国立大学独立行政法人化の諸問題
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「国立大学法人法」批判要綱
ー全国民が反対すべき理由ー

鬼界彰夫(筑波大学)

2003.5.5

1.「国立大学法人法」に向き合い、批判しよう
2. 法案批判の前に−大学運営と学長に関する基礎的知識
3.「法人法」批判その1−「理事」
4.「法人法」批判その2−学長の選出方法
5.「法人法」批判その3−「評価委員会」

1.「国立大学法人法」に向き合い、批判しよう

私は先日「国立大学法人法」全文を初めて通読しました。全23ページの「法 案要綱」ではなく、全75ページの法案本体です。その結果、この法案の日本 の社会と大学に対する有害性と危険性を痛感し、これは必ず廃案にしなければ ならないという認識に達しました。同時に私は、この法案の出発点そのものは 決して一部のグループや階級の利己的な策動ではなく、明確な社会的要請を根 拠とするものであり、それゆえこの法案を批判し廃案に追い込むためにはその 内容の正確な理解と条文の内在的な批判が必要であるのに、現在の反対運動は この点不十分であり、思わぬ形で足をすくわれるのではないかと危惧していま す。具体的には次のようなことです。「国立大学法人法」(以下「法人法」と 呼ぶ)第一条と第三条は次のように述べています(括弧内のページ数は文科省 ホームページからダウンロードした「法人法」全文のものです)。 第1条 この法律は、大学の教育研究に対する国民の要請にこたえるとともに、 我が国の高等教育及び学術研究の水準の向上と均衡ある発展を図るため、国立 大学を設置して教育研究を行う国立大学法人の組織及び運営・・・について定 めることを目的とする。(p.2) 第3条 国は、この法律の運用に当たっては、国立大学における教育研究の特 性に常に配慮しなければならない。(p.4)  「法人法」全体を「悪法」として一蹴しようとしたり、それが「財界主導の大 学」を目指すものであると批判しようとするなら、必ずやこれらの条文が反論 として提示されるでしょう。法案に反対するいかなる人であれ、ここで示され ている「大学の教育研究に対する国民の要請にこたえること」と「我が国の高 等教育及び学術研究の水準の向上」という大目的を批判したり否定したりでき るとは考えられません。もちろんそれは抽象的に表現され、様々な解釈が可能 なものではあります。しかし第3条は他の教育研究機関に対する国立大学の固 有の機能を認めていますから、大学の根本機構に関する法律の目的の記述とし てこれで十分なのは明らかでしょう。もし「法人法」自身が(常識的な解釈下 での)これらの条文が掲げる目的を実現しうるような内容のものであれば、我々 大学人がそれに反対する理由はほとんどなくなります。従って「法人法」の批 判とは、法案の具体的内容・条文がこの第一条・第三条の精神を大きく裏切る ものであることを示すものでなければなりません。以下においてそのことを私 なりに示したいと思います。 本題に入る前に、もう一つだけ予備的コメントを述べたいと思います。第一条 に示されているように「法人法」は明らかに、現在の国立大学が大学に対する 国民の要請に十分にこたえていない、という重大な現実を立脚点としています。 この現実は否定できないものであり、我々大学人も日本社会の一部を構成する ものとしてこの現実に直面し、そこから出発しなければなりません。それが意 味するのは、現行の国立大学を損なうから、という理由で「法人法」を批判す ることは、決して説得力を持たないということです。現行の国立大学(あるい は「大学の自治」や「学問の自由」)を守れという呼びかけは、「法人法」の 批判としては大きな力を持たないだろうことを我々は認識する必要があります。 この意味で国立大学はすでに大阪冬の陣にある、といってもよいでしょう。確 かに外堀はまだ完全には埋められてはいないかも知れません。しかし篭城戦に もはや勝機はないのです。勇気を持ち自ら討って出て敵の弱点を撃破すること、 日本の大学の明日はそこにしか開けないのです。

