(世取山洋介氏の話)

 新潟大学の世取山です。こういう機会を与えていただいてありがとうございます。豊島先生の方から、「国立大学法人化と教基法10条」というテーマで意見表明をという要請がありましたので、それに応える形で今日は話をさせていただきます。

 国立大学法人化を教基法10条から検討せよということですけれども、そうするためには、教基法10条を、憲法23条で保障されている「学問の自由」の意味と関連付けて議論をせざるを得ないということになります。もともと教育基本法は憲法の付属法律として制定されたものなので、教育基本法のいかなる条項であれ、その意味を論じようとすれば、憲法との関連を抜きにしては語れません。

 私、専門が比較教育法学なのですが、比較法的に見た場合には、憲法23条に規定されている学問の自由は非常に奇異なものであるということをまずは指摘しなければなりません。私は新潟大学で文部大臣に雇われていて、私は被使用者として大学で働いている。しかしどういうわけか雇用者の命令を無視して好きに授業をしてもいいし、好きな発言をしてもいい、そういう自由を享受しているわけです。つまり大学における学問の自由の持っている大きな意味というのは、労働法における労働の従属原則といわれているものから我々から解放されて、雇用者の命令について、教育内容あるいは研究内容については言うことを聞かなくてもいい、自主的判断で教育内容を決定し、研究内容を決定し遂行して行くことができるのだという、そこに実は学問の自由という条項の一番おもしろい、あるいは非常に奇妙な点があるわけです。

 ところが、アメリカでは学問の自由、特に大学人の学問の自由というのは、大学人の特権であるという目で見られている。人権・自由のモデル国であるアメリカではアカデミック・フリーダムは堂々と主張するのではなく、こっそりと陰で言え、という、そういう地位にある。学問の自由は伝統的な市民的自由の観念とは大きく離れているわけなんですね。よく言われる例なのですが、郵便配達員は郵便配達中にビラを配ってはいけないにもかかわらず、私たちは、好きなことを言って構わないのです。

 学問の自由は、市民法秩序および労働法秩序に修正を加えて、雇用者との関係で被雇用者にその職務を遂行するに当たって一定の範囲で自律性を認めていることにその意義がある。学問の自由のこのようなおさえ方は、今の独法化の状況にあっては極めて重要な意味を持っていると私は理解しています。というのも、今度の独法化についていろいろ議論はあると思いますけど、私が見た限りでは、 貨幣所有者である国が貨幣をどのようにして分配するのかということについて、根本的な変更を大学行政に対して加えようとしているということが、今度の独法化のもっとも根本的な部分であるからです。

 独法化になると、国が貨幣の配分を通じて行使する支配力が決定的に強化されることになります。国との合意がない限り貨幣は配分されないし、合意の上で決まった金は合意内容にしたがって全てきちんと執行しなければいけない。こういう考え方が、末端まで徹底するというのが独法化の大きな特徴となっています。私たちが、被雇用者でありながら学問の自由の名のもとに持っている自由を守るために、雇用者の持っている金銭的支配力をどう排除していくのかという観点から、独法化の問題を考えざるを得ないと考えております。

 学問の自由を、雇用者に対する被雇用者の自律性を確保するものとして理解するという考え方は、私のオリジナルのものではありません。1983年に憲法専攻の高柳信一先生が『学問の自由』という著書を公にされているのですが、そこで、高柳先生はまさにこの点をきちんと述べておられます。レジュメの引用部分の下から3行目から読みますと、学問の自由は

「究極的には、近代市民社会において他人の私有財産において他人の使用人によって行われることを運命付けられている真理探究機能を自由ならしめるために、財産所有者、使用者の市民法上の恣意を抑制することを内容とするものといいうるのであろう。」

 憲法23条を基として教育基本法が出来上がっているわけですけれども、教育基本法の中に、被雇用者の自由を守るという考え方が非常に徹底して書かれているというふうに理解することが出来ると思います。

  教育基本法10条は次のようなものです。

(教育行政)教育は、不当な支配に服することなく、国民全体に対し直接に責任を負って行われるべきものである。

2 教育行政は、この自覚のもとに、教育の目的を遂行するに必要な諸条件の整備確立を目標として行われなければならない。

学説の方では、教育行政というのは、外的事項については権力的な決定は出来るけれども、内的事項については、それを権力的にコントロールしてはならない、「諸条件」の核心的な部分は、教育の外的事項に限られるという考え方をこれまで主張してきました。初等中等教育レベルにおける国の教育内容に関する権限の限界をめぐる判例においては、この学説が、そのまま受容されているわけではありません。初等中等教育の場合は十条の意味を多少緩和して、折衷的な理解を示しています。初等中等教育の場合になぜ10条が緩和されるのかの理由について判例は、子どもが未成熟で、教師による「教え込み」に弱いから、教師による教え込みから子どもを保護しなければならないから、国は教育内容に介入してもいい、あるいは、教育の全国一定水準を維持するためには国の教育内容に介入してもいい、と述べています。しかし、大学にはそのロジックは通用しないわけで、教育基本法10条の原理というのは、学説の主張どおり、ピタッとした形で明確な形で適用されることになるだろうと考えられます。

