《多分野連携シンポジウム》
大 学 界 の 真 の 改 革 を 求 め て
〜国立大学独立行政法人化反対運動の意味とこれから〜
(2003.09.27/東京大学山上会館)
セ ッ シ ョ ン 3 / 報 告 2


国 立 大 学 法 人 法 と 教 育 基 本 法 「 改 正 」 問 題


(新潟大学法学部/日本教育法学会会員 成嶋 隆)
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I 国立大学法人法(以下、法人法)の主要な問題点

1 国立大学の設置主体が「国」から「国立大学法人」に変更され、大学設置にかかる費用負担の第一次的責任が法人に 転嫁される。

2 文科相による「中期目標」「中期計画」の決定・認可、達成度に関する第三者評価、評価結果に基づく運営費交付金 の重点的・選別的配分や業務の改廃といった仕組みの導入により、国立大学の教育研究に対する国家統制が強まる。

3 学長・役員会の権限の強化などトップダウン型の大学運営となる。

4 役員会・経営協議会ともに、学内事情に精通していない学外者が含まれる(後者については過半数が学外者)。学外 者の運営参加のしかたも、当初の構想における「モニタリング」機能をはるかに超えるものとなっている。

5 学長選考は学外者の加わる学長選考会議で行われ、学外者の影響が強まる反面、学長が構成員の意思に基づく民主的 正統性を獲得しえないことになる。

6 法人化後、教職員の身分は公務員でなくなる(非公務員型)。教育公務員特例法の非適用、教員任期制の大幅な導入などでその身分の流動化・不安定化が進行する。

II 教育「改革」における高等教育・科学技術「改革」の位置

■ 「今日、『構造改革』という名の国家構造の全般的な改革が進行しており、教育改革は、そのなかでも基幹的な部分を占めている。それは、何よりも公教育が国民統合という国家的課題にとって最も有用な制度装置だからである。その教育改革において、高等教育改革(および科学技術改革)は、初等・中等教育改革に先行して行われてきた経緯がある。

たとえば、90年代半ばから始まる現在の教育改革は、臨時教育審議会(83〜87年)の諸答申に基づく、いわゆる『臨教審』改革がその《起点》となっているが、『臨教審』改革は高等教育と学術の分野から着手されている。『臨教審』改革法案の第1号は、大学審議会の設置に向けた学校教育法・私立学校法の改正(87年)であったし、その大学審議会は『研究の高度化・個性化・多様化』『組織運営の活性化』『社会との連携の促進』『国際化の推進』などの課題で精力的な審議を行い、01年に中教審の1分科会に編入されるまでの間に、15本の答申を行った。それらは、学校教育法・国立学校設置法・大学設置基準などの法令の改正により、ほぼ90年代前半までに法制化されている。注意すべきは、この『臨教審』改革においてすでに、今回の『法人法案』の下準備ともとれるような高等教育改革がなされていたことである。大学教員の任期制の導入、民間資金の導入による寄附講座の開設、『自己点検・自己評価』システムの導入などである。

教育改革における高等教育部門の相対的重点化は、目下進行中の、そして教基法の明文改正を射程に入れた教育改革においても確認される。最新の資料として、…中教審答申〔2003.03.20〕をみてみよう。同答申の『第2章 新しい時代にふさわしい教育基本法の在り方について』は『1 教育基本法改正の必要性と改正の視点』の項で、『21世紀を切り拓く心豊かでたくましい日本人の育成』という観点から必要とされる理念・原則として、『@信頼される学校教育の確立』の次に『A知の世紀をリードする大学改革の推進』を挙げている。その部分の解説はこうである。 −『これからの知識社会における国境を越えた大競争の時代に、我が国が世界に伍して競争力を発揮するとともに、人類全体の発展に寄与していくためには、知の世紀をリードする創造性に富んだ多様な人材の育成が不可欠である。そのために大学・大学院は教育研究を通じて重要な役割を担うことが期待されており、その視点を明確にする。』

一読して明らかなように、この提言は、現在の教育改革の《駆動因》とでもいいうる《メガ・コンペティション時代における国際競争力の強化》という命題に直結している。かかる国家戦略を遂行するうえで、公教育の最終部門である高等教育とそこにおける学術研究を、グローバル展開する日本企業と、『国際社会において存在感を発揮』(答申第1章)しようとする日本国家が掌握・統制することが不可欠の課題となる。

