中教審答申案に対する意見

(2002年1月16日,文部科学省に提出)

佐賀大学 豊島耕一

 まず,今日的教養にとってきわめて重要であるにもかかわらず,この長文の答申が全く触れていない問題を指摘しなければならない.アジェンダ・セッティングこそは,どのような提言文書であれ,その作成者の視野と問題意識,そして問題の優先順位についての見方を表すからである.たとえ述べてあることが尤もなことであっても,より優先順位の高いことが無視されていれば,公衆に誤った現状認識を与えるものである.

 何が欠けているかは,この文書に使われている語彙を検索して見るだけで直ちに判明する.すなわち,次の言葉はこの長大な文書に一回も出現しない(関連資料)

 "権利","人権","民主主義","民主的","政治","戦争","平和"

また,わが国の次の二つの基本法規も全く引用されない.

 憲法,教育基本法

 周知のように教育基本法8条は"政治"教育の重要性を指摘し,「教育上これを尊重しなければならない」としている.市民の"政治"的素養・知識を高め,"政治"参加の意欲を向上させることは言うまでもなく今日的教養の中心的課題のひとつである.人々の"政治"的関心が低下すれば"民主主義"は崩壊する.答申は若者の勉学意欲の低下を憂いているが,しかし彼らの"政治"的関心の水準についてはあまり気にしていないようである.(このパラグラフで"政治"をすでに5回使った.)

 答申が"政治"的教養の問題に全く触れていないわけではない.2章の項目アに,「自ら社会秩序を作り出していく力が不可欠」とある.これは"政治"への積極的関与を述べたものだが,わずかにこの一箇所だけであり,ここでもこれ以上の議論の展開はない.

 今日の世界は残念ながら平和からほど遠い状態である.第二次大戦が終わって今まで,世界から戦火の絶えた日がない.したがって,平和の文化を世界に広めることは,教育にたずさわるすべての人の緊急かつ重要な責務である.そのためには,当然わが国の若者にも平和を強く指向する教養を身に付けてもらう必要がある.ユネスコ憲章前文にあるように,「人の心の中に平和のとりでを築かなければならない」のである.しかし答申はこのような教養の側面にも関心がないようである.

 この無関心は審議会の現状認識にも反映している.2章の項目ウには「科学技術の著しい発展や情報化の進展は、人類に恩恵をもたらす一方で、地球規模の環境問題、情報通信技術や遺伝子操作技術などその使い方をめぐって倫理的課題をはらむ問題をも生み出し」とあるが,これがまた原爆に象徴される巨大な人類殺戮のシステムを作り上げたことは触れられていないのである.

 答申が「権利」という民主社会の重要なキーワードに無関心なのも全く不可解である.今日の日本ではあらゆる種類の権利侵害が豊富に,また十分すぎる数だけそろっている.注目されやすいセクシャル・ハラスメントや性差別だけではない.これを数え上げるだけでも数ページになろう.しかし答申はもっぱら「責任と義務の自覚」を説くだけで,この「自覚」を持たない人や団体に対してはどうすればいいのかについては語らない.そのような人や団体はしばしば社会において大きな力を持つ存在なので(たとえば政府自身,あるいは企業など),「権利」という法の後ろ盾を持った概念こそが重要な防御手段なのである.この防御によって人は困難な社会の中での「生きる力」を得ることができる.推察するに,審議会のメンバーはほぼ儒教的イデオロギーに支配されており,権力的な存在が「責任と義務の自覚」を持たないかもしれないというのが想像できないのではないだろうか.なぜなら儒教は当然「権利」という語彙を持たないからである(注1).

 次に,「書かれていること」について検討してみよう.答申は多くのごもっともな,したがってまた誰でも口にするような教えを沢山ならべてもいるが,これらのほとんどは常識的すぎるため紙とスペースの無駄遣いになっている.しかし中にはいくつかの悪影響をもたらしかねない重要な項目も含まれている.

 まず,答申は学校や家庭,地域社会にいろいろと注文を付けているが,政府,特に教育政策の責任官庁である文部科学省に対して,全くといっていいほど何も言っていないことを指摘せざるを得ない.教育のいろんな不具合を嘆いているが,これまでの文部科学省の責任については全く触れていないのである.この役所は「無謬」であるのか,あるいは「透明な存在」とされるのか,その「アカウンタビリティー」を点検する姿勢はゼロである.当の役所に選ばれたメンバーだからしかたがない,というのであればはっきり冒頭にそのように「効能の限界」を「品質表示」すべきであろう.つまり,「当審議会は文部科学省の現在および過去の責任について扱う能力はありません」と.そうすれば読者はそれをはっきりと頭においた上で答申を吟味することができるのだ.

 次に,審議会はこの種の文書が持つ社会的効果というものについて気に留めるべきである.一旦「答申」としてのお墨付きが与えられると,わが国ではその文書はあたかも「法」をさえ超越するかのような象徴権力を発揮するのである.かつて98年に大学審議会が出した答申は,大学の中で主に管理者層によって金科玉条のように扱われた.単なる一つの役所の考えを表明した文書に過ぎないのに,である.しかもその内容は憲法や教育基本法の精神と齟齬をきたすようなものを含んでおり,また同時期に出された「グローバルスタンダード」たるユネスコの「高等教育世界宣言」の考え方とも大きな乖離を示していたにもかかわらず,である.

 この状況は大学よりも一層官僚的統制が行き渡っている高校以下の場合はもっと甚だしいだろう(注2).特に重大なのは,3章第2節で「高校で学校としての『必読書』を30冊選定し、生徒に読むことを勧める」とした部分である.このこと自体も問題で,このような「推薦書」の類は先生個人レベルで提案されるべきものである.学校という公的な機関が読書傾向の「画一化」を図ろうとすることなどもってのほかである.しかし問題はそれに留まらない.上に指摘したような今日の上意下達的な学校の雰囲気の中では,「必読書」は教育委員会の,さらには文部科学省選定の必読書になるのが必然である.まさに国民的「思想善導」である.(言うまでもないことだが,本のリストそのものが文部科学省選定になると言っているのではない.本の傾向がそのように心理的な圧力で暗黙に規制されるに違いないと言っているのである.)

 結論として,この答申は,これまでの同審議会の数ある答申同様,何かの貢献をなすというよりは少なからざる害悪をもたらすものである.何らかの意味がある答申となるためには全面的な再検討が必要であろう.もしそれが困難であるというのであれば,メンバーの大幅な入れ替えに期待するほかないであろう.(2002年1月16日)

(最後の茶色の部分は締め切り翌日に追加を依頼したものです.採用されたかどうかはわかりません.またリンクは原文にはありません.)


(注1)儒教イデオロギーを背景とした「水戸黄門」ドラマが視聴者の意識下送り続ける暗示は「権力は究極的には善である」というものである.この「テレビの影響」もかなり大きいのではないか.
(注2)カレル・ヴァン・ウオルフレン,「日本という国をあなたのものにするために」(角川,2001年刊)の225ページに的確な記述がある.
なお,この本の中には憲法9条の改正を主張している箇所もあり,これには私は反対である.しかしそのことでこの本の重要な価値,つまり日本に民主主義を作り上げていく方法論とそのための読者へのエンパワーメントがいささかも傷つけられるものではない.

(注改訂 1月24日)