目次
0.はじめに
1.大学再編の経緯と現況
2.国家主義的統制強化
3.新自由主義的競争激化
4.新たなイデオロギー攻勢
5.憲法的諸価値と大学再編
6.グローバリゼーションにおける大学再編の本質
7.大学問題にとどまらない大学再編
8.破壊的再編に対する反撃の方向性
「産学官総力戦」!小泉内閣になって以降、加速度的に推し進められる大学再編は、ついにここまで行き着いた。今年6月、政府の産業構造改革・雇用対策本部が決定した「中間とりまとめ」に登場した言葉である。さすがに露骨過ぎると思ったのか、この言葉は9月に公表された最終「決定」からは削除されているものの、その指し示す内容はそのまま引き継がれた。この言葉たった一つからも、多くのことを読み取ることができる。大学再編を強行する政府の危険な意気込みと、しかしそれと裏腹の焦燥感。さらに大学再編の方向性が産学協同の徹底化であること。その本音さ加減は、これが文部科学省所轄ではなく、内閣府直属の産業・雇用対策本部から発せられた言葉であることによって、よりいっそう並大抵でないことが分かる。大学は、かつて経験したことのない危機的な事態を迎えようとしている。
この小論は、急展開する大学再編の本質に迫るささやかな試みである。まず大学再編の現況について、90年代後半に出された大学審議会答申に遡りつつ、そこに貫かれている方向性を検討する。そして、この大学再編が「学問の自由」など憲法的諸価値とどのような関係にあるのかを探りつつ、そのグローバリゼーションにおける本質について考えたい。このような視野をもって検討するなかで、単に大学そのものにとどまらない、「小泉改革」の重要な柱として大学再編が位置付けられていることを確認し、これに反撃する闘いの方向性を提起したい。
政府は教育分野における「構造改革」をつねに推し進めようとしてきた。80年代の中曽根政権時代には中央教育審議会が設置され、初中等教育に対する再編が本格化する。また「大学改革」問題が浮上し、この過程で教養部廃止やカリキュラムの改編、大学院重点化、学長体制の強化などが進行した。さらに橋本政権以後、教育・大学分野は一貫して「構造改革」の主要な柱に加えられ、国家的課題として位置付けられた。こうした流れを推進すべく「教育研究の高度化、高等教育の個性化、組織運営の活性化」を掲げて87年に設置されたのが大学審議会である。
設置から10年余り経った98年10月、この大学審が21世紀に向けた国家戦略の観点からとりまとめたのが、よく知られている『21世紀の大学像と今後の改革方策について_競争的環境の中で個性が輝く大学_』と題する答申である。この答申は「21世紀初頭の社会状況の展望」として、流動的で不透明な時代に激化する国際競争に勝ち抜くため、また雇用の面からも大学再編が重要となるとして、大学再編の基本理念を四つ掲げた。すなわち「課題探求能力の育成、教育研究システムの柔構造化、責任ある意思決定と実行、多元的な評価システムの確立」である。乱暴に言い換えてしまえば、「使いやすい労働力再生産、大学版「規制緩和」=産学協同の徹底化、大学運営の専断的トップダウン化、大学に対する競争原理・監視の導入」ということになろう。つまり、国際競争力を供出させるために大学を新自由主義的に再編すると同時に、それを保証する強制力の確保、つまり国家主義的な統制強化を推し進めることを謳ったのである。統制強化というのは「責任ある意思決定と実行」がまさにそれである。一体、それまでの大学は無責任な意思決定を行い、それすら実行しなかったとでも言うのだろうか。結局、ここで意図されているのは、政府の方針を強引に遂行できる体制作りにほかならない。のみならず「多元的な評価システム」、すなわち幾重にも張り巡らされたがんじがらめの監視体制を確立して統制強化を担保しようとしたのである。このように大学審答申は、なお「大学人」の要望にも応えるかのような体裁をとりつつも(企業でもないのに大学「経営」という言葉が瞬く間に定着させられてしまった今日においては、つい数年前の答申が使用する「大学運営」という言葉は懐かしくすらある)、グローバリゼーションにおける生き残りを賭ける日本資本主義の要請を十二分に反映する大学政策を宣言したものであった。
さて、この大学審答申が掲げた大学再編はどのように具体化されているのだろうか。
99年の第145回通常国会は、さまざまな悪法が集中豪雨的に成立した国会として記憶に新しい。日米安保「新ガイドライン」関連法案(周辺事態法など)や組織的犯罪対策法・盗聴法、日の丸・君が代の法制化(国旗・国歌法)など、国家主義剥き出しの悪法が次々に成立した。この流れのなかで99年5月、全国の学生たちの反対を押し切って学校教育法改正案(以下、新大学管理法・新大管法)が成立した。新大管法は、教授会の権限縮小と学長の権限強化、学外者を大学運営に参加させるための「運営諮問会議」設置、飛び級制度の法整備などを骨子とする。学長の権限強化は、文部省_学長のトップダウンで大学全体に対する統制を強化するものであり、「大学自治」を根底から揺さぶる第一段階であった。これによって、(現在においては事実上)「大学自治」の中心的機制となってきた最高意思決定機関としての教授会が審議機関に格下げされた。また、「社会に開かれた大学」を謳い文句にした学外者の参画ではあるが、現実には政府・財界の関係者が学外「有識者」として大学運営に介入し、学長に助言・勧告という名で圧力を加えることを可能にするなど、真正面から「大学自治」にぶつかることになる。新大管法の成立は、国家主義的な統制強化の側面を露骨に知らしめたのである。
一方、法人化によって国立大学の枠組み自体を組み替えて一気に大学再編を推し進めてしまおうとする動きが出てきた。独立行政法人化(独法化)がまさしくそれである。これは「行政改革」の一環として、国立の機関について、その機能を「企画立案機能」と「実施機能」に分離し、前者を政府が、後者を法人化された機関がそれぞれ担うことにより、行政のスリム化(国家公務員の25%削減)を図るとするものである。つまり、いったん「実施機能」部分を行政から切り離し、国立機関のリストラ、職員の非公務員化を通じて財政上の責任を政府が放棄したうえで、切り離された法人は厳格な評価=監視にさらされるというものである。99年7月、独法化通則法という法律によってその骨格が法制化され、各法人の「目的」を盛り込んだ個別法(99年12月成立、ただし枠組み自体は通則法そのもの)とともに美術館や博物館、研究所など数十の文部省所轄の国立機関が独法化された(実施は2001年4月から)。
こうした大学再編の流れのなかで99年9月、有馬文相(当時)はそれまで反対していた国立大学の独立行政法人化容認の方針を打ち出す。それは独法化への批判を考慮して特例措置を前提としていたものの、通則法の枠組みから一歩も踏み出すものではなかった。それまで独法化に消極的だった文部省が一転して容認へと向かった背景には、以下のような理由があったと推測される。すなわち中央省庁再編のなかで、文部省が「行政改革」=行政の減量化の一環として大学への指導的立場を喪失することにはならないこと、つまり独法化によって国立大学が自らの手を離れてしまうのではなく、むしろ独法化をテコに、科学技術政策・人材育成の司令塔として大学への強力な統制力を手に入れることが、政府内部の利害調整によって確認されたためであろう。これは、文部省が文部科学省へと衣替えをして、強引に「(国立)大学の構造改革の方針」を推し進め、国立大学独法化の具体案がいよいよ明らかになっている現在、間違いないと言える。