教基法は、日本の公教育全体についてその基本理念・原則を定めるものである。したがって、学校教育の各段階ごとの個別の規定を置いていない。その教基法の改正を提言する今回の中教審答申が大学改革に相対的な重点を置いていることは、この課題がいかに国家戦略上の重要性を担っているかを示している。」

(成嶋「『大学改革』 −教育基本法の《葬送》」世界2003年5月号229-230頁)

III 教育基本法(以下、教基法)「改正」への突破口としての法人法

1 法人法と教基法との緊張

(1)教基法10条との緊張

■ 教基法10条

「(1) 教育は、不当な支配に服することなく、国民全体に対し直接に責任を負って行われるべきものである。
 (2) 教育行政は、この自覚のもとに、教育の目的を遂行するに必要な諸条件の整備確立を目標として行われなければならない。」

■ 「わが国では、明治5年に学制をしき、全国の教育制度を統一するとともに、教育行政上の権能を中央政府に統括するの主義を確立した。…しかしながらこの制度は、地方の実情に即する教育の発達を困難ならしめるとともに、教育者の創意とくふうとを阻害し、ために教育は画一的形式的に流れざるをえなかった。又この制度の精神及びこの制度は、教育行政が教育内容の面にまで立ち入った干渉をなすことを可能にし、遂には時代の政治力に服して、極端な国家主義的又は軍国主義的イデオロギーによる教育・思想・学問の統制さえ容易に行われるに至らしめた制度であった。…このような教育行政が行われるところに、はつらつたる生命をもつ、自由自主的な教育が生まれることは極めて困難であった。」

(教育法令研究会『教育基本法の解説』国立書院、1947年、126-127頁)

■ 「不当な支配」の禁止=「教育の自主性」原理について

「この規定は、憲法23条および教基法2条における『学問の自由』の保障・尊重という趣旨を受け、教育が自主的・自律的に行われるべきことを定めたものである。この規定をめぐっては、『不当な支配』の主体はだれかという点が論争の的となってきたが、先の『解説』の趣旨…からは、『不当な支配』の主体として筆頭に挙げられるのは、ほかならぬ教育行政当局であることが確認できる。『解説』の別の部分では、『教育に侵入してはならない現実的な力として、政党のほかに、官僚、財閥、組合等の、国民全体でない、一部の勢力が考えられる』としているが、これを現代風に読み替えるならば『政権与党、文部官僚、財界団体』による『不当な支配』が同条により禁止されていることになる。」

(成嶋・前掲世界論文232頁)

■ 「直接責任」原理について

「『直接責任性』原理とは《子どもの教育につき第一次的な責任を有する親からの付託を受けた学校教員(集団)が、免許制度により公証された専門的職能の発揮をとおして、直接的に信託に応答する》という責任法理を意味する。教基法が2条で『学問の自由を尊重』するとし、6条で学校教員の『身分の尊重』と『待遇の適正』が期せられなければならないと定めているのは、教員の専門的職能が十全に発揮され、国民の信託に応えることができるようにするためである。」

(同上、232頁)

■ 教育行政の「条件整備」義務について

「教基法10条2項は、…教育行政の任務を条件整備に限定しているが、これはいうまでもなく、1項の『自主性』原理および『直接責任』原理を受けたものである。つまり、教育行政は、親を中心とする国民と専門職としての学校教師(集団)との間の信託関係の内部には介入すべきではなく、自主的・自律的な教育実践の展開に必要な諸条件の整備確立にその任務が限定されるということを定めたものである。いいかえれば、教育行政は、教育の内容・方法などのいわゆる内的事項(interna)に関与することは許されず、学校設置・施設設備の整備・教職員の配置といった外的事項(externa)の整備に専念しなければならないということである。」

(同上、232-233頁)

「なお、教育行政の任務について定める10条2項との関連で、戦後改革後に改めて設置された(旧)文部省の権限がどのように定められたかを確認しておく必要がある。49年制定の旧文部省設置法の6条2項は、次のように規定していた。 −『文部省は、その権限の行使に当って、法律(これに基づく命令を含む。)に別段の定がある場合を除いては、行政上及び運営上の監督を行わないものとする。』

この規定は、99年に制定された文部科学省設置法では削除されているが、中央教育行政機関の本来の職分を定めるものとして、繰り返し想起されるべきものである。」 (同上、233頁)

