国立大学独法化阻止全国ネットワーク
事務局長 豊島 耕一
世話人 白井 浩子
辻下 徹
野田 隆三郎
橋本 修輔
政府は去る2月28日の閣議で,国立大学を「独立行政法人」(行法化と略)に変えるための国立大学法人法案を閣議決定した.これは,独立行政法人との違いは名称のみに過ぎず,むしろ,学長への過剰な権限集中など,その有害さはより重大である.すなわち,97年の文部大臣の次の指摘はそのままこの法案により一層当てはまるものとなっている.
「文部大臣が3〜5年の目標を提示し,大学がこれに基づき教育研究計画を作成,実施する仕組み,及び計画終了後に,業務継続の必要性,設置形態の在り方の見直しが制度化される仕組みは,大学の自主的な教育研究活動を阻害し,教育研究水準の大幅な低下を招き,大学の活性化とは結びつくものではない」
文部科学省は,なぜこのわずか数年前の自らの見解に反する法案を提出したのか,この見解は誤りであったのか,今日に至るまで何らの説明もしていない.いやしくも教育・文化に関わる官庁がこのように「説明責任」を全く無視した態度をとるのであれば,その存在の意味さえ疑われるであろう.同様の批判は,今でも「独立行政法人通則法に基づく法人化に反対」のはずにも関わらず行法化を推進している国大協にも当てはまる.
行法化とは,政府自身の説明[1]によると,行政機関を企画部門と実施部門に分離し,前者を中央官庁に移し,後者だけを「独立」させるというものである.この制度における「中期目標」とはその「企画部門」による「立案」に相当する.このように,政府によってその目標を決められるような団体が独立した法人格を持つなどとは到底言えないであろう.またそもそも大学は行政機関ではない.このような制度を大学に当てはめることは,単に不適切というだけでなく,教育への「不当な支配」を禁止した教育基本法10条や「学問の自由」とそのための「大学の自治」を認めた憲法23条に違反する.
「国立大学法人」制度,すなわち独立行政法人制度における「中期目標」とは要するに「官」すなわち文科省による大学への命令である.それを命令として有効たらしめるのは,その法的強制力はもちろん,政府による達成度評価で予算がコントロールされることであり,さらには大臣による廃校に関する権限[2]である.またこれは,大学が作成を義務づけられる「中期計画」の文部科学大臣による認可制によって細部まで徹底される.しかも後者に関しては罰則まで用意されているのである[3].このような「官」から「学」への命令制度は戦前の日本にも存在しなかったものである.
「中期目標」として挙げられている項目の第一には「教育研究の質の向上に関する事項」が挙げられているが,これを「教育研究の内容」と区別することは困難である.したがって大学にまで「教科書検定」や「学習指導要領」が押しつけられても不思議ではない.このような危険な制度が憲法23条に違反することはあまりにも明白であろう.
教育基本法10条に違反するという事実も見逃してはならない.この条文の前段は「教育は、不当な支配に服することなく、国民全体に対し直接に責任を負つて行われるべきものである」と規定している.「不当な支配」が何を意味するかについては,これを制定した第九二回帝国議会における辻田文部事務官の答弁が参考になる.それによると,「従来官僚とか一部の政党とか、その他不当な外部的干渉と申しますか、容喙と申しますかによって教育の内容が随分ゆがめられた」ことを排するため,「教育権の独立・・・の精神を表した」ものであると述べている[4].文部科学省から大学への命令制度は官僚支配そのものであり,10条違反はあまりにも明かである.
たしかに国立大学に対する官僚支配は従来もあったが,その多くは法的根拠がないだけでなく,教育基本法10条や旧文部省設置法6条2項に反する違法なものであった.「国立大学法人法」はこの支配に法的根拠を与えるものである.
「学問の自由」に対するもう一つの脅威は,この法案が職員の雇用形態を「非公務員型」としていることである.これは,単に雇用の不安定化を意味するだけではなく,国立大学の教員が教育公務員特例法による保護を失うことを意味する.この法律は,国公立大学に属する教員の人事への,行政も含む外部権力の介入の余地をなくすことで,学問の自由を守っている.この法律の適用対象は国公立学校であるが,実質的には私立学校における雇員の労使関係にも影響を与えている.「非公務員化」は大学におけるこの法律の対象の大半が消滅することを意味し,国立大学教員の権利の問題にとどまらず,この法律そのものの空洞化につながる恐れがある.また,事務職員にとっても,公務員としての地位を正当な理由もなく奪われることは到底受け入れられないことであろう.
