国立大学行法化 -- なぜ敗北したか,どう巻き返すか

(多分野連携シンポジウムのためのレジュメ,東大,2003.9.27)
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国立大学独法化阻止全国ネットワーク事務局長
豊島耕一(佐賀大学)

次の全国ネット声明も参照下さい.
「『法を守る』とは何かが問われている」(03年7月22日)
http://pegasus.phys.saga-u.ac.jp/znet.html
(“独法化阻止全国ネット”で検索)

1.事態の深刻さ

辺見庸氏の「自明性の崩壊」[1]という言葉を借りるとすれば,独法化によって「大学の自治」,「学問の自由」という,大学人にとっての自明の価値が崩壊したのである.井上ひさし氏によれば,戦前でも大学の自治はあったのであるから,「戦前への回帰」とさえも言えない,「深刻な」という言葉でも足りないような,大きな後退である.あるいは,これらの「自明性」はいつの間にか名目だけのものに変わっていたのかも知れない.大学関係者による抵抗がこの程度で終わったと言うことは,まさにそのことを物語っているのであろう.言い換えれば,これからあらためて大学という文化の創造の第一歩を踏み出さなければならないということであろうか.

文部科学省は,これまで少なくとも建前だけは「大学の自治」を尊重してきた.しかし独法化を提案,強行するに至ったことでその破壊者であることを天下に明らかにした.すなわち文部科学省は,現行憲法と教育基本法に逆らう集団であること,つまり「反体制勢力」であることが明白になったと言える.

2.独法化反対運動について

 最終段階に限って見れば,たしかに近年にない盛り上がりと広がりを見せたが,問題の重大性に比べれば,法案の国会通過はごく平穏に行われたと言わざるを得ない.メディアが取り上げざるを得ないほどの騒ぎにはならず,また,国立大学教職員にとっては,雇用条件における重大な不利益変更であるにもかかわらず,組合でもストライキが話題になることさえななかった.

 われわれ「全国ネット」も,3年前の結成以来,考え得る限りの努力を続け,いくつかのキャンペーンを行ったが,力が及ばなかった.世話人会はメール交換[2]によってその時々の運動方針を打ち出していったが,十分に強固な意思統一が出来ていたかどうかは分からない.

 このような結果になった原因として,次のことを指摘したい.

イ)この制度が,憲法と教育基本法に反するものである,つまり違法な制度であるという理解・認識が大学関係者にほとんどなかった.

 独法化が問題になりはじめてからずっと,多くの人によって数多くの批判はなされたが,研究活動が妨げられる,あるいは「新自由主義改革」であるとの批判がほとんどであった.これらは当然の,また重要な論点ではあるが,しかし最も普遍的な問題性に触れたもの,つまり「学問の自由」を侵すものである,あるいは教育基本法10条違反である,といった批判が本格的かつ広く行われるようになったのは,わずかに最後の数ヶ月でしかなかった.

 また,大多数の教職員の認識は,「国立であれば政府の指導を受けるのは当然」というようなものではなかったかと思われる.いわば「素朴民主主義」とも「素朴国家主義」とも言えるようなもので,「教育自治」というような観念はほとんどなかった.

ロ)大学関係者全体が「法人格は必要」という言説の罠にあまりにも簡単にはまっている.これに対する専門家による説得的・批判的な発言がほとんどなかったことが大きな原因ではないだろうか.前項とも共通するが,背景には大学関係者の一般的な批判力の低下というものがあるように思われる.しかしとりわけ直接このような分野,つまり教育行政や教育法を専門とする人々の反応性の鈍さは責められるべきではないだろうか.「大学の自治」や「学問の自由」という概念は,大学教員である限りだれにとっても普遍的な関心事であり価値基準でなければならないが,しかし少なくともそれらを自らの専門分野としての守備範囲とするような人たちは,よりこれらに敏感でなければならなかったはずである.

ハ)反対運動の中での公然たる相互批判の少なさも,むしろ運動の発展にとってマイナスではなかったかと思われる.これは,60年代〜70年代の運動の負の遺産といえるかも知れない.その一つは相互批判を「誹謗中傷」にすぐに重ねてしまうという傾向である.公開の,節度を持った相互批判は運動の発展にむしろ不可欠であろう.しかし,たとえばメーリングリスト上でそのような内容の投稿が何件あっただろうか.

