読売新聞6月10日全面広告 テキスト

「国立大学法人法案」の廃案を訴えます!

国民の皆さん
現在国会で審議中の国立大学法人法案は、
短期的な知の果実を強引に摘み取ろうとして、
日本社会の再生に必要な国立大学という
全国97本の大切な樹を枯らすものです。

● この法案は人材と知識の効率的生産を急ぐ余り、文部科学省による全国の国立大学の集中的コントロールという時代錯誤の方法を導入しようとするものです。それは創造的な人材と知識を生み出すために最も大切な自発性と創造的精神を大学から奪うものです。

● いま日本の大学は、高等教育と研究の質においてこそ互いに競い合い、高め合わなければならない時です。しかしこの法案とその背景にある文部科学省の「遠山プラン」は、国立大学を書類上の数合わせと見当違いな生き残り競争に駆り立て、根本から疲弊させようとしています。

● この法案は、国立大学を誤った方向に導くだけではありません。国立大学を強引に中央省庁の天下り先にすることによって、大混乱に陥れようとしています。

● 日本社会再生の起点となるために、国立大学自身が大きく生まれ変わらなければなりません。

しかし今必要な変化は、各大学、そして各教員の自発性に基づくことによってのみ可能です。それは、上からの強制によって生み出せるものではありません。

法案にはこれだけの問題があります

1.大学が官僚=国の統制下におかれ、学問の自由がそこなわれます。
「法案」は国立大学の「独立」「民営化」とは、全く関係がありません。

 国会で審議中の「国立大学法人法案」では、各大学の教育・研究をはじめとした一切の目標(「中期目標」と呼ばれています)が、「文部科学大臣が定める」ものとされています。各大学の自主性・独立性は全く認められていません。こんなことは、戦前にもなかったことでした。また「法案」では、その目標を達成するための措置・予算などのプラン(中期計画)も、文部科学省の「認可」事項となっています。「国立大学法人法案」は、中央省庁の「許認可権」をできるだけ縮小しようとする行財政改革の本来の理念に、全く逆行する法案です。

2.大学が高級官僚の天下り先となり、構造的腐敗の温床になりかねません。

 「法案」によれば、国立大学などに全国で500名を越す「理事・監事」などの「役員」が、新たに生まれます。この人達の給与に教育・研究・運営に必要な費用が回されて、結局国民の税金(「法人」への「交付金」)や学生納付金(授業料など)が使われます。しかも、決定権や認可権を中央省庁に握られた各大学は、いわゆる「中央との太いパイプ」を求めて、あたかも多くの特殊法人のように、学長を含めた理事などに天下り高級官僚を迎え始めるに違いありません。こんな高級官僚の人生設計のための仕組みが、どうして国立大学の改革になるのでしょうか。

3.学長の独裁をチェックする仕組みがありません。

 法案では、大学の学長の権限が強大です。学長は、各国立大学法人の内部の「学長選考会議」が選考します。ところが、この「学長選考会議」の委員の過半を、学長が決定することが可能です。つまり学長は、自分を含めた次の学長を決定することができるのです。これは独裁国家の仕組みと同じです。仮に学長が問題を引き起こしたとしても、大学の構成員や市民がそれをチェックすることはできません。

4.大学の財政基盤が不安定となり、授業料の大幅な値上げがもたらされます。

 財政基盤が不安定なまま、授業料などが各大学でまちまちになってしまいます。特に理科系の学部・学科を中心に、学生納付金(授業料・施設費など)の大幅な値上げが予想されます。地方の中小大学のように財政基盤の弱い大学では、特にそのことが顕著に現れます。今の国立大学の比較的低廉な学費が高騰したら、「教育の機会均等」の理念は一体どこへ行ってしまうでしょう。

5.お金儲け目当ての研究が優先され、基礎的科学・人文社会科学の研究や学生の教育が切り捨てられてしまいます。

 学問・研究の成果は、長い目で見てゆくしか判断のできない性格を持っています。「法案」が定める「経営協議会」や「役員会」がトップダウン(上からの命令)で目前の成果をあおっても、真の成果は期待できないのです。また、現在の日本の学問・研究の水準は悪条件の下(高等教育・研究の関連予算は欧米諸国のGDP比の半分程度で、OECD加盟国中最低)にあっても、決して諸外国に見劣りするものではありません。おまけに大学評価に直結しにくい学生の教育面は、「法案」の成果主義では軽視されてしまいます。一部のプロジェクト研究にばかり予算をそそぎ込もうとする「法案」の考え方は、日本の学問・文化に百年の禍根を残します。