2.法案批判の前に−大学運営と学長に関する基礎的知識

「法人法」批判の第一歩はその内容の正確な把握です。「法人法」は法人とし ての国立大学の組織とその運営方法を定めるものですから、「法人法」を理解 するとは組織と運営に関してそれがどのような大学像を構想しているかを把握 することです。そして大学の組織と運営に関するある構想の本質は、大学とい う組織の運営最高責任者としての学長の機能と権限をどのように規定し、大学 とそれに関連する諸組織と学長の関係をどう規定するかにあります。すなわち 大学の運営構想とは (A) 学長にどのような権限を与え、それを行使するためにどのような機構を 設けるのか (B) そうした権限のもとで学長が行う大学の運営を誰がどのように評価し、 チェックするのか によって決定されます。そして学長の運営行為のチェックには、学長の任期が 切れたとき留任させるかどうかを決定することによるチェックと、運営の業務 に他の人物や組織が介入・干渉することによるチェックの2種類ありますから の(B)には次の二つが含まれます。 (B1)学長を誰がどのように選出するのか (B2)学長の運営に対して誰がどのような判断に基づいて介入・干渉する権限 を持つのか つまり大学の運営構想とは(A)大学運営に関する学長の権限とそれを行使す る機構、(B1)学長の選出方法、(B2)学長の運営業務への介入と干渉の規定、 によって決定されます。「法人法」が意図する大学運営構想もこの三点を理解 することにより明らかとなります。そして「法人法」の批判は、これら3点の それぞれについて「法人法」が規定する運営方法が、「大学の教育研究に対す る国民の要請にこたえること」と「我が国の高等教育と学術研究の水準の向上」 という「法人法」自身が掲げる目的達成のための適切な手段であるかどうかに のみ基づいてなされなければなりません。例えば(A)に関していえば様々な 運営方法が考えられます。ある方法は学長に権限を集中させ、別の方法は各部 局に権限を分散させようとするでしょう。しかしそれらについて、「学長に権 限が集中している」ことを理由にあたかもそれが独裁制であるかのように批判 することはナンセンスです。それは米国の大統領に権限が集中しているからと いって、米国が独裁国家であるというのと同じです。組織の長に権限が集中し ていても、その行使に関する適切な独立のチェック機構が存在すれば組織は十 分に目的を達成できるのです。以下これら3点に関して「法人法」の構想を 「法人法」自身が掲げる上記の目的に照らして評価してゆくことにしましょう。 その過程で明らかになるのは、いずれの点に関してもこの法案が自らの目的を 裏切るものであり、羊頭狗肉の詐欺まがいの許しがたいものであるということ です。

