次の文書の部分訳です.(10月29日訳を追加)
Greenham and Women in Black Blockade, October 1-3, 2006
http://www.faslane365.org/BGs/reports/womens.php

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「ファスレーン365」第一報

2006年10月1日〜3日,グリーナムと「黒衣の女たち」の封鎖

女性たちの行動の写真を何枚か見るには、ここをクリックしてください。

目次
設営,キャンプ生活と目立ち度(Visibility)
月曜日の封鎖
30時間の拘留と罰金なしの釈放
刑事部および地方検察局からの手紙
北門に復帰

ファスレーンの核基地で、トライデントに抗議する「ファスレーン・365」行動の開始にあたり、10月1日(日曜日)から10月3日(火曜日)まで、全部でおよそ80〜90人の女性たちが連携して封鎖と「目立ち行動」に参加した。「グリーナムの女性たち」が「黒衣の女たち」(Women in Black)と連携して、3日間北ゲートで非常に目立つプレゼンスを続けたが、2日目には13人の女性たちが逮捕された。 英国全土からの女性たちに加えて、ベルギーとフランスおよびパレスチナからの「黒衣の女たち」6人、および米国からの「自由と平和を目指す国際女性リーグ」のメンバーも含めて、海外からの参加もあった。

私たちの「目立つ」という目的の一部として、女性たちはゲートの両側と、そのそばの道端にキャンプを張った。 私たちは、たくさんのバナーを掲げ、食事と会合に共用することができるシェルターを作った。 私たちは、ゲートの正面道路を何度も横切り、ロータリーではスコットランドのダンスを練習し、混沌とした「物語と歌と踊りの集い」 (何曲かの素晴らしいバイオリン演奏でたくみに盛り上げられた)を楽しんで、トライデントについてのリーフレットを手渡し、またワークショップを開いた。

月曜日の朝7時20分 (ちょうどシフトとシフト交替の前) から、およそ1時間にわたって小集団で連続して封鎖をおこなったと時、12人の女性たちが逮捕された。その日のだいぶ遅くになってから13番目の女性が逮捕された。私たちの行動は、警察の指示に反して、地面に横たわって直接交通を妨げるやり方から、コンガ・ダンス(訳者注:アフリカ原住民の踊りから発達したキューバの踊り)、それに、ロータリーをココアを1杯を持って横切って、通行を妨げるやり方という範囲だったにもかかわらず、全員が「秩序違反」(breach of the peace)で告発された。ラジオ・ニュースは、交通が1時間以上停滞したと伝えた。

逮捕された13人の女性たちは、クライドバンク警察署に拘禁され、地方検察官が告訴しないことを決めたと伝えられるまで、30時間にわたり独房の中に閉じ込められた。 13人は、10月3日火曜日の正午から1時ころ、警察署に集まっていた支援グループ(自動車を用意していた)からの歓声と歌によって歓迎されながら、釈放された。 私たちは基地に戻り、私たちが拘禁されていた間、北ゲートでの目立つプレゼンスを維持しながら、キャンプを維持していた女性たちによって歓迎された。私たちは報告会を開き、午後6時頃にキャンプを閉じ、夕暮れが迫ったためロータリーで少しだけ歌い踊って閉会した。 さらなる詳細ならびに今後のグループが役立つと感ずるかもしれない点については以下を見ていただきたい。

設営,キャンプ生活と目立ち度(Visibility)

日曜日の朝8時に最初の数人の女性たちが到着したときはひどい雨が降っていたので、私たちは初めに、北ゲートの両側にテントを組み立て、バナーや写真やプラカードや婦人参政権運動色(Suffragette colour)のリボンをフェンスに飾った。大勢の警察官がいて,彼らはピリピリしていた。ゲートには100人をかなり越える警察官がおり、警察のバンは北ゲートの約100ヤード先のファスレーン墓地の反対側に駐車していた。 警察は、どれほど多数の女性たちが来るのかを気にしていた。 私たちは、人数について、また、何人かの女性たちが南ゲートに、あるいはクールポートにさえも行くかもしれない、ということを彼らに推測させ続けて、警察官たちをもてあそんだ。

私たちは基地に行く数日前にプレス・リリースを出した、そして、私はファスレーンからのラジオ・インタビューを受けた。BBCラジオ・スコットランドの朝の「信条」のプログラムだった。 2,3時間後に私に電話をかけて来たプロデューサーによると、その放送は、「女性たちの幸運を祈る!」という電子メールの洪水を局にもたらした、という。