独法化に話を戻そう。文相の特例措置付き独法化容認は、政府内の利害調整が完了して政府vsその他(大学・「国民」)という対決の構図が(論理的には)準備されたという点で、大学再編の焦点に独法化問題を据えつけた。それは同時に、国立大学の独法化に向けて新たな段階に突入したことを意味した。ところが、この流れに対峙すべき独法化反対運動は若干のブレを見せた。すなわち、すでに大学審答申で明らかにされた大学再編の本質、すなわち国家主義的な統制強化と新自由主義的な競争激化の両契機を通じて国際競争力向上に大学を利用しようとする目論みに正面から挑戦するのではなく、80年代末から流布されてきた「大学改革」の奔流に翻弄されてなけなしの「大学自治」を守ろうとするあまり、「よりよい大学改革」を競い合う土俵に乗せられてしまった。一言でいえば、「大学教授は怠け者、大学レジャーランド化」などの「誹謗中傷」に屈して、「確かに大学にも問題があるから何とかしないといけない」という観念が付きまとうことになった。そのため、いきおい制度上の問題点の指摘が多くなり、独法化反対の根拠も当初は、「行政改革」の対象として大学はふさわしくないという、かなり荒削りなものだった。
そのため、現状においては国立大学のいかなる法人化にも反対する、という原則的立場を築くことができず、前述の独法化通則法による国立大学の独法化には反対するという、裏を返せば通則法でなければ法人化検討の余地を残しておく、というスタンスがとられたのである。また、学生も反対運動に立ち上がったが、その多くは「独法化されれば学費値上げにつながるかも知れない」という経済的要求一本槍に終始し、統制強化の側面を捉えた独法化反対を打ち出したのは新大管法に反対した一部学生に過ぎなかった。これらのスタンスは、文相が特例措置とセットの独法化容認を打ち出したことを見ても明らかなとおり、常に独法化への抜け道を開けておくものとなってしまった。
昨年の春_夏は独法化論議が急ピッチになった時期だった。上のような反対運動の状況を見透かすかのように、政府・文部省は反発を和らげるべく2000年7月に「独法化に関する調査検討会議」を設置し、通則法そのままではない独法化の方策検討に着手した。これに先立って、2000年5月には自民党政務調査会から独立行政法人ならぬ「国立大学法人」としての法人化を2001年度中に検討・整理することが提言された。これらの動きは、反対運動の弱点を巧みに突く欺瞞的な策動であることは明白であった。だからこそ、政府がそこまで法人化にこだわるからにはもっと別の狙いがあることを見抜き、その狙いに正面から挑戦することが必要であり、かつ可能であった。しかし反対運動の側は、「結局は通則法の枠組みを出ないから反対」という、なお通則法に固執する立場をとり続ける場合が多かった。それどころか、国立大学協会は、通則法ではない法人化論議に積極的に意見を反映させるために、上記の調査検討会議への参加を決めてしまった。少なくともこの時点で、「大学関係者」の代表が政府の土俵に乗ってしまったと振り返ざるを得ないのである。
そして今年6月の国大協定例総会で、国大協として独法化を了承するかも知れないという緊迫した状況になった。条件付きではあれとにかく独法化に反対してきた国大協が方針の大転換を遂げようとしていることを重くみた全国の教職員・学生が総会行動に集まり、独法化反対の意志を国大協総会に突きつけた。国大協総会に先立つ5月には全国各地の大学教職員の呼びかけで「独法化阻止全国ネットワーク」が結成され、署名運動が提起された。こうした動きに押されて、国大協総会は何も決めることなく終わった。しかしマスコミを通じて「法人化概ね了承」という不正確な情報が流され、国大協が独法化反対を取り下げたかのように既成事実化が進められた。
この総会を巡って緊迫した状況となったのは、総会前日に、首相の「諮問機関」である経済財政諮問会議に遠山文科相が「大学(国立大学)の構造改革の方針」(通称「遠山プラン」)というプランを提出したことが大きく影響した。「遠山プラン」は「大胆な再編・統合、民間的発想の経営手法の導入→早期の「国立大学法人」化、競争原理の導入→世界最高水準の「トップ30」育成」の三つの柱からなる。いまだ文科省の「独法化調査検討会議」が調査検討をしている最中なのに、当の文科省がその報告を待たずに早期の法人化を打ち出すという、手続き上の乱暴さもさることながら、「小泉人気」を背景にこれまでの議論すら吹き飛ばす乱暴極まりない内容である。一説によれば、なかなか進まない大学再編に業を煮やした小泉首相が遠山文科相を呼びつけて叱り飛ばし、文科省が慌てて作ったのがこの「遠山プラン」であるという。
それだけに大学版「小泉改革」と呼び得る内容になっている。「大胆な再編・統合」については、教員養成系の整理縮小、単科大の統廃合、県域を越えた統廃合などを列挙しながら国立大学の数を大幅に減らすとしている。要するに、地方大学の果たしてきた、あるいは果たすべき役割など全く無視し、単に切り捨てを叫んでいるに過ぎない。また「民間的発想の経営手法の導入」についても、学外者の運営参加、専断的トップダウン化、教職員の身分の不安定化、リストラなどを並べた挙げ句、急いで法人化すべしと、まず法人化ありきの姿勢である。「競争原理の導入」については、第三者評価システムによる大学への監視、評価に基づく予算配分、国公私立を通じた競争激化などを打ち出して「トップ30」という結論を出している。およそ「大学自治」とはかけ離れた「構造改革」=大学における「規制緩和」のオンパレードである。
さらに国大協総会の翌日には文科省主催の国立大学長会議が開かれ、「遠山プラン」の趣旨が説明された。文科省の官僚から「一県一大学は金科玉条ではないので、脅しをさせていただく」「方針についていけない大学は見捨てる」という類いの発言が行われるなど、もはや独法化ぐらいでは済まないという雰囲気が作り出された。
この国大協総会を前後する時期をみれば、小泉政権の発足以後、あらゆる分野で次々と打ち出されてきた「小泉構造改革」の重要な柱として大学再編が位置付けられたこと、さらに大学再編を推し進める上で政府が国大協の攻略を戦略的に狙っていること(各大学のトップに対する圧力の集中)が明らかである。実際に、「遠山プラン」以後、文科省は全国の国立大学に「再編・統合のための調査費」を予算請求するように圧力を加えたり、「再編・統合」を検討しているかヒアリングを行うなどした。予算請求は各大学の自主的な判断に基づくべきであり、「大学自治」への侵害も甚だしい。しかも、いつもなら予算請求してもなかなか予算をおろさないのに、統廃合のための費用は出してやるから請求せよ、というのである。葬儀屋への電話代くらい出してやるから死ね、とでも言わんばかりの乱暴さである。このように非民主的なやり方を駆使して、もはやこの方針から逃れることはできないかのようなムードを生み出してきた。今年の夏に全国各地で大学の合併(主に地方単科大の地方大への統合)が相次いで合意された背景には、このような事情があったのである。
ところで、政府に先回りされて「国立大学法人」化という結論を出されてしまった「調査検討会議」はどうしたのだろうか。「遠山プラン」が出たのち、6月下旬に「独法化検討の方向」を打ち出して9月に中間報告を発表することになった。こうして9月27日にとりまとめられたのが『新しい「国立大学法人」像について(中間報告)』である。これは「遠山プラン」で示された方針を具体化するための「国立大学法人」の制度上の設計図である。その内容は、それまで反対運動が批判してきた通りの「案の定」というべきものであるが、しかしこれまでは国立大学の独法化といえば通則法を手掛かりにして検討せざるを得なかったものが、ついに国立大学に対する法人化の具体案が政府から打ち出されたという点で、言い換えれば独法化の法制化に向けて新たな段階に突入したという点で、「中間報告」が出たこと自体に重大な意味がある。同時に、反対運動の側にとってみれば、もはや通則法との距離をどれだけ確保できるかは問題ではなく、独立行政法人であろうと「国立大学法人」であろうと、あらゆる法人化を阻止するための、ひたすら実践的な取り組みだけが必要な時期に突入したことを意味する。
