セッション3:これからの運動―大学のありかた、「中期目標」問題、労働協約問題、法廷闘争、教基法改悪問題との関連

【司会】 それではそろそろ始めたいと思いますので、廊下の方、着席をお願いします。 始める前にちょっとお尋ねですが、先ほども申しましたように、多分6時半ぐらいになるかと思いますが、懇親会を予定しておりまして、居酒屋ですから安い料金だと思っておりますが、先ほど紙を回しまして、名前を書いていただいたんですけど、これに書いておられない方で、出ようかという方がいらっしゃったら、手を挙げていただけますか。ではよろしいですかね。

 それでは最後のセッションを始めたいと思います。最後はお二人の方にお話をしていただく予定でしたが、水島さんが体調が不良ということで来られないということでしたので、代わり岡山先生にお願いします。それからもう一人、新潟大学の成嶋先生、お二人のお話を、一応15分ということで、非常に短い時間で恐縮ですけれども、していただいて、そのあと十分な時間を取って討論ということにしたいと思っております。

 5時過ぎごろに、櫻井充議員がいらっしゃいますので、そこでまた15分程度のお話をしていただきます.それからこのプログラムの時間が間違っておりまして、2時間ですから120分ですね.ですから70分程度の、1時間以上の議論の時間がございますので、十分議論していただけると思います。それでは早速、岡山さん、よろしくお願いします。

岡山茂 氏(アレゼール日本)

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【岡山】 アレゼール日本の岡山です。午前中もアレゼール日本について紹介させていただきましたけれども、きょうは発表する予定だった水島さんが体調を崩 して来られないというので、午前中の話の続きのような形でフランスの大学改革とそれへの反対運動の状況についてご紹介したいと思います。

 アレゼールというのは、1992年にパリで創設された大学教員の団体ですけれども、私たちアレゼール日本は彼らと会話することによって大学問題をよりよ く理解しようと試みています。

 フランスの場合、そもそもの出発点というのは1988年の段階でのコントラクチュアリザシオンと言われ四ヵ年契約制の導入だろうと思います。これは日本 と同じように(というより日本がフランスの真似をしたのですが)、それぞれの大学が自らの現状を分析して4年間の発展のための計画を立案し、それを元に国 民教育省と交渉することで、四年間にわたって自由に使える予算を手に入れるというシステムです。当初は予算全体の5%にしかすぎなかったんですけれども、 大学が自由にできる予算というのはそれしかなかったために、ほかの95%以上の重要性を持ったと言われています。

 88年に導入される以前にも、契約による予算の獲得というのはなんどか試みられました。しかしそれはうまくいかなくて、88年の導入が非常に有効であっ たと言われています。その理由はいくつかあります。まずそのころミッテランが再選されて、ロカール内閣が誕生するんですけれども、ロカール首相は教育を最 優先課題にすると発表しました。そしてリヨネル・ジョスパンが教育相に任命され、クロード・アレーグルがその顧問が就くわけですけれども、彼らが四年間コ ンビを組んで国民教育省を支配したということが大きかったといわれています。彼らは国民教育省のなかに新たな部局を創りました。大学開発計画局というのが それで、グルノーブル大学の総長であった人をその局長に据えました。彼は自分の手下をひき連れて乗り込んできて、かつてからある高等教育局を批判しまし た。高等教育局は自らの組織防衛のために大学をないがしろにしているというような批判を突きつけられ、適当な反論もできないままに凋落してしまうことにな ります。それから大学開発計画局は独自にゼロから中期契約のアイデアを練り上げて大学に説明しました。中期契約とは何か、よりよい計画とは何か、悪い計画 を出した大学にはどうするか、などを決めていったそうです。ゲームの規則を作って、それぞれの大学に期待されることを説明するということから始めたわけで す。

 次にジョスパン教育相ですけれども、88年の段階で彼は教育の脱中央集権化に反対であると見なされていました。しかも契約制というのは教育の私事化(プ リバティザシオン)とは異なると思われていたこともあって、組合の反対を引き起こすこともありませんでした。経済は好況であったし、ロカール首相が教育を 最重点課題としたために潤沢な予算が高等教育にもたらされて、反対はあらかじめ抑え込まれたということがあります。また、国会を通す必要のない省令として 通達を出しているんですね。もとより大学の自治を増大させ、補助的な予算を大学と交渉するというやり方は、大学側にも反対する理由がなかったということで す。

 このように大変巧妙なやり方で導入されたものですから、88年に導入された四ヵ年契約制度というのは90年代にしずかに浸透していくことになったわけで す。やがて契約による予算は運営費の10%までに拡大され、90年代半ばになると教育、研究、運営、管理のための予算がまるごと契約の対象になります。地 方分権の流れもあって中央の統制も緩くなり、一定の国家的な枠組みのなかではありますけれども、画一的で全国的なものであったフランスのシステムはかなり フレキシブルなものになりました。一定の国家的な枠組みというのは、国立大学の教職員は非公務員化されるという日本の状況と違って、フランスではいまでも 公務員のままであるということです。フランスでは実質的にはかなりフレキシブルなシステムになりながら、公務員の制度は維持されています。最も重要な予算 である人件費は国から今でも直接交付されています。イギリスやオランダやアメリカでは、それさえもそれぞれの大学の裁量に任されているんですけれども、フ ランスでは公共サービスとしての高等教育とリベラリズムによる活性化をできるだけ衝突のない形で共存させるような政策が採られていると言えると思いま す。

 ところがここにきて対立が激しくなってきています。リュック・フェリーという教育相が現れて、これまで水面下で進んでいたネオリベラルな政策が正面から 取り上げるようになりました。これがいま大きな反発を呼んでいるのです。

 どうしてこういうことになったかというと、第一に、88年の段階でジョスパンとアレーグルのコンビが契約制を導入しましたよね。それから10年後の 1998年になると、ジョスパンが首相となり、クロード・アレーグルが国民教育大臣となって、さらに改革を推し進めようとしたです。98年にはソルボンヌ 会議が開かれ、ドイツ、フランス、イタリア、イギリスの教育相を集めて高等教育のためのヨーロッパ空間を作るという宣言がなされました。翌99年にはボ ローニャ会議が行われて、その方針に30カ国ほどが署名しています。もう終わったと思うんですけど、ベルリンでいま行われている会議では、ボローニャ以後 の4年間の動きが総括されようとしています。いまや40カ国が署名していると言われます。つまりフランスが作った路線が、アレーグル、そのあとラング、そ れからフェリーという教育相によって基本的には継承されているわけです。リュック・フェリーは今年の5月に改革案を発表したんですけれども、組合側などの 反発によって法案はこの秋に再提出ということになっており、これからの状況が注目されています。

 第二に、財政赤字を削減するという要請があるなかで教育予算が絞られているということがあります。リュック・フェリーは大学が総合予算というかたちで、 自分たちの優先事項に即して予算を決められるようにし、人件費さえ自由に使えるようにすると言っていますが、そういうネオリベラルな政策に組合からの反発 がおきているわけです。例えば定年退職で空いたポストの人件費を学長の裁量でほかの予算に回せるようになったりするわけです。しかしそういう「自由」を大 学に与える代わりに、大学は自らの使命への責任を果たさねばならないとフェリーは言います。たとえばこの春にパリ第11大学では、予算の節約のために一週 間大学を閉鎖するという過激な対応に出ましたが、そのようなことがないように大学の責任をきびしく追及していくというのです。さらに地方との連携を深める ことも求めているし、大学の国が交わす四ヵ年契約に地方もパートナーとして加わることを求めてもいます。それともう一つ、教員のステータスの見直しです。 これまでフランスの大学教員には年間192時間の講義義務だけが定められていたわけですけれども、これからはそういう講義義務以外にも大学ごとにそれを変 更できるシステムにすると言っています。

 最後にヨーロッパの大学空間を創るためのシステム改革です。LMD(リサンス・マステール・ドクトラ)という三つの学位でヨーロッパの大学システムを統一 するといいます。そのために単位の数え方まで画一化されて、それぞれの大学の自治が骨抜きにされようとしています。学生数が1万5000人以下の大学は ヨーロッパレベルでの競争に打ち勝つことは難しいので、統合や吸収の対象になるということも、とりわけ地方の大学を不安に陥れています。

 こういう政策を推し進める背景には、いま改革しないとアメリカの思いのままにヨーロッパの教育市場が荒らされてしまうという危機感があります。改革派は むしろそのような危機感を煽りながら改革の必要性を訴えているのです。じっさい分校とかバーチャル・ユニバシティとかという形で、どんどんアメリカの大学 がヨーロッパに入ってきているわけです。しかしヨーロッパの大学空間を創造するとはいっても、98年以来のフランスの高等教育政策はナポレン的であるとと もに、むしろアングロサクソン的でもあるようなネオ・リベラリズムを隠しているのです。アレゼールはむしろ、ナポレオンに抵抗しながら中世以来の大学を近 代に蘇らせようとした19世紀初頭のドイツの大学をモデルにしながら、大学人が国境を越えて連帯することによってヨーロッパの大学を実現させようとしてい ます。彼らの提案する改革へのオルタナティブは、ヨーロッパの多様性を擁護するものです。それが受け入れられるかどうかはいまだわかりませんが、彼らの視 点がいまの改革の無謀さを批判する上で有効に機能するものであることは確かだと思います。簡単ではありますがいまフランスで進められている大学改革と、そ れに対するアレゼールの立場を説明いたしました。(拍手)