■ 「『法人法案』の最も重大な問題点は、文科相が決定・認可する『中期目標』『中期計画』の達成度を第三者評価にかけ、その結果に基づいて運営費交付金等を選別的に配分するというその仕組みにある。このようなシステムは、戦前の大学制度においてさえ存在しなかったものであり、諸外国にも例をみない、きわめて国家統制色の強い制度である。実際、文科省・国立学校財務センターの00年1月の調査報告でも、米・英・独・仏の4カ国のうち『政府による目標の指示、実行計画の認可、変更命令というような『独立行政法人』的手法を採っている例はない』とされている。文科省自身、97年には次のように述べていた。『文部大臣が3〜5年の目標を提示し、大学がこれに基づき教育研究計画を作成、実施する仕組み、及び計画終了後に、業務継続の必要性、設置形態の在り方の見直しが制度化される仕組みは、大学の自主的な教育研究活動を阻害し、教育研究水準の大幅な低下を招き、大学の活性化とは結びつくものではない。』

このような国家統制のシステムは、いうまでもなく、教基法10条に真っ向から反する。とくに指摘したいのは、このシステムが、これまで教基法10条との関係で問題とされてきた教育の国家統制のありかたと比べても、統制の度合いにおいて《勝るとも劣らない》という点である。たとえば、学習指導要領による教育内容統制の場合だが、指導要領は文科相が教育課程の基準として公示する文書であり、学テ判決〔=学力テスト事件最高裁大法廷判決、1976.05.21〕の解釈では、それが大綱的基準にとどまる限りで、かつ特定の教育実践を強制するものでない限りで、法規としての性格をもつにすぎない。最近では、文科省自身が、同要領の《弾力的運用》を語るようにさえなっている。また、この文書が教育現場の実践を拘束しているのは事実であるが、それも個々の学校におけるパフォーマンス(=学習指導要領の達成度)が外部機関による《評価》にさらされ、それに基づいて教育予算が選別的に配分されるというシステムはない。一方、『法人法案』における国立大学に対する国家統制は、これまでのものとは異質な、しかも見方によっては、より強化されたものなのである。それは、教育内容に対する国の介入権限を限定付きで容認した学テ判決の論理に照らしても、『不当な支配』に定型的に該当するものといえよう。」 (同上、233-234頁)

■ 「行革が本格化する1983年度以降においては、行革のなかにおける『防衛予算の突出』という事情もあって、文教・科学振興費(学校教育費・社会教育費・科学振興費など)が犠牲にされた。それについては、一般会計歳出の対前年度伸び率を下回るのが常態化するだけではなく、物価上昇率・消費税率を考慮すれば対前年度伸び率が実質マイナス化する事態が続いた。対一般会計歳出比も、79年度の11.1%から90年度の7.7%にまで転落している。『雨漏りのする研究室』『基礎研究が危ない』等の報道や批判もあり、90年度以降若干改善される動きも出たが、しかし、根本的な事態は変わっていない。98年度においても、文教・科学振興費の対一般会計歳出比は、8.2%にとどまっている。」

「とくに公財政から支出される日本の高等教育費の対GNP比率は、英米仏独のいずれと比較しても低く、英米仏との比較では格段に低い。」

「国立大学の基本的な教育・研究費にあてられる教官・学生当積算校費の単価は、少なくとも1970年から1990年にかけては激減している。教官当積算校費の実質費は、90年度は70年度の60%近くにまで転落している。」

「1970年度以降、私立の大学・短期大学・専門学校の教育・研究を助成するために、政府は経常経費(教員・職員の人件費、教育・研究に必要な物件費等)を、日本私学振興財団を通じて学校法人に補助している。…私立大学等の経常的経費に占める補助金の割合は、80年度の29.5%を頂点に大きく低下している。95、96年度には12.1%にまで低下している。」

(杉原泰雄『憲法の「現在」 −いまなぜ日本国憲法か −』有信堂、2003年、136-143頁)

