない。選抜の拒否は、 [生徒の実力についての]真実が明かされる時を常に先送りすることであり、その ことによって、当の生徒個人にとっても、教育機関にとっても様々なよくない結果 をまねくことになる。名目だけの入学権をあたえることは、誤った出発を与えるこ とであり、その結果として、生徒個人および教育機関に高い代価を支払わせること になる。現実の学習の当然のなりゆきにごまかしはきかないのであり、なされるべ きは、それが特別の努力を要するとしても、すべての生徒個人に正しい出発を保証 することなのである。恵まれない人たちにこそ教育の良い条件が与えられるような あらゆる適切な措置こそが取られるべきであり、そうした人たちを最悪の条件のな かに置くような事態を招くやり方(たとえば新参の教師や、十分な養成を受けず、 給料も安く、授業を過度に多く持たされた代用教員たちに、困難の多い学級を担当 させるといったあの奇妙な論理)には、正面から反対しなければならないのである。 じっさい、ある種の社会心理学的な治療によって、奇蹟のように学業の挫折を解消 してしまうなどということは期待すべくもないことは明らかであり、教師の数を増 やし、その養成と労働の諸条件を改善することによってのみ、落ちこぼれを減少さ せることを現実に望みうるのである。じじつ、フランスの教育が、とくに高等教育 のレヴェルにおいて、図書館施設(その甚だしい不十分さについてはここで繰り返 さないが)、教科書、参考書、質の高いテクスト集、学術翻訳書、データバンクな ど、知的生活の基礎をなす固有の施設設備面における極端な不備に悩んでいること はよく知られていることである。

 とはいえ、優秀さの形態の多様性についてはっきりと自覚しており、それゆえに また評価判断の有効性の限界と、その判断が生徒達に心の傷をもたらす深刻な影響 について十分に意識的な教師たちは、生徒達の諸能力を全体的にとらえて、しかも その能力について決定的な評価を下すといったことは避けなければならない。いか なる場合においても、かれらは個々の部分的な学習成果について評価判断をするの であって、ひとつの人格をその本質や本性においてとらえて、評価の対象としてい るわけではないということを、つねに念頭におくべきである。複数の成功の形態が 認められるならば、それは教師達を、ただ一つのモデルに基づいて生徒たちを型に はめ評価するという責務から解放することになる。そして、この成功の形態の複数 性が、(それぞれの教育レヴェルにおいて求められるミニマムな共通教養の枠内で) さまざまに異なった活動に価値を与え、またそうした活動を促すことを可能にする 教育方法の複数性と結びつけば、学校は、社会的に恵まれない子ども達にとって、 挫折と敗者の烙印づけの場ではなく、誰もが自分に固有の成功の様式を見つけるこ とができ、また見つけなければならない場となりうるのである。[それ自体として は]必要な能力の評価が、排除の宣告ではなくて、進路についてのアドバイスの一 形態となるためには、(今日の序列化された学歴コースとは対照的に)社会的に同 等に評価される学科系統を数多く創設することが必要である。ある学科系統から別 の系統へ移りたいと望む者、また、相異なった系統に結び付いたさまざまな学習を 組み合わせたいと望む者にたいしては、あらゆる制度的便宜が与えられるべきであ る。出発点での最初の選択と成績による排除の宣告とに決定的ともいえる重要性を 与えている、あらかじめ定められた進路、やり直しのきかぬコースといった硬直性 に対して、あらゆる手段を尽くして戦わねばならない。習得の能力とリズムにおけ る、あるいは精神の在り方における個人差を考慮することは必要なことであり、そ して生徒の進路をそれぞれ異なった学科系統へと指導するには、人々の考え方の中 に、そして、社会環境の中に現にある価値秩序のもとでは劣ったものと見なされが ちな学科系統の再評価を、具体的にめざした対策がともなわなければならない。そ れは、例えば、それらの分野に優れた教師や質の高い設備を供給するなどである。 進路のコースは、進路指導{オリアンタシオン}を持った研究教育機関からさらによ り専門的な機関ヘ、という段階的な専門化の道をとるべきである。自分の専門を決 定する前に、若者たちがさまざまな機関で実地研修をすることが可能にならなけれ ばならない。

 学歴を神聖化する傾向、すなわち、学歴を学校によって保証されるある種の社会 的本質をともなったものとみなす傾向を打破し、あるいは減少させるよう努めねば ならない。それは、この傾向が、ある者にたいしては、自分にふさわしくないと思 われる類いの仕事をすることによって自らをおとしめることを禁じ、別の者にたい しては、彼らには禁じられた将来を夢見ることをも禁止するといった、かつて貴族 の称号が果たしていたのとまったく類似した機能をわれわれの社会において果たす からである。そのためには、現実の仕事での働きに対する再評価が必要である。例 えば、あらゆる人事の場合に、(教師の場合ならば、教授法に関してめざましい革 新を導入したとか、すばらしい献身をしたといった)実際に行ってきた仕事や現実 の働きに基づいた基準を導入して選出や昇進に際しての基準の割合を定める、といっ たことも考えられる。フランス官僚制度の最悪の欠陥のひとつは、学歴では保証さ れているが実際には無能な者と、学歴には恵まれていないが有能な者が、まるで貴 族と平民のように、社会的に意味づけを与えられているあらゆる点において、生涯 分離されているということにある。資格免状による選抜が悪い影響をもたらすのは、 それが、本来の目的をこえて、職業生活のすべての期間にわたって機能しつづける からであり、実際の仕事の評価が、不当にも、[学歴を擁護する]同業団体的な利 害や、誤って理解されている給与所得者の擁護論の前に、犠牲にされているからで ある。規則と人々のメンタリティーの変革によって、学歴は、恣意的人事にたいす る最終的な歯止めとしての機能を維持しつつも、限られた期間だけに有効な、また それだけがすべてではないものとして、すなわち、幾つもある情報のうちの一つと して、考慮されるようにならねばならない。失敗者の烙印効果を減少させることの できる要因のうちで、最も有効なもののひとつは、おそらく、競争の新しい形式を 作りだすことである。共通の計画のもとに先生と生徒をむすびつけながら行われる 学校共同体間での競争−−クラス間や学校間で行われているスポーツ競技がそのよ うなものだが−−これは、切磋琢磨{エミュラシオン}の気分を昂揚させ、そのこと によって、生徒や教師の個人間の競争{コンペティシオン}のようにグループの解体 やある者たちの屈辱や落胆を招くという代償を払うことなく、努力や規律を奨励す る効果をもつだろう。