【司会】 どうもありがとうございました。もし簡単な質問がございましたら。

【蔵原】 工学院大学の蔵原です。最後におっしゃった、統一的な理念での改革を目指しているという中身のところを、もうちょっと。ナポレオン的というのもよくわからないんだけど、具体的には何を行うんですか。

【岡山】 フランスでは中世以来の大学は大革命によって廃絶させされたわけですね。そのあと、ナポレオンが出てきて大学を復活させるのですけれども、その ときにナポレオンは、大学を学部ごとにバラバラにしちゃった。つまり大学という枠組みを壊してしまったわけです。その一方で、グランド・ゼコールというた いへん実学的な高等教育システムを充実させました。ところでナポレオンに占領されたプロシアにおいては、そのようなフランスに抵抗するためにベルリン大学 が構想され、教育と研究を基礎にした近代的な大学を成立させたわけです。ですからナポレオン的な高等教育システムへのアンチテーゼがベルリン大学であった ということになります。そして普仏戦争に負けたフランスは、第三共和政のときにドイツのモデルを導入して大学を再生させました。19世紀末に再生したこの フランスの大学が、それから100年後のいまグローバリゼーションのなかで危機に瀕している、という認識がアレゼールにはあるのです。彼らはドイツとフラ ンスの大学人が共有できる大学の理念があり、それを共有したうえでそれぞれの伝統を守ることもできると考えています。そしてそのような考えをもつ大学人の 連帯を、ヨーロッパ規模で推し進めようとしているのです。それが彼らなりのグローバリゼーションへの抵抗であるということになります。

【司会】 どうもありがとうございました。それでは続きまして、成嶋先生にお話をお願いしたいと思います。レジュメがあったと思いますが、ではよろしくお願いいたします。

成嶋隆氏 (新潟大学法学部/日本教育法学会会員)

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【成嶋】 新潟大学の成嶋です。「国立大学法人法と教育基本法『改正』問題」と題した、A4両面刷りで3枚、6ページのプリントを用意しました。ほぼ、このペーパーにそって話をいたします。

 午前中の豊島さんの報告のなかで、「教育行政や教育法を専門とする人々の〔法人化問題に対する〕反応が鈍かった」というご指摘がありましたが、まさにそのとおりであります。私は日本教育法学会に属していますが、教育法学会が法人化問題の重大性について十分に自覚していたとはいいきれません。その点での《自己批判》をふまえて、お話しさせていただきます。

 話の内容は、法人化問題が、現在具体的な政治日程にのぼっている教育基本法(以下、教基法)の「改正」問題とどのようにかかわるかということであります。結論からさきにいいますと、私は、国立大学の法人化が教基法改正(改悪)の《突破口》ないし《露払い》の役割をはたすことになる、とみております。その理由を、以下に述べたいと思います。

 まず、法人法の問題点については、資料の「I 国立大学法人法の主要な問題点」に示しましたのでご覧ください。これはみなさんご承知の内容ですので、説明は省略します。

 次に、資料の「II 教育『改革』における高等教育・科学技術『改革』の位置」というところですが、ここでは、現在の全般的な教育改革において高等教育改革ないし科学技術改革が、相対的な重点となっているということを指摘しました。具体例としては、80年代の臨教審改革があります。この改革は、高等教育および学術研究の分野から着手されております。また、教基法改正を提言した今年3月の中教審答申にも、そのことがうかがえます。たとえば、答申の「第2章 新しい時代にふさわしい教育基本法の在り方について」の「1 教育基本法の改正の必要性と改正の視点」の項では、「21世紀を切り拓く心豊かでたくましい日本人の育成」という観点から必要とされる理念・原則として、まず「(1) 信頼される学校教育の確立」をあげ、その次に「(2) 『知』の世紀をリードする大学改革の推進」をあげています。そして、その部分の解説ではこう述べています。―「これからの知識社会における国境を越えた大競争の時代に、我が国が世界に伍して競争力を発揮するとともに、人類全体の発展に寄与していくためには、『知』の世紀をリードする創造性に富み、実践的能力を備えた多様な人材の育成が不可欠である。そのために大学・大学院は教育研究を通じて重要な役割を担うことが期待されており、その視点を明確にする。」このように、高等教育改革は現在の教育改革の背景にある《メガ・コンペティション時代における国際競争力の強化》という命題に直結しており、その意味で、この分野は教育改革のなかで相対的な重点となっているということがわかります。

 次にすすみます。ここからは、国立大学の法人化が教基法改悪の突破口となりうる《内在的》な理由を、いくつかの点について述べたいと思います。

 国立大学法人法は、教基法の規範といろいろな面で緊張関係にありますが、ここでは3つの条文に即して、その点を指摘します。

 まず第1点は、教基法10条との抵触という問題です。教基法10条というのは、次のような規定です。

 教基法10条
 (1) 教育は、不当な支配に服することなく、国民全体に対し直接に責任を負って行われるべきものである。
 (2) 教育行政は、この自覚のもとに、教育の目的を遂行するに必要な諸条件の整備確立を目標として行われなければならない。

 1項と2項の、それぞれ最初の部分にご注目ください。1項は「教育は」、2項は「教育行政は」という書き出しになっています。1項でいう「教育」というのは、日常的・具体的な教育実践のことをさしています。大学でいえば日常的な教育研究そのものをさします。その「教育」が「不当な支配」に服さず、国民全体に対して直接に責任を負って行われなければならない、というのがこの条文の趣旨です。これらを、私は「自主性」原理および「直接責任」原理と呼んでおります。

 前者の「自主性」原理については、「不当な支配」の主体はだれかという論点があります。この点については、教基法の制定に実務レベルでたずさわった当時の文部官僚の書いた『教育基本法の解説』という書物(1947年発行)―これは、教基法の「立法者意思」を示した書物です―が参考となります。そこでは、戦前の教育行政における官僚支配、とくに文部官僚による教育内容支配に対する批判と反省が述べられており、それをふまえたのが、この「不当な支配」の禁止規定であるとされています。つまり、「不当な支配」の主体として真っ先にあげられるのは文部官僚であり、教育行政当局による教育への「不当な支配」こそが禁止されているということなのです。

 次に後者の「直接責任」原理ですが、これは、親を中心とする国民からの信託を受けた教師(集団)が、専門職能の発揮をとおして直接的に信託に応答する、そういったかたちで責任を果たす、という意味です。この「直接責任」原理について政府・文科省は、そのほんらいの意味をねじ曲げる解釈を行っています、つまり行政解釈は、「教育行政機関が教育内容をきちっと統制することによって、国会をとおして主権者国民に責任を果たすことができる」という論法をとっています。私は、この理屈を《間接的行政責任》論と名づけていますが、これは教基法10条1項の趣旨とはまったく別物です。

 教基法10条2項は「教育行政」が主語になっています。この条文で大事なことは、教育行政の任務が外的な条件整備に限定されているという点です。いいかえれば、教育のいわゆる「内的事項」つまり教育の内容や方法については、行政はタッチしてはならないということです。行政は、学校の設置、施設・設備の整備、教職員の配置あるいは教育財政の確保といった、教育の外的な諸条件の整備に専念しなければならないというのが、10条2項の趣旨なのです。

 この教基法10条にてらして、国立大学法人法にはどのような問題点があるでしょうか。同法は、文科相が各大学の「中期目標」を決定し「中期計画」を認可する、これらの「達成度」が評価委員会の評価にかけられ、その結果にもとづいて運営費交付金の配分や組織・業務の改廃が決められる、というシステムを導入しています。このような国家統制のしくみは、戦前の日本の大学制度にはなかったものであり、諸外国にもこういった例はみあたりません。実際、国会審議でも「外国の例はあるか」という質問に対し、文科省は答弁できませんでした。諸外国との比較においても、きわめて異常なものであるということがわかります。

 初等中等教育に対する現在の国家統制のしくみと比べた場合はどうでしょうか。初等中等教育に対しては、学習指導要領や検定教科書による教育の国家統制があるわけですが、このうち学習指導要領による教育内容統制について考えてみます。学習指導要領は、文科相が教育課程の国家基準として公示する文科省の告示ですが、裁判所の解釈では、学習指導要領は、それが「大綱的基準」つまり大枠の基準にとどまる限りで、かつ特定の教育実践を強制するものでない限りで、法的な効力をもつとされています。文科省自身、最近では学習指導要領を「弾力的に運用する」といっております。ですから、たしかに学習指導要領による教育実践に対する《縛り》はありますが、それは、個々の学校におけるパフォーマンス、つまり学習指導要領の《達成度》が《評価》にさらされ、それにもとづいて予算が重点的・選別的に配分されるというシステムではないわけです。これと比べますと、国立大学法人法におけるさきのようなシステムは、初等中等教育に対する現在の国家統制のシステムに《勝るとも劣らない》ものであるということができます。この点について、教育社会学の中田康彦氏は次のような指摘をしています。これは、今年4月に行われた「教育学関連15学会共同公開シンポジウム」における中田氏の報告のなかでの指摘です。それによれば、従来の学習指導要領などによる教育の管理は「プロセスの管理」であったが、最近ではそれに加えて「評価による管理」の手法が、一種の「上乗せ」として登場してきた。「このような管理手法の上乗せが最も典型的に現在現れているのが、国立大学法人化だ」とされています。重要な点は、このような《新手》の管理手法が、教基法10条に真っ向から反するということです。つまり、国立大学法人法のしくみは、教基法10条と強い緊張関係をもつということです。