ここまで大学再編の流れを振り返ってみて明らかなのは、この再編には、国家主義的な統制強化と新自由主義的な競争激化の両側面が一貫しているということである。ここからは、9月にとりまとめられた独法化「中間報告」を踏まえつつ、大学再編に貫かれている改悪の方向性について考察してみたい。まずは国家主義的な統制強化について、三つの点から考えてみよう。
第一に、学長体制の強化と教授会の形骸化である。「中間報告」は、「基本的な考え方」として三つの視点を掲げており、その一つが「経営責任の明確化による機動的・戦略的な大学運営の実現」である。これはすでに大学審答申で掲げられていた「責任ある意思決定と実行」と軌を一にする学長権限の強化を通じた国家主義的な統制強化といえる。法人化を通じて国立大学という枠組みそのものを破壊的に再編することによって生み出される「何でもアリ」状態で、機動的・戦略的に好き勝手をゴリ押しするためには、どうしても専断的な権限を必要とする。「中間報告」は「全学的視野に立ったトップダウンによる意思決定の仕組みを確立することが重要である」と明確に打ち出している。トップダウンという言葉はあまりいいイメージではないが、お構いなく使われている。これは学長一人で判断できる範囲を拡大するということではなく、意思決定システム自体を上意下達式に180度転換することを意味している。さらにそこでは「経営・教学双方の最終責任者として、強いリーダーシップと経営手腕を発揮」せねばならない。つまり学長は、学内から選出される「代表者」ではなく、目標を割り与えられた経営組織体と化した大学の(赤字を出したら首がとぶ雇われ社長のような)「責任者」なのである。であればこそ、この強化された権限といえども、全面的に政府に従属したものとして位置付けられている。つまり学長は、任命権はもちろん解任権まで文部科学相に握られており、学内で踏むべき手続きは学長を選考した機関での「審査」だけなのである。従って、仮に学内では解任反対の結論となっても拘束力がなく、政府が自由自在に全国の学長たちを任免することになるのである。
学長ひとつとってみても、こんなに統制強化の側面が露わになる。これは当然これまでの「学内民主主義」的なシステム、つまり「大学自治」を破壊することによってしか実現することができない。これまで学長選出は教官たちの間で選挙で行われてきたが、これをやめさせると同時に、学外の意見を反映させる仕組みを作れという。政府にしてみれば、今後強引な大学再編のなかでクビになる教官が必ず出てくるのに、そうした教官たちの手に学長選出を委ねていたら冷酷な「リーダーシップ」が発揮できないじゃないか!という訳である。選ばれるのは大学の顔としての「代表者」ではなく、政府の意志を各大学に貫徹させるための「責任者」であり、その責任は学内に対してではなく、任免権者=文科相に対して負う、ということである。従って学長は必ずしも学内から選出されなくてもよいことになる。「学外の有識者を含む推薦委員会を設置し、広く学内外から候補者を調査」したり「学内外から適任者を得るための方法を確立」するのだという。もちろん学外から殴りこみをかけるからには、腹黒い狙いがあるのは当然であろう。国策遂行に燃えて情け容赦なく辣腕を振るう候補者に絞られるのであり、例えば後ろめたさもなくリストラ・首切りを強行するためにルノーから送り込まれた日産のカルロス・ゴーン社長をイメージすればよいのである。
学長選出プロセスそのものがトップダウンという状況において、それでは「大学自治」の中心的な位置にある教授会はどうなってしまうのだろうか。教授会が最高意思決定機関ではなく審議機関となってしまったことはすでに述べた通りだが、「教授会における審議事項を真に教育研究に関する重要事項に精選」するという。つまり、大学運営には一切タッチさせず、何者かによって制限された「重要事項」だけについて意見交換する場に作り替えようというのである。教授会がそれなりに意味あるものとして機能し得た唯一の条件である人事権(教官の任免権)も剥奪される。もう教授会は丸裸も同然である。
第二に、「国のグランドデザイン」への従属、すなわち国策大学化である。「中間報告」は「国は・・・我が国の高等教育・学術研究に係るグランドデザインや政策目標を策定し、その中で、国や国立大学が果たすべき役割や責務等を明らかにする」、「各国立大学は、国の高等教育・学術研究に係るグランドデザイン等を踏まえ、当該大学の教育研究の基本理念及びこれを実現するための長期的な計画を盛り込んだ長期計画を自主的に策定し、公表する」としている。だが、「国のグランドデザイン」に従属した目標を各大学が持たなければならないという発想、それ以前にそもそも各大学がバラバラに明示的な「目標」を持たなければならないという発想自体が大きな間違いである。大学には、「人類の進歩に貢献する」高等教育の普遍的な理念というものはあっても「目標」=国家戦略に従属したノルマなどあり得ない。これは旧帝国大学=帝国主義侵略大学への回帰であり、侵略に加担した戦前への反省に立って「教育は不当な支配に屈してはならない」とした教育基本法の理念、「学問の自由」を謳う憲法の理念に真っ向から対立するものである。この点については佐賀大学教職員組合の「中間報告」に対する意見書でも「「帝国大学令」(明治19〈1886〉年)の復活を強く想わせます・・・戦前の亡霊を呼び起こすのではなく、戦後教育改革期になされた大学民主化の原則(「学問の自由」と「大学の自治」)を今後も基本とするべきです」と厳しく批判されている。「基本的人権の尊重」から導き出される大学の役割や責務は憲法上明らかであるにも関わらず、上のような文脈で新たに「国や国立大学が果たすべき役割や責務等を明らかにする」というのは、政府自らが憲法違反を教唆することにほかならない。
ここで長期目標という言葉が登場した。これは「自主的に策定」すると言ってはいるものの、再編・統廃合の圧力がこれほど強まっているなかで「自主的」であり得ようはずがない。そうした意味で、長期目標は大学間の序列化=「国のグランドデザイン」における各大学の位置を固定化する役割を、しかも各大学の自主性を装って果たすことになる。
この長期目標を踏まえ、国策遂行のための具体的なノルマとして中期目標・中期計画が設定される。それらはノルマである以上、達成状況が常に監視される。評価という名で四重の監視網(自己評価、しかしこれ自体も評価の対象、大学評価・学位授与機構、文科省の独立行政法人評価委員会、総務省の評価委員会)が張り巡らされる。これは単なる監視ではなく、予算配分に直結するのであり、政府にとって「出来の悪い」大学は切り捨て=財政的に破綻させられてしまうのである。
こうした大学運営を強引に進めていくためには、第一に述べたような政府直結トップダウン型の学長体制強化がどうしても必要になるのである。
