元社会党委員長、石橋政嗣氏の「非武装中立論」(社会新報新書、1980年)という著書の中からの転載です。
第二章 「非武装中立と自衛隊」の後半部分、64ページから87ページで、理論的なエッセンスが詰まっている部分だと思います。転載を認めていただいた社会新報編集部に感謝します。
「非武装中立」の条件
さてそれでは、いよいよ本論に入りたいと思います。なぜ非武装中立なのか、批判にたいする反論をも含めて、私の考えを述べてみたいと思うのです。その前提として、安全保障に絶対はない、あくまで相対的なものにすぎない、われわれは、非武装中立の方が、武装同盟よりベターだと考えるのだということをもう一度申し上げておきたいと思います。
まず第一の理由として、周囲を海に囲まれた日本は、自らが紛争の原因をつくらない限り、他国から侵略されるおそれはないという点を指摘したいと思います。これは歴史的にも明らかなことであり、日本の場合はほとんどすべてがこちら側の侵略によって、戦争がはじまっているのです。現在においても、わが国には、社会主義国を敵視し、米軍に基地を提供している安保条約の存在を除けば、他国の侵略を招くような要因は何もないのであります。本当に日本の平和と安全を願うのであれば、アメリカのお先棒をかついでソ連の脅威をいいたて、軍事力の増強と日米共同作戦の遂行のための諸準備に狂奔する姿勢を、直ちに改めることであります。
第二は、原材料の大半、食糧の60%、エネルギー資源の90%余を外国に依存し、主として貿易によって、経済の発展と国民生活の安定向上を図る以外に生きる道のない日本は、いかなる理由があろうと、戦争に訴えることは不可能だということです。
この点に関しては、80年度の防衛白書にも「わが国の海上交通は、その輸送量と世界的広がりにおいて、他の諸国にあまり類を見ない。現在、年間総輸入量は6億トンにも達し、世界の貿易量の実に約20%を占めている。その輸送手段として99・95%を海上輸送に依存しており、この海上輸送路は、一方に太平洋を隔てて北、中、南の米州諸国及び大洋州諸国につながり、他方に、インド洋を経て中東、アフリカの諸国、更に進んで欧州諸国に達する。このような地理的特徴を持つわが国にとって、その海上防衛力は、先にあげた海上からの侵略に対する国土防衛と、わが国周辺海域における海上交通の安全確保という、二つの任務を有効に達成し得るものであることが必要である」とのべられていることはすでにふれました。そして自書は「わが国の海上防衛に当たっては、機動打撃力を有する米海軍部隊の協力支援が必要であり、これが海上作戦において、日米安全保障条約による日米共同作戦の重要性が強調される一つの理由である」とのべているのです。
いったいこのように果てしない洋上の交通路の安全確保などができるのでしょうか。アメリカがやってくれるというのでしょうか。
参考までに過去の数字をあげれば、太平洋戦争当時、1943年10月から1945年8月までの他か二年足らずの間に、わが国の商船は、潜海水艦の攻撃によって3、193隻、航空機の攻撃によって2、225隻が被告を蒙っているのです。いまやミサイル時代、格段に命中精度も高くなっているときに、どうして安全を確保しようというのか全く狂気の沙汰としかいいようがありません。このことに関しては、元国防会議事務局長の海原治氏が、その著書『日本防衛体制の内幕』の中で、「一体、何隻の艦船と何機の航空機とがあったら、それが可能となるのであろう。そのための人員は何人ぐらい必要なのか、多数の艦船や航空機のための途中の基地は、どこにどうやって設置するのか」と指摘し、さらに「わが能力の及ばないところは、米海軍が引き受けてくれるなら話は別であるが、海上交通保護を提唱する人々も、米海軍にはその能力はないと述べている。かりに横浜から北緯20度の辺まで安全であったとしても、それから先が不完全であれば、海上交通路としては安全の確保は成り立たない」と私と同じような疑問を持って述べているのであります。