憲法23条が間接的に保障する「大学の自治」は,管理運営部門への学外者の大量導入と,学長独裁制とも言うべき学長への権限集中によっても破壊される.学長の権限は,「法人」と「大学」両者の長を学長が兼ね,またそれらの管理部門の任命権をほとんど独占することでグロテスクなまでに肥大化している.これと比べられるのは独裁国家の政治システムか,あるいはカルト教団における支配構造だけであろう.また学長への異様な権限集中は,法案第二条によって「法人」と「大学」が言葉の上では分離されているにも関わらず,事実上これらが一体化されていることをも意味する.
この「法人」と「大学」の,つまり経営と教学の形式上の分離と事実上の一体化により二つの問題が生じる.一つは,大学の設置者を「法人」としたことは国の財政責任の放棄を意味する点である.これは,高等教育において「諸条件の整備確立」の義務を抛棄する点で,すでに述べたのとは別に意味で教育基本法10条に背くものと言えよう.授業料の値上げは必至であろう.二つには既存の「学校法人」の制度への悪影響がある.法人制度の長い歴史を持つ私立学校においては,経営と教学とが原則的に分離され,それによって恣意的,独裁的な学校経営を防止する制度と文化が創られているが,これらの事実上の一体化はこれを蝕むものと言わなければならない.
法案における「法人」と「大学」の関係の混沌ぶりは,22条の「業務の範囲」にも表れている.その第3項に「当該国立大学法人以外の者と連携して教育研究活動を行うこと」とある.大学すなわち「学校」ではなく「法人」自身による研究教育活動を可能にした狙いは何であろうか.あるいはこれは「混沌」ではなく,営利目的の教育研究活動を展開する「大学株式会社」への道を示したものであろうか.
「法人」と「大学」の一体化の重大で実質的な悪影響は,教育研究評議会において顕在化する.この機関は,名称からも審議内容からも実質的には「教学」に,つまり「大学」に属するべきものと考えられるが,これを規定する21条は「国立大学法人に(中略)教育研究評議会を置く」とあり,「法人」に属するものとなっている.このため教育研究活動についても,「大学」よりも「法人」で行われるものが優先されることになろう.何れにせよ「大学」に代わって「法人」は「高等教育機関」の役割を果しはじめるのであるが,しかし「高等教育機関」に本来求められる重要な役割は果たせないであろう.
実際,例えばユネスコの高等教育世界宣言[5]が求めるような社会的発言をこの機関やメンバーが行ったとすれば,役員は最高20万円の罰金を払わなければならないだろう.なぜならこれは法人の「業務リスト」にはないからである.因みにユネスコの宣言二条b項には次のように書かれている.
「高等教育機関およびその職員と学生は」「社会が必要とするある種の学術的権威を行使することによって、倫理的、文化的および社会的問題について完全に独立に、そしてその責任を十分に自覚して発言する機会を与えられ」るべきである.
また,この機関に与えられる「重要事項」の審議権と,学校教育法で規定された教授会が持つ同じ権限との間の優劣関係も不明である.もし新しい法律が優位とされれば,良かれ悪しかれこれまで「大学自治」の中心となってきた存在が失われることになる.
上に見たように行法化が現行法体系に基本的に反するということ,そして「学校法人」制度の慣行を破壊するものでものであることは,この制度の致命的な欠陥である.同時にこれは国立大学の研究活動そのものにも破壊的な影響を与える.そしてこのことはすでに多くの国立大学関係者によって指摘されている[6].
すなわち,文部科学省による命令制度と,政府がレフェリーとなる大学間,教員間の「競争」,それに大量の学外者の決定への関与によって,大学は国家と産業界のための道具とされる.そして,わが国の産業のグローバルな市場での競争のための知的資源として動員され,大学の自主性はおろそかにされるであろう.大学の知的活動が経済や産業に寄与することを期待されるのは当然であるが,大学の中心的な使命とのバランスを欠いた「動員」とも言うべき政策は,学問の均衡の取れた発展を妨げ,また大学独自の価値と文化を破壊しかねない.「法人」自身による独自の教育研究活動の展開を可能にした22条は,「大学」側の教育と研究を痩せ細らせ,それを「法人」側に振り向けることで,この「動員」の重要な梃子となるかも知れない.
