何故社会主義か

アルバート・アインシュタイン

アメリカの左翼月刊誌 Monthly Review の創刊号に1949年に掲載されたもので,日本物理学会の中のサークル誌「科学・社会・人間」94号(2005年9月10日発行)掲載の日本語訳を転載します.原文はこちらです.転載を許可いただいた同誌編集部にお礼申し上げます.

原文はこちらワード文書

 経済や社会の問題についてのエクスパートでない人物が社会主義といった主題について意見を述べていいものであろうか。いくつかの理由によって、私はそうだと信じている。
 まず最初に、科学的な知識という観点から問題を考えてみよう。天文学と経済学との間で、研究方法に基本的な違いはないと思われる。どちらの分野でも、研究者はある範囲の現象の相互関係ができるだけはっきりと理解できるように、一般的に受け入れられるような法則を発見しようとする。しかし実際には、方法的な違いが存在している。経済学の分野では、経済的な現象に影響している沢山の因子を分離して評価することが非常に難しいという事実のために、一般的な法則の発見は非常に難しい。さらに、いわゆる人類史の文明時代の開始以来蓄積されてきた経験は、よく知られているように、必ずしも経済的な性格のものではない原因によって影響され、制限されている。例えば、歴史における主要な時代は、大抵征服によってつくられた。征服した人々は、そこで自分たちを法的・経済的に特権的な階級として確立した。彼らは土地の所有権を独占し、同じ階級から聖職者を指名した。聖職者は、教育に関わることによって階級を固定化し、人々の社会的な行動を、多くの場合意識されることなしに、規定するような価値基準を作り出した。
 しかし歴史的な伝統は、いってみれば、過去の話である。われわれは、ソースタイン・ヴェブレンが人類史上「略奪期」と呼んでいるものを克服できていない。われわれが目にする経済的な事実は「略奪期」に属しており、これらの事実からわれわれが引き出す諸法則は、他の時代には適用できない。社会主義の本来の目的は正に「略奪期」を克服して人類史上に新しい時代を創る事にあるのだから、現在の経済学が未来の社会主義社会についていえることはほとんどない。
 第二に、社会主義は社会−倫理的な目標に向かう。しかし科学には、目標を作ったり教えたりすることはできない。科学にできるのはせいぜいのところ、ある目標を達成するのにはどうしたらよいかを示すことでしかない。目標それ自体は、崇高な倫理的理想を持った個性によって考え出される。そして − その目標が生まれたときから死んでいたりせず、生きて活力を持っているならば − 半ば無意識的に社会を進歩させようと決心している多くの人間たちに選び取られ、前に進められる。
 このような理由から、人間の問題に対する科学と科学的方法の役割を過大評価すべきではない。そして、社会の組織に関する問題については専門家だけが発言する資格がある、などと考えてはならない。
 人間社会は現在非常に安定性を欠いていて、危機にある、と断言する人が多い。このような状況では、個々人はその属するグループ(小さくとも大きくとも)に対して無関心、あるいは敵対的になりがちである。個人的な経験を書かせて頂くが、私は最近知性的で育ちの良い人と次の戦争について議論をした。私は、もう一度戦争が起きたら人類の生存自体が非常に脅かされるので、現在の国家を超えた機関を作ってそのような危険を避けなければならない、と述べた。それに対して相手は、とても穏やかに冷静に、「どうしてそんなに人類の消滅に反対なさるのですか」といった。
 たった一世紀前には、こんな事をあっさりという人は確かにいなかった。こんな事をいう人は、自分を安定に保つために努力をして失敗し、その希望を持てなくなったのだ。これは、現在多くの人々が苦しんでいる孤独と孤立の表現なのである。その原因は何で、どう打開したらいいのだろうか。
 このような問題を提出するのは簡単だが、多少とも確信を持って答えるのは難しい。しかし私は、われわれの感覚と努力はしばしば矛盾し明瞭さを欠いていて、易しく簡単に表現はできないことを認識しているけれども、できるだけのことをしてみよう。