この発言を裏付けるかのように、ハロウェイ米海軍作戦部長は、USニューズ・アンド・ワールド・レポート1975年10月20日号に寄稿し、「われわれが、ペルシャ湾からヨーロッバと米国にいたる石油の補給路を保護する方法は、大西洋の戦いを勝つことであり、ソ連海軍を敗北させることのできる米海軍を持つことである。ペルシャ湾から出てくる石油タンカーの安全を、それを護衛することによって確保することはできない」と断言しているのです。石油はもちろんのこと食糧すら自給できない日本が、海上交通路を断たれたあと、果たして何ヶ月持ちこたえられるというのでありましょうか。
しかし、このように、われわれが軍備による防衛の不可能であることを主張すればする程、どんな家にも錠が取りつけられ、鍵がかかっているではないか、これはそうしなければ空巣が入るからだといったような比喩をもって反論する者が後を断ちません。いわゆる「戸締り論」です。これなどはいかにももっとものように聞こえますが、静かに考えてみますと、これほどおかしなたとえはないのであります。なぜならば、第一に、凶器を持って押し入ってくるのは、空巣やコソ泥ではなく、強盗だということです。強盗は、鍵がかかっておろうとおるまいと、錠前などは打ちこわして侵入してくるのであります。強盗に押し入られたとき、私たちは「抵抗せよ」と教えたり、教えられたりしているでしょうか。この場合の抵抗は、死を招く危険の方が強いことを誰もが知っています。
第二は、地方に行けば、いまでも、戸締りなどしないで外出している家が山程あるということです。隣近所の信頼関係か衰えていないなによりの証拠であり、これ(信頼関係)にまさる平和と安全はないということです。
また、世間には、スイスのような中立国でさえも武装しているではないかといって反論する人もいます。軍隊があり、抵抗の姿勢を示しているからこそ、中立も保たれているのだというわけです。しかし果たしてそうでしょうか。スイスに侵略するものがないのは、この国の軍隊を恐れるからではないはずです。どこの国とも仲よくしようという熱意と誠意を基礎にした外交、これを一致して絶対に支持する国民、そして、これらを暖かく見守る国際世論と環境、それらが相まって、スイスの安全は保障されているのだと思います。
スイスといえば、第二次大戦の際、ヒットラーが攻め込まなかったのは、スイスの民兵組織が強力なため犠牲が大きすぎる、と考えたためたという人がいます。もしそうだとすれば、他の国には犠牲をかえりみず、次々に侵攻したのはなぜでしょう。また、より大切なことはオーストリアやチェコスロバキアが、なぜナチスに抵抗せずに、併合や領土の返還・割譲に応じたのかということです。このことは、住民の75%がドイツ系というスイスが実際にオーストリア等と同じ立場に立たされたとき、同じ態度をとることは絶対になかったとは必ずしもいえないことを意味しているのではないでしょうか。スイスは、必ずポーランドと同じように破滅的な抵抗を行ない、ナチスは多大の犠牲を強いられたであろうというのは、あまりにも独断にすぎるか、希望的観測にすぎるのではないでしょうか。要するに、軍備を持つか持たないか、抵抗するかしないか、それはあくまでも、国家・民族が自主的に決めるべきことなのです。われわれが軽々に、あれこれいうべき筋合いのものとは思いません。
そうはいってもとにかく、不安だ。もし攻めてくる国があったら「降伏」せよというのかと、さらに執拗に迫ってくる人たちがいることも事実です。
このような人たちは、「攻めるとか、攻められるとかいうような、トゲトゲしい関係にならないように、あらゆる国、とくに近隣の国々との間に友好的な関係を確立して、その中で国の安全を図るのだ」といくらいっても聞こうとはしないものです。私は、こういう人たちには誤解を恐れず、思いきって「降伏した方がよい場合だってあるのではないか」ということにしています。