最初の日には、およそ60〜70人の女性たちがいた、そして、このグループが「グリーナム式」のやり方で集まったので、日曜日は、地形の吟味や非暴力トレーニングをおこない、詳細な法的状況説明を聞く、といった問題について議論すると同時に、お互いに知り合うことやネットワーク作りのために当てられた。 私たちは100人には達しなかったが、次の2日間にわたってもっと多くの女性たちがやって来たし、何人かは早めに帰らなければならなかったので、参加した総数は80〜90人だった。

バナーとメッセージに加えて、私たちは、北ゲート脇のフェンスに接してテントを立て,またバケツ付きのささやかなトイレ・テントを含め,道路の反対側の墓地への別れ道の側のいくらか沼地じみた草深い道端にもテントを設営することで、「目立ち度」の境界を押し広げた。 私たちは、警察のバンとは反対側の墓地駐車場に車やバンやマイクロバスを駐車させることは禁止されなかった。

その道端で、キャンプ・ファイアを含めて短期的なキャンプがあることに、迷惑がっている人は誰もいないように思われた。 国防省は、私たちにテントをゲートから撤去させようと懸命だったが、A814号線と基地フェンスとの間の道端が誰の所有地なのかについてかなり混乱しているように見えたので、私たちは、彼らに敢然と立ち向かい、とにかくキャンプを張った。高い「目立ち度」が女性たちの行動のための戦略の一部なので、これは非常に重要だったし、誰かがバナーやテント仕切りを故意に破壊したり取り壊したりしないかと(誰もやらなかったが)、何人かが夜通し見張らなければならないことを意味していた。 少し騒がしくはあったが、一夜の睡眠は可能だった、そして、私たちはすべてのグループが、夜通しの見張りをすることを考慮するよう奨める。 それは非常に目立ち、基地を混乱させて、あなたの宿泊の問題を解決する! 国防省は、キャンプを張ることはできないと言うだろうが、彼らは法的根拠が確かではないように思われるので、一押ししてみる価値がある。

月曜日の封鎖

私たちは、基地のシフト交替で、基地内に入ろうとする通行量がふえる7時30分から封鎖を始めるつもりだった。 しかしながら、アナーキストの女性たちによって、用意された最善の計画は迷走してしまった。 7時20分に突然2人の女性がロータリーで座り込みを始めた。その時点で私たちは、(彼女らが孤立するのは望まず)、どうすべきかを個人個人で選択した。 数人の女性は、直ちにゲートの正面に座り込むことを決めた。 何人かは、通行が再び動き始めるまで待って、それから、ゲートの近くで警察が手薄な道路の部分を見つけ、その場で横たわった。 他の人はさらに長い間待ってから、自分たちの行動をとったので、私たちの行動がもう終わった、と考えていた警官たちを明らかに驚かせた。警察は非常に緊張して、直ちに逮捕する指令を受けているように思われたので、数人の女性たちが、移動する暇も与えられずに、路上を横切っていたり、路上で踊っているところを逮捕された。ラジオは、これらの連続したミニ封鎖により (基地の朝のラッシュアワーに実行されたという事実によって過大視され) 1時間以上も交通か滞ったと伝えたが,いずれの場合も通行が妨げられたのは比較的短時間だった。

私の個人的な体験はこうだった。 最初に2人の女性が封鎖を始めたとき、私は朝食の最中だった。隣のテント仕切りの中の人たちのための朝食を出すために、私は片手に私のココアのカップを持ち、もう一方の手に空のカップ4個を持って、道を横切っていた。 私は、封鎖している女性たちを見て、みんなOKかどうかチェックしようとして、ロータリーを横切って歩いていた。一人が引きずられていて、車の通行は止まっていた。 A814号線が基地の方に向きを変えるところを歩いて戻っていたとき、頑強な一人の警官が道路から出るように、と私に告げて、私は引っ掴まれた。 悪いことに彼は私を揺さぶったので、私が持っていたココアをこぼしてしまった。旅行者に対する安全指針によると、不穏な状況に出会ったら座り込むこと、となっていたので、私は座り込んだ。

数人の警察官が直ちに私を襲い、私の腕をひっつかんだので、私は空のカップを下に置き(壊したり、誰かを怪我させたくないので) 、私のココアのカップを持って欲しいと一人の警官に頼んだ (奇妙なことに、彼は受け取った) 。そして私は、クジラみたいに、そしてできるだけ重々しく、優雅に横たわった。

