国大協に国立大学を代表しての「独法化承認」の権限はない.また,4月19日の総会決定が大学関係者の多数意見である証拠もない.各大学で「全学投票」の実施を呼びかける.
国会の承認もない「独法化」のための準備行為は違法である.国立大学の独法化は,研究・教育に重大な支障を生じるというだけではなく,憲法・教育基本法の重要な原則に違反する.この点での専門家の発言と関与を求める.
大学関係者の方々は,個々の大学の「生き残り」の問題だけでなく,我が国の大学制度の根幹が崩壊の危機にさらされているという深刻な事実を認識していただきたい.
独法化阻止運動は,政府が法案作成に本格的に着手するこれからが正念場である.国民各位,学生の皆さん,大学教職員の方々はそれぞれの立場で主権者としての権利を行使し,また当事者としての責任を果たしていただきたい.特にこれからは国会議員や政党への働きかけが重要になる.あらゆる政党の議員に手紙を送り,面会を求め,この問題の本質を理解してもらう努力をお願いしたい.また,記者や編集者に積極的に語りかけるなど,メディアに対する働きかけを強めよう.学生の皆さんに特に訴えたいのは,独法化は学生の自主活動の「天敵」であるということだ.
独法化反対運動は同時に,社会的認知度が低い教育基本法10条を「再発見」するためのものでもある.また,98年のユネスコ「高等教育世界宣言」などを参照しながら,学生参加,市民参加による大学改革を要求していかなければならない.
政府の「独法化」決定は動かし難いかに見えるが,実はこの決定は「独立行政法人化は大学改革である」というウソに支えられており,常に不安定な状態にある.また,この問題で国会審議は始まっていないどころか,法案の提出以前の段階である.政治の基盤は国民一人一人の独立した意思にあるという,民主主義の原則に立ち,個人個人が発言することによって,事態を変えていこう.
イ)大学存立の原理を次世代に伝えることは大学教育の重要な項目である.大学の教員の方々は,どのような科目の授業も,独法化問題の本質を学生に知らせるのに適切な場であると理解していただきたい.
ロ)各大学で文部科学省の「最終報告」の可否を問う「全学投票」の実施を大学に求め,あるいは学内諸団体で独自に実施していただきたい.
ハ)学生自治会,学科会議,学部教授会,大学全体,あるいは研究会,学会などで独法化反対決議を上げること.
ニ)国会請願署名運動(全国ネットでも実施)
ホ)国会議員,政党への働きかけ
へ)自治体への働きかけ
ト)メディアへの積極的な情報提供.取材を待つのではなく,相手が興味を持つようなやり方で情報を持ち込む.
チ)関係文書を英訳して世界の大学コミュニティーに訴え,この問題を「国際化」する.
(全文)
去る4月19日,国大協は臨時総会を開き,文部科学省「調査検討会議」の最終報告を基本的に肯定する会長談話を承認した.これは,「通則法による独法化に反対」とした国大協の基本方針を裏切り,また新たに持ち出された「非公務員化」についてはそれぞれの大学の教職員の意見を聞くことさえもせずに決定したもので,およそ学者のとる行動とも考えられない.
そもそも,任意団体(つまり学長のサークル)にすぎない国大協に,国立大学制度そのものの変更のような重大事項に関して,国立大学全体を代表するような権限は委任されていない.国大協会則の第4条には次のようにある.
「協会は,国立大学相互の緊密な連絡と協力をはかることにより,その振興に寄与することを目的とする.」
この条文,そしてそれに続く「事業」を定めた条文からも明かなように,国立大学を国立大学でなくするような決定に関与することは,少なくとも会則からは可能ではない.したがって,先の国大協の決定をどうしても「大学全体の合意」と称したいのであれば,それにふさわしい措置が前提とされなければならない.すなわち,大学教職員全体の意見を「全学投票」などの特別な手段によって確認する義務がある.
決定の合法性の問題と共に,先に指摘したように決定の内容も大学の社会的使命に反する無責任なものである.その最高責任者である長尾真氏は,もはや大学コミュニティーの代表ではなく,無謀かつ盲目的な政府の大学政策の水先案内人に過ぎない.もはやこの人がいくら「リーダーシップ」という言葉を使っても,それは「霞ヶ関官僚のリーダーシップの代行」という意味としてのみ理解されるだろう.そしてこの事は多かれ少なかれ,会議で「談話」に賛成の挙手をしたすべての学長に当てはまる.
反対ないし疑問の発言をされた,そして挙手採決においても毅然として反対の意思を示された少数の学長諸氏の見識に敬意を表したい.当たり前のことであっても,大勢に逆らって意志を表明することは勇気の要ることである.これら勇気ある反対派の学長の方々は,これから始まるであろう国民的議論において指導的役割を果たし,その中心に位置する国会審議に際しても,真理への忠誠を示し続けていただきたい.多数派か少数派かは真理の基準ではないし,また国大協での多数は大学関係者の多数を意味せず,むしろ逆である可能性の方が高い.