4、多元性のなかでの、多元性による統一
 教育は、[弱肉強食的な]無統制な競争(コンキュランス)がもたらす学校教育 上の差別によって不利な条件におかれている個人および教育機関を保護しながら、 自治的で多様な個人的および教育機関のあいだでの真の競争(エミュラシオン)を 可能にする条件を作りだすことで、自由主義(リベラリスム)と国家管理主義(エ タティスム)との対立を乗り越えるべきである。

 独立し、互いに競合関係(少なくとも高等教育レヴェルではそうだ)にある複数 の教育機関によって、あらゆるレヴェルの多様な教育内容が提供されるということ が、学校間、教授スタッフ間、そして学校共同体間の切磋琢磨{エミュラシオン}を 強め、教育システムの有効性と公正さを増大させ、そのことによって、革新を促し、 また学校成績の下す判定の悪影響を弱めることもできる、といった一連の波及効果 を生む原動力となりうるだろう。
 教育諸機関はあらゆる外部の圧力から保護され、実際の自治が与えられねばなら ない。そして、とくに研究機関においては、自分自身で研究目標を決定する権限を 持つものでなければならない。基礎教育と専門教育をあわせもち、それらの多様な 役割に対応する多様な資金源をもった、真の「大学」にふさわしい自治と固有性と 責任とを高等教育機関に保証するために必要な諸条件のうち、最も重要なものは、 複数の資金源−−そこには、国、地方公共団体、私設基金からの補助金、国、また は公、私企業との契約、さらに、おそらくは、学生、卒業生による財政参加さえ含 まれていい−−それらの資金源によって確保される総予算の自己管理である。その ことによって、私立、または半官半民の教育研究機関が、資金面で公共部門のみに 頼る機関と共存することができるのである。学科講座の創設、学位の授与、学生数 の調整についてもまた全面的な自治が保証されるべきであり、国は経済的には採算 が取れずとも、文化的には重要な意味を持つ教育を援助する義務がある。
 この原理は、高等教育に関しては比較的簡単に適用でき、無統制な競争の効果を 防ぐ措置はまだ取られていないことを除けば、すでにそのプロセスも始まっている が、中等教育でも(中等教育の定義をおそらく、DUEG(注2)課程にまで拡げるこ とが必要だろう)、自主的な実験的試みを少しずつ一般化することで、漸新的に適 用していくことができるだろう。それは、どこにでも要求される基礎知識と平行し て、選択科目として専門教育を行う学校を創設するというもので、それらの科目は その学校の特色をなし、他校との競争においてセールスポイントのひとつとなる。 こうした試みは、学校長や職員会議が教師の採用に関しては、今より大きな自治を 持つことを前提とするものである。そこには、純粋に教育学的な基準を含む多様な 評価基準の導入や、このようにして計られた教師達の特徴点と担当するポストの性 格との関係の考慮などが含まれるからである。

 このようにして、これまでの陰湿な競争{コンキュランス}は、開かれた競争{エミュ ラシオン}へと代るべきである。それは、国の役割を根本的にとらえ直すことによっ て可能となる、管理され修正された競争である。教育費による選別、あるいはまた 地理的な遠隔がもたらす教育差別の拡大を防ぐためには、中央権力は恵まれない個 人及び教育機関にたいしては、無統制な競争の弊害を防ぐ、明確で、効果的な、慎 重に考え抜かれた保証を与えられねばならない。国は、すべての人々に、共通の文 化ミニマム[ミニマムな共通教養]の獲得のための制度的条件を保証すべきである。 そのためには、すべての学校教育機関において、学力を発揮するのに必要な経済的 手段を欠く学生・生徒に対して、有効な国費奨学金を与えるべきである。また、大 学、高校(リセ)、中学校(コレージュ)の諸機関には、個人的および集団的形式 でのチューター制度[学生・生徒の補助者制度]を実施できる手段が講じられなけ ればならない。
 さらにまた、恵まれない者たちを受け入れる機関には、補助金や制度的利点(例 えば教員への特別手当の支給)を付与することにより、それらの機関を、少年の掃 きだめではなく、真の優先的教育地域(注3)となすべきである。

 文化、言語、宗教上の独自性を尊重しつつも、国は、それが円滑な職業活動が行 われる条件でもあり、人権と市民の権利の見識ある行使に不可欠な、最低限のコミュ ニケーション維持の条件でもある、共通の文化ミニマムをすべての人々に保証すべ きである。それゆえに、公権力は、(幼稚園から現行の中学校までの)基礎教育機 関総体の教育の質の維持に配慮する役割を持っている。国は、とくに、カリキュラ ムの定期的見直し、良質の教材(教科書)の供与、共通の文化ミニマムの明確化な どを通して、そしてまた、教育テレビの創設が可能とする質の高い教育メッセージ をどこにでも無料で供給するなどのような奨励的な方向づけの活動を通して、教師 の教育や、かれらの教育実践の内容の明確化とその評価に、直接的、間接的に貢献 すべきである。

