新首都圏ネット 1.10討論集会へのレジュメ → pdf版

反撃の標的の問題と運動の多様性の獲得

佐賀大学理工学部 豊島耕一
2004年1月9日,ver.2

グローバリズムないし「新自由主義」と,国家主義ないしナショナリズムとが,大学や教育をめぐる動きの背景にどうかかわっているかという問題があります.私は社会科学者ではないので,専門用語を操ったり,その分野のup to date な理論の枠組みに沿って議論を展開したりはできません.ですから自分の経験や見聞の範囲での,アマチュアリズム*による問題提起です.

1.批判対象にはスティグマを

まず,「新自由主義」「ネオ・リベラリズム」という呼称には大いに問題があります.これは明らかに美名であり,これを宣伝する立場から付けられたものと思われます.「新」も「自由」も,どちらも物事を賞賛する時に使われる言葉です.(これに対して「ネオコン」は,後ろの二文字に明らかに汚名の響きがあります.)批判するならその対象にスティグマを与えなければなりませんが,その第一はネーミングです.ただあまりに露骨だと一般に流通しにくいでしょう.たとえば「新放任主義」などはどうでしょうか.カタカナだと「ネオ・レッセ・フェール」でしょうか.

2.大学への攻撃の背景をどう見るか,反撃の標的は何か

次に,イデオロギー面で「新自由主義」 [A] と 国家主義,軍国主義 [B] の要素の比重をどうとらえるかという問題があります.また,言論において,国家統制批判や,合法/非合法の問題,つまり憲法や教育基本法に反するという議論にどの程度重きを置くべきかということも重要です.

私の見方は,BはAに包含されるわけではない,というものです.つまり,「新自由主義」を叩けば,国家主義やナショナリズムも自動的に凹ませることになるわけではない,と思います.また,法的な問題を重視すべきだと思います.

03年11月17日付けの首都圏ネット論説「『大学改革』という名の大学破壊 −法人法から都立大学、横浜市立大学「改革」へ−」へのコメントでも述べましたが, 新自由主義 のキーワードである「市場のニーズ」と言うとき,そこには政府の意思と行為によって発生するニーズもあるわけです。たとえば軍需というパラメータは決して市場の自己運動で決まるものではなく、政治の問題に属します。(もっとも,国内での武器調達が市場を通じて行われることはむしろ希でしょうから,一般的に「需要」と言うべきかも知れません.)国家主義・軍国主義というイデオロギーによって、このパラメータは操作されます。そして教育機関はもっとも効果的なイデオロギー再生産装置なので、重要なターゲットにされるのです。

文部省によるこれまでの小中高の支配はまさにそのプロセスであったわけで(直接軍国主義 を吹き込むところまでは行かず,それへの抵抗力を解除するプロセス)、「市場原理主義」の動機はもしかするとマイナーかも知れません。

わが国が国家主義・軍国主義に強く傾斜しつつあることは多くの人の共通認識だと思われます.そして経済の軍事化が急速に強まる気配が感じられます.わが国におけるこのような特徴と(帝国主義が最も見やすく表れているアメリカはもちろんです),例えばニュージーランドとを比べてみればよく分かるのではないでしょうか.NZは最近,保有する戦闘機を全廃するという決定を下しましたが,しかし一方でこの国は「新自由主義」の見本として引き合いに出さます.つまり「新自由主義」が必ず国家主義,軍国主義を伴うわけではないということは明かです.つまり,後者は相対的に独立した,付け加えられた要素なのです.

ただ,これが一旦社会に組み込まれると,アイゼンハワーの有名な「軍産複合体」への警告を待つでもなく,大きな「公共事業」として経済の重要な要素になってしまいます.そのためにアメリカは常に戦争を続けなければならない国になっています.

現在の日本はその重要なターニングポイントにあり,その意味で国家主義・軍国主義・国家統制を批判することの重要性があり,タイムリーさがあるのです.

「新自由主義」は,国家や社会の一体性を保持するために,同時に国家統制を,さらにはイデオロギーとしては国家主義を(部分的にであれ)必要とするものである,という見解はどうでしょうか. 国家統制・官僚統制はその表れに過ぎない,という考えです.もしそうなら後者は前者に付随的なもので,前者を批判することに集中すればいいということになります.