3.「法人法」批判その1−「理事」

「法人法」は「役員会」(第十一条)、「経営協議会」(第二十条)、「教育 研究評議会」(第二十一条)という三つの組織を通じて学長が大学を運営する という構想に立脚しています。役員会は各国立大学の予算作成、予算執行、決 算、学部・学科の設置・廃止、等、大学にとっての最重要事項を審議、決定す る組織です。経営協議会は各国立大学法人(各国立大学の設置者)の経営の重 要事項を審議する組織であり、例えば大学の職員・役員の給与水準を決定した りします。これは国立大学の法人化によってはじめて登場する新しい組織です。 教育研究評議会は教員人事や教育課程等、各国立大学の教育研究に関する重要 事項を審議する組織であり、現行の国立大学にも対応する組織が存在する、い わば我々になじみのある組織です。 「法人法」下で学長が大学運営に関して持つ権限は、これら三組織の構成員に 対する任命権という形で表現されますが、それは現行の学長制度とは比較にな らないくらい大きなものです。先ず役員会は学長と学長が任命する理事から構 成されます(第十一条、第十三条)。つまり役員会とは学長の意を体現する組 織であり、学長の内閣に相当します。このように「法人法」下では、例えば、 大学の予算は学長と学長が任命した理事が決定することになりますが、ここで 我々が立ち止まって考慮しなければならないのは、こうした強大な権限を使い こなし、大学をよき方向へと導く能力を持った人材が果たして現在我が国の大 学に存在するのか、ということです。学長という仕事が単に経営手腕を持つだ けでは勤まらないことは明らかです。自身が大学における教育研究の経験と知 識を持ち、しかも巨大な権限をこなす経営手腕とリーダーシップを持った人材、 「法人法」が学長として要求しているのはそうした人材です。日本にそんな人 材が現在存在するでしょうか(早急に育成しなければならないことは明白です が)。もしそうした人材が十分にいない場合、制度が学長に与える巨大な権限 を使いこなす人材がいない状態でそうした制度を立ち上げることになります。 その場合、起こり得る事態は二つです。大学の混乱、または、学長の傀儡化と 文科省官僚による大学支配、です。どちらも同じくらい望ましくありません。 この点について我々は極めて現実的に考える必要があります。もし「法人法」 が成立すれば、それは今年10月1日から施行されます(附則第一条、p.39)。 そして附則第二条はこの日に各大学の学長である人物が各国立大学法人の学長 となると定めています。これが意味するのは、もしあなたの大学で今と10月 1日の間に学長選挙が予定されていないなら、現在学長を務める人物がそのま ま大学法人の学長として一夜にして巨大な権限を手にするということです。し かし現行の学長は、あくまでも現行制度化での学長として選ばれたのであり、 上述の大きな権限を委託すべき人として選ばれたのではありません。「法人法」 が成立すると各大学でどんなことが起こるのかを具体的に想像した上で、我々 はこの法案に対する態度を決定する必要があるのです。 「法人法」下での学長が権限を行使する機関的組織に話を戻しましょう。経営 協議会は学長、理事に加え、学外から学長が教育研究評議会の意見を聞いて任 命する委員から構成されます(第二十条)。従って役員会ほどではないものの、 経営協議会も基本的に学長の意を体現する組織です。それに対して教育研究評 議会は学長、理事に加え各部局の長から構成され、大学の各組織の意向をくみ 上げるという色彩の強いものです(第二十一条)。このように「法人法」は学 長に巨大な権限を与えるのですが、学長がそれを行使し大学を運営する上で学 長の閣僚として機能すべき重要な役割を担い、これら三組織のすべての構成員 となるのが「理事」です。従って(仮に学長の人材がいるとして)学長の権限 とその行使機構という側面に関する「法人法」の評価のポイントは、理事とい う存在がどのように規定されていて、それが学長による大学の効果的運営にど のように役立つかです。この点に関して「法人法」には極めて重大な問題があ ります。というのも、学長を中心とする「法人法」の大学運営構想と「法人法」 による理事の規定に全く整合性がないのです。具体的に見てみましょう。「法 人法」は理事の役割を次のように規定しています。 第十一条第三項 理事は、学長の定めるところにより、学長を補佐して国立大 学法人の業務を掌理し、学長に事故があるときはその職務を代理し、学長が欠 員の時はその職務を行う。