(2)教基法6条2項との緊張

■ 教基法6条2項

「法律に定める学校の教員は、全体の奉仕者であって、自己の使命を自覚し、その職責の遂行に努めなければならない。

このためには、教員の身分は、尊重され、その待遇の適正が、期せられなければならない。」

■ 「『国立大学法人』においては、教育研究費のみならず私たち教職員の給与は主として『運営費交付金』によって賄われますが、『運営費交付金』は『標準運営費交付金』と『特別運営費交付金』の2本立てになっています。この2つの運営費交付金の配分ルールを定めた『国立大学法人教職員数試算基準(案)』が5月末、文部科学省より各大学に示されました。これによると、『標準運営費交付金』は、設置基準に基づいて算出される最低限の数(=『標準教員数』)の教員の人件費と教育研究費を賄い、『特別運営費交付金』は、『特色ある研究教育』に必要な数の教員の人件費と教育研究費を賄うことになっています。『標準教員数』を超える教員については、『特別運営費交付金』でその人件費と教育研究費を賄わなければなりませんが、そのためには『特色ある研究教育』を行うために必要であるということを、大学側で論証しなければなりません。また、6年後の評価で、『特色ある研究教育』がなされていないと評価された場合には、『特別運営費交付金』に一定の係数をかけて減額したり、あるいは全面的にカットして組織リストラを行うことが予想されます。」

(成嶋「国立大学法人化と新潟大学職員組合の課題」新大職組新聞2003.08.31)

■ 「7月8日の参議院文教科学委員会で自由党・西岡武夫委員が『国家公務員である職員の身分を奪う法的根拠はあるのか』と質問したのに対し、文部科学省は答弁不能に陥りました。また、共産党・林紀子議員が『国家公務員としての身分継承を本人が希望した場合はどうするのか』と質問したのに対しては、当初、文部科学省は的外れの答弁をしていましたが、最終的には『個別の事情、意見がある場合はお聞きし、別の辞令を発することもありうる』と答弁し、個別に対応する考えを示しました。」

(同上)

(3)教基法3条1項との緊張

■ 教基法3条1項

「すべて国民は、ひとしく、その能力に応ずる教育を受ける機会を与えられなければならないものであって、人種、信 条、性別、社会的身分、経済的地位又は門地によって、教育上差別されない。」

cf.憲法14条1項

「すべて国民は、法の下に平等であって、人種、信条、性別、社会的身分又は門地により、政治的、経済的又は社会的 関係において、差別されない。」

cf.経済的、社会的及び文化的権利に関する国際規約(国際人権A規約)13条2項(c)

「高等教育は、すべての適当な方法により、特に、無償教育の漸進的な導入により、能力に応じ、すべての者に対して 均等に機会が与えられるものとする。」

cf.児童の権利に関する条約(子どもの権利条約)28条1項(c)

「すべての適当な方法により、能力に応じ、すべての者に対して高等教育を利用する機会が与えられるものとする。」

■ 「共同通信が6月19日に実施したアンケートでは、約50%の学長が授業料の値上げを予測しています(新潟大学は『変わらない』と回答)。6月29日に朝日新聞が実施した学長アンケートでも、25%が『学費は全体として上がる』と回答しています。このように、関係者の多くが『法人化』による授業料の値上げを予測していますが、この点について文部科学省は『検討中』と答弁しており(7月1日の国会審議)、値上げを否定しておりません。私たちが危惧していた学費の値上げによる高等教育を受ける機会の不平等という事態が現実のものとなるおそれがあります。」 (成嶋・前掲新大職組新聞)

2 学外者の関与と学問の自由・大学の自治 −「開かれた大学」?

■ 「『法人法案』にあっては、業績評価の場面のみならず、役員会・経営協議会・学長選考会議の構成の面でも、学外者の大幅な関与が予定されている。このことが、教基法10条の『自主性』『直接責任性』原理や、憲法23条の『学問の自由』の保障(およびこれを制度的に担保する『大学の自治』の保障)との関連で問題となりうる。なぜなら、学外者の関与の背景には、グローバリゼーションのもとで日本企業の国際競争力を高めるために大学の産み出す知的財産を産業活性化のために動員するという戦略があり、それ自体、大学における教育研究に対する外圧をなし、『学問の自由』や『自主性』原理と緊張関係にあるからである。しかし他方、学外者の関与やいわゆる《産学官協同路線》は、表向きは《国民に開かれた大学》《大学の地域貢献》というまっとうな謳い文句を伴っており、その限りで先の『直接責任』の法理と親和的にみえる。これをどう考えるか。

