佐賀大学 豊島耕一
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各大学では「中期目標・計画」案の提出が急がされているが,これをめぐる問題は当面の攻防の焦点である.国会無視という不当な手続きによって各大学で作成された既存の文書は効力を持たない.法律30条に即して,文部科学大臣にどのように,どのような“意見”を述べるべきか,という観点からまず考えなければならない. 最も原則的な対応は,文部科学省の下請け作業のようなものには一切協力せず,「大学の行動や計画を縛るような具体的な目標は提示すべきではない」との“意見”だけを述べ,さらに念のため「触れるべきではないこと」のリストを付けるのが良いだろう.もし「原案」らしいものを作る場合でも,その文書にあれこれと盛りだくさんに書き込むことは避けるべきである.それは結局は文部科学大臣が「定める」文書に転化するのであるから,そのように幅広く“示して”欲しいという,大学から文部科学省へのメッセージにならざるを得ないからである.少なくとも文部科学省の項目立てに忠実に従うことだけはやめるべきである. このような見解を「現実的でない」と決めつける前に考えていただきたいのは,教養部解体に始まってのこの十年来,文部科学省の敷いたレールに「現実的に」いちいち対応して来た結果が,今日の大学破壊を招いたという事実である.また「悪法も法なり」は,法を守るという観点から見ても常に正しいとは限らない. |
「法人法」が国会で可決され,これが実施に移される来年四月には,すべての国立大学は「理論的には」大学であることを止める.私学高等教育研究所主幹の喜多村和之氏は,「学問の自由とその制度化としての自治を喪失した大学は,もはや大学の名に値しない.仮に大学の形態は保ち,生き残りは保てたとしても,それはもはや大学ではないと著者は考える」と述べている[1].まさにこの意味において大学は死ぬのである.
しかし死は一瞬に訪れるのはない.心臓が止まっても,体のすべての細胞が死滅するまでにはいくらか時間がかかるのと同じである.したがって,これからの大学人の責任は, 法人法廃止の努力と共に,この法律を出来るだけ無害化し,大学の死を最小限にくい止めることにある.その努力における今の時点での最重要課題は,各大学が提出を急がされている「中期目標案」の問題にどう対処するかということだと思われる.
「中期目標」,「中期計画」をめぐっては,国会審議どころか,法案ができる遙か前から,その作成を文部科学省が各大学に指示していた.これが 国会無視であるとして参議院の委員会で文部科学大臣の責任が問われたのは記憶に新しい.しかしこの問題では大学側にも,そしてこれに従事した教員個人にも責任がないとは言えない.文部科学省の指示とはいえ法的根拠はなく,断ることが可能であったし,当然そうすべきだったのである.《違法な命令に従ってはならない》と言うのは,半世紀以上も前,ニュールンベルグ裁判で確立した規範のはずであった*.そしてこの「中期目標・計画」の作成という行為は,今日法律が成立したからと言って遡って正当化されるというわけではない.「職務専念義務違反」や「経費流用」が問われるかも知れない.少なくとも,各大学で作られた「案」なるものは,このような不当な手続きによるものであり,何ら有効性を持たないのである.したがってゼロから出発しなければならない.(筆者によるものも含め,国会無視との指摘は繰り返しなされている[2].)
さて,各大学でこれから文章化されようとしている「中期目標」とは,おそらく法人法30条が規定する大学の意見表明権による手続きの一環と想定される[3].
国立大学法人法 30条の3
文部科学大臣は、中期目標を定め、又はこれを変更しようとするときは、あらかじめ、国立大学法人等の意見を聴き、当該意見に配慮するとともに、評価委員会の意見を聴かなければならない。
したがって,少なくともこの件に関しては忠実にこの条文に沿って行われなければならない.すなわちこの“意見”については,その内容はもちろん,その形式にも何ら限定がないということに注意しなければならない.もちろん「文部科学省の指導にもとづいて意見を述べる」などということはあり得ない.その意味でも,これまでの「早まった」作業における作成手順,フォーマットなどはすべて破棄されなければならない.なぜなら,これらの作業は,国会無視であったというだけでなく,多かれ少なかれ文部科学省の指導ないし干渉のもとで行われたことは明らかだからである.
どのような原則でこの中期目標の「作成」に臨むべきか,あるいは法律に沿って正確に言えば,文部科学大臣にどのように,どのような“意見”を述べるべきか,ということがまず考慮されなければならない.
まず,付帯決議にもかかわらず,法律では「中期目標」は文部科学大臣が定めるとされていることを無視してはならない.参議院での付帯決議に「中期目標の実際上の作成主体が法人である」とあるが,もちろん効力は法律の文章の方が強い.(それにしても自らが可決したばかりの法律の条文の一つを「嘘だ」と言ってしまう神経とは一体何だろうか?)そして,この条文こそは,元文部大臣の西岡氏さえ「文部科学大臣の権限が強すぎる」として反対し,またすべての野党が「学問の自由を侵す」として非難の的としたものであった.