(p.9) この規定と大学の組織の中での理事の上述の位置を合わせて考えるなら、理 事とは副学長に相当するものであると考えられます。こうした観点から理事と はどのように規定されるべきポストか、そして適正な理事のポスト数はどれく らいなのかを現実的に考えて見ましょう。すでに25年以上にわたって副学長 制度を採用している我が筑波大学の例が参考になるでしょう。筑波大学には、 教育担当、研究担当、学生生活担当、医療担当、総務担当、の五つの副学長職 が存在します。もし各国立大学が法人化され、教育と研究を目的とした独立の 組織として運営され、それが学長を中心とする内閣的な組織によってなされる のだとすれば、そして閣僚に相当するのが理事であるのならば、大学の規模や 性格(総合か単科か)によらず、教育担当、研究担当、学生生活担当の三理事 はどうしても必要です。加えて法人化により大学は財政的に独立し、給与水準 や授業料の決定権や起債の権限などを手にします。従って大学の財政は長期的・ 総合的な財務計画によってのみ運営可能となるわけで、財務担当の理事がどう しても必要となるでしょう。これら以外にも大学には広報、渉外、入試、等様々 な全学的業務が存在します。仮にそれら全てを一つにするとしても総務担当の 理事1名がどうしても必要でしょう。従って大学を独立した法人として、内閣 的組織を通じて責任を持って運営するためには、総理に相当する学長には最低 5名の有能で信頼できる閣僚、すなわち理事が必要です。「総務」の業務を分 割するとすれば、6名と言う定員も論外ではないでしょう。もちろんこれら理 事は役員であり、その高額な報酬は大学会計から支出されますから、大学の財 務体質の健全化という観点から理事の定数は必要最小限に押さえなければなり ません。従って独立法人となった大学の理事の定員は5−6名が基本であると いってよいでしょう。これから大きく外れた定員数は無意味であり、理事の存 在意義を疑わせることになります。では「法人法」は一体どれだけの理事定員 を大学に割り当てているのでしょうか。ここで私達は驚くべき数字に遭遇する ことになります。   「法人法」第十条第二項は「各国立大学法人に、役員として、それぞれ別 表第一の第四欄に定める員数以内の理事を置く。」と述べています。そして法 案pp.66-74に示されている別表第一によると「法人法」によって法人となる8 9の国立大学の理事定員は次の通りです 定員8 筑波大学、神戸大学、九州大学、(計3大学) 定員7 北海道大学、東北大学、東京大学、名古屋大学、京都大学、大阪大学、 岡山大学、広島大学(計8大学) 定員6 千葉大学、新潟大学、金沢大学、福井大学、山梨大学、信州大学、島 根大学、香川大学、高知大学、佐賀大学、長崎大学、熊本大学、大分大学、宮 崎大学、鹿児島大学(計15大学) 定員5 弘前大学、秋田大学、山形大学、群馬大学、東京医科歯科大学、富山 医科薬科大学、岐阜大学、三重大学、鳥取大学、山口大学、徳島大学、愛媛大 学、琉球大学(計13大学) 定員4 北海道教育大学、旭川医科大学、岩手大学、福島大学、茨城大学、宇 都宮大学、埼玉大学、東京学芸大学、東京農工大学、東京芸術大学、東京工業 大学、東京海洋大学、お茶の水女子大学、電気通信大学、一橋大学、横浜国立 大学、富山大学、静岡大学、浜松医科大学、愛知教育大学、滋賀大学、滋賀医 科大学、京都工業繊維大学、大阪教育大学、奈良女子大学、和歌山大学、九州 工業大学、北陸先端科学技術大学院大学(計29大学) 定員3 室蘭工業大学、宮城教育大学、東京外国語大学、長岡技術科学大学、 上越教育大学、名古屋工業大学、豊橋技術科学大学、京都教育大学、兵庫教育 大学、鳴門教育大学、福岡教育大学(計11大学) 定員2 小樽商科大学、帯広畜産大学、北見工業大学、大阪外国語大学、奈良 教育大学、鹿屋体育大学、総合研究大学院大学、政策研究大学院大学、筑波技 術短期大学、高岡短期大学(計10大学) これらの数字は理事の存在意義と「法人法」の真意について重大な疑いを抱か せるものです。もし理事が学長の閣僚であり、副学長に相当するものであれば、 その定員数をこのように各大学毎に法律で予め決めることには意味がありませ ん。大学運営に必要な基本的閣僚数と職務を規定し、特別な理由によりポスト を増やす必要がある場合の手続きを規定することこそ法律に要求されることで す。