 全国レヴェルでの教育プログラム(教育課程)では、共通の文化ミニマム、すな わち、すべての市民がその中核として所有すべき基本的で必須の知識および技能が 明確に示されていなければならない。この基礎教育は、終わりのある完成教育と考 えられてはならず、生涯教育の出発点としてとらえられねばならない。それは、し たがって、その他のすべての知識の獲得の条件である基本的な知識の習得と、(知 的適応力、開かれた精神といった)知識の獲得にむかってひらかれた態度を養成す ることに重点をおくべきである。それはまた、比の考え方{プロポーション}とか実 験的論証の理解といった、最も一般的で、最も広く応用のきく思考形式および方法 の学習に重点をおくものでなければならない。また、すべての生徒が、共通言語を、 その書言葉も、話し言葉も、−−とくに、公的な場面で−−使いこなせるよう、あ らゆる手段を尽くさねばならない。この点に関して、フランス語を母語としない者 にとって、この共通言語の習得は、かれらがその第一言語もまた、十分に使いこな せるようになることを前提とするものであり、そうして初めて、二つの言語の発音 上の、文法上の、そして文体上の差異を会得することができるようになるのである。 また、できるだけ低学年のうちから外国語が教えられることは大いに望ましいこ とである。
 この見地から、幼稚園は三歳から子ども達を受け入れるためのあらゆる援助を与 えられるべきであり、また少なくともその教育の最終の段階では、共通言語の理解 と使用、話し言葉や図形{グラフィック}についてのさまざまな技法といった、小学 校の教育ではそれができることを暗黙のうちに前提としている基礎的な知識を教え る課業的教育を、表現教育[自由な表現による教育]に結びつけておこなうことも できるであろう。
 教師達の教育意欲(モチベーション)を高め、あるいは回復し、有能さの基準を 先任順にのみ求めることで助長される責任意識の解体を防ぐために、管轄省庁は、 教師達の教育活動と研究活動の評価をおこなう審級機関(アンスタンス)を設ける べきである。それらの機関は、期限付きで任命され(最高五年)、少なくともその うちの一部は多種多様な活動への創造的な貢献によって選ばれた部外者によって構 成され、個人および教育諸機関(教育スタッフ、学校施設など)の質を、多様で柔 軟な基準に照らして評価すべきである。学歴上の資格の占める比重は、教育活動の 成果を考慮することによって、バランスがとられ、また割引かれねばならず、また、 その教育効果にしても、学校によって生徒の社会的出身分布に差があるがゆえに、 試験の合格率のみで計ることはできない。こうして評価機関は、教育機関と教師に たいする物質的および象徴的利点(補助金、昇進、特別手当、外国での教育研修、 研究旅行など)の付与に関して助言を与えることができるのである。
 それらの評価機関は、中等教育のレヴェルでも同じ機能を果たすことができるで あろう。学校間での競争の条件がひとたび実際に整備され、学校が優れた人材を引 き付けるようになれば、それらの機関が行う評価は親および生徒の学校選択の参考 になろう。それらの常設機関のうえにさらに、(フランス人および外国人の)専門 家に委託して、フランスおよび外国での、対象となる専門分野におけるさまざまな レヴェルでの研究・教育の施設と職員の研究と教育に関する現状と動態を、出来る 限り正確に描き出すことを任務とする臨時の調査団を加えてもよい。公共援助の付 与が、当の研究・教育機関にすぐれた質であることの証明を与えることになり、そ の結果として、その機関が競争で優位にたつことになるような、そうした活性化を 促すコントロールを受け入れることが、援助の付与の事実上の条件となるであろう。

 教師達を、普及力の大きい教材(ビデオ・教科書など)の製作、教育技術の開発、 教育内容の見直しなどに参加させることによって、教師や教育スタッフが仕事を行 う際の自主性と責任を拡大することに全力を尽さねばならない。そのためには、今 使われている教材や方法についての批判や示唆に耳を傾け、新しいものにとりくむ 人々を技術的、財政的に援助し、進歩をもたらすあらゆる試みについての情報を提 供する、要するに、最も創意工夫にとむ教師達を、発見し、励まし、できる限りの あらゆる方法で援助する、といった役目をもった巡回指導員のスタッフをつくるこ とが必要である。それらの指導員たちは、地方単位で、つまりは、その地域の大学 と結んで、定期的に研修会を組織し、そこで教師達が、管理と監督のためではなく、 助言と援助のために行動する専門家たちの前で、自分達の教育における実践的諸問 題を提起することができるようにする、という役割を持つであろう。

5、教えられる知識の定期的再検討
 教育内容は、定期的な再検討に付されることによって、時代遅れになった、ある いは二次的な重要度しか持たぬ知識を削除し、可能な限り速やかに、しかし同時に 無条件・無批判な現代主義(モデルニスム)に身を任せることなく、新しい成果を 導入することで、教えられる知識の現代化がめざされなければならない。
 教育システムがもつ構造的な惰性は、時期や分野によって程度の差はあれ、新し い研究の成果や社会の要請に対する教育内容の遅れとなって現れるものだが、この 惰性は、規則による介入あるいは間接的な奨励によって、カリキュラムや教科書、 教育の方法や教材の見直しを促進することを通して、系統的に訂正されていかねば ならない。それらの見直しの作業は、それが受け入れられ、また適用できるもので あるためには、学校制度に固有な拘束や限界を、最も現実的な仕方で考慮にいれる のでなければならない。  学ぶべきものとして課せられる知識の量が増え続けるのは、一つには一度存在し たものは無際限に継続しつづけるという傾向を生む制度的、精神的惰性の影響によ るものである。学問領域における同業者的利益擁護主義(コルポラティスム)は、 時代遅れになった、あるいは、すでに乗り越えられてしまった知識内容や、学科の 分類を永続させる傾向をもつ。それらは、学術研究の次元ではもはや行われていな いにもかかわらず、学校の授業科目表(オルガニグラム)のなかで、試験、入試、 免状、練習問題、教科書、そして授業を通して存続しつづけるのである。もうひと つの[古い知識の]保存要因は、百科全書主義的な傾向、知識の網羅性の主張、あ るいは、ある知識をこれは知っておかなければならない〉といった、絶対的な前提 であるかのようにあらかじめ決めてしまう態度である。
 こうした傾向、およびこうした傾向の基盤となっている諸々のコルポラティスム と戦うためには、カリキュラムから時代遅れになった様々な要求を取り除き、でき る限り早急に有益な知の革新をとりいれることを任務とした(初等教育および中等 教育の)カリキュラムの再検討のための委員会を組織することが必要である。それ らはしかし、無条件・無批判な現代主義(モデルニスム)に身をゆだねることなく、 行われなければならない。とりわけ、例えば歴史の教育の場合のように、その変更 がいかなる〔学術上の〕決定的な変化にも対応していない場合には、カリキュラム の軽率な変更は、生徒の学習内容に重複と欠落をもたらす結果をまねく。たしかに、 現代科学がそこに依拠する概念上の大変革の初歩を教えることは必要である。だが、 あまりに早い時期にそれを行うべきではないし、教育効果も高く、教育全体の基礎 となっている古典科学が、そのためにおろそかにされることは、とくに避けねばな らない。変圧器がどのように動くかも知らない初心者に特殊相対性理論を教えよう とすることなどほとんど意味を持たないのである。このようなカリキュラムの再検 討委員会は、縮小すべき、あるいは拡大すべき部門を明確にし、新しい教材や教具 の作成や設置の方針を示すなどによって、教育分野における公共投資政策に方向づ けをあたえる権限を持つべきである。