 国立大学法人法と教基法の緊張関係を、次に、同法の6条2項についてみてみます。教基法6条2項とは、次のような規定です。

 教基法6条2項
 法律に定める学校の教員は、全体の奉仕者であって、自己の使命を自覚し、その職責の遂行に努めなければならない。このためには、教員の身分は、尊重され、その待遇の適正が、期せられなければならない。

 とくに注目していただきたいのは、この条文の後半です。教員の職責が十分に果たされるよう、その身分の尊重と待遇の適正が期せられねばならないとしています。この条文との関連ですぐに思いつくのは、法人化にともなう国立大学教職員の「非公務員化」の問題です。国会の審議でも、一律非公務員化の「法的根拠」について政府は答弁できませんでしたが、まさに説明のつかない、一方的な身分の剥奪です。法人化後は、国家公務員法・人事院規則・教育公務員特例法などは適用されず、一般労働法制のもとで、極端にいえば教職員の身分保障の問題は、就業規則レベルにまで、いわば《格下げ》されます。身分問題に関して一種の法的な《空白状態》が生じるわけです。これらのことは、いずれも教基法6条2項に真っ向から反します。

 これに関連して、運営費交付金の配分の問題でも気になることがあります。運営費交付金は「標準運営費交付金」と「特別運営費交付金」との2本立てになっていますが、後者の特別運営交付金の配分を受けるためには、「特色ある研究教育」を実施すること、あるいはその面での実績をあげたことを証明しなければなりません。もしそれを示すのが不可能な場合、あるいは6年後の評価でそういう研究教育が行われていないという評価がなされた場合には、《組織的なリストラ》が行われることになります。これは教員の身分を極度に不安定にするもので、もちろん教基法6条2項に反します。

 次に移ります。国立大学法人法と教基法3条1項との緊張という問題です。教基法3条は教育の機会均等について定めた条文で、次のとおりです。

 教基法3条
 (1) すべて国民は、ひとしく、その能力に応ずる教育を受ける機会を与えられなければならないものであって、人種、信 条、性別、社会的身分、経済的地位又は門地によって、教育上差別されない。
 (2) 国及び地方公共団体は、能力があるにもかかわらず、経済的理由によって修学困難な者に対して、奨学の方法を講じなければならない。

 この条文については、「法の下の平等」を定めた日本国憲法の14条1項との違いを確認する必要があります。憲法14条1項では、差別が禁止される事項(差別禁止事由といいます)が5つあげられています。「人種」「信条」「性別」「社会的身分」そして「門地」です。これに対して教基法3条1項では、これら5つにプラスして「経済的地位」というのが入っています。教基法の立法者は、経済的地位によって教育の機会が左右されてはならない、つまり教育の機会が平等でなくてはならないということを、1947年の時点で条文として盛り込んだわけです。これは教基法立法者の《卓見》であるとみることができます。この条文にてらした場合、国立大学の法人化でほぼ確実に予想される授業料の値上げ、学費の値上げが、大きな問題点として指摘されねばなりません。このことが高等教育を受ける機会の不平等をもたらすことは明らかであり、その意味で教基法3条1項と緊張関係をはらむことになります。

 なお、教育の機会均等について、国際人権規約という国際条約(日本は1979年に批准)でどう定めているかを紹介しておきます。この条約にはA規約およびB規約の2つがありますが、A規約の13条1項cに、「高等教育は、すべての適当な方法により、特に、無償教育の漸進的な導入により、能力に応じ、すべての者に対して 均等に機会が与えられるものとする」という規定があります。現在、日本では初等教育と前期中等教育(義務教育の部分)が無償となっていますが、この条約では、高等教育についても無償教育を漸進的に、少しずつ導入することによって機会の均等を保障せよと定めているわけです。ところが、日本政府は1979年にこの条約を批准する際、この部分について《留保》しています。つまり日本政府は、高等教育については無償にしないということを宣言しているのです。国立大学法人法が経済的地位による教育機会の格差を事実上容認しているのは、このような事情も背景にあるのではないかと思います。

 次の論点に移ります。資料で「基本法―基本計画スキームの先取り」とした部分です。ここでは、次のようなことを問題にしています。

 教基法の「改正」を提言した3月の中教審答申では、教基法の「見直し」と同時に、「教育振興基本計画」を策定する根拠となる規定を同法に盛り込むことを提案しています。これが、たいへんな《くせもの》であります。

 現在、「基本法」という名称をもつ法律は20数本ありますが、そのいくつかでは、まず「基本法」を制定し、その基本法にもとづいて「基本計画」を策定するという手法がとられています。それを、ここでは「基本法―基本計画スキーム」と呼んでいるのですが、この方式を教育の分野にも導入すべきである、というのが中教審答申の趣旨です。従来も、いろいろな「教育計画」はありましたが、これらはすべて《文科省限り》の計画でした。「基本計画」となりますと、これは閣議決定を経て決められるものであり、政府全体の国家計画に《格上げ》されます。そういう方式を導入すべきであるというのです。

 このことがどういう問題をもつかについて、いくつかの発言を紹介します。まず渡辺治氏の発言です。渡辺氏は、60年代ころから「基本法の性格が変わってきた」と指摘しています。つまり「特別に重視すべきだと考えられるにいたった政策領域に基本法をまず設定して、それについては特別の行政上の配分、公的資金の配分をそれでもって正当化する」という手法がとられてきている。文科省は、教基法にこのような性格をもたせようとしている。「具体的には、新しい教育基本法のなかに教育振興基本計画を策定することを謳い…、文部科学省が推進しようとする新しい格差的なエリート養成のための教育改革のための財政的な保証を正当化しよう」としている、というわけです。教基法が改正されれば、そういった機能を新教基法が果たすことになるだろうというわけです。

 私も、雑誌『世界』に寄せた論稿などで、次のように論じました。―「基本法―基本計画」のスキームは、政府肝入りの審議会答申等を《隠れみの》として、実質的に官僚主導で策定される国家計画が一定期間の政策・行政を《先取り》するという事態をもたらす。「計画」が「法律」よりも上位にたち、逆に立法や予算編成を誘導するという事態である。このような事態を、ある憲法学者は「計画国家」あるいは「計画行政」と呼んでいるが、そこでは、国民代表機関であり唯一の立法機関である国会が、計画の策定に関与できず、すべて行政機関に《丸投げ》とされる。具体例として「科学技術基本法」にもとづく「科学技術基本計画」の場合をみると、01年度からの第2期計画には、24兆円もの膨大な国家予算が投入されているが、計画にもとづく重点研究分野の指定や予算の配分あるいは研究評価システムの構築などは、すべて内閣府におかれた総合科学技術会議が担当している。その総合科学技術会議には90人もの省庁からの出向者が事務局スタッフとして送りこまれており、計画の策定から実施にいたるまで官僚主導が貫徹している。このように「基本法―基本計画」のスキームは、きわめて反憲法的な事態をもたらす。―

 国立大学法人法について、その立法手法の違憲・違法性という問題についても指摘しておきます。同法の制定は、立法作法ないし立法手法という点からみても、憲法規範に反するところがあります。問題は2つあります。

 1つは、法人法案が閣議決定される前、あるいは与党審査に付される前の段階で、文科省が全国の国立大学に「中期目標」「中期計画」の「原案」作成を指示していたという事実です。これは、立法府の審議権を無視したやりかたであり、明らかに行政府の越権です。もう1つは、衆議院で10本、参議院では23本も採択された附帯決議の問題です。とくに参議院の23本の附帯決議というのは、おそらく国会史上でも初めてのことだろうと思います。多数の附帯決議がついたこと自体、この法律の問題性を浮き彫りにしています。6月に出された教育法学会会員有志の声明でも、「付帯決議によって加えられた修正は、法律ではないがゆえに、法の執行の段階で考慮されることなく、修正としての意味を持たない場合が多い。付帯決議によって国民代表の意思が法律の執行段階で反映されると考えるのは幻想である」と、その問題点を指摘しています。附帯決議がついたこと自体が、この法律の欠陥を象徴しているのです。

教基法の「改正」問題について、もう1点だけつけくわえます。そもそも教基法改正の話が持ちあがったのは、2000年の12月に出された「教育改革国民会議」の最終報告からです。この「教育改革国民会議」というのは、故小渕首相、次いで森前首相の私的な諮問機関であり、正規の審議機関ではありませんでした。また、そこでの議論は非常に低級なもので、教育学者の佐藤学氏から「飲み屋談義」と酷評されるようなしろものでした。そういった低級な議論の末に、教基法の「見直し」の提案が突如として出てきたわけです。その後、文科省は「国民会議」の提言を受け、これを具体化する法案を次々に提案します。これらの、いわゆる「教育改革関連6法案」は、2001年の国会ですべて成立しています。この法改正により、「不適格教員」の排除、問題児童・生徒の出席停止、「奉仕体験活動」の導入などが定められました。これは、明らかに教基法「改正」を内容的に《先取り》するものです。この間の経緯は、まったく国民に責任を負わない私的な諮問機関の提言したものが立法化され、教基法の実質的な改悪が行われる、という由々しき事態が進行していることを示しています。