 人間は孤独な存在であり、また同時に社会的な存在である。孤独な存在として人間は、個人的な欲望を満たし生得の能力を発展させるために、自分自身と身近な人々の生存を守ろうとする。社会的な存在としては、仲間である人間たちと楽しみを共にし、悲しんでいる時には慰め、また生活条件を良くし、人々に認識され好意を持たれようとする。このようなさまざまな、しばしば互いに矛盾する努力の存在こそが、ある人物に固有の性格を与え、また各個人がどれほど精神の平衡を得、社会の良きあり方に寄与するかが決まる。その人がこの二方向のどちらにどれほど努力するかは主として遺伝的に決まっている、というのはありそうなことだ。しかし最終的にできあがる個性は、自己形成の際の環境、その人の育った社会の構造、その社会の伝統、どのような行動が評価されるかによるところが大きい。「社会」という抽象的な概念は個々人にとって、現在を共に生きている人々や前の世代の人々との直接的・間接的な関係全体を意味している。それぞれの人間は自分で考え、感じ、努力し、働くことができるけれども、物理的・精神的・感情的な生活において非常に多くを社会に負っているので、社会の枠組みの離れてその人を考え、理解することは不可能である。食糧・衣服・住処・働くときの道具・言葉・考えの進め方や思想の内容の大部分を人間に与えるのは「社会」である。生活は、「社会」という短い言葉に隠れている何百万もの過去と現在の人間たちの労働とその成果によって、初めて可能になっているのだ。
 だから、人間が社会に依存しているというのは蟻や蜂と同様に自然界の事実であって、止めるわけにはいかない、ということは明らかである。しかし、蟻や蜂の生活過程が全て、遺伝的本能で細部にわたるまでがっちりと決められているのに対して、人間の社会的様式や関係は変化することができる。記憶・新しい行動様式の可能性・会話による意見の交換などが、生物としての必要性に決定されてしまわない人類の発展を可能にした。この発展は、伝統・公共機関・文書・理学や工学の成果・芸術作品に明らかである。これを見れば、人間は自分の行動によって、ある意味で生き方を変える事ができる。そこでは、意識的な思考と足りないことの認識とが重要である。
 人は生まれたときに、遺伝によって生物的な組織を受け継ぐが、種としてのヒトの特徴である自然の衝動を含めて、それは固定的で変更できないと考えざるを得ない。さらにその生涯を通じて、社会からの情報その他の影響を通じて文化的な体質を受け継ぐ。時と共に変化しながら個人と社会との関係を強く規定するのは、この文化的な体質である。近代の文化人類学がいわゆる原始文化の比較研究によって述べるところによれば、人間の社会的行動はそこで主流である文化様式と社会で主要な組織の型によって非常に変化しうる。生活環境を良くしようとして努力する多くの人たちは、希望の根拠をこの点に置いている。人はその生物的な組織によって互いに殺し合うように運命づけられているわけではないし、負わされた残酷な運命のなすがままであるわけでもない。
 人間の生活をできるだけ満足のいくように、社会と人々の文化的な姿勢をどう変えなければいけないか、という問題を考えるならば、われわれには変えることのできない条件が課せられている、という事実をいつも意識していなければならない。前に述べたように、ヒトの生物的な性質は、実際的な目的に対してはいつも、変えられはしない。さらに、ここ数世紀の技術的な発展と人口の増加は、作り出された与件である。人口密度の高い地域で生活のために必要不可欠な商品を生産するためには、極端な分業と高度に集中した生産組織が絶対的に必要である。個人あるいは比較的少数のグループが完全に自給してやっていけるような ― 見返ると全く田園詩的な時代 は、永久に去ったのである。人類は既に地球全体に亘る生産と消費のコミュニティを造りあげてしまった、というのは誇張ではない。
 現代の危機の核心を構成していると私が考える事を、簡単に述べておこう。それは、個人と社会の関係にかかわっている。各個人は、以前よりもずっと、自分が社会に依存していることを意識するようになった。しかしその依存の内容は、有機的な連帯や危険から守る力といったポジティブなものではなく、本来備わっている権利や経済的な生存をすら脅かすものと考えられている。さらに、その社会の中の位置は利己的な部分にますます力点が置かれ、元々弱い社会との連帯はますます弱められる。人間はみんな、社会の中の地位にかかわらず、社会との連帯が弱まりつつあることに苦しんでいる。気がつかないまま自分のエゴティズムに囚われて、人々は不安を感じ、孤独であり、ナイーブで簡単で持って回った様なものでない生活の楽しみを奪われている、と感じている。人間は、社会との関係に置いてのみ、短くて危険であるその生涯の意味を知ることができるのだ。