しかもその定員数がこの表にあるように8−2と大学により大きな格差が あるというのは全くのナンセンスとしか言いようがありません。「法人法」が 規定する学長と役員会の権限の重大さを考えると、2名や3名の理事で何かで きるというのでしょうか。これば、「法人法」の「理事」の実体とは、条文が 述べる機能とは全く別なものではないか、という疑いを引き起こさずにはおか ない事態です。中国の人口は日本の数倍ですが、中華人民共和国に日本の数倍 の閣僚が存在するわけではありません。閣僚と知事とは違うのです。大学であ る限りその運営に必要な閣僚数にはおのずから合理的な範囲があるのです。そ れを8から2までなどと大きな幅で大学によって変化させるというのは、「法 人法」の起草者が実は「理事」を学長の閣僚とは理解していないのではないか、 と考えざるを得なくなります。その場合「理事」とは名目的な職務しか持たな い官僚の天下りポストとして理解するしかありません。そしてそう理解すると、 様々な謎が一挙に氷解するのです。第一は「理事」という不可解な名称です。 もし「法人法」が本気で学長に巨大な権限を与え、第十条にあるように「理事」 が学長の大学運営を補佐するものであると本気で考えているなら、「理事」は 「副学長」と呼ばれるべきです。しかも大学運営に必要な業務は予め決まって いますから、「教育担当副学長」等のように職務を明確にするような呼称を用 いるべきでしょう。もしそのような呼称が採用されたなら、各副学長にはそれ に要求される知識と経験を持った人がなることになり、官僚がそのポストに天 下り、何もせずに高給を取るということはきわめて困難になるでしょう。他方、 「理事」という曖昧で漠然とした呼称が、無為高給の天下りのカモフラージュ に最適であることは言を待ちません。実際、最初に「理事」と聞いたとき、私 は学長を選出・監督する「理事会」の役員のことと考えたのであり、学長の指 揮の下で働く人であることなど夢想だにしませんでした。完全にだまされたと いってよいでしょう。もし「法人法」で「理事」という名称がそうした意図で 選ばれたのだとすれば(そうでないというなら、どうしてはっきりと「副学長」 と呼ばないのですか、文科省の方々?)、「法人法」とはよりよい大学運営の ために大学を独立させるためと謳いながら、実は官僚の焼け太りだけを狙った 詐欺まがいの法律だといわなければなりません。ここで我々が最も憂慮すべき は、そうした焼け太り策動によっていいように弄くりまわされた国立大学が組 織としてめちゃくちゃになってしまうということです。整合性のない制度を、 しかも隠れた別の目的のために押し付けらた組織は必ず機能不全に陥ります。   「理事」が官僚の天下り先としてのみ構想されているという観点に立つと 氷解する疑問がもう一つあります。それは各大学の「理事」定員数です。上の 表は文科官僚が全国89の国立大学法人を何らかの原理の従って分類している ことをうかがわせます。しかし誰もが疑問に思うのは何故、筑波、神戸、九州 の三大学の定員が8と突出しているのか、ということです。この三大学の共通 点は何なのでしょうか。答えは法案pp.64-66に記載されている附則別表第三に あります。そこに示されているように、これら三大学はそれぞれ、図書館情報 大学、神戸商船大学、九州芸術工科大学、との統合を経て独立法人となること になっています。従って8という定員は「2+6=8」、「1+7=8」とい う計算の結果出てきたのだと考えられます。これは理事定員が理事の機能に即 してではなく、天下り官僚の「知行地」として考えられた国立大学の「石高」 のごときものと考えられていることを示しているといっていいでしょう。   国立大学に独立性を与えることや法人化することは大学のよりよい運営に よってプラスであると考えている皆さんにここで訴えたいと思います。私もそ うした意見の持ち主です。しかしこれまでで明らかになったように、「法人法」 はそうした目的を掲げながらも、その実体は国立大学を犠牲にして一部官僚に 天下り先を確保するだけのちゃちな仕掛けにすぎません。それは羊頭狗肉もい いところです。それに反対することは国立大学を無意味な機能不全から救うこ とであって、必ずしも大学の独立化に逆行する行為ではありません。この法案 を廃案にすることは、よりよき国立大学を求める全ての国民の責務だと考えま す。