事実、われわれは1945年8月15日に降伏した経験を持っているのです。あれは間違いだったという者がほとんどいないのも事実ではないでしょうか。降伏が絶対にいけないというのであれば、あの時、われわれは一握りの青年将校たちが叫んだように、竹槍を持って、最後の一人まで戦うべきだったということになります。しかし思い出して下さい。青年将校たちは、天皇の終戦宣言を録音したレコードを奪い、逆は「本土決戦」を国民に呼びかけようとしましたが、みごとに失敗しました。誰ひとり賛成する者はなかったのです。軍部すら同調しませんでした。なぜでしょう。みんな疲れきっていたからです。そして無条件降伏でホッとしていたからです。米英は鬼畜かもしれないが、それでも、戦争の継続よりはましだと考えて、みんなで降伏の道を選んだのではなかったのですか。
もちろん、われわれとても、軍事力による抵抗をしないからといって何をされても、すべてを国連に委ねて無抵抗でいるといっているわけではありません。相手の出方に応じ、軍事力によらない、種々の抵抗を試みるであろうことは必然であります。それは、デモ、ハンストから、種々のボイコット、非協力、ゼネストに至る広範なものとなるでありましょう。
この際、お互いに、もういちど確認しておかなければならないことは、日本が本当に専守防衛に徹するというのであれば、これからの戦争は100パーセント、われわれの国土のなかで行なわれるのであり、したがって自衛隊員だけの戦闘などというものは全くあり得ないということです。だとすれば徴兵制がよいか悪いか、必要かどうかなどという議論は、ばかばかしい限りではありませんか。徴兵制があろうとなかろうと国民皆兵、まさに本上決戦、一億玉砕の決意なしに、軍事力による防衛などなりたたないことを思い知るべきです。自衛隊のみによる防衛などを考えるものがいるとすれば、それこそ非現実的の最たるものというべきであります。
だからこそ、私たちは軍事力を否定しているのです。小林直樹教授のいうように、「非武装を貫けば、どんなに悪くても、日本列島が軍事占領を受ける位が極限で、民族みな殺しや、再起不能の大損害を蒙る最悪の事態は防げるはずであり、仮りに軍事占領が行なわれたと仮定しても、民族のせん滅は勿論、その文化や精神まで奪い去ることは、少くとも自由と自立を欲する勇気ある人びとのいる国では不可能だ」(法律時報「憲法九条の政策論」)と思うからであります。
「愛国心」の意味
ここで私は、愛国心の問題に触れておきたいと思います。それはなぜかというと、再軍備論者の多くは、自らを真の愛国者と思いこみ、われわれ非武装中立論者にたいして、内心、「それでもお前は日本人か」という意識を持っているように思えるからであります。このまま現在のような風潮が一層高まっていけば、おそらく「かつての戦前」のように、またもやいっせいに「非国民呼ばわり」がはじまるのではないかと心配するからであります。
「自分の国は自分で守る」という自主防衛論、「国を守る気概を持て」という国防意識の昴揚論、このような主張は、主として、「日本国憲法は占領軍によって押しつけられたものである」という立場に立つ改憲論者たちによって火をつけられ、煽られてきています。世界第三位の国民総生産を必要以上に誇示する態度のなかにすら、国民のナショナリズムにたいするくすぐりを感ずるのです。
さて、それでは、再軍備論者たちがよく口にする、敗戦後、国民の大半が見失ってしまったのではないかといわれるナショナリズム、それと密接なつながりを持つ愛国心が、いま改めてその重要性を強調されはじめ、国民の胸中に,甦りはじめたとするならば、それは果たして喜ぶべきことなのでありましょうか。私にはどうしても歓迎すべきものとは思えないのであります。なぜならば、いま愛国心の必要性を強調している保守党政治家や財界人、あるいは高級制服幹部たちの求めているものは、どんなに装いを新たにしていようと、自主防衛論、防衛意識の昂場論、あるいは靖国神社の国家護持論と一体のかたちで提起されていることで明らかなように、敗戦と同時に捨て去ったあのいまわしい偏狭なナショナリズム、誤った愛国心そのものだからであります。