右の問題については、次のような整理が可能である。 −大学は、国民の高等教育を受ける権利を保障し、またそこでの研究の成果を社会に還元して人類の平和と福祉の向上に貢献するという責務を担う。そして、その責務を十分に果たすことができるために学問の自由と大学の自治が保障されている。ところで、大学がその責務を果たす筋道、つまり大学が社会の要請や国民の信託に応える筋道は、教育と研究とでは若干の違いがある。教育については、大学が、その教員らによる教育作用により大学生の教育要求に応えることをとおして、国民に対する責任が果たされる。ここでは、先の『直接責任』の法理が妥当する。これに対し、大学における学問研究と社会や国民の信託・要求との関連は異なった筋道をとる。つまり、大学における学問研究が社会や国民の信託・要求に応えるといっても、それは学問研究が社会や国民の要求に即自的に対応すべきものではない、ということである。

学問の自由に関する論文のなかで、高柳信一は、この点につき次のように論じている。 −『専門的職能は、すべての職能と同様に、結局において、社会に奉仕すべきものであるが、その奉仕は、物的価値の生産・提供のばあいのように、顧客(ないしその総体としての社会)の具体的指揮命令のもとにではなく、まさにみずからの専門的知識にもとづく精神的創造力の発揮によって −自由に −行われなければならない。』(高柳「学問の自由と大学の自治」)

この指摘にあるとおり、大学における学問研究は、産業界の主として経営者サイドからの注文や特定政府の体制的利益に基づく要請にストレートに応ずべきではない。学問研究に関して大学と社会との間には、ある種の緊張関係がなければならないのである。なぜなら、学問研究は現在の真理や体制的理念を疑い、より高次の知見を獲得する精神作用であり、本質的に体制超越的機能を営むものだからである。

神戸女学院大教授・内田樹は、このことを次のようにきわめて平明な表現で語っている。 −『大学の社会的機能の一つはその時代の支配的な価値観とずれていることだと私は思う。…その『ずれ』のうちに社会を活性化し、豊かにする可能性がひそんでいる…。

『市場にすぐ反応して、注文通りの人材を提供する大学』なんか、私が受験生なら御免こうむりたいけれど。』(「大学の『市場』主義とは?」朝日新聞03.01.16)」 (成嶋・前掲世界論文234-235頁)

3 「基本法 −基本計画」スキームの先取り

■ 「教育基本法に規定された教育の基本理念・基本原則を実現する手段として、教育の振興に関する基本計画の根拠となる規定を、教育基本法に位置付けることが適当である。

○…近年、『環境』、『科学技術』、『男女共同参画』、『食料・農業・農村』、『知的財産』など、行政上の様々な重要分野について、基本法が制定されるとともに、それぞれの基本法に基づく基本計画が策定されている。これらの計画には、施策の教育方針や目標、各種の具体的な施策、施策を推進するために必要な事項等が、総合的・体系的に盛り込まれ、国民に分かりやすく示されるとともに、閣議決定を経て政府全体の重要課題と位置付けられている。

○しかしながら、…教育基本法には、基本計画に関する規定が置かれておらず、現在まで、教育に関する政府全体の基本計画は策定されてこなかった。教職員定数改善計画、国立大学施設整備計画、コンピュータ整備計画、留学生受け入れ10万人計画など、個々の施策の計画は策定されてきたし、最近では『21世紀教育新生プラン』のように教育施策を体系化して国民に分かりやすく示す試みも行われているが、これらは、文部科学省の施策の枠内で取りまとめられたものであり、政府全体として教育の重要性に明確な位置付けを与え、総合的に取り組む計画とはなっていない。

政府として、未来への先行投資である教育を重視するという明確なメッセージを国民に伝え、施策を国民に分かりやすく示すという政府としての説明責任を果たすためにも、教育の根本法である教育基本法に根拠を置いた、教育振興に関する基本計画を策定する必要がある。…」

(中央教育審議会「新しい時代にふさわしい教育基本法と教育振興基本計画の在り方について」2003.03.20)

