多分野連携シンポジウム03/09/27

国民の立場から大学改革を進める視点について

蔵原清人
工学院大学
東京高等教育研究所事務局長

付録:国立大学法人と学校法人の比較検討(東京高等教育研究所検討会03/09/20)

  ※ここでの発言は個人の資格で行います。

1、この間の国立大学法人法反対運動を振り返って

1)大学の法人格をめぐって

国立大学の独立行政法人化の動きの初期において、独立行政法人は困るが国立大学の法人格はほしい、という意向が国立大学関係者の多くの気分であったように思う。初期の国大協の方針も、独立行政法人はまずいが国立大学の特質にあわせた法人化ならばよいというものだったと記憶している。

 それは純粋な理論的検討としては私も賛成するが、当時の考え方としては、私立は法人格があるのに国立にはないといった誤解ないしは無知から出発したものであったといわなければならない。それは日本の戦後の制度は、設置者と設置される学校を区別し、設置者は法人格を持つが設置される学校は国公私ともに法人格を持たないからである。戦前は確かに私立は学校それ自体が法人格を持つことが本則であったが、戦後このように改められた。それは財政的負担や財産管理は設置者が行うが、教育研究に関しては学校側の学問の自由、教育の自由を保障するというものである。設置者と設置される学校の制度的分離という点が戦後改革の大きなポイントの一つであったといえるものである。

 この議論ないし気分は、現在の政治状況の下で独立行政法人とは質的に異なる法人化が可能であるかの気分を強め、結果的にか国大協での議論に期待をかけて大学内外の世論に訴える取り組みに十分力をそそげなかった恨みがあるのではないか。運動のことはともかく、現在の日本の制度の意味について、積極的な理解を行うことが今後の取り組みにも大きく影響を与えるものと思う。

2)運動の進め方をめぐって

私立大学の側から見ている限りであるが、率直に言って今回の運動の中で確保しようとしたことは、国家公務員としての身分と国の予算の支出の保障に力点があったように思われる。これが重要であることは私ももちろん承知しているが、今回の問題の政策的ねらいが単に国立大学のあり方だけの問題ではない以上、広く国民各層に呼びかけ、公立私立の大学教職員とともに取り組んでいくことが重要であったと思う。私自身十分な運動への参加をしなかったことについて反省しなければならないが、他方で、国立大学からの私立大学教職員に対して運動の呼びかけは弱かったのではないだろうか。私立大学側からみると、国立関係者は御家の一大事的な動きをしていたという印象である。

国立の方々の情報収集と分析の能力は驚くべきであるが、外にいるものの立場からはテレビの天気予報のような印象を受ける。問題を追及する大局的な方向についての提起については、私としては大変印象が薄かったといわざるを得ない。それに関わることと思われるのは、運動の力点が要請であったり言質をとることにあるという印象がある。しかし法治国家であれば成文法の規定が優先することは明らかであるので、法体系や法案の条文の検討が重視されなければならない。ことに政府は、法律が決まってからの担当者は決まるまでの担当者とは変えることがしばしばである。そこではあらかじめ運用上の約束をとるということはほとんど意味をなさないのである。事実、しばしば答弁不能になった遠山大臣は今度の内閣改造で更迭された。

 そこでわれわれは政策のねらいをシビアにつかまなければならない。それと同時に、いくら権力を持っている場合であっても、その政策の持つ矛盾が次第に現れることを食い止められないのであり、その矛盾をしっかり分析することが重要である。さらに国民の要求との関係でどんな結果をもたらすのか大局的な政策の評価をしっかりもって運動を進める必要がある。特に、国民と日本の社会の持つ大学への要求についてはしっかりとした認識を持って、その実現に向かって努力しているという姿を見せなければならないし、国民の一員としてともに進まなければならない。

3)個人、有志グループの運動の意義

今回の運動はなかなか重い課題であった。はじめの段階でなかなか動きが作られなかったことは確かであった。しかし長年の間に教職員組合が築いてきた到達の上に、個人や有志グループの創意が生かされて最終盤は大きな取り組みとなった。それらの力が国会での幅広い野党の取り組みを可能にしたと思う。