第三に、学外者の直接介入による統制の貫徹である。すでに述べてきた通り、統制強化の方法として学長体制の強化と予算配分に直結した評価=監視が挙げられているが、さらに「監事」をはじめとする学外者を直接学内に送り込んで内側から統制することが挙げられている。監事は業務を監査し、学長又は文科相に意見を提出する権限を有し、しかも「うち少なくとも1名」は学外者にするとされている。監査対象については「基本的には各教員による教育研究の個々の内容は直接の対象としないことが適当である」とされているものの、「基本的には」「個々の」「直接の」「適当である」という言葉から明らかな通り、いくらでも拡大解釈が可能になっており、教育研究の内容に対する圧力に道を開くものにほかならない。これでユニーク教育・名物教授は大学から消えると考えてよい。
内側から統制するものは「監事」に限らない。強化された学長体制は、具体的には複数の副学長など役員の補佐によって支えられることになるが、「役員には、学内からの登用にとどまらず、広く学外からも大学運営に高い見識を有する者や各分野の専門家を招聘する」とされている。この怪しげな「高い見識を有する者や各分野の専門家」が何者かという疑問は、政府の審議会などの委員を見ればたちどころに氷解する。彼らは、大企業の息のかかった者であり、右翼「文化人」であり、政府の方針におもねる御用学者である。試みにこの「中間報告」をとりまとめた「調査検討会議」の委員たちを調べてみよう。「調査検討会議」は五つの委員会から構成されているが、そのうち「組織業務委員会」で副主査を務めているのは花王株式会社経営諮問委員会特別顧問、「目標評価委員会」の作業委員は「三菱化学株式会社顧問」、「人事制度委員会」の副主査は東京海上火災保険株式会社相談役、といった具合。要するに、学内の民主主義的慣行を破壊して大学を経営組織体化したいと考えている人々が役員に納まろうという訳である。
内側からの統制は役員にとどまらない。「役員以外のスタッフにも、学外の幅広い分野から専門家を積極的に登用し、大学の諸機能を強化する」。結局のところ、学内組織のあらゆる次元に学外者が送り込まれ、それらが一つの系統をなし、その頂点に文科相直属の監視官たる「監事」が位置することになる。
こうした学外者の投入は、実は運営組織だけに限ったことではないのである。「中間報告」では殆ど触れられていないが、企業から教授を迎え入れるための(例えば、博士号がなくても教授になれるような)「規制緩和」が進められており、こうした人事を可能にするためにも教授会からの人事権剥奪が狙われているのである。こうして産学官にわたって人的に融合していくような、しかし国家主義的な統制が確実に強化される方向で、学外者の直接介入があらゆる領域で進められている。
以上の通り、「中間報告」が示した国家主義的な統制強化の特徴は、学長体制の強化、「国のグランドデザイン」への従属、学外者の直接介入の三点に集約される。これは「国のグランドデザイン」に適合的な国策大学作りという国家主義的な目標があり、その方法としてトップダウン体制や評価=がんじがらめの監視、そして内側からの統制などが想定されていると整理することができる。
ところで、政府はなぜ大学に対してこうまでして国家に直結した統制を強化しようとするのだろうか。
それは、冒頭で「産学官総力戦」という言葉まで使われているということを紹介した通り、日本の企業の国際競争力を向上させる目的のためである。こうした目的は何も今に始まったことではない。高等教育に対する安定的予算の確保をサボタージュし、競争的予算の偏重などの予算誘導によって常に大学への圧力は続けられてきた。それが「総力戦」を布告するまでに切羽詰っているのは、グローバリゼーションのなかで国際競争が激化しているからにほかならない。予算誘導ではもう間に合わない、紛いなりにも「学問の自由」という憲法的価値を保障する「大学自治」に立脚した国立大学は法人化移行を通じた破壊的に再編することによらなければ急速な大学再編は困難である、という判断がなされているのである。これらの点については後述したい。
大学再編に貫かれたもう一つの側面が新自由主義的な競争激化である。「競争的環境の中で個性が輝く大学」という副題からも明らかな通り、98年に出された大学審答申にもこうした指向性は存在してはいたものの、あくまで「個性」などの聞こえのよい言葉が散りばめられていた(ただし「個性」とは、大学間格差の固定化を狙うものであることを見抜かなければならない)。そして競争を進める理由としても「世界的水準の教育研究の展開を目指して不断の向上を図り、切磋琢磨する状況が創出され、それぞれが“個性が輝く”大学等として一層発展していくことを願う」から、つまり大学の発展のためであるとしていた。「競争原理」が「切磋琢磨」にとって代わった背景にはグローバリゼーションの進展と不況の泥沼に落ち込んだ日本の経済状態がある。ベンチャー・ITが万能薬のように持ち上げられていた頃(もう懐かしい?)にも大学を新自由主義的に再編することが叫ばれていたが、そうした流れが「遠山プラン」に結実した。「遠山プラン」は明確に「競争原理を導入する」と断言し、「トップ30」と大胆な再編・統合を掲げた。各大学を生き残りをかけた熾烈な競争に放り込んで、重点投資組と自然淘汰組に分化させる宣言である。その狙いは副題が示す通り「活力に富み国際競争力のある国公私立大学づくり」にほかならない。
こうした側面はどのように「中間報告」に盛り込まれているのだろうか。「中間報告」は独法化の制度上の設計図であると前述した通り、競争原理を導入するための法人化を通じた枠組み破壊=一挙的な「規制緩和」の具体案であるから、それ全体が新自由主義のかたまりと言っても過言ではない。これは「経営面での諸規制が大幅に緩和され、大学の裁量が拡大するといった法人化のメリット」などと言っていることからも明らかである。大学再編とは、本質的に憲法的諸価値という防御壁を破壊し、やりたい放題をするたの「規制緩和」攻撃なのである。ここでは競争激化のための「規制緩和」攻撃という観点を踏まえて、三つの点について考えてみたい。
第一に、財政上の責任放棄と「自己努力」の強制である。国は「運営費交付金」を出すが、これは「各大学の自主性・自律性の向上の観点」から算定されるとしており、基準に従って一律に措置されるものではない。評価に基づいてあくまで「配分」される「資源」である以上、現在の水準が維持できる保証はないばかりか、ゼロ「配分」という事態すらあり得るのである。しかも各大学の理念や目標、特色や条件などによって弾力的に算定するとしており、自然淘汰に委ねたいという意図が示されている。このように、国立大学であれば「積算校費」(学生数や教官数、講座編成などの基準に従って一律におろされる予算)など当然国が負うべき財政上の責任を放棄している。
最低限の予算が確保されない状態となれば、各大学は大学を維持するために金策を巡らせることになる。方法は三つある。一つは評価を上げ予算配分に反映させることである。どんなことが評価アップになるのか。中期目標・中期計画というノルマを完全にこなすこと、「トップ30」入りを狙うこと、それが困難であると判断すればいち早く再編・統合すること、総じて文科省の方針に従い、独法化の圧力に全面屈服して競争に邁進することにほかならない。そもそも独法化の核心はまさにここにある。予算配分に直結した評価を通じて新自由主義的な「ラットレース」に国立大学を引きずり込む狙いである。