私とても、ナショナリズムであれ、愛国心であれ、全面的に否定しようとするものでないことはいうまでもありません。とくに、愛国心を、主として自分たちが生まれ育ったところ、現に住んでいる土地にたいする執着と愛情を中心にするものであるというように規定するならば、誰にも劣らぬ愛国心を私自身もっているとさえいえるのです。外国に行けば愛国者になるということがよくいわれますが、私とても決して例外ではありません。滞在の期間が長ければ長いほど、日本恋しの想いは募り、日本ほどよいところはないと思う心は私とて同じなのです。それはときとして、〃にぎり寿司〃や〃お茶漬け〃との連想のなかで、あるときには日本の風光や気候、人情や教育水準の高さを誇らしげに思うかたちで現われるものなのです。これらも確かに愛国心といえるものの一つではありましょう。しかし、私がいま問題にしているのは、決しでそのような自然な情感でも、甘ったるい情念でもないのです。それこそ、直ちに戦前、戦時中を思いおこさずにはおられないような、どちらかといえば、嫌悪感を伴いやすいものなのです。
要するに、一口に愛国心といっても、そのなかには、国民として至極当然な持つのが当たり前のものと、歪められた間違ったものとがあるのではないかということなのです。だとするならば、われわれにとって必要なことは、その区別を明らかにし、正しい愛国心を育て、間違ったものは、双葉のうちに摘みとってしまうようにしなければならないということであります。
そうはいっても、正しい愛国心と、間違った愛国心とを峻別するということは、それ程簡単でないことも事実なのです。ただ、私の直観に従っていうならば、正しい愛国心は、ひとりひとりの国民の心の中から自然に湧いてくるというのか、下から盛り上がってくるものであり、誤った愛国心とは、概して上から与えられ、教えこまれ、吹きこまれるというかたちをとるのではないかと思います。
前にも述べましたように、異郷にあって、そぞろ祖国を思うとき、ふき出るように湧いてくるあの心の昂ぶり、それは多くの場合、恋愛感情にも似た滑らかなものであり、なにびとをも傷つけることのない、正しい愛国心ということができると思うのです。これは、旅を終えて故国の土を踏めば、いつしか消え去り、忘れ去られるのが普通でもあります。それをもし、常時、「日本はどこの国よりも優れているのだ」「どこの国にも決して負けてはならないし、勝つのが当然なのだ」という気持を持ち続けよといわれれはどうでありましょう。それはさらに発展し、「日本のように自由な国は世界のどこにもない」「そんな国に生をうけたことに感謝し、誇りを持ち、この世界に冠たる国を守るために、国民は一身を投げうつ覚悟を常に持っていなければならない」「そのために強力な軍備を持つのは当然だ」ということになるわけです。
一度火がつき、そのような風潮かつくり出されてしまうと、それを否定するものはもちろん、高らかに唱和しないものをも、愛国心に欠けるとか、非国民ときめつけて非難するムードが支配的になることを、私たちは体験を通して知っているのであります。そのとき多くの人びとは、それを信じようとするでありましょうし、信じていることをわが身に納得させ、他に立証するためにもぬ和の声を大きくしはじめ、疑う者、信ずることの足らない者を糾弾する側に立とうとするものなのです。そんな愛国心を、私は与えられ、教えこまれ、吹きこまれたものだといっているのです。そして、それこそが権力者の欲する愛国心、誤った偏狭な愛国心だといっているのであります。
われわれが過去において体験したものは、まさにそのようなものであり、愛国心というものは、本来の素朴な純粋なもののなかにすら、危険なものにいつでも転化しうる要素を持っているのです。また、愛国心ほど戦争と密接に結びついたものはないのです。いま自民党政府は、しきりと「ソ連の脅威」を連呼し、民族感情に訴え、防衛力の増強と国防意識の昴揚を容易にしようと努めているのでありますが、これは平和につらなる道というよりは、戦争につらなる道であることは、誰の眼にも明らかというべきでありましょう。
