2003年4月3日
国会内討論集会報告
世取山洋介(新潟大学)
はじめに_なにが問題なのか?
(1)学問の自由(および教育の自由)と国家行政権をめぐる基本的な問題
=市民は自らの表現活動のためにお金を政府に要求できないにもかかわらず、研究者と教師はそれができる(郵便配達員は郵便配達中にビラを一緒に撒く自由が無い。)市民法(契約の自由)および、労働法(労働の従属性原則)をそのまま適用すれば、お金を出した者、給与を払った者が、何が研究され、教えられるべきかを決定できるはずにもかかわらず、学問の自由(憲法23条)と教育の自由(憲法26条)はそれを否定している。
=高柳信一『学問の自由』(岩波書店・1983年)
「一般には、研究者は、他人の設置した研究(且つ教育)機関に雇われて、他人から俸給を受けて、他人の提供する研究費を使って研究をするのである。…研究の方法を制約され、また、一定の研究結果を出すべきこと、或いは出すべからざることを命令されたのでは、真理の探究はできないのであって、それは、理性の命ずるままに、すなわち一切の外的制約を被らないという意味で、まさに自由に行なわれなければならないのである。ところが、近代法においては、財産の所有者は、その所有物を欲するままに使用収益処分する権能をもち、他人を雇用する者は、その労働力を自己の目的のために自由に支配消費する権能をもつ。そこで、この市民法の論理が、前述の研究教育施設における研究者の研究教育活動にそのまま適用されるならば、真理の探究は不可能になる。」(39頁) 大学研究者の学問の自由は「究極的には、近代市民社会において他人の私有財産(研究教育施設)において他人の使用人によって行われることを運命付けられている真理探究機能を自由ならしめるために、財産所有者(設置者)、使用者の市民法上の恣意を抑制することを内容とするものといいうるのであろう。」(40頁)
(2)教育基本法・学校教育法・教特法等におけるこの修正の実体化
“教育”(初等中等高等各段階における)の場合
→教育が国家によるよき公民の育成のためのものではなく人間の権利として位置づけられたことに伴い、教育行政は教育の条件整備(教育の外的事項)のみを行なう(内外事項区分論)。
“大学における研究”の場合
→さらに、外的事項への学問の論理によるコントロールを可能な限り可能とする仕組みの制度化
(3)独法化は、市民法秩序、労働法秩序に加えられている修正を取り除き、貨幣所有者である国の“権利”を確立するためのもの。
1 教育基本法10条の意義
(0)10条の文言
教育基本法10条 教育は、不当な支配に服することなく、国民全体に対し直接に責任を負つて行われるべきものである。
2 教育行政は、この自覚のもとに、教育の目的を遂行するに必要な諸条件の整備確立を目標として行われなければならない。
(1)「不当な支配」「直接に責任を負って」「諸条件」の意義をめぐって
(1) 教育基本法10条1項が「排斥しているのは、教育が国民の信託にこたえて…自主的に行われることをゆがめるような『不当な支配』であって、そのような支配と認められる限り、その主体のいかんは問うところではないと解しなければならない。…憲法に適合する有効な他の法律の命ずるところをそのまま執行する教育行政機関の行為がここにいう『不当な支配』となりえないことは明らかであるが、…他の教育関係法律は教基法の規定及び同法の趣旨、目的に反しないように解釈されなければならないのであるから、教育行政機関がこれらの法律を運用する場合においても、当該法律規定が特定的に命じていることを執行する場合を除き、教基法10条1項にいう『不当な支配』とならないように配慮しなければならない拘束を受けているものと解される。」
(2)「教基法10条は、国の教育統制権能を前提としつつ、教育行政の目標を教育の目的の遂行に必要な諸条件の整備確立に置き、その整備確立のための措置を講ずるにあたっては、教育の自主性尊重の見地から、これに対する『不当な支配』となることの内容にすべき旨の限定を付したところにその意味があり、したがって、教育に対する行政権力の不当、不要の介入は排除されるべきであるとしても、許容される目的のために必要かつ合理的と認められるそれは、たとえ教育の内容及び方法に関するものであっても、必ずしも同条の禁止するところではない」
(1) 法律による支配は、法律が正統な手続きを踏んで作られていれば「不当な支配」には該当しない。「直接に責任を負って」には特別な意味はなく、国民の代表によって構成される国会が定めた法律に従って責任を果たすことと同義。 (2) 諸条件の整備には特別な意味は無く、教育内容に対する権力的統制も許容される。