もう一つの方法は、「自己収入」の増加である。「自己収入」とは「学生納付金」や「付属病院収入」、さらに「寄附金」などであるが、「自己収入の増加に向けてのインセンティブを付与する観点」、すなわち「自己努力」の強制が掲げられている。そもそも学生が支払うのは「授業料」と「入学金」であったものが、「学生納付金」という言葉にすり替えられて、金策に頭を悩ませる大学の「自己努力」し得る財源として提示されている。つまり、学費値上げで穴埋めせよ、ということである。この「学生納付金」はなにも学生関連予算の充実のために使われるのではない。「施設整備費」に「自己収入」を充ててもよいとしており、学費値上げは「施設整備」に使われるのである。財務省に置かれた財政審議会では、「国立大学施設整備緊急五ヵ年計画」を踏まえて「国立については施設整備費を徴収していないということでございますので、名目はともかく、施設整備に充てられるような学生納付金の相当程度の引上げを、今回検討すべきではないかなと考えて」いる。独法化で学費値上げということが危惧されて久しいが、ここにきて学費が値上げされる根拠とその使途まではっきりしてきた。
三つ目の方法は「大学自らの総合的・戦略的な判断に基づき、産学官連携を推進すること」である。下請け研究機関として使ってくれる主人を捜し当てろ、という訳であり、例えば予算もないから地域産業界の研究所として生き延びようという「戦略的な判断」を要求しているのである。尾身科学技術担当相は「産学官連携サミット」について「お見合いパーティー」であると言った。これは地方版サミットも行われており、地域産業界への「身売り」へと誘導する狙いが明らかである。「身売り」の先には、民営化が控えていることは言うまでもない。
「規制緩和」攻撃の第二点目として挙げられるのは、雇用形態の破壊=教職員の身分の不安定化である。教員に対してはすでに任期制導入が法整備されているが、これをさらに推し進めるために「任期付教員の給与を優遇する等、任期制ポストへの異動を促進するような給与体系を設ける」としている。同時に、裁量労働制(ノルマを設定する労働契約で、労働時間の概念がない。「労動基準法」改悪でほぼ全ての職種に適用可能となり、民間企業では現在サービス残業を合法化する目的で導入されている)の導入が掲げられている。こうした雇用形態の破壊は、年俸制など成果主義に基づく給与体系の導入とセットである。これらは全て民間で行われているリストラの手口を全面的に導入しようとするものにほかならない。こうした身分の不安定化をいっそう容易にして競争を激化させるために、教員の身分を保証する根拠法となっている教育公務員特例法の適用を逃れるための「非公務員化」が挙げられている。
任期制ということは、一定期間の研究のためにだけ教員となる制度を設けるということであり、教育と研究が一体化すべき高等教育機関である大学の姿ではない。任期制の狙いは次の一文から明らかである。「外部資金を活用した研究プロジェクトを推進するため、競争的研究費を、当該プロジェクトを担当する任期付教職員の人件費に充当できることとする」。これは研究プロジェクト毎に教員とは名ばかりの研究員を雇うということである。つまりその狙いは、大学の下請け研究機関化にほかならない。
こうした雇用形態の破壊をなぜ強行しようとするのか。「中間報告」は人事制度設計の視点として「国際競争に対応し得る教員の多様性・流動性の拡大と適任者の幅広い登用」を掲げている。つまり、グローバリゼーションにおける国際競争で勝ち抜くための研究要員の迅速な配置と使い捨てを求めているのであり、これはリストラの嵐のなかで叫ばれた「雇用の流動化」と同一の内容である。使い捨ての狙いは次の一文から読み取れる。「法人化により教職員の定員は、従来の手法による定員管理の対象外となる」、つまり競争的資金を使った研究プロジェクトが多ければ定員以上になることもあるが(研究室が足りなくても詰め込む)、逆にいくら首切りしても問題ないということである。
また、こうした雇用形態の破壊は、結束の前提を掘り崩すという側面もある。特許権や給料に直結する成果を競い合う殺伐とした大学がもたらされるだけでなく、勤務形態もバラバラになって顔を合わせる機会も激減する。その結果、教授会を中から崩壊させ、学長のトップダウンが100%貫徹することになる。大学当局にケチの一つもつけられない教員たちばかりになるだろう。
結束の前提を掘り崩すという側面においては、むしろ職員のほうが深刻である。「既存の職種の画一的な区分を越えて、専門性の高い職種に従事する職員が高いモラールを維持できるように、各大学の実情に即した多様な職種を自由に設定できることとする」として、身分をバラバラにして待遇改善のために団結することを困難にさせようとしている。ところで「モラール」とは士気のことであり、企業戦士ならぬ「産学官総力戦」を戦う研究戦士として想定されているのだから、この「大学」像は恐るべきものといえよう。
第三に、部署まるごとのリストラである。5月に小泉首相が国会答弁で大学民営化に言及したが、「中間報告」もまた、分社・子会社化、外注化、民営化など、リストラのあらゆるノウハウが大学の運営組織にも応用できるように抜け道を用意している。これも国立大学をいったん法人化してこそ可能な裏ワザである。「教育研究組織等の一部を国立大学法人本体から独立させ、特性に応じた弾力的な運営を可能とする仕組みを創設」したり、「特定の施設を国立大学法人(仮称)から独立させ、別の種類の法人とするとともに、必要に応じて国立大学法人(仮称)がこれらの法人に出資できることとする」としており、「業務のアウトソーシングによる効率的な運営や弾力的な事業展開の実現」を掲げている。これに従えば、教務課や学生課などの事務組織や図書館などは部署まるごと切り離されて外注化されることが明白である。それに伴って職員の身分も自動的に非公務員化されてしまう。それだけではない。6月1日付日経新聞によれば「教育研究組織等の一部」の範囲は制限されておらず、大学まるごとの民営化も可能だというのである。
こうしたリストラは、問答無用で雇用形態を破壊するために使われてきた手口である。そのためにこそ大学への導入が狙われているのであり、この第三点は上に述べた雇用形態の破壊とセットであるといえる。
新自由主義的な競争激化は、大学の経営組織体化を狙うものである。つまり「教育を受ける権利」という憲法的価値を国が保障するための国立大学という枠組みを法人化によって破壊し、産学協同に邁進させられる「下請け研究機関化」への組み替えを狙うものである。そこに貫徹されるのは、民間企業でほしいままにされている新自由主義的合理化政策であり、投資の見返りを要求する成果主義、またそうしたあり方への批判をあらかじめ封殺するための(もはや「切磋琢磨」ですらない)殺伐たる競争主義なのである。
(間に合いませんでした)
ここまで大学再編に貫かれた二つの側面、すなわち国家主義的統制強化と新自由主義的競争激化について「中間報告」を手掛かりに考察してみた。そしてそれらの両側面が、大学の姿を劇的に変えることも明らかになった。さらにそれが「破壊的再編」であることも触れた。ここでは「破壊的再編」という点について考えてみたい。
「破壊的再編」といったとき、現在推し進められている大学再編が、既存の大学のあり方を打ち壊すその乱暴さだけを指しているのではない。既存のあり方が「学問の自由」や「教育を受ける権利」といった、「基本的人権の尊重」に連なる憲法的諸価値に立脚したものであるにも関わらず、それを下請け研究機関に置き換えるという、憲法的諸価値の破壊として大学再編が強行されているという意味においても「破壊的再編」と呼ぶべきものである。さらに言うと、この再編は「政策」というよりも産学協同の徹底化など貪欲かついかんともし難い利潤追求の結果行き着いたものであり、これは(大小の)破壊を伴わざるを得ない資本運動そのものなのである。それゆえ大学再編は、現象としては「大学自治」への攻撃として現れているし、独法化反対運動の一致点もこの「大学自治」擁護ということになる。しかしやはり、制度としての「大学自治」擁護にとどまってしまっては、この「破壊的再編」を食い止める理論としては不充分であるし、また事実上、殆ど形骸化した「教授会自治」が「大学自治」を代表しているような現状では尚のこと弱々しい。「大学自治」とはあくまでも手段であり、その目的は「学問の自由」の保障である。大学再編が本質的に憲法的諸価値という防御壁を破壊し、やりたい放題をするたの「規制緩和」攻撃であるとしたとき、その「緩和」される規制、破壊される防御壁こそが「学問の自由」である。この「学問の自由」が何によって、なぜ脅かされており、何によってとって代えられようとしているかを見極めてこそ、「大学自治」擁護は「破壊的再編」を食い止める力になり得るのである。