6、伝達される知識の統合
 すべての学校機関は、それぞれのレヴェルにおいて必要と考えられる知識の総体 を提供せねばならない。それら知識を統合する原理は歴史的統一性である。
 大部分の人々に断片的な知識しか持てなくさせている、専門化の増大がもたらす 影響、とりわけ、ますます拡がる「文科系」と「理科系」との分裂に対処するため には、並列した諸領域への学問の分化がもたらす知識の島国化[孤立化]と戦わね ばならない。そのためには、中等教育の全課程を通じて、科学的教養と歴史的教養 を統合した教養内容をつくり上げ普及させねばならない。すなわち、単に文学、芸 術、哲学の歴史のみならず、科学および技術の歴史もまた教えられねばならない。 同じ教養部門内においても知識の孤立化は見られるのであるから、例えば、科学教 育の科目間の、とくに数学と物理の間の、相互に関連づけられた授業の進行などが 推奨されてよい。
 教養の内容に、またその教育に統一を与える原理の一つは、文化的、および科学 的成果の総体を論理的かつ歴史的に結び付けてとらえようとするような、(例えば、 ルネッサンス絵画の歴史と数学的遠近法の発達を結び付けて説くような)、文化的 所産の社会史、すなわち科学、哲学、法律、芸術、文学、などの社会史のなかに求 められてよい。科学と科学の歴史を、事実においてそこから排除されてきた教養内 容のなかに再統合することは、歴史の変動を科学的により良く理解させる効果を持 つと同時に、科学自体のより良き理解をもたらすであろう。じっさい、科学が完全 に理解されるためには、その歴史の合理的な認識が必要であり、科学は、その成立 期の、不確実さと困難さのなかで捉えられるとき、その方法的手順と原理の真のす がたが、いっそう鮮明に理解されてくるのである。科学についての歴史的な見方を 教えること、科学および科学の教育について教条主義的でない考えかたを持つこと を容易にする効果があり、またあらゆる教育レヴェルの教師達が、問題を発見する ことをそれを解決することと同等に最重視し、また、どんな場合にも幾つかの競合 する研究プログラムがあったことを生徒達に思い起こさせる、といった方向に教師 達の姿勢をむけさせる効果がある。

 文化的所産(科学、芸術、文学、など)の歴史は、その国際的次元、とりわけヨー ロッパ的次元において、教えられるべきである。したがって、国語および国文学の 教師と、外国語および外国文学の教師とは、対等の立場で、密接に協力しあうので なければならない。科学のもつ普遍主義の要請と、文化の教育が教養に統一性をも たらす機能とを両立させるためには、さまざまな学問分野に属する、内外の卓越し た代表的人物を集めて、ヨーロッパ世界、およびその他の文化圏の、文明と文化的 所産の歴史を編纂することを奨励し、援助し、またそうした作業の成果を、ビデオ ・カセットのような伝達手段にうつしかえる必要がある。
 イギリスの「オープン・ユニバーシティ」をモデルに構想される、ヨーロッパ向 けの真の開かれた大学[放送大学]は、視聴者のためのテキスト、および練習問題 の添削、補足的な説明、などの学習指導体制をともなったテレビ講座を提供できる。 これは、地域レヴェルでは、大学放送が受けもつことができよう。あらゆる課程の 教師達に、継続教育の、また場合によっては、昇進の、便利な道具を提供するのも この制度のひとつの機能であり、そのことは、教師達の能力の維持、改善に役立つ ための投資を奨励するという効果をうむ。ヨーロッパ衛星を利用し、(各国間の卒 業資格や学位の)等価性の認定を大幅に簡略化することに努力を払うならば、この 放送大学がヨーロッパ規模で、高レヴェルの多重言語による教育を放送したり、高 等教育の通常試験の準備講座を提供するなどして、教育と卒業資格・学位のヨーロッ パ規模での統一に貢献すること、なども考えうることである。