 私の意見では、今日の資本主義社会の経済的なアナーキーが悪の根元である。われわれの前には巨大な生産者の集団があって、その構成員は休むことなく ― 暴力的にではなく、法的に確立されているルールに概して忠実に従いながら ― 全体の労働の成果を互いに奪い合っている。この点から見ると、生産手段 ― つまり、消費財と余剰資本を生産するのに必要な全容量 ― が、法的にもまた大体において実際にも、各個人の私有財産である、ということが重要である。
 簡単のために、以下の議論で私は「労働者」という言葉を ― 慣用とは少し違うけれども、生産手段を持っていない人という意味で使う。生産手段の所有者は、労働者の労働力を購入する。生産手段を用いて労働者は新しい財を生産し、それは資本家の所有となる。この過程の基本的なところは、両方を本当の価値で考えたときに、労働者が生産するものと彼が支払われるものとの関係にある。労働契約が「自由」である限り、労働者が受け取るものは彼の生産した財の本当の価値で決まるのではなく、彼にとっての最小限の必要と、資本家からの労働力の需要とその仕事に就きたいという労働者の人数との関係で決まる。理論的にも、労賃がその労働者の生産するものの価値で決まるのではない、ということを理解することは重要である。
 私的資本は集約されて、寡占状態に向かう。それは一つには資本家の間の競争により、また一つには技術的な発展と分業の増大が、小企業を犠牲にしながら生産単位を大きくするほうが有利であることによる。この過程の結果、寡占状態の私的資本の力は著しく増大して、民主的に組織された政治的な環境においてもうまくチェックすることができなくなる。立法院の議員は政党が選択するが、その政党は私的資本から財政的その他の援助・影響を受けていて、一方私的資本には選挙民を立法院からなるべく隔離しておこうと考える実際的な理由がある。その結果、市民の代表は特権を持っていない人々の利益を十分には守らない。さらに現在の状況では、私的資本が主要な情報源(新聞・ラジオ・教育)を直接・間接に操るということが不可避である。その結果、個々の市民が客観的な結論に達して、政治的な権利をうまく使うということは非常に難しく、多くの場合に全く不可能である。
 こういうわけで、資本の私的所有に基づく経済社会で一般的な状況は、二つの主要な原則で特徴づけられる。第一に、生産手段(資本)が私的に所有されており、所有者はそれを勝手に使う。第二に、労働契約は自由である。もちろん、この意味で純粋な資本主義社会などというものは存在しない。特に、労働者が長く過酷な政治的闘争によって、あるカテゴリーにおいては「自由な労働契約」を改善された形に確保することに成功した、ということに注意すべきである。しかし全体としていえば、現在の経済は「純粋の」資本主義とそれほど違ってはいない。
 生産は、使うためではなく利益を上げるために行われる。働く能力と意思のある者が全て、いつも職を見つけられるという保障はない。「失業者軍」はいつも存在しており、労働者は職を失う危険にさらされている。失業者・給与の十分でない労働者は利益の上がる市場を作らないから、消費財の生産には限界があり、その結果大きな困難が生じる。技術的な進歩はしばしば、全ての人の仕事を楽にするよりも、失業者を増やしてしまう。利潤のためという動機は、資本家同士の競争と共に、資本の蓄積と使用に不安定をもたらし、不況が深刻化することになる。制限のない競争は労働の巨大な浪費と、既に述べたような個々人の社会的意識の麻痺をもたらしている。
 人々の社会的意識の麻痺は、資本主義の一番の害悪だと私は思う。われわれの全教育システムは、この害を被っている。過度に競争的な態度が学生に叩き込まれ、学生はその将来のキャリアの準備として、欲深い成功を崇拝するように訓練される。
 私は、このような深刻な害を取り除くためには一つしか道はないと確信している。すなわち社会主義経済と社会の目標に向けた教育システムの確立である。生産手段は社会それ自体によって保有され、計画的に用いられる。社会の必要にあわせて生産する計画経済では仕事は能力のある全ての人々に分配され、全ての男・女・子供に生計のたつきを保証するだろう。教育は、各人が生まれつき持っている能力を花開かせるだけでなく、現在の社会が権力と成功に置いている栄光の代わりに、仲間たちへの責任感のセンスを育てようとするだろう。
 とはいっても、計画経済は社会主義ではないことを思い出す必要がある。計画経済は、個人の完全な奴隷化を伴うかも知れない。社会主義を実現するためには、非常に難しい社会―政治的な問題を解決しなければならない。 政治的・経済的な権力の極端な中央集中を考えて、官僚が全ての権力を収めて独善的になるのを防ぐことができるか。個人の権利をいかに守り、それによって官僚の権力に対する民主的なバランスを保つことができるか。
 社会主義の目的と問題についての透明性は、この転換期において最も重要なことである。これらの問題についての自由で忌憚のない議論がタブーになりつつある現在の状況下で、この雑誌(Monthly Review)の創刊は社会的に重要なことだ、と私は考えている。