全大教02年教研のための意見
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    2002年9月6日.9月12日改訂
佐賀大学理工学部 豊島耕一

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「基調報告」には重要な一章が欠けている

  ref: 全大教第14回教職員研究集会基調報告
  http://zendaikyo.or.jp/teigen/02kyoukenkityou.htm

5章の(1)で独法化は「絶対に受け入れられない」としながら,すぐ次のパラグラフでは「早急にそれへの対応の準備に取りかかっておかねばならなくなっている」とあります.確実に阻止できるというわけではないので「対応の準備」も必要でしょうが,その前に阻止運動・反対運動をどう進めるのか,という章が欠けています.それとも,「絶対に受け入れられない」というのは心の中だけにしまっておき,その意志を行動に移すことはしない,ということでしょうか.

3章と4章で大学批判が行われています.すべて当たっているかどうかはともかく,それももちろん必要でしょう.しかし組合という組織の主要な役割は権利擁護・拡大にあるのですから,それとの文脈的なつながりが必要です.ところがそれを見つけることは出来ないばかりか,重大な権利喪失をもたらす独法化に対する阻止・反対のための行動も提案されず,もっぱら「対応」だけが論じられています.これでは文部科学省の,大学の欠陥をあげつらい,大学首脳部の自尊心を凹ませるという心理戦を使って自分たちのいわゆる「改革」を飲ませる,というパターンとうりふたつと言っても過言ではないでしょう.(教養部解体に際して,教養部制度の欠陥ばかりを数え挙げるという仕組まれた風潮も想起されます.)

このような,いわば「自虐的」な全大教の姿勢は,古くは日教組大学部時代からの伝統のようにも思われます.20年ほど前の九州地区の集会での当時の大学部中執の講演は,組合も当局と一体となって改革に参加・協力せよ,といった,ほとんど説教とも言える内容だったことを思い出します.

この集会が,いろいろと執行部の方針の欠陥をあげつらうだけの「ガス抜き」のイベントになるのか,それとも,バラエティーと創造性と想像力にあふれるアイデアを生み出し,独法化阻止・反対運動のそれこそ「活性化」に寄与することが出来るのかどうか,まさに問われているのではないでしょうか.今は「独法化対応」の議論より阻止・反対の活動について多くの時間を割くべきです.なぜなら,その活動は法律が国会を通過する前の今しか出来ないからです.

私は次のような活動が重要だと思います.

1. 何よりも独法化が何ものかを世論に訴えること.その際「違法性」ほど強力で万人に訴える論拠はないと思われる.メディア対策,諸団体のオルグ.

2. 著名人のオルグ.著名人とは一種のメディアである.

3. 国会議員,政党のオルグ.

4. ユネスコなど国際機関に問題の重大性を,特にユネスコが出した諸宣言に反する内容であることを理解させる活動.当局者の何らかの発言を引き出す.海外の大学や団体との国際協力.

5. 各大学の評議会・教授会メンバー,特に組合員であるメンバーが責任ある態度を取るよう求めること.重要な決定に対しては,記名投票で個人責任を明確にすることも必要と思われる.いくら文部科学省の圧力だといっても,最終的には教授会・評議会の決定を通じて事態は進行しているのである.

6. 隣接する分野の社会運動との連携.教育基本法改悪反対の団体に,独法化が10条改悪の先行実施であることを理解してもらう.これは阻止運動に大きな可能性を開くと思われる.

7. 教育行政や憲法の専門家(国立大学にも多数いるはずではないか!)に,独法化の問題点を国民にアピールしてもらう.これは,これらの専門家にとって「社会貢献」が本物かどうかが試されることでもある.

8 多分野の才能を動員すること.特に美術分野.すぐれた風刺画は強力な力を持つ.すぐれたコピーも同様.プロに発注することも考慮すべきである.

9. 署名活動.

初めの方に「確実に阻止できるというわけではないので」と書きましたが,わずかであれ阻止できる可能性を信じることが重要です.そのように考える人が少なくないということを感じること,そのことがパワーを生み出すのです.まさかこれを「非科学的」「精神主義」などと呼ぶ人はいないとは思いますが,どうもそれを疑いたくなる傾向を一般に感じます.このような集団心理を活用すると言うことは社会運動のイロハなのです.


学長・学部長など管理者になった大学教員がほとんど必ず「変節」するのはなぜか

  --- 大学管理者層の文化人類学の試み---

(ホンモノの文化人類学者に是非とも研究をお願いしたい.)

 大学改革において,大学の管理者層の持つ役割が大きいことは言うまでもない.しかし,「官」とのやりとりにおけるタフさという点で彼らが個性を発揮するというのはまれで,現実に多く見られるのは,ほとんどの人が画一的に「官」の側の代理人になってしまうという現象である.これによってこの十数年来の「大学改革」はほぼ「官」の誘導の通りに運ばれてきた.