もし野党のこの理解を共有するならば,そして,この懸念を全面否定する文部科学省の見解(強弁と言いたいが)に与しないのであれば,この条文を出来るだけ空文化することが最も重要な課題となるであろう.すなわち,これに大学の意見をあれこれと盛り込むことよりも,この内容自体を最小限に抑えることが優先されなければならないのである.
そのためのおそらく最良の方法は,文部科学省の下請け作業のようなものには一切協力せず,「大学の行動や計画を縛るような具体的な目標は提示すべきではない」との“意見”だけを述べると言うことであろう.さらに「触れるべきではないこと」のリストを付ける必要があるかも知れない.すべての国立大学の中期目標を「定める」義務は文部科学大臣にあると法律に書いてあるのだから,その義務は自分で履行しなさいということである.いざとなればそれも可能だと思って文部科学大臣はそのような法律を作ったのであろうから,お手並みを拝見しよう.大学の意見表明はあくまで権利であって義務ではないのである.その内容が憲法や教育基本法に反すると判断されれば,直ちに訴訟を起こすこともできる.
それではあまりにも「素っ気ない」と思う人も多いであろう.その場合には「原案」らしいものを作るのも悪くはない.しかしその場合でも,「自らの考えを盛り込むべきだ」などと言って,この文書にあれこれと盛りだくさんに書き込むことは避けるべきである.それが結局は文部科学大臣が「定める」文書に転化することを考えれば,そのように幅広く“示して”下さいという,大学から文部科学省へのメッセージとなってしまうであろう.これは汗を流して自らの墓穴を掘るという作業に他ならない.
さらに避けるべきなのは,文部科学省の合田隆文氏の名前で7月31日付けで出された「フォーマット」にしたがって作成するなどと言う愚行である.なぜなら,どのような意見にせよその最も根幹の部分は項目設定(アジェンダ・セッティング)にあり,それがすでに決められた文書に加筆するなどということは,単に「アンケート」に答えるということに過ぎないからだ.これに多くの教員が疑問すら持たないとすれば,まさに「マークシート方式」による洗脳が大学教員にまで進んでいることを意味するだろう.文部科学大臣が定める「目標」への意見ということであれば,「そこに定めるべきではないこと」を指定した意見もあり得るが,合田フォーマットにはもちろんそのような項目はない.
統一フォーマットを避けなければならないのは,文部科学省の干渉,介入を出来るだけ避けるためという実際的な理由にもよる.項目が統一されていれば,文部科学省はそれらの項目ごとに「出る杭」がないかどうかを効率的にチェックできるであろう.大学がそのような手段を進んで提供するというのは,度外れたお人好しと言うべきだろう.留意しなければならない項目は,法人法30条に規定された5つ以外にはない.
国民に対するアカウンタビリティーは,全国ネット声明文が述べるように,将来計画について国民・市民向けに別途示すことで果たすことができる.
以上のような見解に対して,「現実的でない」,あるいは「原理主義者の遠吠え」と見る人が多数だと思われるが,しかしそう決めつける前によく考えていただきたい.教養部解体に始まってのこの十年来,文部科学省の敷いたレールに「現実的に」いちいち対応して来た結果が,今日の大学破壊を招いたのではないかということである.このことについてどうか熟考してみていただきたい.この間の推移について,文部科学省の当局者の立場から眺めて見たら分かりやすいだろう.大学教員に関する限り,御しやすく,物分かりのいい人々として見えるのではないだろうか.彼らは実際にそう思っているかも知れないし,あまりにも抵抗がなかったことに拍子抜けしているかも知れない.
あるいはまた,「力関係から考えてやむを得ない」という類の反応も返ってきそうだ[4].だがそのような言葉をすぐに口にする人は,「力」という言葉を,単に「数」という意味で,特に権力を持った人の数という意味でのみ使っているのではないだろうか.しかし「力」というものはいろんなスペクトルを持っている.言葉の力,金の力,あるいは大仁田議員は確かに持っていると思われる文字どおりの腕力などなど,極めて多次元的な量である.その中でも最も重要な力は想像力であろう.そして総合的な力は,それらの能力を人数その他で積分したものとして評価しなければならない.
そして何よりも重要なことは,力というものは運動の中で生成するものだ,ということである.これは行法化阻止運動の中でたった今我々が経験したばかりである.新聞広告のために4千万円もの資金が3ヶ月で生成した.これは,提唱した人の想像力が産み出したものだ.
また,言葉の持つ力をもっと重視しなければならない.コマーシャルの分野ではこのことは常識だが,またこの点では小泉人気の中にもヒントがある.これだけの悪政にもかかわらず,なぜ50%もの人が彼を支持するのかを考えたとき,その重要なファクターとして,彼が振りまく--いかにデタラメであっても--「断固たる」言説や,「改革原理主義」のイメージに思い至る.つまり多くの人々は「硬派」的言説や態度を好むのである.すぐに相手の敷いたレールに乗る大学人サヨク(?)にはこれが全く欠けているように思われる.これでは人々を引きつける「勢い」というものは持てないし,「力」を生成することもできない.原理原則に真に忠実な言葉は,それだけで固有の力を持ちうるかも知れないのだ.我々がいかに「骨太」にこの問題に対処できるかが問われている.