4.「法人法」批判その2−学長の選出方法

残念ながら「法人法」はこの点に関しても自身が掲げる目的を大きく裏切って いるといわざるを得ません。前項で見たように大学運営に関する「法人法」の 基本思想は学長に権限を集中させるということです。このこと自身は組織の運 営方法として必ずしも批判の対象となるものではありません。例えばサッカー の日本代表チームの監督はジーコ氏ですが、代表チームの運営に関して、メン バーの選定から強化日程に関するまでほぼ全権が彼に与えられていますが、そ のことによって日本サッカー協会を批判する人はいません。問題となるのは権 限を与えられた組織の長の業績を評価し、その再任を認めるかどうかという判 断のプロセスです。権限集中型の組織運営がうまく機能するための最大のポイ ントは、組織の長の運営実績に対して独立した客観的評価がなされ、「うまく 運営した人は再任されるが、まずく運営した人は再任されない」という単純な 原則が厳格に貫かれることです。もしジーコ監督の任期を延長するかどうかを 判断する組織のメンバーにジーコ監督自身や、彼が選んだ人物が入っていたら どうなるでしょうか。サッカー協会の幹部は見識を疑われて、批判の嵐にさら されることは間違いありません。それは演技者と審判が同一人物であるに等し く、常識的に考えてあり得ないことだからです。ところが学長選出に関して 「法人法」はこうしたあり得ない方法を規定しているのです。   「法人法」第十二条第一項、第二項は学長の選出について、文部科学大臣 が各大学の「学長選考会議」の申し出に基づいて任命すると規定した上で、各 大学の学長選考会議が(1)経営協議会においてその学外選出委員の中から選 ばれた委員、(2)教育研究評議会において理事、部局長の中から選ばれた委 員、が同数で構成すると規定しています。上で述べたように経営協議会とは基 本的に学長の意を体現する執行機関です。従って「法人法」の規定する学長選 考会議は、学長とその執行部の運営実績を客観的に判断するために必要な独立 性を欠いていることになります。つまり「法人法」では、強大な権限を持つ学 長に対するる最も重要なチェック機構が予め骨抜きにされているのです。それ ばかりではありません、驚くべきことに第十二条第三項は付帯条項として、学 長選考会議が決定すれば学長とその理事を学長選考会議の委員とすることがで き、彼らは会議の委員総数の三分の一まで占めることができるとしています。 これは先ほどの例を用いれば、ジーコ監督の任期を延長するかどうかを決定す る会議のメンバーにジーコ監督とそのコーチがなるというに等しく、被告と裁 判官が同一人物であるようなものです。巨大な学長の権限のチェック機構とし ては八百長まがいの仕組みだといわなければなりません。ナンセンスとしか言 いようのないこの条項だけをとってみても「法人法」のいかさま性が明らかで すが、それに加え、こうした条項を恥ずかしげもなく掲げている「法人法」は 日本の諸制度の公正性と透明性に対する国際社会の信頼に大きな影を投げかけ るものです。もし日本社会がこうした条文を含む法律を容認するような社会で あれば、そこにおける様々な評価や判断の根拠は、予め決まっている結論にとっ てつけた飾りだと国際社会は考えるのではないでしょうか。大学においてすら そうであれば、日本社会に公正で客観的な判断と評価は存在しないと世界の人々 は考えるでしょう。このように、日本が発する情報に対する信頼性を根底的に 失墜させる恐れがあるという点においても、「法人法」は決して許してはなら ないものです。

