Date: Tue, 19 Nov 2002 18:33:28 +0900
To: he-forum@ml.asahi-net.or.jp
From: toyo@cc.saga-u.ac.jp (TOYOSHIMA Kouichi)
Subject: [he-forum 4744] 上毛新聞11月16日の記事に関して

「結果」偏重の価値観は問題

佐賀大学の豊島です.次の記事に関しての感想と意見です.

[he-forum 4738] 上毛新聞11/16
http://www.ne.jp/asahi/tousyoku/hp/nethe4736.htm

この記事はいろいろと示唆的な内容を含んでいると思います.

記事は,学外での市民レベルの活発な動きに対して,「第一当事者であるはずの学生や教育学部教官の反応は鈍い」と評しています.学生自治会もなく,自発的な組織化の動きもないとのことです.

学生がみずから社会問題にかかわることができるかどうかは,高校までの広い意味での「政治教育」の成果が問われる問題ですが,現在の状況はこれがほぼ失敗していることを示しています.これは,教育基本法8条の「政治教育の尊重」が十分実施されておらず,むしろ無視・抑圧されていることに原因があると思われます.この「主犯」は文部省,文部科学省です.(諸外国では学生は日本よりはるかに政治的に活発なのです.)そして,大学においても,98年の「ユネスコ高等教育宣言」が十分に実行されていないことも意味するでしょう.

「高等教育機関は、学生を批判的に思考し、社会の問題を分析してその解決策を求め、それを実践して社会的責任を受け入れることができる見聞の広い、深く動機付けられた市民となるように教育すべきである.」(宣言2章9条b項)

いま問題の独法化は,それが定める文部科学省の大学への強い統制によって,高校までを支配してきた文部科学省のやりかたが大学にも及ぶことを意味しますから,教育基本法8条の系統的な無視は大学にも押しつけられることになるでしょう.(自治寮の廃止の動きなど,部分的にはこのことはすでに行われています.)

教員の態度についても考えさせられます.ある助教授の,「教授会として言うべきことは言った。学内の力関係から見れば、教育学部の決定を学長が力で押し切るのは明白だった」との言葉が引用されています.「言うべきことは言」い,なすべき事はやった後で,「力関係」について評価するのはいいでしょう.しかし「力関係」という言葉を聞くと,どうしても次のような傾向を想起せざるを得ません.つまり,「力関係」を先に考えて,どうせだめだろうから,言うべき事も言わない,という態度です.そしてその最大の現場は,独法化をめぐる言説の場です.

引用された助教授の発言は「事後評価」に関することですから問題ないとして,これに対して,先に「力関係」ばかりを考え,原理原則は二の次という対処の仕方には二重に問題があります.まず,ものごとは言論や道理で動くという見方ではなく,「力の論理」が支配する世界を容認しているという点です.もう一つは,それではみずからも「力」を行使する,つまり闘うのかというと,そうではなく,闘わないための言い逃れとしてこの言葉が使われるケースが多い,ということです.この言葉はおそらく左翼用語でしょうが,これを使う人は,なにやらその仰々しい装いだけは見せながら,実は全く臆病そのもの,というわけです.その状況証拠として,同じ左翼用語でも「日和見主義」はほとんど使われないということが挙げられます.これは,だれもがほとんどそうだからこの言葉が不要になった,ということなのでしょうか.

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記事から離れて独法化問題についての最近の傾向についてコメントします.

おそらく違法な「独法化準備」は,「独法化はすでに現実」という強い暗示を与え(暗示より強力な心理手段はありません),これに加わった反対派の人まで部分的に賛成派に変えていくでしょう.なぜなら,自分が相当な時間と労力を投入した「中期目標」などの文書が無駄になるのを,だんだん望まないようになるでしょうから.

独法化についての現在の大学関係者の大方の態度は,阻止するのは現実的ではないから,どう対応するかに重点を置く,というものでしょう.独法化が大学社会の根本的な価値にかかわるものではない,憲法や教育基本法とそれほど矛盾するものでもない,「効率化」ならやむを得ない,というような認識を持っている人にとっては,このような態度が内心に深刻な分裂を引き起こすことはないでしょう.しかしそうではない場合,内心の分裂を“大勢順応”で乗り切ることが果たして健全なことでしょうか.それでハッピーなのでしょうか.健康にもいいことでしょうか.

「自己満足」という言葉はふつう悪い意味で使われますが,よい意味でも使うべきだと思います.つまり,それぞれが自分の信条と良心に照らして,満足できる行いをしているのかどうかを「自己点検」し確かめるべきだと思います.「結果」だけを唯一価値あるものと考え,「予測」と「対応」にばかり重点を置く態度は,民主主義の原理とも相容れないし,これを腐敗させるものだと思います.なぜなら,国家という大きな人間集団が作り出す「結果」は,そう簡単に個人や小集団の力で変えられるものではありません.そのことを絶対的な前提とすると,“大勢順応”で対処することしかなくなってしまうのです.

しかし本来「結果」とは,個人個人の独立した思考が---もちろんそれらの間の相互作用は当然ですが---もたらす結論の総和でなければならないはずです.もっと個人個人の独立した意志とその相互作用のプロセスそのものに含まれる価値を重視すべきなのではないでしょうか.そのような価値観への転換が必要であるように思われます.そしてその技術的な基盤は,インターネットに代表されるような,まさに「民主的な」通信技術によって成長しつつあります.

国会にこの問題で参考人として呼ばれた場合を想定してみて下さい.最後まで反対を言い続けなかったことを説明できるでしょうか.テロを受ける恐れがあったのでしょうか.解雇される恐れがあったのでしょうか.

上の記事に引用された,「残す会」のメンバーの「非常にふがいない」という言葉は,独法化に関して声をあげなくなった大学関係者にも向けられるように思われます.

かつて,ベトナム戦争反対の言論で名を知られたアメリカのフルブライト上院議員の,大学についての言葉を紹介します.今の日本の状況にぴったり当てはまるのではないでしょうか.

When the university turns away from its central purpose and makes itself an appendage to the Government, concerning itself with techniques rather than purposes, with expedients rather than ideas, dispensing convensional orthodoxy rather than new ideas, it is not only failing to meet its responsibilities to its students; it is betraying a public trust.

Fulbright, "The War and its Effects -- II," Congressional Record, December 13, 1967.