 いいたいことは、まだたくさんありますが、時間がありませんので、ひとまずこれで、私の問題提起を終わります。(拍手)

【司会】 どうもありがとうございました。ただ今の話について、特に短い質問がありましたらお受けしたいと思います。

 それではこれから討論をということで行きたいと思いますけれども、たくさんの方に発言していただきたいと思いまして、5分を超える場合には、あらかじめ、前もって予約するということでお願いしようかと思います。

 最初にちょっと、朴先生に質問したいんですけども、軍事政権から新自由主義へということで、いきなり山から川へとおっしゃいましたけれども、しかし私が聞いたところでは、教授組合というのが合法化されていないというふうに聞きました。それは新自由主義とは相容れないものだと思うんですけども、その点で教授組合の活動はどういう制限があるのか、あるいは実際に解雇の危険とかあるのか、そういう組合の活動の条件というものについてお話しいただければと思います。

【宋】 (校正未了)

【司会】 どうもありがとうございました。それではご自由に発言をお願いしたいと思いますが。すみません、マイクを回してください。

蔵原清人氏 (工学院大学)

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【蔵原】 工学院大学の蔵原です。私は私立大学の所属で、私立大学の組合の東京私大教連が設立している高等教育研究所の事務局長をしております。きょうの発言は個人の責任でさせていただきたいと思います。

●──国立大学法人制度の問題

 プリントの用意をしていただきましたのでそれを見ていただくこととして、要点だけお話ししたいと思います。1つは4ページ目からのところで、国立大学法人と学校法人の比較検討ということで先日研究会を行いました。法案全体の問題については既にいろいろな方が議論されているとおりでその点について私も全く異存はないですが、教育法学の方にあえて言うとすればこの法律の条文の検討をぜひ専門家の立場でやってほしいと思います。私はもともと数学教育の研究者ですけれども、高等教育の研究をしなければならなくなっています。是非専門の方が研究を進めてほしいと思います。また私立学校の学校法人の制度の改革ということで、今、文科省の大学設置・学校法人審議会で検討を進めていますので、それへの対応も急がれます。

 前には国立大学の関係者の間で国立大学法人になると私立と同じになるという見方がありましたが、国立大学法人は私立の学校法人とはかなり違う組織だということをはっきりさせてほしいと思います。国立大学法人は学長の権限が非常に強いということは既に指摘されているとおりですけども、これは私立の場合の理事長と兼務という程度のものではないということです。つまり国立大学法人の学長の立場というのはオールマイティーで、理事も全部学長が指名できる、ほかにも評議会、協議会の委員も学長が任命できるというシステムです。学長が直接かかわらないのは監事の選任ですね。監事は文部科学大臣が任命するというシステムになっています。私学ではそんなことはありません。私立学校法の規定では、理事長が先ではなくて、理事が先で、そのなかで理事長を互選するという形ですね。ただオーナー大学では、実際的にはワンマン経営者がたくさんおりますけれども、制度論での位置付けとしてはそうなっています。

 国立大学法人では経営評議会とか教育研究評議会がおかれています。これらは学外者の参加という点でも問題はありますが、私立と比べて1つ大きな点は経営協議会も教育研究評議会も法人機関だというところですね。私立には評議員会というのはありますけども、それは学校法人の経営に関する話であって教育研究のことはやらないのです。けれども国立大学法人では法人機関である教育研究評議会があって、そこで教育や研究の基本方針を決めるということが決められています。このことはどういうことなのか、非常に大きな問題だろうと思うんです。

 今の日本の学校制度は、設置者と設置される学校を基本的に区別しているのですけれど、今回のこの国立大学法人の制度は設置者と設置される大学の区別をしておりません。国立大学法人法の第2条に「国立大学を設置することを目的とする法人」と書いてありますが、これは私に言わせれば全くのごまかしで、第1条には「設置し、運営する」ということが入っているわけですね。ほかのほかの条文をすべて検討しても、国立大学を運営するというところまで国立大学法人の責任に入れています。これは私立ではない規定です。もちろん実態としてそのようにやっているところはありますけど、現在の制度はそうではないのです。

 私立学校の経営陣はこの国立大学法人と同じように、私立学校の学校法人の仕組みを変えたいと思っていますので、国立と同じように理事会なり役員のレベルと教授会との関係、権限関係いかんということが、すぐに問題になると思います。今でも現実には多くの私学でそれが問題になっておりますけれども、そういう意味では国立大学法人の規定は非常に進んだというとおかしいですが、今の政府の言っている改革の方針は今後の大学の直面する方向を示すものであるというところを見ていただきたいと思います。

 それから、学長選考会議というのもあります。これはレジメに書くのを落としたことですが、これも法人機関ですから、今までは大学側が選考した学長を任命するという形ですが、国立大学法人では法人機関が学長を選考するという形になります。法律上からは学長選考に大学の教員、職員が参加するということは予想されていないということですね。こうした状況の中で大学の自治をどう確保し広げていくかということが大きな課題になると思います。

 財政の問題でも私学と全然違う点はいろいろあります。1つだけ言いますと、私学の場合、もし学校法人を解散しますとその財産は最初に寄付した人たちが取り戻すということができないシステムができているんですね。ところが国立大学法人法を見ますと、準用される通則法で廃止については別途法律で定めるということになっていますが、中期計画終了時の剰余金の処理など最終的な残余が出たときには国庫へ納付するというようなことがあります。そういうことを見たとき、もし万が一、国立大学が廃止されたときにほかの大学と統合するということはあるかもしれませんけども、そうでない場合に廃止される国立大学の財産をすべて国庫に回収する可能性があることになります。

 私立の場合にどうなっているのか。学校法人の定款を寄付行為といいますが、それらの財産は寄付をしたんだということが前提です。それで、いったん教育文化の財産として支出しているものは、社会全体のなかで教育や文化のためだけに使おうという考えがあるんですね。だから私学の場合、残余財産はどこか引き受ける学校法人に引き渡す、そのような学校法人がないときにはいったん国庫に入ってそのあとまた教育研究のために支出するというところまで法律で規定されています。しかし国立大学法人法にはそういう規定が全くないのです。

●──今後の運動の視点

 以上のような理解を踏まえてのことですが、2のところの、「今後の運動に必要な視点は何か」というところで、3つほど書かせていただいております。

 1つは、今の国立大学法人制度の下での制度的保証はないのですが、その中でも大学の自治というものをどういうふうに追求するかという問題があると思います。どんなに学長なり役員なりの権限が強くても、大学というのは実態的に教職員、学生が動かなければ進まない組織だと思います。そうでなければ教育研究ができない組織ですから。国立大学を国立大学法人にしても、そこを排除して専断的な運営をするというところまではなかなか行き切れないというのが、この制度の推進側にとっても大きな困難だと思います。国立大学法人では法の上では教育研究評議会や経営協議会、あるいは役員会という名前が出ていますが、実態的には学長がすべての権限を握っていますので、学長とその大学の教授会との権限関係というものがすぐに問題になってきます。学校教育法の59条を改正して教授会の権限を縮小しようという動きもありますが、少なくとも現在は、重要事項は教授会で議論しなければならないわけで、教育研究評議会の課題、業務として書かれているような、例えば教育課程編成の方針を決めるとか、人事問題をやるとか、そういうことを全部教授会から取り上げるということは、これは今の法律関係としてできません。それから実態としてもそうすることは無理ですよね。そうだとすると、教育研究評議会が決める前に教授会が意思表示をし、それに基づいてその意思を尊重して教育研究評議会が決め、また学長がその決定を尊重するというような縛りを考えることが必要ではないでしょうか。これは行政との関係でどこまでできるかという問題はありますけれども、そういうことも含めて大学の自治論を深めることが必要ではないかということです。

 それから2つ目は、高等教育に対する国の責任を明確に追求するということを書いています。学校教育法第5条との関係で財政は設置者の責任ということで、設置者が国立大学法人になったから国はお金を出さなくなる、国立大学法人が財政の責任を持たなければならなくなるという議論があります。確かに政府はそうしたいのでしょう。しかしこれは法律の文言から見た形式的な議論に過ぎないと思います。ここに入りこんではいけない。こうなれば私立大学の国庫助成というものも根拠がなくなるわけです。同じように国立大学法人の財政も国が出さなくていいということになるのではないでしょうか。

 国立大学法人法をよく見ますと、あくまでも実態としては国が設置し、国の方針、目標に沿った運営をすることが要求されています。国が実質的なオーナーだということを否定しようがない規定ですね。それがいいかどうかは別ですが、このことは学校教育法第5条の規定をどう読むかにかかわらず、実態的な設置者として国がある以上は国が財政を負担するというのは当然のことでしょう。それが国民的な常識の線だと思いますがどうでしょうか。