「学問の自由」を脅かすのは資本である。それも切羽詰って「産学官総力戦」などと凶暴化した資本である。官僚は表に立ってそれを請け負っているに過ぎない。この基本的な点を押さえない限り、大学再編は単なる現象か「政策」としか理解されない。そうなると、推し進められている「大学再編」に対して対案=よりよい「大学改革」を対置しようとする衝動を捨てることができなくなる。その結果は、「大学再編」の土俵に乗せられた国大協のようにからめ取られてしまうのである。
「学問の自由」を脅かすのは、これが社会変革の批判精神をときの権力から守る防御壁として機能する限り、大学を「国のグランドデザイン」に従属させて自由自在に活用することが出来ないからである。この狙いは、すでに紹介した佐賀大学教職員組合が指摘する通り、明治時代の「大学令」そのものである。歴史的な経緯を振り返れば、そもそも「学問の自由」とは侵略戦争に大学が加担してしまったことへの反省から生まれた。であればこそ平和主義を一つの柱とする日本国憲法に盛り込まれたのであり、「学問一般の自由」ではない。「大学令」に基づいた旧帝国大学の行き着いた先は侵略戦争への加担だった。極言すれば、「学問の自由」とは今度こそ侵略戦争に加担しない決意を固めた「学問」の自由なのであり、別に物好き教授の道楽を保障するためではないのである。現にアフガニスタンへの空爆が始まり、自衛隊が戦時としては初めて海外派兵されるこんにちにおいて、時代錯誤では済ませない鋭い視線が「学問の自由」に求められている。であればこそ、戦争に突き進む政府がますます「学問の自由」を脅かそうとするのは自明の理であろう。
それでは「学問の自由」を破壊して何をもって置き換えようとしているのか。それは下請け研究機関兼労働力養成所である。つまり大学を、技術開発と学生=新たな労働力の養成という両側面から資本の要求に応える場所に完全に作り替えようとするものである。これは「学問の自由」とも「教育を受ける権利」とも両立し得ない。であればこそ、憲法的諸価値の破壊はますます避けて通れないものとなる。そして大学再編の向こうには憲法改悪が控えている。
改憲問題はしばしば第9条が焦点になるが、何も第9条だけが改憲の標的なのではない。国民主権・平和主義・基本的人権の尊重をベースにした憲法体系総体が標的なのであり、大学再編と同様に改憲攻撃のなかにも国家主義的な統制強化と新自由主義的な競争激化の両側面が織り込まれていることに注意せねばならない。
「大学自治」を破壊する大学再編をこのように考察していくと、その真の狙いも浮かび上がってくる。その手掛かりは「中間報告」のなかにも散見される。「国際競争力」というキーワードがそれである。
社会主義世界体制としてのソ連・東欧の崩壊と前後して、90年代に入ると多国籍企業の世界展開が本格化する。多国籍企業の海外進出。それは、モノだけでなくサービス、カネが大規模に国境を越えることを意味した。さらに有り余って行き場のないマネーがより利潤率の高い投資先を求めて投機的に世界中を駆け巡るようになった。国際金融資本の金儲けのためにあらゆる国内的・国際的「規制」が緩和され、「国境」までも変質され始めたのである。それを目に見える形にしたのが自由貿易の司令塔として強制力を付与されたWTO(世界貿易機関)の発足(95年)であり、また97年に発覚した「多国籍企業の権利憲章」=MAI(多国間投資協定)構想であった。地球規模でのこうした資本運動がグローバリゼーションにほかならない。
このグローバリゼーションは必然的に企業同士の国際競争を引き起こす。このメガコンペティション(大競争)のなかで企業が生き残りを図るには、国際競争力を確保することが必要であるが、そのためには基本的に二つの方法しかない。一つは技術革新であり、もう一つはコスト削減である(競争に勝つために競争という方法を経ない場合、すなわち軍事力での脅しという方法もあるが、ここでは触れない)。いま、グローバリゼーションに対応した、一刻の猶予もならない国際競争力の向上のために大学が完全に資本の従属下に置かれようとしている。技術革新のための研究、技術開発をする下請け研究機関化、そして資本が必要とする質を有する「人材育成」を企業研修に代わって代行してくれる格安の労働力養成所化。これが大学再編の本質である。
国際競争力のための下請け研究機関である以上、その研究成果は下請けとはいえ「中間報告」が繰り返すように「世界最高水準」でなければならない。「トップ30」だけがこのような下請け研究機関となることができる。それ以外の大学は、様々な用途に特化することが強制される。セールスポイントがない大学は自然淘汰の洗礼を受ける。この点は、「21世紀初頭の社会状況を展望」した大学審答申が、すでに「多様化・個性化」のキーワードで「総合的な教養教育の提供を重視する大学、専門的な職業能力の育成に力点を置く大学、地域社会への生涯学習機会の提供に力を注ぐ大学、最先端の研究を志向する大学」などいくつかの類型を提示している。これらの類型は、実は95年に日経連が打ち出した雇用の三類型(管理職が該当する「能力蓄積型」、研究職など契約社員が該当する「高度専門能力活用型」、フリーターなどその他大多数の「流動型」)に照応したものにほかならない。こうして、「トップ30」は主に「能力蓄積型」と「高度専門能力活用型」の一部、「トップ30」以外の大学は、「高度専門能力活用型」から「流動型」までに照応する格安の労働力養成所として位置付けられるのである。
これを「養成」される学生の側から見れば、大学に「学ぶ権利」を行使する主体として入るのではなく、学費が大幅に値上げされたうえに就職するためのスキルアップを強制されることを意味している。これまでならば社内研修や実際の仕事を通じて習得されてきた職業上の知識や技能が、「自己負担」であらかじめ身につけておくべきものとされ、国際競争力向上のためのコスト削減のしわ寄せに直撃されることになる。そればかりか、すでに述べた通り、緊急施設整備費まで学費値上げで賄われようとしている。いま緊急に整備されるのは国際競争力の向上に必要な施設にほかならない。学生は、国際競争力向上のために、二重三重にしわ寄せを被らなければならない。実際に大学再編の地方トップランナーである山梨大学では10月に学生126名に対して退学勧告を発した。学生を「学ぶ権利」を行使する主体としてではなく、まして大学の構成員としてではなく、まさに「品質管理」の対象として見なす流れはますます強まっている
だが、それで終わりではない。卒業後も過酷な競争主義に陥れられた挙げ句、リストラされれば再び大学に、今度は「再教育」のために、やってくる羽目になる。現に、社会人入学枠は年々拡大している。資本の求める労働力の質を常にキャッチアップするために、死ぬまで自己負担で「教育」を強要されるのが、格安の労働力養成所である。