5.「法人法」批判その3−「評価委員会」

「法人法」は強大な学長の権限に対する二つのチェック機構を設けています。 学長の選出過程と文科大臣による重要事項の認可です。上で明らかになったよ うに前者は全く内実がありませんから、後者が学長に対する唯一の現実的規制 となります。その詳細を見るとき、「法人法」が具体的にどのような大学運営 をイメージしているかが明らかとなります。一言でいえばそれは学長の傀儡化 を通じた文科官僚による大学の不透明な一元的コントロールであり、旧大蔵省 による銀行の護送船団的一元コントロールに比すべきものであり、冷戦下では 機能したかも知れないが、今となっては全く時代遅れな役立たずの制度です。 従って「法人法」下での国立大学の未来を見たければ、現在の日本の銀行の惨 状が最も良い参考になるでしょう。この時代遅れのコントロールの中身を具体 的に見てみましょう。   「法人法」第十五条は学長の任期の上限を6年と定めています(ただし再 任は無制限に可能です)。「法人法」が構想する大学運営では、この6年とい う期間が基本単位となり、文部科学大臣は6年間で各国立大学法人が達成すべ き目標として中期目標を示すことになっています(第三十条)。こうした中期 目標という形で大学の組織的目標を設定することが果たして大学という組織の 本来の目標達成にとって有益かどうかについて大きな問題が存在することは皆 さんご存知の通りです。この点については既に多く論じられているので、ここ では中期目標−中期計画という道具を使った大学のコントロールの仕組みと実 体に焦点を当てたいと思います。 このコントロールの仕組みを規定するのが第三十一条であり、それは、国立大 学法人は「当該中期目標を達成するための計画を中期計画として作成し、文部 科学大臣の認可を受けなければならない」と定めています。加えて第四十条は 「文部科学大臣の認可または承認を受けなければならない場合において、その 認可または承認を受けなかったとき」、「国立大学法人の役員は二十万円以下 の過料に処する」と罰則を規定しています。つまり「法人法」下で学長は文科 大臣が認可するような中期計画を作成せねばならず、それは罰則を伴った強制 なのです。各学長が提出する中期計画を認可するかどうかという権限を通じて 文科省は学長とその大学に対していわば殺生与奪の権力を持つことになります。 ただし実際にこの権力を行使し、大学をコントロールするのは文科大臣ではあ りません。「文部科学大臣は、第一項の認可[中期計画の認可] をしようとす るときは、あらかじめ、評価委員会の意見を聴かなければならない」(第三十 一条第三項)とあるように、「法人法」はこのコントロールの機関として評価 委員会という組織を指名しているのです。評価委員会こそが国立大学とその学 長を、中期計画を認可するかどうかという決定的な権限を通じて、自由自在に コントロールすることになるのです。従ってこの委員会がどのような人物から 構成され、その選出方法や任期はどのようなものであり、彼らの評価業務自身 がどのように評価・チェックされるのか、というのは「法人法」下での国立大 学像にとって極めて重要な事柄となります。ところが我々はここでまたもや驚 くべき事実に遭遇することになります。評価委員会を規定している第九条の全 文を次に引用します。 第九条  文部科学省に、国立大学法人等に関する事務を処理させるため、国 立大学法人評価委員会(以下「評価委員会」という)を置く。 2  評価委員会は、次に掲げる事務をつかさどる。    一 国立大学法人等の業務の実績に関する評価に関すること。    二 その他この法律によりその権限に属させられた事項を処理すること。 3  前項に定めるもののほか、評価委員会の組織、所掌事務及び委員その他 の職員その他評価委員会に関して必要な事項については、政令で定める。 この条文は評価委員会の委員の諸規定に関して白紙委任状を「事務方」すなわ ち文科官僚に与えるものです。それは評価委員会を一切のチェックから独立し た闇の権力機構とすることを黙認することに他なりません。「法人法」が一方 で学長、理事、監事、様々な委員会の委員、について、適格条件、選出方法、 任期、解任法、等を詳細かつ厳密に規定して置きながら、そうして構成される 大学の運営機構に対する最大の権限を有する評価委員会に対して何も規定して いないというのは、法案の起草者が世の中を全くなめているか、それともここ はスターリン政権下のソ連であると誤解しているかのどちらかだとしか考えら れません。この点「法人法」とは真剣な議論にも値しないでたらめな(あるい は超アナクロな)作文としか言い様がありません。しかしあきれてばかりもい られませんから、評価委員会に関する批判をまとめておきましょう。評価委員 会のような強大な権限を持つ機構をチェックから独立した不透明なものにする と次のような重大な害悪を社会にもたらします。第一にそれは評価委員と大学 の間の癒着と腐敗を誘発します(旧大蔵省と銀行MOF担の関係を思い出してく ださい)、第二にそれは評価委員会が果たすべき機能を最も良く果たす人材を 日本社会全体からリクルートする道を閉ざし、大学にとって本当に必要で質の 高い評価を不可能にします、第三にもし評価委員会の基本的時代認識(例えば 何か将来最も有望な研究分野かに関する)が誤っている場合、日本の国立大学 全体が誤った方向に導かれる可能性がある(旧大蔵省による護送船団方式の弊 害と同じ)。従ってこうした内容を持つ「法人法」を絶対に許してはなりませ ん。