 それで、国立、公立の問題は、私立も実態的にはそうなんですが、教職員と設置者当局との関係の内輪の戦いにしたらなかなか勝ち目はないですよね。それでだれを味方に引き入れるかが重要になりますが、学生とか卒業生、地域の人たち、社会の人たちにどう支持してもらうかが大切になります。また労働条件を改善する組合の役割が重要になってきます。それを通して教育研究および生活の条件の改善につながります。そのとき、国が国立大学の設置について実態的な責任を負わないシステムとして運用することはとんでもないという声をいろいろな社会層から出さなければいけない。そのことが今後、非常に大事になっていくのではないかと思います。

 今のこの国立大学法人という構想は、実態的には政府の特殊法人としての位置付けにすぎないのではないでしょうか。要するに国立大学法人は政府の行うべき施策の丸投げ機関でしかないわけで、国立大学というものの実質的な運営をどう考えているか、というよりほとんど考えてない制度設計ではないでしょうか。もちろん教職員の側がそれを認めるかどうかというのは別な話です。実態的にはあくまでも教職員や学生が取り組まなかったら進まないのが大学ですので、そのことを強く主張する必要がある、アピールする必要があるのではないかと思います。

 それからもう1つ、今度の法律は政府の判断だけで国立大学の存廃が決定できる仕組みになっています。歴史的に見たときに、これは明治からの官立大学の実態と全く乖離する制度設計ですね。つまり、今ある国立大学というのは、大部分のところと言っていいでしょうが、地方の公立専門学校が移管されたものです。さらにたどれば私立から移管したものもあります。このような地域の民衆の財産が結晶したものを国に運営してもらう(財政の負担をしてもらう)ために戦前では官立大学、戦後は国立大学になったのです。だとすればその存廃を政府の政策判断だけで決めることが妥当かどうかという議論を起こさないといけないのではないでしょうか。つまり、地域にとってその大学は不可欠の存在なんですよ。国立大学は歴史的にみたとき地域の力によって形成されてきたのです。だから国民のみなさんはみんな支持をしていたわけです。もちろん私立だってそういう面もありますが。

 ですから、そこのところ、国立大学だから、国や財務省が大きな力を持っていると見たらもう最初から負けですよ、負け戦をやるということでしかないと思います。そうではなくて国立大学の廃止は国民の財産を勝手に処分して、財務省が回収し何に使うかわからないという使い方になるのです。そうしたやり方でいいかどうか、そうではなくて国立大学の存廃は地域の自治体や住民、諸団体、機関などの総意によって決めるべきだという思うのです。このことは強く問題を投げ掛けなければいけない。

 国立大学法人の問題として教職員の身分ということも重要な問題ですが、国民に対して問題を投げかけるとすれば以上述べた3つのことを特に訴えたいと思います。

●──運動の進め方に関して

 運動の仕方についてもいろいろ書きましたけども、ここに書かなかったことを1つだけ申し上げます。私立もそうですけど、自分の大学の良いところはどこなのかということを、自信を持って言う、これは管理者だけじゃなくて、一般教員なり、組合なりがしっかりそこで主張しないとならないと思います。今、世間はどういう目で大学を見ているかというと、自分の大学のいいところが言えない大学は大したことじゃないという評価を、冷酷に出しています。たとえば国立の今までもそうですけど、学生募集しなきゃいけないというときに、募集されるほうの学生、受験生たちはほかの大学と並べて見ているわけですよね。だから、ほかの大学をけなす必要はないけど、自分の大学の特徴はここにあるということを言わなかったら、大した特徴もない大学だって、みんな見ますよ。これは国立だって同じです。

 私は大学で白書の編集委員をやってますけれども、会議を開いても自分の大学のこの間の活動でいいところという話が会議のなかでなかなか出てこないんです。これでは自分の大学をアピールしようにもできません。(中略)それぞれの大学が今までつぶれなかったということは、それだけいいことをやってきて実績が評価されているから受験生が来ているんですから、それはどこにポイントがあるかということを明確に出さないと、これから先、大学は国民から見放されるのではないでしょうか。

 国立大学法人化の反対運動の初期の段階では国立大学法人化もいいじゃないか、少しいじめてあげれば、私立はもう前からやられているからお手並み拝見という気分も正直言って私立大学の教員の中にありましたけど。もちろんこれは問題の所在がわかっていないからですが一般の国民の感覚も同様ではないかと思います。ですから国立大学が、明治からどう地域に貢献して日本の文化や経済、教育やそのほかを築き上げてきたかということを、自信を持って言ってほしいんです。言わないとみんなわからないのです。もしかして、一番わかっていないのはなかにいる教師たちかもしれません。自己改革という意味ではそういう認識の改革が必要だと思うんですけど。

 大変失礼なことを申し上げましたが、日本の大学というものがどう役割を果たしているかといえば、世界のなかでもすごく大きな役割を果たしていると思います。しかし大学人が自信を持ってないと、政府や財界から言われたらそうかなと思っちゃって、変な形の改革に向かって舞い上がって進む、お先棒をかつぐのが出てくるんだと思うんですね。今まで日本の大学が着実に積み上げてきた成果を発展させるという視点を持たなきゃいけないのではないでしょうか。大学のもっている図書とか標本だとか、ネットワーク、人脈とかそういうことすべてが国民の財産です、市民の財産だと思うんですね。そういう点での認識を国立も公立も私立も、すべての大学教員が高めて、今後の活動を連帯して進めたいと思っています。(拍手)

【司会】 ありがとうございました。櫻井議員がお見えになりました.ご存じかと思いますが、参議院で問題の本質を暴く質問をしていただき、唯一審議を止めた櫻井議員です。それではお願いします.15分で。

、の発言

櫻井充氏(民主党参議院議員)

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【櫻井】 皆さん、こんにちは。ご紹介いただきました、参議院議員の櫻井充と申します。よろしくお願いいたします。小沢先生に、ちょっとここの場所がわからないんで、入り口辺りに来ていただきまして、その間に言われたのは、遠山さんがお辞めになるときに、「国立大学の独立行政法人化のところでちょっともめましたが」という、そういう質問が記者から出たそうでして、そのときに「若い人が、なんか変な質問で、何を言われたのかよくわかりませんが、そういうことがあったので」と、そんなようなやりとりがあったようです。ちょっと考えていることをざっとお話ししますが、まず私はやはり今の流れをなんかと止めないといけないと思っております。問題なのは、なぜ皆さん、やはり今回のことで止まらなかったのかということを、あらためて考えていただきたいと思っております。

●── なぜ負けたのか

 先日東北大の教職員組合の方々が私の事務所を訪ねてきてくださいまして、話をした中での第一声が「今回はこの制度の改革のなかで、これからやっていくことは、雇用をいかに守るかだ」というお話をされました。そのようなことを言われると、私はこの運動に参加したくなくなります。こんなことを言ってるから、だれにも相手にされないんですよ。こういうことを議論することではないはずです。そしてもう1つ出てきたのは、今の制度設計のなかでは、この学長では駄目なんだという愚痴ばかりです。これは、制度と運用は別です。制度と運用を混乱して「なんとかだから駄目なんだ」というのは、制度上の問題なのか、それともそこにいる人たちの問題なのかということを分けていただかなくては。つまり、その愚痴を聞かされても、もし私がそこで学長に対して、こうしなさい、ああしなさいということになったらどうだと思います。これこそ大学の自主独立を侵すことであって、われわれはそういうところに口出しをするべきことではないんです。われわれがやらなければならないのは、今の制度上にどういう問題があるかであって、そこにいる人がどうなのかということは、われわれは関知するべきことではございません。

 そしてもう1つ、今、お話がありましたけれども、その私立は今までいじめられてきて、国立はということで、一般の国民の皆さんは、どういうことになるかというお話をされましたが、私はそうじゃないと思っているんです。国民の皆さんは、この問題知りません。何が問題なのかをわからないから、声が挙がってこないんですよ。先生方、ここは大事なところでしてね、今回なぜ負けたのかということ。野党の場合は、「みんなよく戦った」と言って、「まあみんなでここまでやったからいいか」みたいな話ばっかりよくしているんですが、負けは負けですからね。何1つ勝ち取ってないんですから、こんなもんは。接戦しようが何しようが負けは負けです。そういう意味で、負けた人たちが「よくやった」なんて、つまらない議論しても私はしょうがないと思う。大変申し訳ない。それそうですよ。何も変わっちゃいないんだから。

 そこで、一体なんで問題だったのかと言いますと、これは私なりの分析ですが、要するに国民世論を喚起できなかった。たった1点ですよ。なぜ国民世論を喚起できなかったのかというのは、知らないからですよ。なぜ知らすことができなかったのかというと、私はその東北大の教職員組合の方々のお話をお伺いすると、自分たちの問題でしかなかった。そこにしかしなかったというところが、最大の問題。もっと言えば、じゃなぜ国立大学は必要なんですか。私立大学に全部しちゃ駄目なんですかと。もう1つ根本的に帰ってくると、日本の高等教育って何のためにあるんですか。それをどこの場でやるべきなんですかという議論であって、そういう根本的なことを問い掛けていかないから、結局は変わらないんだろうと私は思うんですね。