作家の城山三郎氏は,「メディア規制法」がもし成立した場合,これに賛成した国会議員や閣僚の名前を「言論の自由の死碑」に刻むと述べているが,国大協が公然と独法化に賛意を示した今回の決定についても同様の事を提案したい.各大学で学長が「談話」に賛成したのか反対したのかを調査していただきたい.そして,賛成した学長の名前を碑に,城山三郎氏流に言えば「学問の自由の死碑」に刻むのである.ただ,われわれは岩の碑ではなく,ネット上の無数のハードディスクに刻むことになろう.
しかしまだ時間は残されている.過ちを改めないよりは,たとえ遅すぎても改める方が良いのは明らかである.いや,むしろそれは勇気ある訂正として賞賛に価する.今後の国大協総会においてこの決定を撤回していただきたい.
一部には,「間に合わない」などと称して,独法化の「準備」に走る動きも見られる.またそのような行為は今後増えるかも知れない.しかし国会に法案の提出さえもなされていない,したがって今の段階では国民が可とも不可とも決めていない制度改変に,「準備」と称して事実上着手することが法的に正当とは到底考えられない.もしそのような目的で予算の支出が行われるとすれば,それは経費の「流用」として問題とされるべきであろう.
また以下に述べるように,独法化それ自体が憲法23条,教育基本法10条に違反する疑いが大きいので,その準備行為はこの意味でも違法性を持つであろう.
大学首脳部をはじめすべての大学関係者の方々は,自分たち個々の大学の「生き残り」の問題だけでなく,我が国の大学制度の根幹が崩壊の危機にさらされているという事実を深く認識していただきたい.すなわち教育・研究機関が,政府の命令で動く行政機関に壊変*させられるという危機である.個別の大学の目先の利益を,大学社会全体の共通の利益に優先させることは正当化されないだろう.
「有事」法制やメディア規制法が憲法問題であることは多くの人が指摘している.同様に国立大学の独法化もまた憲法問題であるとの認識が重要だ.「中期目標」制度一つとってみても,このような大学の官僚支配が,「憲法と一体」とされる教育基本法の10条に違反し,また「学問の自由」を保障した憲法23条に抵触する疑いは濃厚である.これは他の機関の独法化問題とは異なっている.
もし独法化が違憲・違法であれば,それは政策の善し悪し以前の問題であり,我が国が「法の支配」に基づく国なのか,それとも法を超越して「官」が支配する国なのかが問われているのである.仮に「独法化」が国会で成立し「法」となったとしても,憲法・教育基本法という上位の法の効力が勝るため,つねにその法自体の「違法性」が問われ続けることになろう.
国立大学の数多くの法律の専門家,教育行政の専門家の方々は,これらの問題について,その職業的良心に基づいて自らの見解を公にし,国民の判断のための正確な情報を提供していただきたい.
国大協が独法化を認めたことによって,大学の自由を守る防壁の一部は失われた.しかしこれは2年前に国大協が「調査検討会議」に参加を決めた時点で半分は壊れたので,予想されないことではなかった.3月26日の同会議の「最終報告」を機に政府が法案作成に本格的に着手し,それが国会審議に委ねられる段階に入ることによって,この問題は国民全体に正式に提示されることになる.したがってこれから独法化問題の国民的議論が本格的にスタートすることになる.
大学関係者の方々は,これまでの経緯にとらわれることなく,みずからの研究者・教育者としての良心にのみ忠実に,率直に意見を表明し,国民に事実を正確に伝え,国民と議会の的確な判断を助けていただきたい.ここで沈黙することは,まさしく国民に対する「説明責任**」の放棄であることを自覚していただきたい.また,4月に失われた防壁の復旧の努力もしていただきたい.大学存立の原理を守ること,この大学人としての最も基本的な社会貢献を抜きにして,どのような「社会貢献」も空疎に響くのではないだろうか.
マーチン・ルーサー・キング牧師の言葉に,「究極的に悪いのは悪人の残忍さではなく,良識ある人々の沈黙である」***というものがある.大学に働く人々は良識ある人々に違いない.これらの人々がもし沈黙をしなければ,単にそれだけで大きな力を生じることになるだろう.
独法化を憂慮する個人,諸団体の皆さんに訴える.あらゆる方法を駆使してこの問題の真実を明らかにし,一般国民に知らせる活動を強めていただきたい.単に「声明」や「見解」を出しておけば義務は果たした,というような官僚的な態度に陥ることなく,どうすれば本当に効果的なのか,ということを真剣に検討していただきたい.