私をこんなにも重い体重にするまでには何十年もかかっている、それで私を道路から運び出すまでには、時間がかかり、何度もトライしていた。 道路から排除せよ、という当初の指令は別として、警官は私に逮捕の警告をしなかったし、威嚇もしなかったので、わきに動かされるだけだろうと私は思っていた。 実際には私は手足を広げた姿で、バスの停まっているところまで運ばれた。彼らは握り直すために二度私を下に降ろした。そのたびに私はのたうち回った。 しかしながら彼らは、私を運んでいる間、私の安全としとやかさを尊重するべく最善をつくしていた。 続いて私は、墓地の反対側の警察のバンに乗せられて、「処置された」、それは、彼らが私の名前を尋ね、私は答え、他のいろいろな個人的な質問には私は答えなかった、ということを意味していた。バンに連れて来られていた数人の女性たちと共に、私は「秩序違反」で逮捕され、私を逮捕している警官とともに写真を撮られて、バンに運び込まれたことを告げられた。今回(それどころか、いついかなるときも)私は正式には告訴されなかったし、私の回答を記録されることもなかった。

30時間の拘留と罰金なしの釈放

10人の女性が捕まり,警察トラックは満杯になり,私たちはクライドバンク警察署まで運ばれ二人ずつ入れられた.我々のうち何名かがトラックの中に待っている間,もう一台の警察トラックが二人の女性を乗せて到着した.その二人は北門の前で「コンガ(conga)」を行なっていた人である.

クライドバンク警察は「しゃくし定規に」やろうとしていた.彼らは,実際上,宝石を含めてすべての所有物を取上げた(ただ一人の女性が彼女のリングについて交渉していた).もしベルトがズボンに付いているもので切らなけれ外せないない時には監視人との交渉で変わることもあり得るが,基本的にはベルトや紐などはズボンから外さなければならなかった.私は,誰にも危害を加えない非暴力の実践者として言葉を選び,紙のズボン(!)を着たり私のズボンの紐を切られたりすることのないようにうまくやった.履物とジャケットは独房のドアの外に置かねばならなかった.

1980年代での私の監禁の時とは違って,ある人たちが以前に「自分自身を傷つけるため腕時計の鋭いエッジ」を使ったことがあると主張して警察は我々の腕時計を取上げた.天井の石目を付けられた厚いガラスを透して非常に弱くぼんやりした光しか入ってこない防音の独房にいる時には,時間の感覚は大変歪んだものとなる.

私が秩序違反の責任を問われているとの巡査部長の話を別にすれば,文書による手続きは何もなく,また,その告発に公式に答える機会もなかった.私は逮捕の状況についての質問を一度もされなかったし,また,どんな正式な取り調べも受けていない.

何人かの女性はもう少し正式な告発の手続きが取られ,基地でトラックに乗せられる前に彼女らの返答を記録したようだ.しかし,我々のすべてがそのように扱われたわけではない.私が知る限り,警察署の中では,誰も尋問されていないし正式に取り調べられてもいない.私は午後10時頃までは指紋も採られなかったし写真も撮られなかった.2,3名の女性は早くに指紋を採られたようである.その一人が,「機械が壊れたと思う,そのことが遅れの原因ではないか」と言った.菜食主義者は,動物質の材料を用いない食品が得られるし,また何杯かの紅茶も提供されるが,ただコーヒーはない.ほとんどの独房とそこの毛布はわりにきれいだったが,二人の女性は乾いた血と排泄物の付いた壁のある二つの独房に入れられた.

それぞれの独房は角に腰かけのないトイレがあった.トイレットペーパーは求めに応じて供給される.私の独房には拘置者のための説明書があった.その説明書で私は筆記用具を要求する権利を含めて色々の権利を知った.私は筆記用具を要求し,ちびた鉛筆と何枚かの紙が与えられた.(逮捕は)ちょうど朝食の最中であったしそんなに早く捕まる準備もしていなかったので,本や歯ブラシなどを用意していなかった.だから,教訓は「常に準備せよ(そして本も)!」である.