 例えば組合などで熱心に活動していたような教員でも,管理職になって数ヶ月もすると優秀な文部科学省の代理人になってしまうという現象はごく普通に見られるもので,現在も進行中である.(もちろんスジを通す学長など何人もの大学首脳部はおられるが,相対的に少数のためそれだけ困難な努力を強いられていると思われる.)なぜこのように人間は,おそらく持っていたであろう理念や信念に背くことができるのか,あるいはそれらをかくも容易に変更することができるのか(本人たちは決して「容易に」ではないと言うだろうが).このメカニズムを明らかにすることが重要なのは言うまでもないだろう.なぜならそれによってこの現象がいくらかでも制御可能になるからである.

 また,教授会メンバーはじめ大学構成員も,「トノの苦しいタチバ」にすぐに理解を示し,強力な抵抗はまれであるという現実を考えれば,この事の重要性は理解されよう.(もちろんこの構成員の「忠臣蔵」的心性も治療が必要だ.)

仮説

 客観的,構造的要因としては,おそらく法律には根拠がないと思われる権力を文部科学省が大学に対して現実には行使しており,「国会の前に平等」であるはずの文部科学省と国立大学との非対称,つまり前者の後者に対する優越の現状がある.この背景のもとで各大学の管理者は文部科学省に「頭が上がらない」.

 このような背景の中で,管理者は自己の属する大学や学部の利害を背負って文部科学省に当たらなければならないので,当然「中間管理職」的なディレンマは避けられない.その場合,「原理原則」と呼ぶべき大学存立の根源的な価値(学問の自由や教育の独立性など)を十分理解しているはずの人でも,それを犠牲にする場合が多い.

 このような現象は多かれ少なかれ古今東西のどのような社会でも見られることであろうが,われわれの社会の場合は「例外」があまりにも少ない,というより皆無に近いという特異性があるように思われる.その原因の主なものとして,この社会の文化的背景があるのではないかと思われる.つまり「原理原則」を貫くことはそれほど誉められたことではなく,自己の属する集団,いわゆる「ムラ」の利益を守るためにむしろ「泥をかぶる」ことこそ立派な行いである,というイデオロギーが存在するようだ.つまり「人間関係がすべて」という態度である.たとえそれが従属的,隷属的な要素を含んでいるとしても,である.

 最近の一連の企業スキャンダルの説明にもこのことは役立ちそうである.会社の利益,上司や同僚との人間関係を重視して食品の偽装に手を染めた社員は,間違いなく会社と同僚に忠誠を尽くしたのである.しかしそれは会社そのものの消滅につながった.

憲法的権利に対する無知

 学部長・学長などの管理者になるのは大学教員であるが,彼らは個々の分野の専門家ではあっても教育行政や法律に詳しいわけではない.特に教育基本法10条の意味を理解し,重視している人はほとんどいないように思われる.

付論1 異端者の濃度について

 個体にとっては「長いものに巻かれる」という戦略が短期的,局所的には自己保存にとって有利なので,どの社会でも造反者が常に少数であることはまちがいない.しかしどの程度の「少数」か,ということはかなり重要であるように思われる.例えば0.5%では変革につながらないが,2%だと相転移の引きがねになるのかも知れない.

付論2 「悪法といえども法」は逃避の一形態

 独法化準備がもし「職務専念義務」を定めた公務員法に対する違法行為であれば避けなければならないが,しかし教授会の決定であったり,上司の命令であったりすればそれに背くこともやはり違法行為となる.このような場合,ほとんどの人は後者の違法行為を避けることを選び,その理由として「悪法といえども法」と言うかもしれない.しかしこれは口実に過ぎない.つまりその時は公務員法の方を破っているからである.したがって突きつけられている本当の問題は,「どちらの法を選ぶか」という事である.正しい選択は,命令より法律を,そして法律でもより上位の法を選ぶ,ということのはずだ.最高位には「基本法」,すなわち教育基本法や憲法が存在する.

 問題はこれら上位の法には罰則がないと言うことだ.このため憲法違反者も教育基本法違反者もそのことだけでは逮捕されない.これに対して,上司の命令を無視すれば処分されたり,場合によっては逮捕されることもあるだろう.だから普通の人にとっての選択肢は,逮捕されたり処分されたりする恐れのある違法行為の方を避けることである.しかしこれはより大きな違法行為を放置あるいはこれに加担するというディレンマをかかえるのである.

 これについてもやはり付論1の「濃度」の問題が重要だと思われる.あえて下位の違法行為という犠牲によって上位の違法行為を避ける勇気を持つ人の人口比率を高めなければならない.