■ 「…60年代くらいから基本法という法律の性格が変わってきます。60年代以後に出てきた基本法というのは、…特定の政策領域や課題を行政のなかで特別に位置づけるための制度的な保証を与える法律として制定され、使われるようになった。原子力基本法・交通安全対策基本法・科学技術基本法・公害基本法などはみんなそうです。特別に重視すべきだと考えられるにいたった政策領域に基本法を設定して、それについては特別の行政上の配分、公的資金の配分をそれでもって正当化する。こういうようなかたちの基本法が60年代高度成長期に登場してくる。…基本法という法律の形態がある種のそういう役割を果たすようになっていたのですが、文科省は、教育基本法にそういう意味を込めることもできるのではないかと考えたのです。具体的には、新しい教育基本法のなかに教育振興基本計画を策定することを謳い…、文部科学省が推進しようとする新しい格差的なエリート養成のための教育改革のための財政的な保証を正当化しようというものです。しかも、その教育振興基本計画は、これまた文部科学省にとっては好都合なことに、文部科学省が審議会をつくって、その答申にもとづいてつくることができる。しかも、振興基本計画は5年単位でつくる。それを梃子に財務省にたいして教育改革の実効的な予算的な裏づけをとる。このように、基本法改正は、教育改革を推進するための制度的・財政的な正当化の裏づけになるのではないかと考えてきたことが…ポイントです。」

(渡辺治「なぜ、いま教育基本法改正なのか(上)」教育2003年4月号14頁)

■ 「…教育振興基本計画策定のための教育基本法改正論は、一見するところ立法技術的な問題にすぎないように見える。しかし、仮に、今回の教育基本法の『改正』が、中教審『中間報告』で示されたように、教育基本法の第10条又は(及び)第11条に教育振興基本計画の根拠規定を設けるという形で収束したとしても、それは、教育基本法の精神の重大な変更を意味する。周知のとおり、教育基本法は、教育勅語に替わる教育目的を明示した『教育宣言』であると同時に、日本国憲法と不可分な『教育憲法』として制定された。そのことの意味を改めて振り返れば、教育基本法制定の歴史的意義は、それが公教育における国家(state)と国民(people)の関係を、国民主権の立場から規律した『教育人権宣言』である点に求めることができる。教育基本法が理念法であるということの意味も、このように理解されるべきである。ところが、『中間報告』における教育振興基本計画は、国家戦略の必要に基づく人材養成計画として構想されている。従って、その根拠規定を教育基本法に設けることは、『教育人権宣言』としての教育基本法の性格をゆがめるものとならざるを得ない。即ち、そのことにより教育基本法の訓示的諸規定は、教育行政の任務と限界を規律する根拠としてではなく、自由であるべき国民の教育活動を国家が規制する根拠に転化されることとなる。…」

(井深雄二「教育振興基本計画と教育改革の手法」第1回教育学関連15学会共同公開シンポジウム「教育基本法改正問題を考える −中教審『中間報告』の検討 −」2002.12.07、明治大学、同シンポ報告集1、78-79頁)

■ 「…答申が教基法に『教育振興基本計画』を策定する根拠となる条文を設けることを提言していることも問題である。すでに、たとえば科学技術基本法に基づく『科学技術基本計画』が官僚主導で策定され、それが関連立法や予算編成を誘導するという『計画行政』『計画国家』の問題性が指摘されている。教育の分野でも、実質的に文部官僚が策定する『教育振興基本計画』が数年間の教育政策・行政を支配することになる。憲法上、教育に関する事項は、国民代表機関である国会の制定する法律によって定めるべきものとされている(教育における法律主義)。『計画国家』にあっては、『計画』策定に国会は関与せず、その『計画』が『法律』に優位して国家意思決定の最高の形式となる。『教育振興基本計画』は、法律主義とその根底にある国民主権原理に背反する、きわめて反憲法的な事態をもたらすことになる。」

(成嶋「中教審答申がねらう教育基本法の《変質》」『教職課程』2003年6月号、59頁)

■ 「すでに各種の政策領域で採用されている《基本法 −基本計画》のスキームは、政府肝入りの審議会の答申等を隠れみのとし、実質的に官僚主導で策定される国家計画が一定期間の政策・行政を先取りし、関係立法や予算編成を誘導するというものである。計画策定に国民代表機関である国会は関与せず、その内容は行政機関への《丸投げ》となる。具体例として、科学技術基本法に基づく科学技術基本計画の場合をみてみよう。01年度からの第2期計画には24兆円もの研究開発予算があてられている。計画に基づく重点研究分野の指定、予算の重点配分そして研究評価システムの構築などは、内閣府に設置された総合科学技術会議が担当しているが、同会議には90人におよぶ省庁からの出向者が事務局スタッフとして送りこまれており、計画の策定から実施まで官僚主導が貫徹している。このような実態をみると、《基本法 −基本計画》のスキームは国民主権・議会制民主主義・法の支配といった憲法の諸原理に背反することがわかる。答申は、公教育全般にこの違憲のスキームを導入しようとするものにほかならない。」 (成嶋・前掲世界論文228-229頁)