 私は今でも全大教の言行一致の度合いに疑問を持っている.かつて指摘したように,全大教は独法化反対を言いながら,昨年秋の岡山教研において,まさに最も重要な時期に反対運動の具体化について全く触れないレジュメを提出している.かりに阻止は不可能であると判断したのであればそのことを表明する正直さは最低限必要である.そうすれば,その判断に対する批判も可能であっただろう.

二)中期的に見ると,かつての教養部解体への大学関係者の無批判性が,この問題にも大きく影を落としているように思われる.今でこそ先の改革についての批判が出されているが,当時は全大教からも科学者団体からも,あるいは著名人からも批判らしい批判はなかった.この事態は大学関係者の「上からの改革」への従順さを十分に訓練し,無抵抗の下地を作ったと思われる.

ホ)国立大学への攻撃が国民に容認され,大学幹部も文部科学省に頭が上がらなかったことの長期的・慢性的な要因として,教育機能としての大学の不十分さは意識されなければならないだろう.これは,田中浩朗氏の「15分間大学改革研究」[3]のページで紹介された,2行のレポートに単位を出すといういい加減さが堂々とテレビの教育番組[4]でまかり通るということにも象徴されている.大学社会の年長の構成員である学長ら大学幹部は,そのような文化が今日ほど問題にされることがなかった時代に大学社会の「イニシエーション」を受けた世代であり,恐らく官僚からの指摘に自信を持って反論できず,また自らにも思い当たるフシがあり,心理的に押さえ込まれたのであろう.

 運動の中で,メディアやジャーナリストへの不信,批判が多くなされた.しかし記者らはほぼ全員が大学教育を受けているのであるから,この批判は部分的には大学教育の方角へと反射してくる.これに限らず,大学の教育機能の問題は社会の全てに関わると言っても過言ではないだろう.

ヘ)運動の成果

とは言え,本来の会期内での成立を阻止するなど,国会審議開始の前の予想からすれば,よく健闘したと言える.国会審議が,(イ)で述べたような法案の本質的問題性を追及したことは大きな財産である.また様々な新しい運動形態が編み出され,多様な人々のネットワークが形成された.


3.今後の運動

独法化に対して,憲法23条を引用してこれに反対した人は,これからその言行一致性が問われることになる.大学に於けるこの制度の具体化のあらゆる局面で,最大限これを擁護することが求められるだけではなく,権利侵害に対しては法的対抗措置をも取ることが求められるであろう.まさに最高法規である憲法に関して,「法を守る」姿勢が問われるのである.

しかし現状は,「中期目標」のいわゆる素案作りにおいても,教授会メンバーが十分に意見を闘わせているかどうか疑わしい.むしろ施行を前にしてのさらなる従順さ,あたかも屠殺されゆく家畜の群れのように諦めきっているようにさえ見える.この状況をどう変えていくべきだろうか.

項目ホに関しては,これから初中教育並みに文部科学省の統制という形での圧力が加わるであろう.その先には「教科書検定,学習指導要領」という悪夢がある.これに対して,この官庁の統制の中に確実に含まれる危険な要素を識別し,反論し,大学社会の自律性と自治によって大学教育を改善していくことが求められる.おそらくそのためには,その研究と実践のための,文部科学省からはもちろん国大協など既成の大学関連組織からも完全に独立した組織が必要ではないかと思われる.

最後に,教育基本法改悪反対運動との連携を強調しなければならない.もしさらに教基法が文科省が検討を進めている方向で改悪されれば,教育内容の面で巨大な網がかけられる.そして大学教育にも,「中期目標・計画」という新たに設けられた文部科学省の命令・許認可権によって,これが強制されてくるであろう.これを食い止める運動,そして逆に教育基本法を完全に実施し,そのために実施状況を見直す運動は,「法人法」廃止のためにも死活的な重要性を持つと言えよう.



[1] 辺見庸講演会,佐賀市,2003年9月20日
[2] この手段は意思統一や意志疎通において一長一短である.時間に縛られず柔軟にできる反面,強固な意思統一は難しい.
[3] http://voice.kir.jp/kaikaku/
[4] 「NHK教育テレビETVスペシャル「人に壁あり〜解剖学者 養老孟司〜」.ただし国立大学での授業ではない.