7、 途切れることのない、また、交互におこなわれる教育

 教育は、一生を通じて継続されるべきであり、あらゆる手段を尽くして学校教育 の終了と実際の社会生活の開始との間にある断絶を弱めるよう努めねばならない。
 学校制度は、年齢層別区分を社会に作り出している要因のひとつである。学校に 行くために年齢など関係ない、すくなくとも、年齢に上限はない、というようにな るよう努力すベきである。そのためには、一定の水準の能力を、一定の年齢に結び つけようとする通念を変えることによって、あらゆる年齢の人々に、あらゆる教育 レヴェルへの、就学の可能性がひらかれることが必要である。社会的な格差がすぐ に学齢の差(進んでいる、「早熟である」、遅れている、など)となってあらわれ ることを知っていれば、学齢の扱いを柔軟にすることが社会的に重要な影響をもた らしうることがわかろう。
 現実には、勤労者にして学生、あるいは、学生にして勤労者といった年齢層の出 現が見られるとしても、労働と勉学の結合は、現行制度のなかでは、本当の意味で 認知されるにいたってはいない。というのもおそらく、この問題は、労働の概念そ れ自体を、そして無為と労働の対立を全面的に考え直すことを意味するからである。 この場合、労働のなかには、職業活動および現職教育を含めるべきである。技術的 と同時に社会学的な理由から、現職教育は、とくに教職者の場合には、完全な労働 と見なされるべきである。それは、[現職教育を受ける者に]真の社会的地位を与 えるものであり、同時に、勤労学生にとっては今日彼らが置かれている社会的身分 の不安定状態から脱却させるものでなければならない。それは、理論と実践とのあ いだの断絶が少いほど容易になる。実際の職業活動は、学業の終了後に延期される のではなく、しばしば高等教育を受けることと平行して行われうる。この展望のも とに、高等教育を、学校と学校外のあらゆる使用可能な手段(ラジオ、テレビ、ビ デオ、など)を活用した生涯教育の制度、勉学と職業生活の断絶を取り除くのに適 した制度、として構想することができる。その断絶が早い時期に来ればそれだけ打 撃は大きく取り返しのつかぬものなのだ。より一般的に言えば、あらゆる機会、と りわけ兵役及びそれに準ずる機会が(注4)、すでに仕事についている人々にとっ て新たな教育(職業教育)のチャンスを与えることとなるように利用されるべきで ある。

 以上の目標は、学校組織とそれにまつわる心性の根本的な変革なしには実現でき ない。じじつ、あらゆる年齢において職業教育を受ける権利が実際のものとなるに は職業教育は学校で行うものだと考えることをやめなければならない。それは例え ばテレビを利用した職業教育の機関を創設したり、あるいはまた、職場において行 われる研修訓練や個人的な学習を職業教育と認めるなどすればよい。また、「学校」 ヘの一定期間をおいての復帰も、休暇年[サバティカル]をモデルにした一年間、 あるいは半年、三か月、あるいは一週間、さらには、夜間講座を受けられるように 毎日二時間といったようにさまざまな期間にわたることができ、また周期的職業教 育、集中研修など、多様な形態をとりうるよう、学校組織が根本的に再検討される ことも必要である。教育機関と、公共および民間企業とのさまざまな交流方式も 可能であり、とくに職業教育における研修やその仕上げを企業でおこなう形式(そ れが教育コースの上級レベルで行われる場合、こうした交流は、学校と企業の双方 にとって大いに有用であろう)、逆に、養成あるいは再教育の期間、大学の中で教 育を行うといった形式も考えられる。学校における学習と、企業や研究所での仕事 が交互に行われる方式が普及し、生涯教育ということばに真の意味が与えられるよ うになるのでなければならない。

8、現代的普及手段の使用

 このための国による奨励、指導、援助の行動は、すベての人を対象に、いたると ころで、模範的な教育を提供することを可能にする文化普及の現代的技術、とくに テレビとテレマティーク(注5)の集中的かつ系統的な使用によって実現されるべ きである。
 現代的コミュニケーション機器、とりわけビデオ・カセットの合理的な使用によっ て、今日では、初歩的で基本的な知識と技術の伝達のための道具の製作を、機材の 特性を十分に使いこなすことができる視聴覚分野の専門家と、特別の教育上の力量 をもつ選ばれた教師達−−かれらが科学者たちの意見を参考にするのはもちろん結 構なことだが−−からなるスタッフに委ねることが可能になった。テレビ講座はプ ログラム編成の融通がきかず、学校での授業の多様な進め方にうまく組み込むこと は難しいが、それと違って、ビデオは、短時間の、密度の高い、教育上効率の良い 教育を供給することができる。十五分、最高でも三十分という単位のビデオ教育は、 コメント、討論、練習の時間的余地を残してくれる。ビデオの内容に関しては、そ れぞれの教育レヴェルの各教科領域で、教材用のビデオ・カセットを作っている、 公共および民間の製作者向けの仕様注文書のなかで、写真やアニメーションなどの 映像で見せることが不可欠な知識内容や、カリキュラム上の重点が明確に示されて いなければならない。それぞれの学校の教師達がそれを使用する時を自分で選ぶこ とができる使用上の柔軟性と、着想およびその実現における統一性とを組み合わす ことができるビデオ・カセットは、自由で多様な教育方法の活用と、質の高い統一 性のある教育内容とを結びつけることに役立つのである。そのうえ、録画された高 レヴェルの教育内容を計画的かつ一般的に使用すれば、学校間のまた地方間の、教 育上の格差を減少させることに役立つという効果もある。例えば、美術や文学、と くに演劇、そして地理や語学の分野においても、映像は、観劇や外国旅行の直接経 験を欠いた子供や青年達がそのようなものと思い込んでいたこれまでの教育のかな り非現実的な性格を取り除くことに役立つのである。この新しい教育機器の製作を 奨励するためには、関心のある教師達に、そうした知識伝達のための新たな技術を 習得する手段を提供し、技術をマスターした人には、それを実際に活用するための 手段を提供しなければならない。
 テレビは、とくに土曜および日曜日にそれが活用されることによって、現在は通 信教育、百科事典、さまざまな入門解説等の書籍や雑誌の商人達に食い物にされて いる知的要求を満足させ、教育事業の広範な成功のために不可欠な文化的環境を学 校の周りに作り出すことのできる、真の生涯教育の基地となりうるであろう。  ビデオ・カセットとテレマティークとの理にかなった組み合わせは、コンピュー ター・ターミナル(端末)を備えた学校で、高い水準の個人別教育を提供すること を可能にする。この手段を用いれば、国の援助をうまく配分することで、どのよう にうまく、地理的、社会的に不利な諸条件を埋め合わせることができるかがわかる。 最初は、少数の実験的な試み、すなわち、社会学的に見て有効であり(ということ は、成功するために必要なあらゆる条件をそなえた)、同時に、結論が出され財政 上の手段が確保された折りにはより大きな規模で再現しうるような、実験的な試み から始めるべきである。