要するに、われわれにとって、いま必要なことは、軍事大国や軍国主義の復活につらなるおそれのある愛国心の強調ではなく、まさに平和と民主主義、そして国民の基本的人権の尊重という、三本の柱に支えられた憲法体制を真に定着させるための努力のはずであります。愛国心などがことさらに問題にされず、声高に叫ばれない世の中こそが正常なのです。国民が本当に主権者であり、その基本的諸権利が保障されている国においては、愛国心は、個人の利益と決して矛盾するものではないという確信をもって、愛国心を強調する前に、現行憲法の擁護と実践のために全力を尽くすことの必要性をいま一度強調したいと思います。
繰り返し申し上げますが、安全保障に絶対ということはないのです。こうしたら、日本は絶対に安全などというものはないのです。安全保障は、あくまでも相対的なものであり、比較の問題として考えるべきなのです。軍隊を持って軍事力によって国を守るという方法と、軍備を持たず平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、平和中立外交を推し進め、友好的な国際環境をつくりあげることに全力を注ぎ、そのなかで国の安全をはかるという方法と、どちらが望ましいかというふうに考えるべき問題なのです。
これまた何度もいうように、自衛力といおうと、軍事力といおうと、軍隊の力によって国の安全をはかるという立場をとる限り、そこには限界はないのです。愛国心とやらが高まり、国防意識についての教育が成功すればするほど、より強大なものを求める声の高まってくるのは必然であり、軍事的対外強硬論にたいし、歯どめをかけることはほとんど不可能となることは、歴史に照らしても明らかなところといわなければならないのです。そして今度は、呼びおこした世論が、逆に政治指導者を身動きできないまでに縛る結果となることも石田雄教授の著書『平和の政治学』が指摘している通りであります。
そればかりではありません。軍事力は、いかにそれを自衛力といおうと、抑止力といおうと、他国にとってはそのまま脅威と映ることを忘れてはならないのです。要するに、自国の軍事力は自衛力といい、抑止力と称し、他国の軍事力は脅威と名づけているにすぎないのです。こうした奇妙な論理から抜け出すためにも、われわれは軍事力を前提としない世界をつくり出すために、力をつくさなければならないのです。
日本国憲法の精神と規定は、まさにこのような思想を背景に生まれているのであります。われわれは、この選択を、いまでも正しいものであったと確信し、支持しているのです。できうれば、この日本国憲法を、非武装・絶対平和の憲法を、世界の憲法たらしめんと野心に燃えているわけです。
ところで、われわれが明らかにしなければならないいま一つの重要な点は、われわれが政権を担当した場合、どうしてこの非武装中立を実現するかということであります。それを理解してもらうためには、まず非武装中立政策の位置づけが必要なのではないかと思います。
先にも述べましたように、いままで完全に憲法の精神と規定が守られてきていたならば、非武装と中立は現実そのものであったはずであります。しかし実際には、歴代保守党内閣によって憲法は踏みにじられ、現に自衛隊と称する武装集団が存在し、日米安保条約という軍事同盟が締結されているのです。ということは、残念ながら非武装・中立は現実でないばかりでなく、武装・同盟という条件の中で生み出された内外の情勢をそのままにしておいては、受け入れられない政策となっているということであります。
その意味では、非武装中立は、いまや好むと好まざるとにかかわらず目標となってしまっているのです。だとするならば、問題は憲法の指し示す正しい方向を放棄し、現実と妥協しこれを認めるか、それとも現実は直視ししつつも、あくまでも目標となった憲法の精神と規定を、現実のものとするために努力するか、にあるというべきでありましょう。目標とすることすらいけない、非現実的だというものがあるとするならば、その者は、当然の義務としてこれに代わる目標を示すべきだと思います。