 しかも、さらに関連法律を見ますと、外的事項を国が決める場合があったとしても、可能な限り学問内在的な論理に従ってその外的事項が決定されるべきだという考え方をもとに、様々な大学関係者の参加の仕組みを、ショットガン方式でいろいろ規定しているというのが、日本の高等教育法制の特徴であるということを指摘する必要があります。

 教育基本法10条の教育の諸条件、教育の外的事項にのみ国の権力的な決定を容認しているのだと先ほど言いました。実は教育にとっての外的事項の範囲は一体なんなのかということは、学説上あるいは裁判上においても非常に論争的な主題になってきました。学説が現在提起している基準は、「学校制度的基準」と言われるものです。レジュメの二枚目の下の方に引用しましたが、施設設備から、学校組織規模を経て、学校教育組織編成に及び、そして教科科目名の構成で、この学校制度基準というのはすべて終わると考えられています。教科科目名を制定した後はそこで何を教えるかについて国は権力的に決定してはならないというのが、学説の理解ということになります。大学の場合は、先ほど言いましたように初等中等教育における教育の自由を制限する理由というのはありませんで、このロジックがそのまま当てはまりやすいと言えます。

 「学校制度的基準」を大学に当てはめますと、大学名・大学規模・学部構成・講座編成あるいは学科編成で終わり、かつ講座と学科に配られる予算だけを決めて、国がそこで何も出来なくなる、というのが多分、学校制度的基準説を大学に適用した場合の結論ということになるだろうと思われます。学部名、講座名、学科目名を決めて、それに付ける予算額を決めた段階で権力の及ぶ範囲は終わりで、そこから先は研究者の自由でいい、という考え方になります。このような仕組みが、「護送船団」という形で、今、批判を受けているわけです。しかし、「護送船団」として批判を受けている仕組みというのは、徹底して自由を保障するための仕組みであって、「護送船団」といういい方は非常に不適切な表現方法だと言えるわけです。

 しかも先ほど言いましたように、制度的基準を決定する場合にあたっても、できるだけ学問内在的論理にしたがってそれが決定されなければならないという考え方を日本の高等教育法制は内在化させてきました。例えば学部の、大学の設置廃止についても文部官僚が決定するのではなくて、大学関係者でも構成されている大学審議会で決定される。あるいは学部の廃止についても、教授会が重要な事項を審議できるという学校教育法の規定がありますので、学部の廃止は最も重要な問題でありますから、教授会の合意がなければ学部のリストラはできない。さらには大学基準協会によって、財政配分からまったく無関係な大学評価という仕組みもある。現在その改革が検討されているものの、日本学術会議が文部行政、高等教育行政に対して強力な影響力を与えて、出来るだけ学問内在的な論理に高等教育行政を従わせることになっていました。日本の高等教育法制のひとつひとつを注意深く見ていくと、日本の高等教育行政というのは、制度的基準の範囲内でも、徹底して学問の論理の浸透を企図して出来ていると考えられるわけです。

 国立大学法人化プランにおける財政配分の仕組みは大きくわけて2つあると予測できます。一つは、文科大臣による個々の大学の目標設定、大学による目標達成のための計画作りとその実行、そして、最後に政府による評価というプロセスを経て行なわれる財政配分です。ここでは、どっかの組織を削れとか、リストラしようとか、そうした大胆なことは出来ないと思うんです。ここでやるのは、小銭集め、小銭を集めで出来るだけ大きなパイを作る、そのうえで大鉈を振るうのは、教育基本法改正によって制度化される二番目の方式だと考えられます。今度の改正教育基本法によっておそらく、「教育振興基本計画」審議会とでの称される機関が内閣府に設置されることになると思います。内閣府の中に設置されたこの審議会で予算配分の重点設定がなされて、それが閣議によって追認される。それに従って、各大学の部局が、文科大臣の決定する中期計画においてリストラされていくことになると考えられます。教育基本法改正によってできるこのトップダウンの仕組みは、“教育大本営”あるいは教育版満鉄調査部とでも言えるものです。