独房は非常に暑くむっとした.だからモイスチャークリームを要求しよう.貴方がしつこくせがむと監視人らは使わせてくれるだろう.プラスの面では,彼らは私が要求した時はいつでも,私は頻繁に要求したが,水を紙コップで持ってきてくれた.独房の音響効果は歌うのには素晴らしいものだった.しかし反響がすごいので,廊下で起きたことは小さなことでも聞こえるが,房の中の誰が喋っているのか,それとも歌っているのか分からない.私は長い静寂をはさみながら時おり,私が覚えているかぎりのカミラが作曲したのトライデント・オラトリオや,他の美しい歌を歌い,それから,ファスレーンに関する詩を作り,様々なプロテストソング(ほとんどはグリーナムからのもの)や投獄に関係した歌を歌った.他の人たちは,言葉ははっきり分からなかったが,それらの歌を聴けてよかったと言ってくれた.

午後の3時か4時にクレア・ライアンという素敵なスコットランドの事務弁護士が立ち寄った.私たちは独房から離れた所にある部屋で別々に彼女と話さねばならなかった.彼女は,少なくとも我々の何名か(ココアを持っていた私も含めて)は秩序違反で逮捕し拘留する根拠が何もないという意見を強く持っていた.

彼女は,次の日裁判所に連れていかれるために私たちは多分一泊留め置かれるだろうと言った.それには驚いた.私たちはたいへん朝早く逮捕されていたので,その日のうちに罰金を言い渡され釈放されるかその日のうちに処理されると思っていたからだ.しかし,スコットランドでは,イングランドやウェールズとは違い,翌日の裁判のために一泊留め置かれることはあり得るとのことだ.その夜は長かった.しかし,翌朝,私は他の同僚達からハッピーバースデーの愉しいコーラスを受けた.そのコーラスは,ハモっていて,また,いくつかの廊下から異なったテンポで反響して聞こえた.そのことは,監房が奇妙な構造になっていて,歌っている同僚達が互いに聞こえていないということを意味していた.

私たちは顔を洗うために外に出るのを許され,そのとき他の同僚と少し会話することが出来た.私たちはまだ裁判所へ行くものと予想していたが,その朝は時間がだらだらと過ぎた.それから正午頃に突然(火曜日,3日)釈放されるだろうと知らされた.その手続きの最後に,私は自分の所持品を返してもらい,アンドリュー・ミラー地方検察官からの手紙を受け取った.その手紙は次のように監視人に指示していた.「拘留中のこの人物を本日の拘留裁判所の審査報告書にしたがって次のように取り扱われたし.:添付の手紙にしたがって本件に関しては釈放する.」



 刑事部および地方検察局からの手紙(逐語的に)

2006年10月3日

拝啓

貴方に対する起訴事実

貴方は申し立てによると次の違反を侵したとの報告がありました.

(1)ファスレーン,クライド英国海軍基地(HMNB)北入口A814号線において2006年10月2日に秩序違反

この報告をみれば,私が貴方を刑事上の罪で裁判に申し立てるに十分な起訴事実があるということが明らかです.しかし,この際,私はそのような訴訟手続きを取らないと決めました.でも貴方は次のことに気をつけるべきです.もし将来貴方についての同様な届け出が私に届いた時には刑事上の訴訟手続きを再び控えることは出来ないであろうということです.

敬具

アンドリュー・ミラー,地方検察官


北門に復帰

北門に残っていた女性たちは,パレスチナ人や国際「黒衣の女たち」の人々も含め,編み物をしたり,歌ったり,スコットランド風の歌や踊り(ceilidh)をしたり,行動計画をしたり,様々な話題についてワークショップを開いたりしているグループとともに,10月2日と3日を通して現場で強いプレゼンスを保っていた.彼女らは時おり道路に出ていく姿勢を示したりして警察を試し続けた.

月曜日のある時間,国防省警察は,北門の近くにフェンスに向かって立てられたテントは解体すべきだと再び主張した.しかし,それらのオーナーはすべて逮捕されていることが明らかになった.その他の女たちは解体することを拒否し,国防省警察がそれを行なう法的な権利があるかどうか必ずしもはっきりしている訳ではないが,国防省警察がそれらを解体し梱包している様子を注意深く見守った.反対側のキャンプは全期間を通じて設営することが許された.

拘留された人々が基地に帰って来るとすぐに,私たちはこの間の経過について話し合い,警察の戦術と裁判所の動きについて報告を受けた.そして,午後6時頃にはキャンプを解体した.暗やみが迫るにしたがいロータリーの上でさらにいくらかの歌と踊りを楽しんで終了した.その後女性たちは,ある者は帰り,他の者はゲアロッホヘッドにあるレンタルハウスに戻って,祝い,くつろぎ,パーティーをした.

以下,しばらくお待ち下さい.
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