特にこれからは国会議員や政党への働きかけが重要になる.あらゆる政党の議員に手紙を送り,面会を求め,この問題の本質を理解してもらう努力を共に始めよう.国会議員は週末はたいてい地元に帰るので,東京に行かなくても面会のチャンスはある.最大野党の民主党がこの問題で態度を決定していないということを重視すべきである.同党は1年ほど前に「中間報告」を纏めているが,最終報告はまだ出していない.「規制緩和」を主張する同党が,このような文部科学省の権限拡大に賛成するというのは不自然なので,少なくとも何らかの批判的態度は期待できるはずである.
メディアに対する働きかけを強めよう.記者や編集者に積極的に働きかけ,当局発表を無批判に垂れ流すだけの「記者クラブ・メディア」から脱せしめ,ジャーナリズムらしい問題の核心に迫る報道を求めよう.
また,この問題に関する文書を英訳して世界の大学コミュニティーに知らせ,この問題を「国際化」することも重要だ.国際協力が大きな力を発揮することは研究分野だけに限らない.
大学の最大の構成員であり,したがって最大の潜在的なパワーを持つ,学生の皆さんに訴える.国立大学の独法化問題は,決して組織再編や行政改革の問題などではなく,「学問の自由」,「教育の独立性」という,この社会の自由を支える重要な価値の否定であることを見抜いていただきたい.大学で自由がなくなれば,社会全体の自由も危なくなる.大学内では,授業だけにとどまらず,学生の独自活動--サークルや文化活動--も圧迫を受けかねない.
学生自治会などの役員の方に訴えたい.大学の独法化は,学生自治会にとってはその存在そのものを脅かす「天敵」だということに気付いていただきたい.独法化後の大学で認められるのは「生徒会」だけかも知れない.自治会を「絶滅」させないためにも,是非ともこの問題の本質を多くの学生に理解してもらう活動を始めていただきたい.
学生の役割に関連して,大学の教員の方にお願いしたい.この問題の憲法的な重大さに比べ,反対の動きがたいへん鈍いのは大学教職員だけではなく学生も同様であるが,これを変える責任の一部は大学教育にもあると言うことである.社会の悪弊に染まることも少なく,「既得権」的な利害にも縛られない若い世代は,最も自由で鋭い発言が可能なはずだが,残念ながら学生の動きは大学教職員以上に鈍いように思われる.(政治問題一般についても言えるかも知れない.)これは,教育基本法8条で「教育上これを尊重しなければならない」とされた政治教育が,これまでほとんど無視され続けてきたことが大きな原因であろう.したがってこれを急速に回復することが大学教育に求められている.独法化問題は格好の素材である.授業科目を問わず是非ともこの問題について学生に語りかけていただきたい.
いったん政府が決意した政策を止めることはもちろん容易な事ではない.運動の成否についての予想を単純に聞かれれば,負けの可能性が大きいと答えるべきかも知れない.しかし予想が重要なのだろうか.独法化問題の展開はもちろん自然現象ではない.われわれ一人一人が構成要素である人間集団の中の,かなり抽象度の高い相互作用に関する現象なのである.したがって個々人がどのように振る舞うかが決定的に重要なのである.そもそも政治の基盤は国民一人一人の独立した意思にあるというのが国民主権の原則である.この民主主義の原則が,とりわけ大学関係者に対して試されているのである.
また,一見動かし難いかに見える政府の決定も,実は決定的な脆弱さを持つことを見逃してはならない.「独立行政法人化は大学改革である」という言明がウソであることは,わずか数年前までは文部省も含め大学関係者全体の常識であった.今起きている事態は「ウソも百編くり返せば本当になる」ということである.推進者の側は,これから国会審議までの長い期間にわたって国民にこのウソを隠し続けなければならない.つまり強固に見える「政府の決定」は実はこのウソに支えられており,常に不安定な状態にあるのだ.
独法化反対運動は,単に独法化を阻止するという意味を持つだけではない.それは,憲法23条と教育基本法10条の意義を再発見するという積極的な活動でもある.憲法9条などと異なり,特に後者の条文の意味はほとんど知られていないので,これを独法化反対の根拠に掲げる人は少ない.歴代の文部省はわが国の教育をこの条項に違反して統制しつづけており,そのような役所が10条を教えることを奨励するはずもなかったのである.
また,この運動は大学の現状を肯定するものでもなく,その逆である.98年のユネスコ「高等教育世界宣言」などを参照しながら,学生参加,市民参加による改革を要求していかなければならない.
「全国ネット」は,独法化阻止のために,そして国立大学の真の改革のために,可能な限りの貢献をしたいと思う.