■ 「評価国家という表現があるが、伝統的に教育行政、教育政策には非常にしばりのきつい管理があった。それは教育課程に関する教育行政の範囲内とされ、現場の柔軟な裁量を許すことなくぎりぎりと行われていた。その典型的なものが学習指導要領である。そうやって教育のプロセスを管理してきたわけだが、今度はプロセスの管理を基本的には手放さないまま、結果の評価というかたちでさらに管理が上乗せをされていく。したがって、教育管理の手法が変化したというより、むしろ実質的には管理が強化されていく。… このような管理手法の上乗せが最も典型的に現在現れているのが、国立大学法人化だと思う。…国立大学の法人化には、ほぼすべての学校段階における教育管理のあり方の変化が端的に現れている。…

選別的重点的予算配分が行われるようになると、予算獲得に向けての教育研究機関間での競争が激しくなるだけでなく、教育研究活動自体が予算獲得しやすいものへと変容していくおそれがある。同時に、こうした評価行政の過程に“自発的に"組み込まれていくことに伴うさまざまな事務処理も増えていく。それにもかかわらず、教育研究機関はこの軌道からはずれようとはしなくなるのではないか。

つまり、教育振興基本計画の実施によって生まれるものを、私たちはすでに経験しつつあるのではないか。教育振興基本計画が示すような政策とか、間もなくおきてくるであろう制度的変化を、少しずつではあるがすでに経験し始めているのであり、教育振興基本計画の制度的定着はすでに始まっているのではないか。

こうした制度的定着は高等教育機関だけではなく、初等・中等学校の現場でもすでにおきている。」

(中田康彦「教育振興基本計画と改革手法」第3回教育学関連15学会共同公開シンポジウム「教育基本法改正問題を考える −中教審答申の検討 −」2003.04.19、明治大学、同シンポ報告集3、62-64頁)

4 立法手法の違憲・違法性

■ 「6月10日の参議院文教科学委員会の審議で、民主党・櫻井委員が『昨年12月に文部科学省が未定稿の資料を作成し、その中で、各大学に対し、中期目標(案)、中期計画(案)のほかに、個別の学部、研究科、附置研究所の単位での固有のより具体的な事項を記載した資料を文部科学省に提出するよう依頼している』と指摘しました。これに対して、遠山文部科学大臣が『各大学の自主的判断で行っている』と虚偽の答弁をしたため、審議が16日間にわたってストップするという事態になりました。結局、6月26日に再開された委員会で、遠山文部科学大臣が異例の陳謝を行うというかたちで収束しましたが、この問題は、文部科学省が法案の閣議決定さえなされていない時点で早くも法案を先取りしていたことを示すものであり、国会の審議権をないがしろにする行政府の越権行為であることを意味します。」 (成嶋・前掲新大職組新聞)

■ 「『国立大学法人法案』は、7月9日の参議院本会議において、賛成131、反対101で可決・成立しました。その際、国会の歴史においても前例を見ない、23本もの『附帯決議』が提案され、採択されました。このように多くの『附帯決議』がなされたこと自体に、同法案がいかに問題の多いものであるかが象徴されています。なぜなら、『附帯決議』には、次のような問題点があるからです。 −『付帯決議による法文の意味の限定という行為は、国民代表によって構成された国会が定める『法律』によって行政府の活動を拘束する、『法の支配』という民主主義の基本原理と矛盾がある…。付帯決議によって法律の欠陥を修正しようとしても、現実には、付帯決議によって加えられた修正は、法律ではないがゆえに、法の執行の段階で考慮されることなく、修正としての意味を持たない場合が多い…。付帯決議によって国民代表の意思が法律の執行段階で反映されると考えるのは幻想です。法案の欠点あるいはそれに対する強い疑念は、立法府による法案の修正によってこそ除去されるべきものです。付帯決議が長文または詳細であればあるほど、法それ自体の持つ深刻な欠陥を立法府が認識していながら、それを放置したことを意味し、立法府による自らの責任の放棄に他ならないと考えます。』(6月9日・日本教育法学会会員有志声明)」 (同上)