 この個人や有志グループの取り組みと、組合など組織の取り組みを対立させることなく、緩やかな連帯の下に、日本の大学の活発で自由かつ自律的な発展、学問の自由が保障される大学をめざす運動を進めていくことが必要である。これはすなわち政治や経済、その他の権力からの干渉を排して、学問文化と教育の論理に従って大学を運営するという大学の自治を実現するということである。

 これは大変幅広い課題である。組合に参加していない教職員や組合に否定的な教職員も、この課題については一致する可能性があるだろう。そうだとすれば組合だけでなく様々な呼びかけ主体が必要である。私としてはもちろんこの運動の中で組合に参加していただく働きかけを進めるべきだと考えるが、それ自体はこの運動の目標でなく、組合自体が掲げる課題である。

 今回の国立大学法人法に対するとりくみは、大きな立場で一致した上で、個人や有志グループの創意と機動性が十分に発揮され、組合の持つ組織的な動員力と相まって運動が発展したという意味で、今後の運動を進める上で大きな意味を持つと思う。これらの方々の全生活をかけた奮闘とご努力に心から敬意を表したい。

2、今後の運動に必要な視点は何か

国立大学法人化の問題は、日本の高等教育全体の問題であり、日本の大学の世界の学術、大学と人類への責任の問題である。特にユネスコの高等教育宣言と科学宣言、高等教育教育職員の地位勧告の立場をいかに実現するかの視点が重要である。それをふまえて、ここでは制度論からの2、3の提起をしたい。

1)国立大学法人制度の下でも大学の自治を具体的に追求すること

国立大学法人法の第1条と第2条の間には齟齬がある、というより重大なトリックがあるといわなければならない。第1条では「国立大学を設置して教育研究を行う国立大学法人」とし、第2条では「この法律において「国立大学法人」とは、国立大学を設置することを目的として、この法律の定めるところにより設立される法人」としていることである。これは明らかに異なる定義である。すなわち第1条によれば教育研究を行うことも国立大学法人の業務に含まれるのである。しかし第2条によれば設置だけを目的としており、大学の自治が保障されているかのようにとれる。法律全体をみれば第1条でいうとおり、国立大学法人は国立大学を設置するとともに運営する(教育研究を行う)ものであることは明白である。これは設置者と設置される学校を区別している現行制度を無視する重大な問題であり、すでに多くの方が指摘しているように教育基本法第10条に違反している。これにより発足後に教育研究評議会と大学の教授会の権限関係はすぐに問題となるだろう。今後、大学自治論をこうした点からも深めていく必要がある。

2)高等教育に対する国の責任を明確に追求すること

国立大学法人法の文言からは、国立大学法人が国立大学の設置者であり、学校教育法第5条によってその経費は設置者である国立大学法人が負担するということになる。確かに今後政府はこの条文を理由として交付金を削減する口実とすることが予想される。

 しかしながらこの制度を全体としてみるとき、国立大学法人は国の施策ないし業務としての国立大学の運営を国立大学法人に丸投げするためのものである。それは中期目標を文部科学大臣が示し、それに基づいて国立大学が中期計画を策定するだけでなく、策定したものを文部科学大臣が承認することを必要としている。財源についても国が必要の経費を交付するほか、会計処理等においても様々な規制がかけられている。それゆえ、国立大学の実質的、実態的な設置者は国であることが明確である。国民も当然そのように考えることであろう。

 したがって学校教育法第5条についても実質的、実態的設置者である国の責任は逃れないといわなければならない。しかもこの第5条は、「法令に特別の定め」をすることを認めている。それゆえ国立大学に対しては国が財政的負担をこれまで通り行うことを追求していかなければならない。なお、学校教育法第2条にいう国公私立の区別は、明治7年以来のものであり、そのいずれもが公教育機関として認められる今日では、このような財政支出の区分によって学校の種別をするという考え自体再検討が必要である。