しかし,今行われている国家統制や官僚統制,特に教育の場におけるそれは,果たして「その程度」のものなのでしょうか.私にはとてもそうは思えません.「意見広告の会」のニュース82で紹介された東京都,七生養護学校に関する事態は,市場原理主義に「付随的なもの」と見るには余りにも凶暴なものに見えます.もちろん「 凶暴さ」だけでは判断はできないでしょうが.

また,拙稿「 違憲の就業規則には特別の関心を-その2」(he-forum 6544)で問題にした「集会条例」も,やはり市場原理主義の補完物にしてはきつ過ぎます.

高校までの教育の場との私自身の関わりの中でも,官僚統制のすごさ,息苦しさは生易しいものではないようです.中学PTAや高校の教研集会で接した先生たちの話からも強い印象を受けています.

以上,「独立性」の明確な論証とはいきませんが,いくつかの状況証拠とは言えないでしょうか.

3.「法の支配」の強調

合法/非合法の問題も極めて重要だと思います.憲法や教基法に照らして,相手方に無法者,賊という烙印を押すことができれば,それ自身メリットであるだけでなく,こちらは「体制側」という強みを,そして法の守護者の肩書き持つことが出来るのです.これまで,このメリットがほとんど無視されてきたように思います.

特に,国立大学の行法化が問題になった当初,批判の視点は「行革の視点で大学改革を考えるのはけしからん」とか,「新自由主義改革だ」というような言い方がほとんどでした.もっと重大な問題点,つまり憲法23条,教育基本法10条に反する違法なものであるという批判がほとんどなされませんでした.そしてそのことは,行法化反対運動の動機付けを大きく弱めました.これは誤りとしてはっきり総括しておく必要があります.

4.運動の一様化**を排し,抵抗権,市民的不服従の復権を

組合は被雇用者の利益擁護という立場から総合的に,しばしば複雑で煩瑣な問題に取り組まなければなりません.これから組合の役割がますます重要になり,「法人化」のいろんな局面で,当局とのやりとりにおいて中心的な存在になるでしょう.しかしその活動のモードやスローガンに個人や他の任意団体が「横並び」するようなことがあってはいけません.つまり,すべてがこれに「統一と団結」すべきだとい考えがあるとすれば,これは全くの誤りだと思います.総合的でなければならないと言うことは,それに伴う限界もある,ということですから,もっと自由に活動や発言する個人や団体の役割が重要です.

このような文脈で,抵抗権や市民的不服従ということに注目すべきだと思います.

憲法研究所・上田勝美編,「日本国憲法のすすめ」,74ページから引用.(法律文化社,2003年)

抵抗権とは,法的には下位法上の義務を上位法に依拠して拒否する権利と捉えられる.憲法に 抵抗権 が明記されているのは希で,これを行使する手続きは法制化されてはいないのが通例である.しかし,基本的人権は当然,圧制や悪法への抵抗を前提としていると考えられ,日本国憲法12条で,自由および権利は「国民の不断の努力によって」保持しなければならないと規定されているように,人権を実効的にするには腐敗や不正に対する感覚を研ぎ澄ませ,不正に対して立ち上がることが必要である.・・・

市民的不服従とは,自らの行為の正当性の確信のもとに行われる非合法行為である.それは,特定の法や政策に自覚的に違反する公的行為であり,非暴力手段によってなされるのがその特徴的性格である.・・・

これらの見事な典型として,私はいつも「トライデント・プラウシェアズ」というイギリスの核廃絶運動+を紹介しています. これは,イギリスの核兵器システムを,非暴力的に,オープンに,平和的に,そして完全に説明責任を負うやり方で,市民自身の手で「武装解除」するというものです.そのウェブサイトにはこれまでの逮捕者の総数と科された罰金の総額が誇らしく表示されています.このような「過激」な団体であるにもかかわらず, 2001年度は「ライト・ライブリフッド賞」++を受賞し,また活動家の学生の一人は所属する大学から表彰されたりしています.

「日本では無理」と決めつけるべきではありません.わが国でも,「虹の松原一揆」のように,立派な非暴力抵抗の歴史があるのですから.

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* 昨年亡くなったサイードの言葉です.
** いわゆる「横並び」
+ 日本語 http://www003.upp.so-net.ne.jp/maytime/goilsupt.html
 本家サイト http://www.tridentploughshares.org/
++
The Right Livelihood Award. 「第二のノーベル賞」と言われ,スウェーデンの国会議事堂で授賞式が行われる.日本人の唯一の受賞者は「原子力資料情報室」を創設した故・高木仁三郎氏です.