 しかし、いずれにせよ、幻想や幻滅を避けるために、つぎのことを再確認してお く必要がある。すなわち、現代的な教育の機器が有効なのは、それらの機器が教師 にとって代わるからではなく、そうした機器を使用することによって一新された教 育の任務において教師達の助けになるからであって、それらの機器は、教師達が利 用するあらたなもう一つの道具にすぎず、教育の成功の主要な要因は、あくまで、 教師達の能力、溌溂さ、そして熱意でありつづける、という事実である。さらにま た、それらの機器が十全な効果を発揮するためには、巨大な経済的文化的投資を必 要とする。テレマティークの活用によって開かれる教育の「個人的な消費」時代の 到来は、教育費の増大をもたらすものであって、当初考えられていたように教育費 の縮減にはつながらない。それはたんに、それが、設備(テレビ受像機、テープレ コーダー、マイクロ・コンピューターまたはコンピューター・ターミナル、ビデオ ライブラリー、など)に多額の出費を必要とし、さらにそれらの設備自身が、積極 的な教育活動や個人的、集団的な研究作業を促すことによって、さらにまた(研究 図書室、データバンク、などの)新たな必要を産む、というだけの理由によるので はない。それは同時に、有能で、これらのあらたな教育必需品の真価をしめすのに ふさわしい教育学的企てに熱心にとりくむ教師を必要とするからである。というの も、それらの機器を不完全にしか使いこなせないということは、逆に、伝統的な方 法で可能であった到達点から後退することにつながるからである。中央の機関で製 作される教育内容を系統的に使うこと(しかし、それは必然的に、時間割りの一部 分での使用に限られるものであるが)によって生ずる均一化と集権化の効果に対し てバランスを回復するのは、教師達の多様な活動である。たんに、[録画録音され た内容を]反復させる復習教師(レペティトウール)になってしまうどころか、教 師達はまったく新しい役目、すなわち、純粋な繰り返しの作業から解放され、見習 いの修業に付き添う後見人(チューター)のように生徒と継続的で個別のつきあい をするといった行動と、最も基本的な思考様式を伝え、個人的、集団的学習を組織 することを旨とする教師および指導員[アニマトウール]としての教育活動とをあ わせもった役目を果たすことになるのである。

 伝達手段の変化はメッセージにおける変化をも要求する。現代的コミュニケーショ ン手段が十分な効率を上げるためには、教育内容および方法の根本的な変革が不可 欠である。メッセージの受け手の社会と学校での諸特性を考慮しつつ、(使われる 用語や、教材資料、生徒に提案する実験など、を工夫することで)コミュニケーショ ンの効率を最大限に高めるべく、つねに系統だった努力がなされねばならない。こ うした新しい手段を使用することからくる現職教育と情報への必要に応えるため、 中央機関は、指導員のスタッフを置き、それらのスタッフは、誰もが出会う様々な 問題にたいして、誰かがなしえた最良の解決法の吟味検討によってえられる認識を もとに、成功した試みを徐々にかつ意識的に一般化することができる基盤をつくっ ていくようにしなければならない。

9、 自治のなかでの、自治を通しての開放

 学校は、外部の人間を、そこでのさまざまな協議や、活動に参加させ、それらの 行動を文化普及機関の活動と組み合わせて調整し、新らしい人間的交わりの中心と なり、真の公民教育の実践の場となるべきである。それと平行して、教育職の社会 的価値評価の回復に努め、教師の権能を強化して、教育者団体の自治を強固なもの とすべきである。

 さまざまな錯誤を招きかねない「実生活に開かれた教育」という神話に椅りかか ることなく、社会的要求にたいして学校制度の、もつべき不可欠の自立性を守りな がら、しかも、学校制度が、日常の生活から切り離された、それ自体聖なる教養を 提供することによって隔離された、聖なる世界となることを避けねばならない。そ のためには、すべての文化の伝達機関(学校、美術館、図書館、など)が、外部の 人物(それは、名士達という意味ではない)を、現在行われているよりはるかに実 質的で、有効なやり方で、評議会や理事会に加えることが不可欠である。しかも、 それは、閉鎖的な、団体利益擁護的な反応を引き起こすことにつながる統制の論理 にもとづくのではなく、財政的なものをも含むさまざまな責任や、発案や、奨励の 活動への参加の論理(ロジック・ド・ラ・パルティシパション)によるものでなけ ればならない。