グローバリゼーションにおける国際競争力向上のために、完全に資本の従属下に置かれた下請け研究機関兼格安の労働力養成所へと大学を組み替えること。その障害となる憲法的諸価値の「規制緩和」=破壊。これが大学再編の本質にほかならない。そしてこのように位置付けられた大学再編がもはや大学だけの問題ではなく、憲法改悪へと連なる国家的な再編の一環であることは明らかであろう。
いまや大学再編は「小泉改革」の重要な柱として位置付けられている。それは「遠山プラン」が経済財政基本方針(いわゆる「骨太の方針」)に組み込まれ、さらに9月26日に公表された「改革工程表」に引き継がれたこと、また「改革工程表」の細部の具体案として「中間報告」が位置付けられていることからも確認することができる。
「改革工程表」では、「雇用対策」や「科学技術・ベンチャー」、「人材育成・教育」などの分野で大学が登場する。これは下請け研究機関兼格安の労働力養成所として大学が再編されることを裏付けるものである。具体的に見てみれば、以下の通りである。
「雇用対策、中小企業対策、セーフティーネット」としては、大学・大学院等を活用した中高年失業者の職業能力開発、奨学金拡充などが挙げられている。
「科学技術・ベンチャー」分野では、大学発ベンチャーの育成、産学官連携サミット、技術移転機関(TLO)の活用、大学の施設整備、競争的研究資金の拡充など、総じて産学協同のための方策が並べられている。
「人材育成・教育」分野では、「トップ30」育成のための第三者評価と重点投資、再編・統合、そして早期の法人化である。「遠山プラン」がそのまま反映されていることが分かる。
特にここで検討の手掛かりとなるのは「雇用対策」に大学が組み込まれたことである。
「小泉改革」の特徴は、「痛みを伴う構造改革」というスローガンにも明らかな通り、失業率が過去最高の水準で推移しつつ、ただでさえ不況のしわ寄せが重くのしかかる多くの人々にさらなる「痛み」を押し付けようとする点である。弱肉強食の資本主義本来の凶暴性を解き放つために「規制緩和」をして、新自由主義的な秩序へと再編する流れを「小泉人気」のあるうちに一気に強行しようとしている。それだけではない。「規制緩和」によって新自由主義的な資本の自己運動が拡がるだけでは生ぬるいと言わんばかりに、リストラ優遇措置、不良債権処理(不良債権がなかったときなどなかった筈だ)など、政策的に新自由主義へと誘導しさえしているのである。新自由主義的なものに限らず、例えば「庶民の楽しみ」である発泡酒やタバコの増税(一箱40円も!)と引き換えの土地譲渡益減税計画など、そのターゲットが弱者に絞られていることが明らかである。「痛みを伴う構造改革」ではなく、「痛みを狙う構造改革」と呼ぶ方が正確だろう。
このような危険な「小泉改革」は、まだこれからが本番である。にも関わらず、いち早く日本がデフレスパイラルに陥って世界同時不況に突入したこんにち、「痛みを狙う構造改革」が本格始動する前にすでに失業率は過去最高の5.3%にまで上昇している。100万人以上の失業者をもたらすと試算されている不良債権処理が本格化すれば、失業率10%時代が到来するのは確実である。いや、現実には失業率10%を越えているという統計もある。今年9月に内閣府政策統括官室が調査した結果、失業率は10.4%、失業者数は738万人にのぼっていることが判明した。彼らはそれでもお構いなしである。なぜなら大量失業は賃金カットの特効薬であり、すでに述べたような国際競争力向上の方法の一つであるコスト削減の目的にぴったり合致するからである。
とはいえ、失業者を放置しておく訳にもいかない。増大する失業者の不満がどのように「社会不安」を引き起こすか分からない、という意味ではあるが。そこで自ら引き起こした失業への対策が「小泉改革」にとっての難題になる。かといって新たな職は、少なくとも「痛みを狙う構造改革」を断念しなければ生み出すことは出来ない。現政権はそうした考えは全くない。結局、大量失業と「社会不安」のバランスをどうとるか、ということに行き着くのである。生活保障もそこそこに失業者をなだめすかすには?これまでならば「自己責任」論理を振りかざして失業者個人の問題にすりかえればよかったが、ここまで大量失業になるとなかなか通用しない。そこで、「転職」を人生の新たなステップと思わせること、「(腹が減っても)プラス思考」という路線が台頭してきた。失業者に転職・再就職の淡い希望を持たせること、失業状態は短期的に済みそうだし、この新たな職探しが後で役に立つというようなイデオロギーを広めることが、手っ取り早い方法である。
だがこうしたイデオロギーをただ広めているだけではあまり効果がない。そこで実際に再就職も可能であるかのような取り組みが必要となる。大学を使った「再教育」がそれである。
学生を、学生の自己負担で、資本の必要とする多様な質の労働力へと育てるための格安の労働力養成所に大学を変質させることが大学再編の狙いの一つであることはすでに述べてきた通りである。ここに、失業者の大群=「再教育」組が押し寄せる。もちろん、大学での「再教育」に手が届く失業者層というのは必ずしも多数ではない。元大卒のいわば高級失業者と言ってよいだろう。だかともかく、世代を超えた就職合戦の場に大学が変質することだけは間違いない。すでに、多くの私立大学では単位認定に関わらず「社会人教育」「資格講座」などのコースが設置されている。また英会話学校などでは政府の給付金(最大8割)で「英会話」を習う多くの失業者がいる。「小泉改革」は、こうした失業対策における「(腹が減っても)プラス思考」路線の中心に大学を位置付けているのである。
これが機能しなければ、失業者の大群によって「小泉改革」は瞬時に破綻してしまうのである。もちろん、労働者の権利を奪うこのような改革が憲法違反の先取りであることは言うまでもない。全社会的に推し進められている憲法改悪の流れのなかに、大学再編が、そして「小泉改革」が位置していることもまた明らかである。そして上のように例えば「雇用対策」一つを取り出して検討してみれば、大学再編が大学だけの問題にとどまらないことはますますはっきりするのである。
以上の通り、「規制緩和」、「下請け研究機関化」、「労働力養成所」、「破壊的再編」、「憲法的諸価値」、「国際競争力」、「グローバリゼーション」などのキーワードに拠りながら、「小泉改革」の重要な柱として、国家主義的統制強化と新自由主義的競争激化の両側面を内包する現在進行中の大学再編について考察した。最後に、この破壊的再編に対する反撃の方向性を提起してこの小論を終えたい。
まず前提として、独法化を中心とした大学再編が急展開しているという認識の重要性を重ねて強調したい。政府・文科省から「改革工程表」と「中間報告」が公表されて、独法化は法制化に向けて新たな段階に突入した。法制化を前提とした検討の期限は今年度いっぱいで、内容がはじめから明らかな「最終報告」をアリバイ的に受けてから次期通常国会に法案が上程される見通しである。その後速やかに法人に移行し、このままでは2003年から「国立大学法人」に衣替えすることになる。従って、仮に独法化されても大学再編反対の運動は続くとしても、これからの半年が独法化反対運動の正念場といってよい。法人化を許せば、次の次の新入生は、私たちが経験してきた大学とはもう全く違う空間に入学してくるのであり、極端な見方をすれば、「国立大学法人」が当たり前の新入生たちと意思疎通する言葉の多くを失うかも知れないという危機感が、前提的に求められる。