 今の学生さんたちが、国立大学がこういう形でなくなったら、どれだけ高等教育を受けるのに不便なのかということを、もっと話をするべきですね。これだけの損になるんですよということを、あなたの息子さんがこれから、例えば東京大学なら東京大学を目指しているけれども、今までの東京大学とはこれだけ違ってきますよ。これだけ大変なことになるんですよ。このグローバルな社会のなかで、世界の大学と、アメリカならアメリカの国立大学、ヨーロッパならヨーロッパの国立大学、もしくは高等教育でもいいと思いますが、その高等教育を受けた人たちと、これから日本で高等教育を受けた人たちが、これだけ差が出てきますよ。そしてもう1つは、日本の経済を支えてきたのは、安い労働力と優れた技術力であって、その優れた技術力が出られなくなるから、大変なことなんですよとか、もう少し全体として、国民の皆さんにこれだけの不利益があるんだということを、明確にしていかなきゃいけないんですね。そのことをもっとわかりやすい言葉で伝えていく必要性があるんだと思います。

●── 国立大学の役割

 これからは、単純に言えば例えば授業料かどうなっていくかだと思いますね。例えば、変な話ですが、文化系で、文学部の授業料と言っても、たかが知れているんです、われわれから言わせてもらうと。これは怒られるかもしれない。なぜか。医学部とか歯学部と比較したら全然違いますからね。これは私立大学の医学部や歯学部しかなくなってしまったら、申し訳ないけど貧乏人は医者にはなれないってこと。こういう私立大学並みの授業料になってしまったら、そういう問題が起こり得るわけですよね。ですからそこの辺のところをもう少し、あまり極端な例かもしれませんが、とにかくわかりやすく伝えていく必要性があるだろうと思います。あとは地域に対して、本当に必要かどうかという議論になった場合には、これはただし公立大学にしてあって、地域の大学にするのか、国立の大学にするのかという議論だと思います。

 私は国立大学というのは、この国の真のリーダーを育てるために必要なのであって、真のリーダーで、本当の意味でのエリート教育をすべきなんだと思う。すぐエリートというと、勉強できてなんとなく威張ってというイメージがありますが、そういうのはエセのエリートでして、この国民の皆さんのリーダーとして、どういうことをやっていかなきゃいけないか。リーダーたるはどういう人間なのかという、人間教育までした上で、そのエリートを育ててこなかったから、ですからエリートというと、なんとなく鼻持ちならないやつということになっちゃうんだと思うんですよ。国会議員になって直後、マレーシアに行ったときに、将来の大統領になるべき人なんでしょうが、もうほんとにエリート教育されているんですよね。あっちこっちに留学して、そして人の意見を聞いて、こうこう、こう考えるっていうことを随分言っておられましたけれども、そういった人材をこれから育てていくところが、本来は国立大学のはずなんですよ。そういう教育ができるかどうかということ。そしてそういった教育をできる教育者を、その大学に置くことができるかどうかということが、根本的な問題だと思うんですね。そのことが成し得ないから、こういった問題は駄目なんだということで、私は1つ、議論立てしていかなきゃいけないんじゃないかと思っているんです。

 もう1点は、やはりそうは言いながらも、今度は国立大学で働いている方々が、こういうやり方で十分にその仕事、研究ができるのかどうかということの議論をきちんとやっていくべきだと思っております。今回の国会での議論を皆さん見ていただいて、どうだったでしょうか。私はほとんどほかの議員の質問は聞いておりませんが、要するに一般論で、青年の主張だけしているだけですからね。要するにこういうことだから、駄目なんだとか、中期目標がなんとかだから文部科学省のいいなりになるんじゃないかとか、そんな、なんて言うか、申し訳ないんですけど、抽象的な言葉で言われても、文科省は痛くもかゆくもございません。では何かというと「考え方の違いですね」と言われて終わりなんです。そういうことじゃない。彼らを詰めていくためには証拠が必要です。つまり、この証拠というのは、実態に合ってないじゃないかと。おまえらが言っていることがいかに嘘つきかということを、示すべく証拠があるか、ないかです。

●── 「中期目標」作文の強制を追及

 今回、小沢先生はじめ、皆さんのおかげで、あの資料いただきました。私はあの質問に立つに当たって、櫻井よしこさんから「なんとかしなさいよ」と言われて「はあ」となんとなく答えてそれから勉強し始めて。もともと、大学は、私は東北大学の第1内科で10年ほど研究しておりましたが、研究者から、大変なことになっているということはずっと聞いておりまして、機会があれば質問したいと思っていましたが、とにかく櫻井よしこさんから、こういう形で「あんた、なんとかしなさい」と言われて、なんとかしなさいと言われたんで、なんとかしようと思ったんですね。それでなんとかしようと思っているなかで、やはり今大変な話を聞いていると。とにかく中期目標、中期計画を書かされているというところでして、だったらそれを強制的にやらせているという資料がありさえすれば、こっちの勝ちだなと思ったんですね。ですからその資料を探していたところ、仲間が全然持っていませんでしたが、それを小沢先生からいただいたんで、ああいう形で議論として勝てました。今後は、問題になってから、そういう証拠をどんどん挙げてくれば変わるということです。

 今まで、なかであきらめて皆さん「しょうがねえな」って思いでやってらしたかもしれませんが、同じく国会議員の税金で食ってますから、使ったほうがいいですね、うまくね。そのときに使うべきことは、文部科学省が言っていることとやっていることが、いかに違うかということの証拠をいただきたい。これさえあれば、われわれは勝てます。そういった形で、責めていくことが可能になりますが、役所とやり合いをしていて、いろんなことをやっていて、証拠がない場合にいくら、どんなに正論を吐いても勝てません。もしくは、一般的に言ったときに、やはりどう見てもおかしいですねということを、声を挙げてくれるような内容でないと、なかなか勝てません。

●── 具体的証拠で議会と役所を動かす

 例えば、ちょっと全然話違いますが、学校保健法に準用保護規定というのがあります。学校保健法。どういう規定かというと、生活保護までいかないけれども、その生活保護よりも少し収入の多い子どもたちというのは、ある特定の病気は全部医療費がただになるという制度なんです。ところが内科的な疾患とか、いわゆるわれわれが見ている医科的な疾患に関しては、中耳炎なら中耳炎という病名があって、あとは治療法は何も規定されていない。ところが、歯科の場合は、虫歯と書いてあって、乳歯は抜歯。それから永久歯にはアマルガム、デイジンとかいろんなものを充填する。これしか認められてなかったんですね。これ現実に合ってないんです。今、乳歯抜歯なんてしませんからね。ちゃんと削って詰め物をするという、そういうことをやっているわけでして、これは実態に合いませんねということを何回も言いました。これは文部科学省なんですけれども、やっぱり、学校保健法です。最初は認めませんでした。ところが、こういうときだけ心強いんですが、自民党の議員が、みんな「おかしいじゃないか」「現実に合ってないじゃないか」って、声をガンガン、ガンガン言ってくれるものですから、役所も、「いや、合っていません」としぶしぶ認めてくれました。しぶしぶ認めましたから、次の委員会で遠山さんに「いつからやるんだ」と言ったら、「来年度からやります」と認めさせられるんです。

 つまりは状況証拠がなくても、一般的に見たときに、これはおかしいですねと。そういったものを示せさえすれば、これはこれで制度を変えていくことは可能です。ですから、ここの部分がおかしいとか、こういうところで困っているんだということがあれば、その証拠になるものがあるか、一般的にみんなで考えて、どう見たってこれは常識から外れているでしょっていう、そういうものをいただければ、ここは変えていけるんだと思っています。

 なぜこういうことを言っているのかと。要するに制度を変えるために、これからどうするのかという運動が1つ。それから制度はもう仕方ないので、この制度のなかで、どれだけ自分たちにとって、よりよい運用ができるのかどうかというのが1つ。運動は2つですよね。大きく言えば2つです。残念ながら、政権でも交替しないかぎり、今のまま多数決をやり続ければ、制度を変えることはできませんから、ですから、残念なことですけれども、今のところ、来年の4月から始まるその制度が皆さんにとって、少なくともその制度設計下では最良になるように運用されるべきことが大事です。ただこの運用は、文部科学省の押しつけで駄目になっている部分と、学内の人たちのそのメンバー構成によって駄目になっているものと、これはまた2つに分けなければいけません。われわれがお手伝いできるのは、文部科学省がうそつきでぐりぐり、ぐりぐり言ってきているようなこと。なんでしたっけ、雇用保険じゃなくて、何かの制度。

【――】 労働安全。

【櫻井】 労働安全基準って言いましたっけ。

【――】 安全衛生法です。

【櫻井】 衛生法。あれは間に合わせると言っていたはずですよね。これが間に合わなかったときにどうするかという話ですね、ここは。これは極めて大きいところですよ。典型的な例を挙げますとね、そういうところは役所が嘘をついていたわけですから、それでスタートさせるのかという議論はできるわけですね。それと、同じようなことをぜひ挙げていただければ、こういう実態で、ここは国会でこういう答弁があったにもかかわらず、守られていないんだからおかしな話じゃないかということは、われわれが国会でお手伝いできます。