 「学校」は教育の唯一の場であることは出来ないし、そうであるべきでない。 「学校」は、また、すべてを教えることはできないし、すべてを教えるべきでもな い。知識の伝達は、事実においても、権利においても、ただひとつの制度によって 独占されうるものではなく、さまざまな互いに補完しあう教育の場のネットワーク が考慮に入れられねばならない。「学校」の固有な役割がそのなかで位置づけられ るべきである。テレビのみならず、映画館、劇場、青年の家、文化会館など、学校 組織の外で行われる文化普及の活動の重要性の増大にともなって、学校の活動は、 他の手段によって行われるさまざまな文化活動の拡がりのなかに、意識的かつ方法 的に組み込まれるならば、その活動はいっそう有効なものになることができるので ある。全国的レヴェルにおいても、また小単位の地方のレヴェルにおいても、さま ざまな文化普及の形態を相互に関連づけ、少なくとも小都市においては、学校の活 動と、図書館、美術館、オーケストラといった、さまざまに異なる文化普及の制度 や機関の活動との、そしてまた、大学教授、芸術家、作家、研究者などさまざまな 文化の生産と普及の担い手たちとの連携を奨励すベきである。そのために今日、美 術界、学術界、職業界のさまざまな人物が、有給にせよボランティアにせよ、教育 に参加することを妨げそのような交流を阻害している、技術的、財政的、そしてと くに、官僚制的あるいは法律的(とくに民事責任の面における)諸障害を取り除く 必要がある。心理的抵抗を取り除くことについては言うまでもないことてある。文 化の生産者(研究者、芸術家、作家)と、文化の伝達者(教師、ジャーナリスト、 出版者、画廊支配人など)とのあいだの制度面および精神面での断絶は、文化的作 品の生産という面では、不可避的ではあっても、教育活動の面では、緩和されなけ ればならない。文化の真の創造者たちを学校教育の世界に招き入れること(その場 合、つねに教師達はそれを準備し、それらのひとびとのその時限りの参加を引き継 いで発展させる仲介者として、かれらを迎え入れる役割をもつのだが)は、[現実 にある]文化と学校文化との隔たりの大きいこと−−おそらくそれは部分的には解 消不可能なものだ−−を心に刻ませる効果をもつのである。

 学校の固有な役割と教育内容の選択の問題は、学校にたいして補完的あるいは競 合的関係にある文化普及の制度の総体とのかかわりにおいて再検討されるべきであ る。それは、重複を避けるためであり、さらに他の制度によっては代行不能な分野 に「学校」の活動がその努力を集中するためである。実際、「学校」は、繰り返し と棟習によってしか獲得できない、一般的で、転移可能な諸能力を習得させること に優先的に力を注がねばならない。じじつ、「学校」だけが、あらゆるメッセージ の理解、および、あらゆる知識の合理的統合、さらにまた、「学校」以外の手段で 多かれ少なかれ偶然に獲得され、それゆえにしばしば統一を欠いた、ばらばらな知 識あるいは半知識の批判的総合、といった知的働きの条件となる、思考の道具を伝 授することができるのである。
 教師達は、テレビ、演劇、映画、新聞によって供給される文化メッセージを反省 的・批判的に使用するよう訓練され、奨励されるべきである。たとえば、かれらは、 研修の一時期に、新しいコミュニケーション手段の技術についての教育を受けるべ きである。そのような教育によって、教師達は、ひとびとがそのことについて無知 である限りは、社会的に作り出されたメッセージやイメージに対してそれが自然で あり自明であるかのようにみせている様々な手法や効果(とくにモンタージュや撮 影技法)について、ひとびとに気づかせ、それについての知識を伝えることができ るようになるのである。
(私立の教育機関においてしばしば見受けられるような)情報やサービスの交換を 通じて、親たちと教育者とを結ぶ真の教育的共同体の成立を促進するためのあらゆ る努力が奨励されるべきである。そのことは同時に、教師の固有の権限の領域を限 定することでもある。開かれた学校は、一種の共同の家、異なる世代間の出会いの 場であり、異なった社会境遇の、とくに、例えば、読み書きを教える機会などを通 しての古くからの居住者と新たな移住者との間の、出会いの場となるべきである。 それは、とりわけ人口の小さな町においては、とくに高齢者や身体障害者を対象と した互助や救援の活動の機会に、あるいはまた、さまざまな世代を結ぶグループ活 動(芸術や、スポーツ、余暇クラブ、などの活動)を通して、責任や、連帯や、他 者の尊重の道徳を学び、実行することのできる場所となるであろう。公民教育はそ こに格好の実習の機会を見いだすのである。こうした集団活動は、じっさい、社会 生活を営むうえでの幾つかの原則を心に刻み込ませる機会となろう。それらは、集 団生活、より具体的には、ある共通の計画の実現に向かって活動するクラスの集団 生活は、各人が自らに幾つかの制約を課さないかぎり不可能であるとか、最低限の 規律なしにはおなじひとつの活動に共同で従事することはできない、といった原則 である。
 展覧会、映画・演劇、コンサートなどのような純粋に文化的な活動であれ、公共 の場所の美観、自然環境保護、動物愛護などに関連する活動であれ、公権力に委託 されている一般的[公共的]利益にかかわる活動のうちの多くのものが、学校制度 の中で、そして学校制度によって、あるいは学校制度の周囲で、組織されうるし、 それはまた、教育者たちに、かつてしばしばそうであったような、模範的リーダー としての社会的役割を再び与えることにつながるであろう。

 教師に、より充実し、より魅力のある役割を与えるための努力、さらにまた、学 校に社会生活の交流の中心としての役割を与えることによって教師の役割を社会的 に再評価するための努力と同時に、学術研究の進歩とテクノロジーの発達のために 知識が急速に変化し、専門分野が再編成され多様化する教育の世界にあって、技術 的教育学的力量を維持し刷新するために必要な継続的な現職教育もまた用意される べきである。個人的な再学習の活動は、直ちに特典と結びついてしかるべきものだ が、それはテレビ講座(「放送大学」)の系統的使用によってより容易になるであ ろう。
 教員の仕事は、困難で、ときには辛く消耗する仕事であり、情熱と信念を持って 実行されぬ限り、真に効果的で精神を高揚させるようなものでありえない。どんな 教育レヴェルの教師も、学校の閉ざされた空間の外へ出、研究所や企業などで研修 を受けたり、休暇年を利用して、個人的な学習や授業に出席して勉強しなおすなど して、定期的に習慣性[ルーティン]から抜け出すことができぬかぎり、心理的、 技術的摩滅から逃れることはできない。そして、おそらくは、年配の教師の希望者 には、希望と適性に応じて、行政的仕事や、(チューターや巡回指導員の活動といっ た)文化組織の仕事のような、あまり激務でない仕事でそのキャリアをまっとうす る可能性をあたえることも必要である。