6.この「法案」は、「違法・脱法」行為を行わない限り、実施することが不可能な「欠陥法案」です。

 国立大学協会は、5月7日、「国立大学法人化特別委員会委員長」の名で、会員校に検討要請の文書を送付しました。驚いたことにその内容は、「労働基準法」「労働安全衛生法」などの届け出義務や罰則規定の適用について、「運用上の配慮」を関係行政庁にお願いしようというものです。「労働基準法」や「労働安全衛生法」は、会社・法人など、どのような事業所でも必ず守らなければならず、違反すれば使用者が刑事罰に処せられる刑罰法規です。立場の弱い「定員外職員」の人たちの失業問題も懸念されます。

 「法案」は、種々の違法・脱法行為が認められなければ、実施することができない「欠陥法案」なのです。


「国立大学法人法」用語解説 ―国立大学がどうなろうとしているのかわかります―(太字語は解説があります)

学校法人

私立学校法によって定められている法人(つまり団体)。私立学校(大学を含む)の設置を目的とする。学校法人の長とそれが設立する私立学校の長は本来異なる人物であることが望ましいが、実際には同一人物である場合もある。

国立大学法人

国立大学法人法(法人法と略す)により新たに定められる法人。国立大学の設置を目的とする。この法律によれば国立大学の長は必ずそれを設置する国立大学法人の長と同一人物でなければならない。学校法人と国立大学法人を比べると、この法律の特異さがわかる。

独立行政法人

行革の一環として造幣局、大学入試センター等のように業務が単純で数値的に評価できる国の機関の業務効率化のために導入された制度。数値化の難しい教育と創造的研究という目的を持つ大学にとっては、不向きな制度。現在の国立大学法人法案は、大学を造幣局のような組織とみなすという発想に基づいている。

中期目標

「独立行政法人通則法」に示されているコンセプト。各独立行政法人が3−5年の間に達成すべき目標を所轄大臣が定め、それを実行する計画を独立行政法人の長が中期計画として大臣に提出することになっている。法人法はこの制度を、期間を6年に延長するだけでそのまま大学に適用している。それは大学を文部科学省の子会社とみなすことを意味している。

国大協

国立大学協会の略称。形式的には全国の国立大学を会員とする組織だが、実質的には国立大学の学長からなる組織。1950年に戦前の大学と国家の関係に対する反省の上に立ち、学問の自由と大学の自治を守るという精神のもとに設立された。大学法人化問題では当初大学人としての立場から様々な要求を行っていたが、文部科学省をはじめとする中央官庁への妥協を繰り返した結果、法人法には多くの不満を持つにもかかわらず「ノー」と言う勇気を失い、大学を衰退させる張本人になりつつある。なお本日から国大協の定例総会が開かれるが、法人法について話し合わないことを国大協幹部は決めている。

遠山プラン

2001年6月に文科省が発表した国立大学改造計画。具体的な目標として「特許数を10年後に1500件に」とか「社会人キャリアアップ100万人計画」のように数字だけを並べ、高等教育の質に関する言及は皆無。大学の教育研究を数値化してとらえようとする文科省の考え方を象徴している。

大学の設置者

学校教育法の定める制度。同法は教育機関の設置者は、その機関の教育条件の整備の経費負担義務を負うと定めている。法人法により国立大学の設置者は国から各大学法人に変わることになり、国は国立大学に対する財政的責任を負わなくてよくなる。各大学の学長は交付金の為に文科省の意に従わざるを得ない立場に自動的に追い込まれる仕組みになっている。

大学の自律性

文科省は法人法により大学の自律性が高まると言っている。しかし大学はこの法律によって経済的自立を強いられるに過ぎず(=設置者が国から大学法人にかわる)、教育研究の運営については今よりも文科省に従属する(=中期目標を文科大臣が定める)。これは世界でも希な制度。

役員会

法人法において、大学の運営上最も大きな権限を持つ組織。学長と学長が任命する理事から構成される。2002年3月の法案最終報告で「理事」は「副学長」と呼ばれ、明確な役割が定められていたが、法案の作成過程で、中央省庁の圧力によって「理事」という曖昧な存在に置き換えられた経緯がある。全国で400以上の理事ポストが法人法により創出される。「理事」という曖昧な名は天下り先として最適。なお各大学の理事定員数が、法人法「別表1」という人目につきにくい箇所で定められている。