この点に関して、石田雄氏はその著『平和の政治学』において、明快な整理を行なっています。氏によれば、討論がかみ合わないのは単に感情によるだけでなく、つぎのような議論の三つの段階を区別しないことによる場合が多いとして、第一の段階(究極の目標)、第二の段階(中間的見透し)、第三の段階(当面の処理)に分け、非武装中立というのは第一乃至第二の段階の問題であり、安保を具体的にどうするかというのは主として第三の段階の問題であると指摘しています。そして、公正に議論をすすめるためには、議論の両当事者が、それぞれに三つの段階についての自分の考え方を提示し、それぞれ同じ段階での問題を議論することが必要であろうと述べているのです。
一例として、第三の段階で安保継続、自衛力増強などを主張する人は、それぞれ第二の段階の中間的な見通しをどこにおき、最後の目標をどこにおいているのかを同時に明らかにする責任があるというわけです。例えば防衛力を増強するという場合に、日本をできるだけ強くしようというのであるか、そうであるとすれば核武装まで行くのかどうか。第三の段階に議論を集中し、中間目標や最終目標を明らかにしないのは、意識的に隠している場合と、自分でも目標を意識していない成りゆき主義の場合とがあるだろうといっていますが、全く同感といわざるを得ません。
われわれは、現実と妥協し、既成事実につじつまをあわせることによって平和憲法という貴重な財産を放棄する、ことを拒否しようというのです。あくまでも、これ(憲法の指し示す道)を追求しようというのであります。
目標とすることすらいけない、非現実的だというのならば、石田教授のいうようにその人は当然の義務として、これに代わる目標を示すべきだと思います。さらには、現実、現実というのであれば、相互に、人類のすべてを数十回にわたって殺りくすることができるといわれるほどの、大量の原水爆や核兵器を持つ米ソを軸に、際限のない軍備拡大の逆を突き進む世界の現状を放置して人類は生き残りうるのか、いやそれどころか、積極的に追随し、自らも軍事力増強に血眼になっていて、果たして人類は生き残ることができるのか、可能だというならばその理由と共に明らかにする義務があろうというものであります。核も抑止の効果を持っている以上、これを認めざるを得ない。しかし、これが使用されることは絶対にあり得ないであろうなどというたわ言を、少なくとも私は信じないのであります。
かつてバートランドラッセル卿は、「人類の前にただ一つ残された可能性は、話し合いによる平和か、一切の死による平和かである」と申しました。私はこれを至言だと思っています。平和のためどころか、人類の生存のために、私たちは、それがどんなに困難な道であろうと、国際的には完全軍縮、国内的には非武装という目標を、現実のものとするための努力を続けなければならないのです。それこそが、人類の生存に責任を持たなければならない私たちの絶対の義務だと確信しております。
しかし、われわれが政権を担当した場合、自衛隊や安保条約が憲法違反の存在であるからといって、その存在を否定したり、この保守政権の置き土産を引き継ぐことを拒否するなどという、馬鹿げたことをするつもりは毛頭ありません。
憲法違反だから認めないというのは、現状においては専ら観念の問題であり、存在している事実を認めることとは決して矛盾しないのであります。
そこで問題は、われわれの政権が、引き継いだ自衛隊と安保条約を、どのような〈過程〉{プロセス}を経て解消し、非武装と中立を実現しようとするのか、それを明らかにすることが、当面の問題としてはいちばん重要であるということを率直に認め、その道筋を明らかにしたいと思います。
「非武装中立」ヘのプロセス
まず、自衛隊についていうならば、われわれは、最低つぎの四つの条件を勘案しながら、これを漸減したいと考えています。
条件の第一は、政権の安定度であります。換言すれば、彼我の力関係です。