この他にも,学長の任命権だけでなく解任権までも文部科学大臣が握ること,諸合議体に与えられた封建的,時代錯誤的な枠組みなど,その官僚的な醜悪さは枚挙にいとまがない.また,学長・監事の文部科学省による任命制と「役員」職の大量発生が多くの「天下り」を生み,政府の言う「行革」にも反する結果を招くことは,先行の独立行政法人の経験からも明かである.
このような「国立大学法人法」は廃案にすべきであり,いかなる修正によっても「改革」に価するものにはなりえない.上に述べたように,この制度は教育基本法10条を空文化するものであるため,もし成立するようなことがあれば,政府が目論む教育基本法「改正」の露払いとなるであろう.決して大学だけの問題にはとどまらないのである.
大学において改革すべきものはさしあたってその「制度」にあるのではない.制度改革は書類と会議を量産するのみで,文部科学省という,書類がないと仕事にならない役所のための「公共事業」に過ぎない.このことは,90年代の「大学改革」がもたらした大学全体の広汎な荒廃によってすでに証明されている.
本当に改革すべき問題は「ソフト」にある.文部科学省のいかなる審議会も「学生参加」について述べることはない.また,権力者や著名人ではない,普通の市民の大学への発言権について語られることもない.しかしこれらのことにこそ現在の大学がかかえる問題を解決する鍵があると思われる.
国立大学の関係者の方々は,「中期目標」の検討などこれまでの行法化を仮定した「相対的」な活動は活動として,法案提出という此の期に臨んでは,この法案についての当事者としての「絶対評価」を正直に述べていただきたい.それは国民と国会の正確な判断のためには不可欠であろう.特に,著名な研究者の方々は,その名声に伴う社会的責任,すなわち「ノブレス・オブリージュ」に応えていただきたい.教育者・研究者のかけがえのない財産である「学問の自由」が危機に瀕しており,これを「消費」するだけでは許されないと思われる.
また,マスメディアの方々は,ともすると官庁の発表をそのまま繰り返すだけで,この制度の問題点を無視し勝ちであったこれまでの報道姿勢を改め,真に公平な態度でこの問題を扱っていただきたい.
最後に,この法案準備のために多大の労力を費やされたであろう文部科学省の職員の方々に申し上げたい.あなた方の労力がまさに大学とその文化を破壊するために使われようとしている.国から大学への命令制度,それも教育・研究の内容にまで踏み込み兼ねない命令制度という,戦前にさえなかったものをあなた方は導入しようとしているのである.五年後,十年後に弊害が明らかになった時,あなた方はどのように責任をとられるのだろうか.どうか今からでも引き返す勇気を持っていただきたい.引き返すことは地を覆えすように無理に見えても,組織の論理に一人が疑義を述べることが流れを変えることは有り得る.文部科学省にも勇気ある方々が少なからずおられることを信じる.
独法化阻止全国ネットワークは,あらゆる人と対話し,また他のあらゆる努力によってこの法案の成立を阻止するものである.
2003年 3月 10日
[1] 参議院行革・税制特別委員会,1999年12月3日午前10時30分より
持永総務庁政務次官 「独法は企画調整部門と実施部門を分離する。一般的か整理させてほしい。」
http://www.kokko-net.org/kokkororen/t9912-02.htm
YomiuriOn-Line 大手町博士のゼミナール 導入半年の独立行政法人
大手町博士
「国の行政組織の中は、政策を決める企画部門と決まった政策を実施する部門に分けることができる。独立行政法人は実施部門の効率化を進めるために作られる組織なんだ」
http://www.yomiuri.co.jp/atmoney/dr/20011016md01.htm
[2] 通則法35条が準用される.
[3] 40条6項
[4] 中谷彪編著,「資料 教育基本法の成立過程」, 発行 株式会社タイムス,1985年
または,レジュメ「教育基本法 第十条の条文の成立過程」参照
http://pegasus.phys.saga-u.ac.jp/Education/edulaw-art10.html
[5] ユネスコ高等教育世界宣言「21世紀の高等教育 展望と行動」,1998年.
http://pegasus.phys.saga-u.ac.jp/UniversityIssues/AGENDA21.htm
[6] 例えば1999年の「国立大学理学部長会議声明」参照.
http://www.sci.nagoya-u.ac.jp/991110.html