評価委員会

法人法が、各国立大学の業務実績を評価する組織として定めている委員会。文部科学省の内部に設置される。通則法は、評価委員会の評価に基づき文科大臣が各大学の「組織と業務全般を検討し必要な措置を講ずる」としており、大学の運営費交付金は評価委員会の評価に応じて配分されることになる。文科省や国大協は評価委員の評価を「第三者評価」と呼ぶが、これは日本語の誤用。本来の第三者評価とは、専門誌、シンクタンク、マスコミ、高校教育関係者、予備校など、大学自身とも政府とも違った独立の第三者による評価のこと。

非公務員化

法人法による大きな変化の一つが大学教職員の非公務員化。その結果新たに労働基準法や労働安全衛生法が国立大学に適用されることになるが、国立大学の研究室の相当数がこれらの法規の定める基準を満たしておらず、法人法が実施される来年4月には大半の国立大学が違法状態に置かれることがほぼ確実視されている。この問題はなお国会で審議中。国大協は、これらの法規の適用に関する「配慮」を関係省庁に要請する文書を5月初旬に各大学に配布したが、それが違法行為の黙認要請であることに気づき、文書を修正しようと試みている。


池内 了(名古屋大学 大学院理学研究科)

 自然科学の研究は未知のものを相手にしている。それだけに、どのような成果がでるかはわからないまま船出をする。幸運によって大発見につながる場合も、積み上げた労苦が報われない場合もある。それを予め知ることができないからこそ研究を続けているのかもしれない。しかし、法人化によって中期計画を組まねばならず、それに従っての研究は近視眼的な成果主義に追いやられるばかりで、大きな目標を掲げた研究は廃れてしまうだろう。また、そのような研究者によって育てられた若手は、さらに近場の成果主義に走ることが習い性になっていくだろう。10年、20年の単位で見たとき、基礎科学の地盤は浅くなり、本当の科学力を身につけた人材が払底してしまうことになりかねない。科学の成果は、金で買えるものではないし、ましてや研究者を成果主義に追いつめて得られるものでもない。法人化によって、大学が安手の論文生産工場と化し、視野の広い大きな夢を抱く研究者が消えていけば、日本はどのような国になるのだろうか、それを最も憂慮している。

井上ひさし(作 家)

 戦前戦中の、あのガチガチの国家主義の時代にも「大学の自治」がありました。それは東京帝国大学の例を見ても一目で判ります。大正一二年(一九二三)九月の関東大震災で全建物面積の三分の一を失ったとき、全教授と全助教授が投票で移転先を決めて、その結果を大蔵大臣に提出しました。ちなみに一位が近郊(陸軍代々木練兵場)で一五一票、二位が本郷居据りで一三一票、三位が郊外(三鷹)で一〇三票でした。つまり教授会にそれだけの力があったのです。もっとも近郊移転は陸軍省の猛反対で実現はしませんでしたが。

 大正八年(一九一九)には、それまで二十年間つづいていた優等生への恩賜の銀時計の下賜が、教師と学生たちの声で廃止されました。理由は、天皇が行幸になると、大学構内に警備のための警察官が大勢やってくる。そのこと自体が大学の自治を乱すからというものでした。

 このような例はまだまだありますが、紙幅がないのでもう一つだけ書きます。昭和二〇年(一九四五)六月、帝都防衛司令部が本郷キャンパスの使用を申し入れてきた。幕僚以下三〇〇〇人の兵士で、ここを使うというのです。当時の内田祥三総長は、「ここでは一日も欠かすことのできない教育研究を行っているのであり、自分たち学問の道を歩む者たちの死場所でもある。動くわけには行きません」と断わった。――ところがいま、一片の法律で、総長・学長を大臣が任命し、また解任できるという途方もないことが行われようとしています。そんなことになれば、「大学の自治」も「学問の自由」もただの画餅、戦前戦中よりもさらにひどいガチガチ国家主義の時代になってしまうのでしょうか。

櫻井よしこ(ジャーナリスト)