院内における勢力はもちろんのこと、院外において、われわれの政権を支えている勢力がどの程度なのかを考慮せずに、機械的に自衛隊の縮小に手をつけようとしても、それこそ空論でありましょう。院内の勢力分野の面でいうならば、絶対多数か比較多数か、単独か連立かが問題ですし、院外では強力な国民戦線が組織されているのかどうかがやはり一番の問題となると思います。これらの状況を勘案しながら手をつけようというわけです。
条件の第二は、隊員の掌握度であります。
われわれが政権をとりさえすれば、彼らがわれわれの意のままになるなどと考えることも非現実的であります。武装どころか、団体交渉椎もストライキ権もない一般公務員でも、簡単に整理することは許されないし、できません。ましてや、相手は武装集国です。われわれの政権が、まずやらなければならないのは、正しい人事と、正しい教育です。これらを通じて、われわれの考え方なり政策なりを完全に理解させ、協力態勢をとらせることからはじめなければならないのです。
藤原彰氏は、「クーデターと軍隊」(朝日ジャーナル、1961年12月24日号)において、「軍隊に対する民主的な統制が、決定的な瞬間においても、尚且つ可能かどうかは、主として幹部や兵員の政治意識にかかっているといってもよい」と指摘し、つぎのように説いています。
「自衛隊の隊員に対する教育方針が、政治意識の低い、命令への忠実な服従者の養成にあるのは、旧軍隊の場合と同様な徴候といわなければならない」「自衛隊内の民主化、隊員の政治意識の向上こそ、何よりも民主主義的防衛のための保障であろう」
まったく同感であります。これこそ、シビリアン・コントロールの要諦であり、われわれが特に心すべきことだと思うものです。
条件の第三は、われわれの政権が推進する、平和中立外交の進展度です。
いままで、保守党政権の下において、日米韓軍事同盟体制を基本に外交が行なわれてきたわけですから、近隣諸国との関係は必ずしも友好的とはいえないわけです。朝鮮民主主義人民共和国との間には国交すらないという状況をそのままにしておいて、自衛隊の解消に手をつけるといっても、国民は納得しないでありましょう。
したがって、まずわれわれの政権は、ソ連との平和条約締結をめざした関係の修復、朝鮮の統一に寄与するかたちの朝鮮民主主義人民共和国との国交回復に努めなければなりません。また、日米安保条約の廃棄とこれに代わる日米平和友好条約の締結、自らの中立宣言と非武装宣言の上に立って、日本の中立と不可侵を保障する米中ソ朝等関係諸国と、個別的ないし集団的平和保障体制を確立することほ努めなければならないのです。
その他、アジア・太平洋非武装地帯の設置、さらに進んで東西両陣営の対時する全地域に、非同盟中立の一大ベルト地帯を設定するというような、雄大な構想を実現させたいと思っています。
これらの諸政策がどこまで具体化し、各国とくに近隣の口々との友好関係がどこまで確立したか、そのような進展状況を勘案しながら、縮小に手をつける必要があると思います。
以上三つの条件が充たされるなかで、われわれは、はじめて第四の条件である、国民世論の支持をも得ることができるのだと思うのです。
なお、いま一つの問題は、平和国土建設隊の創設であります。従来、ややともすると、われわれの政権は、自衛隊をそのまま平和国上建設隊に切り替えるような印象を与えてきました。しかし、われわれが考えているのはそうではないのです。高度の技術を駆使して、国上改造計画に基づく調査、建設、開発、あるいは救援活動、復旧作業に従事することを目的とした平和国土建設隊は、自衛隊とは全く別のものとして創設し、その隊員は主として一般から募集し、本人の希望によって、自衛隊からの配置転換をもはかるというようにしたいと思っています。
ところで、縮小される自衛隊の規模や装備は、どのような段階を経るのか、最終目標としての非武装に達するのには、どの程度の期間を必要とするのかという問題ですが、それはいずれも明確ではありません。四つの条件を勘案しながら縮減に努めるという以上、何年後にはどの程度、何年後にはゼロというように、機械的に進める案をつくるということは、明らかに矛盾することであるばかりか、それこそ現実的ではないのではないでしょうか。