3)政府の判断だけで国立大学存廃を決めさせないこと

国立大学法人法では、国立大学の存廃については、準用する独立行政法人法第35条による審議会の勧告によるか、同法第66条による別に法律で定める解散によるものとなっている。この問題を、残余金を国庫に納付するという第32条の規定をふまえて考えると、廃止ないし解散した場合の教育財産の処分は、学校法人の場合ようにあくまでも教育のために使うという立場ではなく、国庫に回収するという可能性を否定できない。社会的に形成された国立大学の教育財産は、あくまでも社会全体の教育のために使うべきであり、その点で国立大学法人法の規定は重大な弱点があるといわなければならない。

 国立大学の歴史をみると、その発足に関して地元の意志及び少なくない場合には財政的負担が大きな力となっているのである。戦前にさかのぼるが、多くの地域で誘致運動が行われたし、すぐに誘致できないときには公立の専門学校を作りその上で国に移管している(官立)。あるいは戦後の新制大学の発足にあたって、公立の諸専門学校を統合して国立大学としたところが多いのである。すなわち国立大学は国の財産であるだけでなく、地元の貴重な財産なのである。いいかえれば現在の国立大学の多くは、その地域の住民や議会、諸団体の意志と努力、財政的負担つまり投資の結果としてあるのであって、そのような存在を地域の意志を考慮せずして存廃できるとしている国立大学法人法は重大な瑕疵があるというべきである。たとえば教育基本法第10条でいう、「国民全体に対して直接に責任を負って行われる」ことに違反することになるのではないか。今後、政府の国立大学政策と、地元自治体や住民、諸団体との間で大きな矛盾が生じる可能性が高い。

4)教職員身分の問題の根本的解決をめざすこと

政府は行革の目標である公務員削減のために、また国立大学教員の兼職や特例的待遇を可能とするために、教職員身分を非公務員型とした。しかしこれが便宜的なものであることはたとえば、国立大学法人法第18条の守秘義務や第19条の罰則の適用規定、付則第6条の退職金の支払いに関する規定など、公務員に準じた規定が数多くあることから明らかである。

 国立大学法人への移行に関しての実務的処理は重要であり、それ自体多くの課題があるが、将来的には、公立、私立を含めての大学教職員全体に共通する身分保障と共済制度を要求してもいいのではないだろうか。

なお、運動の課題について2つのことにふれておきたい。

その一つは、地域との協力協同に関わって、その地域にある公立私立の大学との協力協同をも進めるということである。今や問題は日本の大学、高等教育をいかに守るかということであり、実質的に教育や学問文化の質をいかに高めるかという問題である。その意味では、大学は本当に「競争的環境におかれている」のかを考えなければならない。入学者や限られた予算の取り合いでは確かに「競争」があるといえるかもしれない。しかし入学者の問題は、広く社会人や留学生を迎えることを考えるならば、また進学率の向上をめざすならば、けっして回避できない「デスマッチ」ではない。予算についても、国の高等教育予算を増やすことができれば今のような大学間の、あるいは大学内の「取り合い」は大きく緩和されるだろう。社会的支援や研究受託なども改善できないことではない。しかしいっそう重要なことは、学問や教育の質を向上させる取り組みはともに前進することができる性質のものであるということである。社会的貢献も、いかに進めるかということはあっても他の大学を引きずり落として自分だけが進めるというものではない。日本の大学が力を合わせて向上していくことは本質的に可能なのである。政府のいう「競争的環境」というスローガンにわれわれは踊らされてはならない。

もう一つは今回の取り組みに示された、組合の活動と、個人や有志グループの活動を有機的に組み合わせていっそう前進させ、文字通りすべての大学人に、問題の所在と改善の取り組みについての呼びかけを届けるという問題である。また社会にも広くアピールして運動を進めていきたい。組合という組織の力は不可欠であるが、同時に組合の中でも外でも一人一人の意志、決意と取り組みを高めることが重要になっているのではないか。そして、国公私立を通しての協同の前進にお互い努力していくことを呼びかけたいと思う。