(1) 「教育行政による法的拘束力を持つ教育支配は、その制度的強さからして、定型的に『不当な支配』に当たると解さなければならない」(294頁) 「教育の国民に対する責任は、議会制民主主義の政治的ルートを通しての間接的行政責任では、その性質に沿わない。あくまで、各学校の教師が父母・子どもをはじめ国民の教育要求に直接・日常的にその教育活動の中で応えていくという、文化的直接責任でなくてはならない。」(同297頁) (2) 憲法26条にいう「『法律に定めるところにより』とは、教育の外的事項に関する法律主義を指し、そこに『学校制度法定主義』の原理が含まれているものと解される」(247頁)「立法可能な学校制度基準は、…施設設備から学校組織規模(学校・学級規模、教職員数)をへて学校教育組織編制(入学・卒業資格、教育編制単位)に及び、それは、右の教科目等に終わるのである。」兼子仁『教育法<新版>』(有斐閣・1978年)(383頁)
(2)大学行政における教基法10条の意味
明治5年学制は「教育行政上の権能を中央政府に総括するの主義を確立した。…この制度は、教育の普及と振興とに貢献するところが多大であった。しかしながら…この制度の精神及びこの制度は、教育行政が教育内容の面にまで立ち入った干渉をなすことを可能にし、遂には時代の政治力に服して、極端な国家主義的または軍国主義的イデオロギーによる教育・思想・学問の統制さえ行なわれるに至らしめた制度であった。」(教育法令研究会著『教育基本法の解説』(国立書院・1947年)(126頁)(10条の解説部分)
必要かつ合理的な範囲内での教育内容統制権能を支える根拠としての、子ども未成熟論(教育の全国一定水準の維持。大学生とは異なり批判能力が無く、教師からの教え込みから子どもを保護しなければならない。)
大学名、大学規模、学部構成、講座編制、学科編制、そして積算校費の決定で終わり!(積算校費は研究教育の自由を保障する研究費配分方法)(護送船団方式といわれて批判されているものは、学問の自由を保障するもの)
(3)大学行政の特殊性=「制度的基準」の学問内在的論理による可能な限りのコントロール
cf. 学校教育法59条(「重要な事項を審議するため」の教授会の必置)、教育公務員特例法第4条、第5条(教授会による人事、不意転のための手続)、学校教育法60条の2(大学設置審議会による設置審査)
cf. 日本学術会議による学術行政のコントロール
cf. 大学基準協会
2 国立大学法人プランにおける行政府による大学関与の特徴
(1)目的=「大競争時代」に打ち勝つ人材の養成と新産業創出の手段として大学
(2)手法=貨幣所有者である国の“権利”(出すのか出さないか、どのような形で出すのかを決定する自由)の貫徹
*個々の国立大学法人への財政支出の決定
:政府による個々の大学の目標設定、大学による目標達成、政府による評価(契約を履行しているのかのチェック)(小銭集めか?)
:総合科学技術会議と、改正教育基本法によって設置される“教育大本営”(内閣府の審議会or中教審の答申に基づく文部大臣案の閣議による決定)による重点配分領域の決定(大鉈を振るう場面)
*個々の研究者への研究教育費の支出
:積算校費の極小化と、研究テーマを申請して行う競争による資金調達の常態化(文部省科研費と“学内科研費”)
(3)「圧縮財政」のもとにおける帰結
=ファッショナブルではない部局を含む組織のリストラとファッショナブルな部局への重点投資
(法案における、部局の省令事項からの排除と運営会議による決定)
=ファッショナブルでない研究者からの資金の引き上げとファッショナブルな研究者への資金の重点投資
(運営交付金交付後における学内措置によって具体化:先行事例としての新潟大学)
→広範であるべきresearch baseの縮小
3 憲法、教育基本法からの評価
(1)国家介入の方法としての新しさとその深刻さ
(2)憲法・教育基本法の基本原理の無意味化・死滅
教育基本法と憲法23条の実質的消滅
教育基本法第10条2項の「諸条件の整備」からの完全な逸脱。
教育基本法第1条の「教育の目的」の放棄。
教育基本法第6条の学校の「公共性」(inclusiveness)の放棄
憲法23条の重要な意味(職業研究者の雇用者・貨幣所有者からの自由)の消滅
おわりに_なぜ、学問の自由と大学の自治が重要なのか?_
大学の社会への貢献の仕方の特殊性(職業研究者による自然・社会の法則の発見、あるいは、人間の外界に関する認識「全体」の継承と発展)
独法化(短期的「計画経済」に奉仕する「大学」)(教育版“大本営”あるいは“満鉄調査部”に従属する「大学」)の最大の問題点=research baseの縮小の結果、“雇用者”や“貨幣所有者”が購買したい時に購買すべき物が無い