●── 「質問主意書」によるチェック

 もう1つ言うと、国会での議論が十分だったかどうかです、皆さん。そして今、またずっと経過をしてきて、ほんとによかったかどうか。われわれを使っていただきたいのは、辻下先生を中心として作ってくださったんでしょうが、質問主意書、私が提出して、答弁をもらっているんですね。だから、今からでも、まだまだ質問はできるわけですよ。こういうことに関して、果たしてどうなんですかということで文書で質問して、文書で答弁が返ってくる。あれは閣議決定されて、総理の名前で返ってくるものですから極めて重い決定なんです。委員会などで質問しているよりもはるかに重い決定です。ですから、あの質問主意書の重さを考えてくれば、皆さんいまだに疑問がおありなんだと思うんですよ。ぼくは辻下先生に、あの質問主意書だけで終わらせないで、この際再質問してくださいねというお願いをしています。これは国会の会期中しか出せませんので、今回の国会は10月10日で解散になりますから、ここまでしか出せません。ぜひ、10月の頭ぐらいまでに取りまとめをしていただいて、今のなかでの問題点が、どういうものがあるのかどうかということを、ぜひ検討していただいて、また質問にして送っていただければと。そうすると、そこで文部科学省がまた答えてきますから、それが実際運用されるときに本当にきちっと運用されるのかどうかということがチェックできます。そういった形で、なんとか、少なくともこの制度下でやれるようにしていく必要性があるんじゃないのかなと、そう思います。

●── 国会そのものを変えなければ

 すみません、最後に、やはり皆さん、選挙に行かれているでしょうか。国会議員は変えなきゃ駄目ですね。申し訳ないけど。あの質の低い議論を展開しているんですから、官僚に勝てるはずがありません。官僚に勝てる政治家を育てない限り、この国は変わらないんですよ。官僚を育てるために、東京帝国大学ができあがったわけですね、確か。ですから、われわれが国会議員が太刀打ちできないような官僚制度をこの国はつくっていくという方針は、この東京帝国大学の設立によって、その趣旨をきちっと、なんて言うんでしょう、守られているって言うんでしょうかね、それが確保されております。しかし今の官僚政治を壊すとしてくれば、その彼らよりももっと議論がきちんとできて、なおかつ問題が整理できて、もう1つ大事なことは、白紙のキャンパスの上での議論なんていうのはだれでもできますから、現場に帰って、国民の皆さんの声を聞いて、その問題点をきちんと把握した上で、そしてそれを処理できるような資料、ぼくは内科医ですから、医者の立場で言うと、「治療」をできるような国会議員をぜひ選んでいただきたいなと、そう思っています。今回の問題に関して言えば、われわれ野党が政権を取れば、間違いなくあの内容を変えます。ただし、あれだけの問題じゃありませんから、この国というのはですね。そういったチンケなことだけで考えないで、ぜひどういう国会議員にこの国を委ねていかなきゃいけないのかということを、考えていただきたい。そうでなければこの国は変わりません。あきらめている方々が随分いらっしゃいますが、あきらめていたら何も生まれませんし、黙ってちゃ何も変わらないんですから、ぜひ医者と政治家は選んでいただきたいということで、お願い申し上げまして、すみません、いつもながら勝手に話をさせていただきました。どうもありがとうございました。(拍手)

【司会】 どうもありがとうございました。せっかくですから、何か質問があれば。

【櫻井】 そうですね。何、この野郎って、ご意見いただいても結構ですよ。(笑)

【豊島】 ちょっと本題からはずれますが、今回,国会をずっと注目する機会があったんですが、不思議なのは、「審議」と言いながら、質疑ばかりなんですね。それで、委員同士の討論というのが全くない.「討論」というと採決を前提にした弁論大会ということですけど、これ,なんとかならないもんでしょうかね。

【櫻井】 委員同士の議論というのは、基本的には政党間,政党の中でやってますので。

【豊島】 委員同士でですか。

【櫻井】 ですからそこの場面に本当は、うちの文教のメンバーは、この問題に関してどなたを呼んで意見を聞いたのかわかりませんが、そういう場に先生方いらっしゃったんですか。

【小沢】 自民党のあれ・・・。

【櫻井】 ですから、野党のときにも、野党の人たちを呼ぶメンバーが間違ったのかもしれません。いや、呼んでいるのかもしれませんから、そこはなんとも言えないんですけれども、そういう委員同士が議論しているようなところに、ぜひ来ていただいて、ここは違うんだとか、こういうことを考えてくれというような形でやっていただけると、もう少し違う議論というのが見えるかなと。

【豊島】 いや、正式の委員会の場でですね、正式の委員会の場で、討論と称して弁論大会となってしまって、野党と与党との間の論戦というのが、実質的にないという問題です。

【櫻井】 今のところの議員内閣制度の制度設計で言うと、野党と与党が議論するという仕組みにはなっておりません。これは野党と与党が議論するのではなくて、内閣と議員がやりとりをするというのが議員内閣制の在り方ですから、あとは与党というのは内閣を支える立場になっておりますので、結局のところは、与党の議員というのは基本的には内閣の意見と一致しておかなければいけないはずなんです。これはイギリスの場合などは、国会議員の3分の1は内閣のなかに入っていってますから、まさしくそれを代弁しているという形になっています。日本の場合は若干違ってまして、自民党の総務会を経ないと、実は意思決定ができないという場合がほとんどです。ですから権限の中枢というか、それが2つ分かれているというのはちょっとおかしな話なんですが、今の議員内閣制で言うと、与党と野党の議員が議論するという立場には、なかなか委員会上ではないんじゃないのかな、そういう感じがしています。

【司会】 どうもありがとうございました。ほかに?

【岡山】 先ほど、国立大学はエリートの養成に特化すべきだといったような話をなさったと思うんですけども、じゃ、普通の大衆の高等教育というのは、どんなふうにされたらいいと考えておられるんですか。

【櫻井】 確かに言葉が足りなかったかもしれませんが、少なくとも、でもそういったまず目標を1つは持つべきだろうと思っています。そしてもう1つの意味で言うと、広く大衆の人たちが高等教育を受けられるような場も、もちろんこれは必要です。ただ、申し上げたいのは、じゃなんで国立大学じゃなくて、私立大学だけじゃ駄目なのかという議論がまず必要なんだと思うんです。大学をすべて私学にした場合には、一体なぜ駄目なのかと。つまり、この国の教師というか、この国で人材をこういう形で育成していきますという、国の方針が有るはずですよね。そうでなければこの国は運営できていけないんだとか、世界と競争できないんだという、この国の方針が私はあると思っているんですよ。ですからそういった人材をどこで輩出したらいいかという議論として、そこの部分は少なくとも国立大学で担っていく大きな役割ではないかと思ってます。これが1つです。それでおっしゃるとおり、言葉足りなかったんですけども、私立大学になってしまうと、お金持ちじゃないと医者になれないというところがありますから、低所得者の人たちも含めて、広く多くの人たちが高等教育を受けられるという場はもちろん必要です。そこの部分は国立大学が担っていくべきことなんだと思います。

 ただし、私立大学というのは自分たちの抱負があって、こういった人材を育てたいんだということで、人を集めるところであると思うんですよね。カラーとすれば、早稲田がバンカラで、慶応が慶応ボーイと言われるカラー、スマートな人たちが集まってくるんですよという、実際そうなのかどうかわかりませんが、今はどうなっているかわかりませんが、割とそういう雰囲気というのをかもし出しているところがありますから、私立大学は私立大学で自分たちの校風というものがあって、そこのところに合った人材を育成していくんだろうと思うんですね。その意味で、国としてどういう人を育てていくのかということを、私は国立大学というからには明確にすべきではないかと、そう思っているわけです。ですから、ちょっと極論を言い過ぎたと思っています。ごめんなさい。

【司会】 それでは時間も残り少なくなりましたので、今後の運動の在り方などについて、ご自由にご意見をいただきたいと思います。例えばどういう目標で運動を進めるのか、法案の廃止ということもありましょうし、あるいはこの制度をできるだけ無害のものにするにはどうすればいいというのもありましょう.あるいはそれを担っていく組織、ネットワーク、そういうものをどうするかというようなこともあると思います。よろしくお願いいたします。

 田端さん、お願いできますか。小沢さんの指名。

【田端】 (校正未了)

【司会】 どうもありがとうございました。ほかに?

【豊島,司会】 ちょっとひとこと感想めいたことを申し上げます.第2セッションで宇都宮大学の学長が言われましたが、学長会議で自分が発言すると,飲み会で「私もそう思っていた」と言われるとのことでしたけれども、実は同じことが教授会でもあるんです。私も理工学部の教授会でいろいろ話をして、その場では少数派なんですけれども、飲み会では「先生はいいことを言われた」。(笑)じゃなぜ自分が言わないんだと.そういう慢性的な,どこにでもある、恐れと言いますか、何か得体の知れない恐怖心と言いますか、そういうのが遍在していると思います.それがほんとにガンじゃないかと思うんですね。そこをなんか突き破ることができれば大きく変わるんじゃないかと思うんですけれども.