重要なことは、どんなに困難であろうと、非武装を現実のものとする目標を見失うことなく、確実に前進を続ける努力だということです。
なお、将来の展望としては、各国の安全保障を、あげて国連の手にゆだねることが最も望ましいことであるという私の意見を述べておきたいと思います。国連が(名称は別のものになるとしても)加盟各国の主権の大きな部分を分け持つ、新たな国際的権威として確立したあかつきには、公正な国際紛争処理機関として、強力な警察機能を持たせるべきだと思います。それは、世界の恒久的平和を念願し、人類の生存をかけて、自らは非武装たることを宣言した日本国憲法にとっては、本来不可分の前提であるはずであります。
最後に、現在のように、軍事大国へ軍国主義へと、流れの逆巻く時だけに、われわれは「憲法擁護」「非武装中立」の旗印をさらに一層高く掲げて進まなければならないのだということを強調したいと思います。それはこの旗印の下に結実したわれわれの力だけが、いまや唯一の障壁となっているのだという自覚に基づくものであります。
一般論として、もし軍事力の質量両面にわたる増強にブレーキをかける条件があるとするならば、それはまず第一に財政経済上の制約であり、第二は科学技術上の制約、そして第三は国民感情・世論による制約のみであります。ところで、現在の日本では、すでに第一、第二の制約はほとんどなくなりつつあると言ってよいのではないかと思います。現に「自由陣営」第二の国民総生産という宣伝は相当程度に徹底しており、国土、面積、人口、経済力などはほぼイギリス、フランス、西ドイツと同等という口の裏には、これらの国が国民総生産の3〜4%の防衛費を支出している以上、日本もその程度のものを負担できないはずはないという気持が、隠されていることも否定できないのです。技術水準の面でも、原爆を造ろうと思えばいつでも造り得る能力を持っていると呼号していることは、すでに大方の知るところでありますし、ロケットもまた、内之浦の東大宇宙研が人工衛星の打ち上げに成功した時点から、日本が国産の長距離ミサイルの製造に成功したことになることを忘れてはなりません。
このように見ていくならば、いまや残された唯一の制約は、国民感情・世論以外にはないということになるのです。この第三の制約を制度化したものこそが、いわゆるシビリアン・コントロ−ル(政治による軍事支配)でありますが、日本のように未だ民主主義そのものが十分に根づいていない国にあっては、制度だけでは効果を期待できないことはいうまでもありません。
いままで、曲りなりにも軍事費の増大、軍事力の増強に一定の歯どめをかけることができたのは、それはほぼ完備しているともいえるシビリアン・コントールの制度によるものではなく、自衛隊違憲論をふりかざし、非武装中立の旗をおし立て、大手を広げて彼らの前に立ちはだかってきた、日本社会党を先頭とする護憲勢力の力にほかならないのであります。
だからこそ、いま、再軍備論者、防衛力増強論者たちが、最後の障害物を取り払うために、社会党にたいし集中的に攻撃を加えてきているのです。民社党・公明党はもちろん、日本共産党までが、一定の条件の下における武装の必要性を強調し、彼らに絶好の口実を与えてしまった感のある現在、われわれまでが、どうして、いわゆる「ものわかりのよい態度」をとることができるでありましょう。われわれまでがそのような態度をとったならば、社会党の憲法擁護・非武装中立の旗の下に結集し、急テンポで進められようとする軍備の強化、軍国主義復活を食い止めるためのトリデを築いてきた多くの人たちは、その拠り所を失い、唯一最後の制約となっている国民感情そのものが、ナダレを打って崩壊することは火を見るよりも明らかです。どうしても非武装中立の旗を降ろすことができない最大の理由はそこにあるのです。
非武装中立政策は非現実的であるという誹謗は、これから先もますます大きくなることはあっても、決して弱まることはないでありましょう。しかし、われわれは、このような誹謗中傷に絶対に屈することなく、今こそ使命感を新たにし、この旗印に絶対の自信を持って進まなければならないのです。