 国立大学法人化で、大学の教育・研究目標を六年単位で区切って中期目標とし、それを文部科学大臣が決めるようになるのだそうだ。

 全国でいずれ八七になる国立大学の教育・研究の中期的概要を決定する能力が、一体、文科大臣や文科官僚にあるのか。問うのさえ赤面の至りで、答えは明白だ。

 にも拘わらず、日本の大学教育・研究は、いまや彼らの狭量な支配の下に置かれようとしている。国費を投入するからには、国として責任をもたなければならないからだと遠山大臣は力説する。しかし、これまでも、今も、国立大学に国費は投入されてきた。それでも教育・研究目標を、政治や行政が決めるなどという愚かなことはかつてなかった。政治家も官僚も犯してはならない知の領域の重要性を辛うじて認識していたからである。

 それが今回の法人化議論でたがが外れ、世界に類例のない、政治と行政による学問の支配が法制化されようとしている。

 学問への支配は、大学の人事の支配によって更に息苦しいまでに強化される。法人化された大学では学長の任命権も解任権も文科大臣が握ることになる。生殺与奪の力を文科大臣に握られてしまえば、学長は文科省の意向に従わざるを得なくなり、大学の自立の精神は土台から揺らぐ。理事の数まで、大学毎にこと細かに法律によって決められてしまう制度のなかで、大学の自由裁量は絶望的に損なわれていく。文科省の顔色を忖度しながら行われている現在の大学運営は、法人化以降は更に蝕まれ、文科省の指導に決定的に隷属する形で行われるようになるだろう。

 大学の自主自立と独創性を高め、学問を深めると説明された国立大学法人化は、その建前とは裏腹に、自主自立と独創性を大学から奪い取り、大学教育と学問を殺してしまうだろう。

 経済政策で間違っても、産業政策で間違っても、やり直しは可能だ。しかし教育政策における間違いは決してやり直しがきかない。日本の未来の可能性を喰い潰してしまうこの大学法人化に、心から反対する所以である。

田中弘允(前鹿児島大学学長 医学博士)

 私は、国立大の独法化に反対です。独法化は、大学を官僚統制と市場原理という二重のくびきの下に置き、学間の自由な展開を阻害し、財源の確保の為に企業化するからです。これは、将来のための多様な知の形成と創造力ある人材の育成という大学の本質的な役割の遂行を阻害します。

 私達国民は、本来の社会的公共的使命を達成するにふさわしい自由闊達な大学を、社会的共通資本として育てなければならないと思います。

 本法案は、それとは正反対の方向を目指しています。後世に大きな付けを残してはなりません。

 選良の皆様一人ひとりに、未来を見据えた長期的視点と世界や日本全体を視野に入れた大所高所からの思慮深い判断が、いま国民から期待されています。

間宮陽介(京都大学 大学院 人間・環境学研究科)

 国立大学の独立行政法人化を実現させようとしている政党、文科省、国立大学協会の方々は、ほんとうにこの「改革」が学問・研究の自由度を高め、その水準を飛躍的に向上させると信じているのだろうか。私はいまだ彼ら諸氏の口から納得のいく説明を聞いたことがない。大学間の競争を高める?そうかもしれない。しかしそのとき、大学を超えた研究者の協働はかえって損なわれるであろう。学問・研究上の競争とは理論や学説をめぐる競争であって、大学間のビジネス競争とはなんの関係もない。

 彼らは、独立行政法人化の効能を信じているというより、信じようと必死につとめているように見える。法人化に最初は反対した国大協は、バスの発車が不可避と見るや、バスに乗り遅れることをおそれ、法人化がもたらす利益の分け前に与ろうと必死になっている。

 大学は自らをもっと外に開いていかなければならない。大学人は自己保身に汲々としてはならない。国立大学の法人化はこのようなもっともな批判に応えるように見えて、そのじつは大学を内に閉ざす。対外的な広報活動は活発になるだろうが、開放的なのは外見のみである。

 われわれ大学人に求められているのは、「バスに乗り遅れるな」ではなく、バスを発車させないことである。そのうえで、真摯に自己改革につとめていくことである。

リチャード・ゴンブリッチ Richard Gombrich (オックスフォード大学ベイリオル・カレッジ教授 サンスクリット学、仏教哲学)

 日本の真の友人たちと同様、学問の自由に影響を及ぼすようなやり方で国立大学を「改革」するという政府の提案には、私も失望しています。官僚や政治家に学問的、知的活動を支配する権力を与えるこのような動きは、悲惨な結果をもたらし得るだけであることを、歴史は繰り返し示しています。