 例えば最初にもお話ししましたが、中期目標に関しても、法人法の条文には大学側が意見を言うというのがあります.これはあくまでも大学は自由に意見を言えるはずなんですけれども、どうも私感じるところでは、その中身にまで文科省が介入してきているんじゃないかというふうに感じるんですね。つまり8月の内容から9月の内容があまりにも変化が激しいので、やっぱりモニターセンターをつくる必要があるんじゃないかというような感じがしているんです。ちょっと勝手にしゃべりましたが。

【司会】 あとわずかしかありませんが、そうですね、あと10分ぐらいいいでしょうか.35分ぐらいには終わりたいと思いますが、どなたか。

 竹田保正氏(日本大学・理工)

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私大から運動の「第二幕」に関して発言

【竹田】午後からの参加で、今まで発言することがなかったと思うんですけれども、私は私 立大学に属しておりまして、きょうの午後の3時半からのセッションで、国立大学の法人 法と教育基本法の改正の問題について、新潟大学の成嶋先生の話を伺いました。やはり大所高所か ら、この国立大学行政法人化法というものが、今後の高等教育、学術に及ぼす負の影響、自由である べき大学の雰囲気を一変せしめ、大学の死をもたらすといっても良い負の影響を踏み込んで分 析し、しかるべき「対応」をしなければならないと思います。

 大学、特に国立大学の社会的な役割、高等教育において果たすべき役割、大学の価 値、それからやはり長い国立大学の歴史ですね。社会のあらゆる分野に優れた人材を供給してきたという こととか、それからやはり、国立大学でなされた研究を再評価しなければならないと思います。特に私は理工系 で、専門はプラズマ物理学(実験)なんですけれども、だいたい日本の大学のインフラストラクチャーが、非常 に諸外国の大学に比べて貧困であることを身をもって感じています。。そういうなかで、国立大学はずっと戦後、 学制改革から数十年かかって緩やかなテンポでありますが、先人が努力して研究、教育を復興してきました。

 しかしその陰で巨大科学、原子力等に対する研究投資がどんどんなされていく。そ して国際的にみても劣悪な研究条件、あるいは研究、教育予算も含めて、インフラも含めて、非常に貧困な状態 に長年放置されてきました。そして挙げ句の果てに、今このような官僚主導の大学改造(改革ではなく)法案が 出てきている。

 これに対して私は、大学人として、自分の長い研究(国立大との共同研究)、あ るいは教育の歴史を顧みて、どうしても容認することができません。

 今度の法律は国立大学の法人化法として出ておりますけれども、省みますと、戦 後成立しなかったが「大学管理法」とか、それから「筑波大学法」等々が出ている。大学に対して何か一つの国家統制 と言いますか、教育を国家が管理して、特定の方向に国民の教育を誘導するという流れを感じる。 そういう教育政策が戦後貫かれてきているように思いますので、やはり大所高所 から、国立大学の法人化法が教育基本法に抵触する、あるいは違憲の疑いがあるということを、大学人の良心として、はっき り提起して対応しなくちゃならないんじゃないかということを、成嶋先生の話を伺い まして、強く感じたものですから、発言させていただきました。

【司会】 どうもありがとうございました。ほかにどなたか。

-- 中略 --

【司会】櫻井さんのほうから発言があります。

●── 新しい国立大学の代表機関が必要

【櫻井】 すみません、さっき肝心なことを忘れましたが、国大協ってなんですか、あの組織は。つまり、私が極めて不思議だったのは、国大協というのは任意団体ですよ、調べてみると。任意団体になんで決定権があるんでしょうか。国大協に報告しました。国大協と話をしましたが、全部文部科学省の言う免罪符なんですよ。ですが、国大協は、調べてみると任意団体であって、これは恐らく国立大学の職員の皆さんが、あれは国立大学の全員の代表者の会議だということを認めてないはずの会なんですよ。つまりそこの会が、国立大学の職員の皆さんの代弁者になっているという今の社会常識をまず壊すことが、私は大事だと思っているんですけど、今回。

 なぜそういうことを言っているかというと、こういうシンボリックなことをやらないと、皆さんの意思の統一が図られないからです。まず、外から見ていると国大協はおかしい。それでもう1つ言うと、文部科学省の番犬みたいなのが隣にくっついてきているわけですから、ここで学長が自由な発言ができるかというと、それもできない。ですから、もう少し大学関係者がきちんとした形でできる、国立大学、今度独立行政法人になるんでしょうから、独立行政法人全体の意思の決定機関というものを、私は新たにつくるべきだと思っているんです。その上で、そのときに代議員制にします、必ずこういう場合は。ですが、直接請求権と言いますか、直接投票権というのを絶対につくっておいたほうがいいと思っています。新しい組織をぜひつくっていただきたい。

 例えば、労働組合なら労働組合、今私は医師会とか歯科医師会見ているんですけど、医師会なんかは、県の代表者がだれになるか、歯科医師会なんかもっとひどいんですけども、どこの大学卒業者によって最終的な歯科医師会の会長が決まるんですよ。だから県のなかでの争いは、何かというと、だれだれを会長にしたいから、どこどこ大学出身者の人を集めなきゃいけないって言って、みんなそうやってやっていて、結局はその歯科医師個人個人のためにこの会があるかというと、全然違う会になっているんですよ。ですから、それと同じようなことをやめるためには何かというと、最終的に大事なことに関して言ったら、全員で例えば、国民投票じゃないんですけど、住民投票じゃなくて、なんて言うんでしょうね、こういう場合は。とにかく直接なんとか投票権を持たせたような形で、実は大学関係者の連絡協議会と言ったらいいのかどうかわかりせんが、その会を1つ組織するべきだと思うんですよ。そのことをやることによって、その組織と、そしてその組織に皆さんの声がとにかく反映できるような形にしておかないと、文部科学省と戦えませんよ、これは絶対にね。絶対的に戦えない。連合体になっていけば戦えるはずですから、まずそういう組織をつくったらいいんじゃないかなと、これは私個人が思っていることでして、ただ少なくとも、国大協はなんとかしないといけないと思いますよ、国大協だけは。だって任意団体ですからね。任意団体で、何の決定権もなくて、その人たちが皆さんのことを考えもせずに、文部省から言われたら反対できなくて、なんとなくすごすごと帰ってくるような、やっぱりそれじゃ駄目ですね。ここだけはぜひ考えていただきたい。

●── 仲間を増やそう

 あとは、友だちを集めたほうがいいですね、こういう運動は。要するに大学関係者だけ集まるんじゃなくて、もう少しほかの人たちが来るような会にしたほうがいい。当座受験生かな、受験生というか受験生の親とか、それから進路指導している高校の先生。あとはこうやって内輪でみんなで大変だ、大変だ、なんとかだ、なんとかだって言ったって、このあと外に全然広がっていきませんから、友だちをどうやって連れてくるかということが、極めて大事なことだと思います。これは早急にやらなきゃいけないことですから。要するに大学関係者以外の人たちを、今度集めて、必ず1人、1人ずつ連れてくるとか、そういう形で、これがいかに大変な問題なのかということを広げていくような。もちろんマスコミに乗るのが一番早いことですけど、それができないんだったら、それと、地道にほんとにやっていくと、必ず変わってきますから、ここのところは。

 自分で法律作っても感じたんですが、野党の国会議員なんか作ったって駄目だろうと思っていたら、全国で100万の署名が集まりました。私が作った金融アセスメント法案というのは、100万の署名が集まった。700の地方議会が、この法律が早期に制定されるという意見書を採択してくれた。結局金融行政は変わりましたからね、この声で。ですから私が1人で国会でドーンと発言している場合には全然駄目なんですが、私が国会で発言したのが、もう100万後ろにいるというのは、竹中平蔵もわかり始めましたから。700の議会があるというのがわかり始めてから態度変えましたからね、彼は。ですから、今度例えば、国会でこういう問題取り上げて、いくら言ったって「櫻井1人で言ってるんだろう」じゃ駄目なんですよ。その後ろに何百万人の人たちが、国立大学関係者以外の一般の人たちも今回のこれはおかしいんだということを言ってくれるような人たちを集めて、署名活動でもなんでもいい。集めた上で、そういったものをもっと国会なり、何なりでやる。それからマスコミならマスコミに向けて発言し続けるという、とにかく友だちをもう1つはつくっていくことが大事じゃないかなと。すみません、余計なことばっかり言って申し訳ありません。よろしくお願いします、頑張りましょう。(拍手)

【司会】 どうもありがとうございました。とても議論が尽きたという状況ではありませんが、時間が時間ですので、これを機会にもっと前進していきますように、いろんな幅広い話ができたと思います。デジタル・レコーディングしておりますので、どなたにもメールで送ることができると思います.できるだけ早くテープ起こしをしまして公表したいと思います。何かほかにおっしゃりたい方、いらっしゃいますか。

-- 中略 --

【司会】 それでは長時間にわたりまして、ありがとうございました。それではこのあと、懇親会を予定しております.一応人数は当たっておりますけれども、まだ弾力性はあると思いますので、どうかぜひ、近くの居酒屋でやるようになっておりますのでどうぞおいで下さい。それではどうもありがとうございました。終わります。(拍手)

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