 さらに個々の研究者に研究費を支出する場合についても徹底した評価という仕組みが生まれてくる。現在でも積算校費が縮小化され、文部省の科研費の割合が多くなって来た。研究テーマを基にして配分される競争的研究費が増大化していく。文部省科研費だけじゃなくて、実は新潟大学でもすでに行われているわけですけど、学内科研費という制度まで出来上がって来つつある。我々が事前に研究テーマを申請して、それが承認されて初めてお金がもらえて、しかもその金が使われたときにきちんとその契約を守ったのかというふうにいちいちチェックされて研究するということになるわけです。

 では憲法・教育基本法から見て、このような仕組みをどう評価できるのでしょうか。まず指摘しなければならないのは、国家による大学管理の方法として非常に目新しいやり方であるということです。財政配分と教育・研究コントロールを一体化するという点で極めて新しいやり方です。従前の、研究内容、教育内容は財政配分とは全く無関係であったという仕組みとを比較すれば、それが持っている教育研究への浸透力あるいは影響力というのは非常に明確なわけですね。これは深刻かつ、非常に広いコントロールだと言えます。

 かつて昭和初期に問題になった滝川事件とか天皇機関説事件は、「ピンポイント」統制であったと言えます。「あまり自由主義になりすぎるな」あるいは「国体の本義には触れるな」という観点から大学人の発言がチェックされていた。しかし、今回の独法化のもとにあっては、すべての研究が経済発展への貢献度という「面」で捉えられ、コントロールの対象となるわけですから、広さが全く違うと言えます。

 そして、独法化は、学問の自由が市民法原理と労働法原理に対して加えていた修正を撤廃するわけですから、深さが全然違います。新しい制度の下では、学部の名称、そして、講座制の場合は講座名から、学科目制の場合は、担当授業科目名からコントロールが始まることになります。学部の評価、我々の研究教育評価、それに基づく財政配分、さらには給与額の決定にまでつながっていきます。科目名で終わるのではなくて、科目名から出発する新しい統制がカネと絡まって始まる。

 これは、憲法・教育基本法から見ると、何条違反、何条違反というような、そういう個別条項違反という問題と捉えるべきではなくて、憲法・教育基本法の基本原理を無意味化させる、あるいは死滅化させるものだと言わざるを得ないと思います。

 最後に、大学改革は必要であるという話が先ほどから繰り返されていますけれども、本来あるべき大学改革とは何なのかということに関連して、35年前に高柳先生が指摘したことを紹介したいと思います。

 「学問の自由の内実は、金銭の支配力との対抗関係において、いかにして研究の自由を確保するかという問題であったということ、換言すれば、学問研究に対する強い関心の経済的表現としての現に存在する国家・社会の研究資金の提供の用意を、いかにして学問自身に内在する原理の観点から統御するかという問題であった」(高柳信一『学問の自由』113頁)

この指摘は、憲法・教育基本法とは全く異なる考え方に基づく体制が国立大学法人化によって始まろうとしている現在の非常に重大な局面において、本来の大学改革のあり方を極めて集約的に示しているはずだ、ということを述べて、終わりにします。ありがとうございました。

(司会) どうもありがとうございました。簡単な質問ありますでしょうか?よろしいですか? はいどうぞ

(質問) およその主旨は理解したんですけども、教育基本法が謳っているのは、教育というのと、それから学問の自由っていうのは、教育と研究と両方あると思うんですけども、その辺の仕分けをもう少ししっかりとしていかないと。それが今の国立大学の問題点になってきてるんじゃないかと私は思うんですけど、その辺のところはどうお考えでしょう。

(世取山) まず第10条の高等教育行政への適用可能性についてですけれども、レジュメの3枚目のところに、1947年に文部省の教育法令研究会によって編集された『教育基本法の解説』という本の、教育基本法10条の解釈に関する部分を引用しておきました。戦前の中央集権的教育制度に対してこう言っています。

「教育行政が教育内容の面にまで立ち入った干渉をなすことを可能にし、遂には時代の政治力に服して、極端な国家主義的または軍国主義的イデオロギーによる教育・思想・学問の統制さえ行なわれるに至らしめた制度であった。」

 つまり教育基本法10条に書いてあることは、初等・中等教育行政にだけ当てはまるのではなくて、当然に高等教育行政にも当てはまるのだ、ということが一応ここで確認できると思います。したがって10条の言う内外事項の区分というのは大学においても適用されることは間違いない。しかも重要なことは、先ほど言ったとおり、日本の高等教育法制は、教育行政権力の及ぶ教育の外的事項も、学問の論理でコントロールされなければならない、というさらにもう一歩前進した考え方にもとづいて作られているということです。先ほど指摘した、組織改廃に関する学部教授会の決定権限、大学基準協会などは、初等・中等教育法制にはない仕組みです。やはり、高等教育法制については、初等中等教育以上に、教育行政を学問の論理に従わせたかったのではないかと思います。