あり得るもう一つの批判は,「悪法も法なり」という言説から生じるものであろう.すでに国会を通過して法として成立したのだから,それには従うしかない,という考えである.一見尤もらしいが,しかし「法を守る」ということの意味をよく考えたとき,これは常に正しいとは限らないことが分かる.法には構造があり,上位の法に違反するものは無効である.憲法98条には次のように書かれている.
この憲法は、国の最高法規であって、その条規に反する法律、 命令、詔勅及び国務に関するその他の行為の全部又は一部は、その効力を有しない。
憲法には罰則がないためにこれの無視や違反については気にかけず,一方,処罰,処分されることを理由に,違憲の法律や命令には忠実に従う.これは「法を守る」という態度とは無縁のものであろう.上位の法と下位の法とが矛盾するとき,上位の法を選ぶのが真に「法を守る」ということであろう.処分されるかどうか,逮捕されるかどうかということは規範にはならない[5].このような,単に言葉だけではない市民の積極的な態度と行動がない限り,憲法の侵食を止めることはできないだろう.
「満身創痍」で何とか成立したと言われる「法人法」だが,これに「治癒」の時間を与えてはならない.さらに追撃を加え,回復不能な「障害」をできるだけ多く与えておかなければならない.「中期目標」をめぐる攻防はその一環である.国会での貴重な議論の記憶が新しい今こそ,その努力を集中する必要がある.さもなければこのモンスターは活力を取り戻し,大学を本当に壊滅してしまうだろう.
ある新聞は,国立大学の独法化で文部科学省がミニ官庁になったと書いた.国立大学を官庁と同一分類で数えるという問題はさておき,もしこの官庁の勢力が弱まったのであれば,これを廃止する良い機会が来たと言えるだろう[6].この官庁は大学の最小限の存立原理さえ守ることが出来なかった.それどころか自らがその破壊の先頭に立ってしまったのである.このような官庁の存在意義を今なお認める大学人は,かなり減ったのではないだろうか.もちろんこれが小中高の教育に及ぼした害悪ははかり知れない.(2003年8月9日.9月8日改訂ver.1.1c)
[1] 「大学は生まれ変われるか」(中公新書,2002年3月刊)
[2] 以下の拙文,新聞記事,および声明文を参照下さい.(新しい順)
イ)教授会・評議会で行法化の是非そのものを議題に
(豊島,03.2.5)
ロ)国会無視の暴走
(「しんぶん赤旗」03年1月11日)
ハ)持つべき「危機感」とは何か
(豊島,ScienTech, No.18. 03年3月発行)
ニ)「結果」偏重の価値観は問題
(豊島,02.11.19)
ホ)「学問の自由」は消費するだけでいいのか?
(豊島,02.11.1)
ヘ)全大教岡山教研での発言
(豊島,02.9.7)
ト)「たたかう」という言葉を理解しない組合に存在意義はあるか
(豊島,02.9.11)
チ)官学癒着の暴走を止めるためにご援助を
(豊島,02.9.5)
リ)大学人の最低限の「社会貢献」は大学存立の原理を守ること
(全国ネット,02.5.9)
[3] 「法人」になってはじめて認められる権利で,現在の大学にはない,という議論があれば別であるが,そのような解釈をする人は少ないだろう.
[4] そのような言葉を使う人は,少なくとも「闘っている」人のはずだろう.ところがほとんどの場合そのようには見えない.私の観察が正しければ,要するに闘わないための口実としてこの言葉が使われているにすぎない.
[5] このような,「政府の違法行為を市民が抑止する」という考えで非暴力運動を進める団体は世界に数多く見られるが,その一つ,イギリスの核廃絶を求める団体,トライデント・プラウシェアズの事例も大いに参考になる.この運動のリーダーを含む3人は1999年にイギリスの核ミサイル潜水艦の実験施設を破壊したが,「国際法違反の大量破壊兵器関連施設を破壊するのは正当」として,4ヶ月後には無罪判決を受けた.座り込みや基地のフェンスを切ったりする活動でも多くの逮捕者を出しているが,彼らはむしろその数を誇っている.現在までの逮捕者の累積は1,795名にものぼる.つぎのウェブサイトをご覧いただきたい.
http://www003.upp.so-net.ne.jp/maytime/goilsupt.html
[6] もちろん教育・文化行政を担当する省庁が不要だという意味ではない.この官庁は戦前からの名称を引き継ぎ,戦後の刷新は束の間で,ほどなくかつての統制色を復活し,近年はイデオロギー官庁という方向への「先祖返り」が著しい.このような官庁は一旦廃止し,教育基本法10条に忠実な官庁への全面的なリニューアルが必要だという意味である.
* 「国際軍事裁判所規約」第八条参照.ごく最近の例では,2002年外務省の前島陽・元課長補佐の逮捕の例もある.拙文「独法化容認と『闘い』放棄の思想的背景」参照.