 教育の内容に関しても、また、教授法についても、教師達にたいして、固有の強 い権限が与えられていることが、おそらく、あらゆる圧力団体から「学校」の自治 と教師たちの独立をまもる、唯一ではないにせよ最良の保証となるのである。

諸原則の適用について

 以上の提言は、とくに学校制度が追求しなければならない相対立する諸々の目標 のあいだの矛盾を乗り越える努力のなかに見られるように、楽観主義的な立場にさ さえられていることはたしかである。しかし「学校」の運用にかかわるあらゆる行 動が当然考慮しなくてはならないさまざまな拘束のあることをどうして忘れること が出来ようか。そしてまた、良き意図に満ちた言説[ディスクール]も、それだけ では最良の教育世界を作り出すには不十分である、ということを誰も忘れてはいな い。過去において、幾度となく、最良の意図にもとづいた措置が、追求されていた 目的とは正反対の結末に至ったのである。そして、われわれが、例えば、ルソーや ペスタロッチ以来、あらゆる改革者によって、倦むことなく称揚されてきた、経験 による学習の効用を想起するとき、制度は、それを変革すべく定められたすべての 方法を中和化し、歪めてしまうことのできるものだという思いから逃れることがで きない。たとえば、本当の教育上の革新を選定し、真の功績を評価する任務を担う 人々は、どのように選ばれればよいのか。まだ十分に活用されていない想像力と献 身の膨大な予備軍を、動員することができるような能力と活力のある責任者たちは、 いかにして見いだされ励まされればよいのか。しばしば、一般の人々の知るところ ではない、教育の仕事の技術的困難や仕事の劣悪な物質的条件のなかに、もっとも らしい論拠を見いだしてのおびただしい抵抗は、いかにして除去することができる のか。養成条件の明白な不平等性に目をつぶり、特別な準備もこれといった代償も なしに、最も若く、知識や経験に欠けた先生に、最も困難な仕事を任すことをゆる す形式主義的平等主義の落し穴はいかにして避けうるのか。
 教育に賭けられていることがらの重大性は、こうした社会的障害を乗り越えるた めにあらゆる手段を尽くすべきことを求めている。あらゆる教育レヴェルの教師達 の生活、研修、労働の諸条件を改善するために必要な努力と、彼らの功績に報いる ために欠くことの出来ない法制上の措置を、もうこれ以上先に延ばすことは出来な い。もうこれ以上、(図書館施設をはじめとした)固有に文化的な土台(施設設備) にたいする重要な経済的投資なしにすませることは出来ないのである。
 それと同時に、局部的ではあっても決定的な意義をもつ幾つかの実験的試みにす ぐさま着手する必要がある。すなわち、放送大学、カリキュラムの再検討と統一の ための委員会、放送大学と連携した教師の継続教育のための地方学院、ビデオ・カ セットおよびテレマティークを使った個別教育の実験チーム、文化指導員団体、職 業訓練の組織のための軍−大学委員会,教育テレビ、などである。[しかし]失敗 や見せかけの成功によって、打破することが目指されていた諸メカニズムがかえっ て補強されてしまうといった事態を避けるために、それらの試みは、その成功に不 可欠な物質的および知的諸条件がととのい、それを継続しさらに一般化することが 可能であることがはっきりして、はじめて実施されるべきである。

 教育するということは、ほかのすべての活動と同じような活動ではない。劣悪な 教師が、かれらに委ねられた生徒たちにまねく危険ほどに重大な危険の原因となり うる職業はまれである。そしてまた、教育ほど、美徳を、寛大さを、献身を、そし てとりわけ、情熱と公正な態度を前提とする仕事もまれである。最も優れた人々を、 すべての教育制度がつねに称揚してきたあの優秀な男女たちをひきつけ、その人材 を登用することへの配慮につらぬかれた政策だけが、若者達の教育者としての仕事 を、それがそうあるべきもの、すなわち、あまたのなかの第一の職業、にすること ができるであろう。

(注1)高等学校(リセ)のC科、S科・・・C科は数学・物理コース、S科は新制度 における科学コース。
(注2)DEUG....1e diplome d'etudes universitaires generales
(一般大学教育免許状)。DEUGのコースは大学一年・二年課程に当たる.
(注3)優先的教育地域 (zone d'education prioritaire,[Z.E.P.]。
一九八一年七月、ミッテラン大統領と革新政権のもとで、生活、教育環境の悪い地 域に重点的に教育条件を改善するための政策がとられるようになった。一九八五年 一月にシュヴェーヌマン文相は、通達を出して、これらの施策を八五年度から全国 的にすすめる方針を打ち出した。報告書はこのことを意識していると思われる。な お、同種の政策は一九六○年代のイギリスやアメリカで、 補償教育(compensatory education)ないしは、 格差是正の積極策(positive discrimination)として実施されてきたものと 重なっている。
(注4)原文のservice nationalは現行では十八歳、 一年間の兵役(service militaire)を中心とするが、大学生は二五歳まで延期でき、 また海外での二年間の協力活動(cooperant)を選択することもできる。
(注5)テレマティーク(telematique)−−通信・情報処理施設。
telecomunication(電気通信)と informatique(情報処理)の合成語。 ジスカールデスタン大統領時代に社会の情報化に対応する緊急提言がなされ、この 中で用いられたテレマティークという用語は、電気通信と情報処理の融合領域を示 す国際用語となった。

訳者
堀尾輝久
石田英敬・久仁子

転載者注:最後の注の部分で原文のフランス語の部分はコード変換が日本語と両立 しないようなのであきらめました.原文で漢字にカタカナのルビがふってある部分 は{}の中に入れています.

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