2003年9月27日の「 国立大学法人法に関するシンポジウム」のための「改革」についてのノート

国立大学独法化阻止全国ネット御中

Brian J.McVeigh
2003年9月3日

私は16年間日本に住み、働いてきた。その間の11年間、日本の単科大学、総合大学で仕事をした。女子大学、共学制の総合大学、エリート大学を含む全ての種類の大学で教育する経験を持った。その期間に渡って私は、国家が高等教育を官僚主義化し、教員や学生の創造性、想像力、情熱を押し潰していたことが主な原因で、学生、教授、そして大学の間にある大きな可能性が浪費されていることを見てきた。

この官僚主義化と不必要な中央集権化の不幸な一つの例が国立大学法人法である。私は、内閣の官僚の都合と、「改革者」が日本の単科大学・総合大学をより良くする方法について、彼ら自身の考えが全く無いという理由で、この法律が実行されようとしているのだと思う。国立大学法人法によって高等教育の質は高まらないだろう。反対に、国家によるさらなる統制がもたらされ、日本の学生にとって悲しいことに、大学はより低い質のものになるだろう。

周知のように、質と規範とは普遍的なものであり、どの特定の国家にも属さない。例えば、アメリカの大学が一般の人を教育することにおいてより良い仕事をしているということを仮定する必要は無い。そうかもしれないが,もしそうだとすれば、それは国家が大学の運営に日本ほど干渉する事が許されていないからである。

日本の政府当局者は、問題を解決する絶望的な試みにおいて,外国のモデルを採用することにあまりにも性急である。しかし、そのような急場しのぎの解決の試みはしばしば、外国の制度の表面的な理解にしか基づいていない。応急策は通常、本当の問題を,そして背景にある問題を無視する結果となる。外国のモデルの理想化と軽率な輸入はより多くの問題を生じさせるだけである。外国のモデルは他の場所のためには作られたものであり、日本の高等教育が直面している現実の問題には必ずしも適切なものではない。それらを「モデル」にしたり、アメリカやイギリスの高等教育を「見習う」必要は無い。日本の高等教育は日本のやり方で改善されるべきであり、日本の多くの有能な人々に依拠するべきである。

日本は既に,高い質の高等教育システムを作るために必要な,有能な人員、資金、施設を十分持っている。なされるべき事は、高い基準を持つシステムの出現を妨げる国家的構造物を取り除く事である。これを行うために、日本の市民は日本の大学が直面している深刻な問題と、そのような問題が日本の未来と子供たちの生活にどのように影響を与えるかについて知らされるべきである。彼らは,第三段階の学校教育(高等教育)の統制をやめさせるのに,彼らの指導者たちにどのように圧力をかけられるかについて知らされるべきである。

また、特に大学は、国立、公立、私立に関わらず、以下のことを強くなすべきであることを付け加えたい。

‐成人した学生の入学を大規模に促進すること。これは,18才で一斉に入学するという人口統計的な要因を相殺しつつ,彼らの人生経験を共有させ、どのように勉強するかについて若者に示すために役立つであろう。

‐キャンパスを地域社会の一部とするために,キャンパスを一般の人に開放すること。

‐入試重視から脱し、授業内容の修得を重視すること。問題のある学生に対しては,彼らに豊かな教育の経験を与えるために卒業することを難しくすること。

‐海外からの学生や教員のために、魅力的な学習環境を創ること。日本の高等教育が本当に国際化するために。

敬具

Brian J.McVeigh
Japanese Higher Education as Myth Sharpe, Armonk, New York, 2002の著者

Department of East Asian Studies
University of Arizona
P.O. Box 210105
Tucson, AZ 85721-0105, USA

(訳 表 寿憲, レビュー 豊島耕一)