その上でまず、この破壊的再編が制度のうえで標的にしているのが「大学自治」であることを捉え、どんなにみすぼらしくなっていても「大学自治」を擁護することが反対運動の側に求められる。様々な立場の違いこそあれ、「自治」を売り渡すのか、手放さないのか、この一線は決定的に重要である。そしてこの「大学自治」擁護は、単に保護するだけでなく、その内実をあらゆる次元で高めていく取り組みとセットでなければならない。様々な「確認書」や「憲章」など宣言的なものは、それを実体化する現実の力があって初めて有効なのであって、さもなければ本当に紙切れに過ぎない(かといって自分から手放してはならない)。特に大衆的に「大学自治」への関心を喚起し、そこへの参加を促していくことが重要である。さらに一口に「大学自治」といっても、そこには様々な立場の違いがあることも見落としてはならない。学生と教職員は本来ともに運動していけるし、またそうしなければならない反面、現実には学生や職員に対するしわ寄せによって教官がダメージを緩和しようとしている場合が多々ある。駒場寮の例がまさにそれであり、今年2月に明渡し強制執行攻撃を受けた山形大学学寮も同様のケースである。であればこそ、一足飛びに「大学人一般」が「大学自治」に向かうことは全くできない。それぞれの立場で、学生であれば「学生自治」を、職員であれば「職員組合運動」を、そして教官であれば「教授会自治」の民主化を、それぞれ取り組む必要がある。「教授会自治」のために駒場寮から叩き出された者として私は断言する。「大学自治」は擁護されねばならないが、「大学自治」によって「学生自治」が弾圧されることは絶対に許さないし、また現実には換骨奪胎されてそのように機能している「大学自治」の本来のあり方を奪い返すために、弾圧されている「学生自治」をますます発展させることこそが、真の「大学自治」擁護である、と。ともかく、それぞれの立場からする取り組みこそが、結果的に「大学自治」を守り抜くという一致点を明確化し共有化する道であるし、また運動の足腰を大衆的に鍛えることを通じて「大学自治」を守り抜くための道となるに違いない。
「大学自治」擁護の一致点からさらに進んで、大学だけの問題ではない大学再編に立ち向かうために、私たちはこの破壊的再編の本質に立ち入らねばならない。この小論もそれを念頭に置いて書かれたものである。大学再編は、憲法的諸価値に立脚した大学のあり方を破壊し、資本の完全なる従属下にある下請け研究機関兼格安の労働力養成所に作り変えるものであるとしたとき、これに反対する運動は、憲法改悪阻止の統一戦線を志向するものでなければならない。運動論的な観点からすれば、この本質から目をそらし、あたかも大学だけが社会から遊離・独立した「聖域」であるかのような、行革の論理は、あるいは管理の論理は「大学になじまない」論で独法化に反対することは、この問題を社会問題化する道・学内外の連帯への道を自ら閉ざすものと言わざるを得ない。また道義的にも、侵略戦争の敗北・世界的な反ファシズムの勝利がもたらした成果物である日本国憲法を、国立大学の存続のためだけに引き合いにだすことが許されるはずがない。まして憲法的価値である「学問の自由」の制度的保障である「大学自治」の擁護は言うが、その本体である憲法そのものへの改悪策動という現実に対する反撃を、独法化反対のなかから発展させることを目指さないとすれば、一体何のために「学問」をやっているのか、ということになろう。この運動は憲法的価値に並大抵ではなく支えられているということに対する自覚がもっと必要である。
また改憲策動を先取りするものとして大学再編もまた推し進められ、それを推進する「小泉改革」の凶暴性(資本の「常識」で全てを押し切り、議論するポーズすらない)が明らかであるいま、反対運動の側は、「よりよい大学改革」はあり得ないことを確認し、まして「よりましな法人化」で逃げ切ろうなどという淡い期待は一切捨て去り、反対、それも断固反対を正面から掲げることが必要である。
学生運動について若干具体的な提起をするならば、毎年恒例の学費値上げ反対と、正念場を迎えた独法化反対との結合がいまこそ必要である。すでに「中間報告」が学費値上げ・学部別授業料導入の根拠を明示し、財政審議会がその理由を「緊急施設整備五ヵ年計画」であることをはっきりと打ち出している。学費値上げ反対と独法化反対の結合が大衆的な認識の深まりをもたらす条件が、かつてなく熟している。これを捉えて大学再編に破裂口を切り開き、憲法的諸価値の擁護・改憲阻止に結び付ける可能性は充分ある。一見した運動の沈滞よりも、むしろこうした戦略の不在こそが重大である。独法化反対運動は、一部の地方大学では成功裏に進められている。こうした事例に学びつつ、「何のための学費値上げなのか」を繰り返し問いかけるなかから、運動発展の展望は切り拓かれる。私たちのいる駒場キャンパスでも、5月の学生投票で独法化反対が7割以上の支持を得て批准される運動を学生自治会が主体となって作ってきた。99年12月にも学生投票で独法化反対が批准されたが、独法化=学費値上げ一本槍だったその当時よりも運動は前進している。この流れをさらに前へ進めることこそが、駒場の学生に課された責務であろう。「厚遇」が保証される東大で独法化反対を表明することは、学費問題という経済的要求を超えて本質を見抜くことを意味すると同時に、全国の国立大学、とりわけ再編・統合のターゲットにされている地方大学で民主主義のために奮闘する学生・教職員への連帯表明であることを私たちは一時たりとも忘れてはならない。「別に東大は大丈夫」という声もあったことを思い起こすべきである。そうした発想を蹴って連帯に進むことができるのは、敏感な青年学生の特権である。
非常に憂慮すべきは、こうした情勢であるにも関わらず、独法化反対をはるか後景に押しやろうとしているのではないかと思われる流れである。奨学金運動がそれである。給付型奨学金の要求や大学院生の免除制度廃止への反対など、必要でない訳ではない。だがしかし、いま本当に奨学金制度が独法化以上に危機的状況にあるのか。奨学金廃止を主張しているのは、行革推進事務局など政府のなかでも一部であり、その構想は文科省のサボタージュで検討すら着手されていない。「小泉改革」の指針である「改革工程表」に示されている通り、大勢は新自由主義的な選別を通じた奨学金の欺瞞的拡充なのである。いま、そこまで踏み込まない奨学金運動であれば、それは自作自演のそしりを免れないであろうし、まして奨学金運動で独法化反対をもって代えるとしたならば、絶対に許されない。そもそも、独法化を許して学費が大幅に値上げされてしまえば、スズメの涙の奨学金など何の役にも立たないのである。
さて、独法化阻止が改憲阻止統一戦線に合流すべきというところ話を戻せば、この改憲策動がなぜ急ピッチになっているのかにまで踏み込む必要があろう。これについてはグローバリゼーションにおける国際競争のなかでの日本資本主義の生き残りをかけた国家再編であることに触れてきた。であるがゆえに、破壊的再編のあとには産学協同の徹底化が用意されている。私たちはここで、国際競争力と決別する決意を持たなければならない。特に、国大協が国際競争力幻想に完全にからめとられてしまい、このままでは「国が滅びる」などと狼狽するありさまとなっているいま、反対運動の側は、ことは大学だけの問題でもなければ、一国だけの問題でもなく、グローバリゼーションにおける国際競争力の強化という日本資本主義の要求に基づいたものであるという点を明確に踏まえる必要がある。
実際、現在推し進められている大学再編と極めて類似した例は世界各地で見ることができる。韓国における大学「構造調整」は日本のそれに酷似している。私立大学と国立大学の学費値上げのイタチごっこから、独法化は「独立会計制度」、「トップ30」は「BrainKorea21」、教員養成系の統廃合に至るまで、そっくりである。日本で大学再編が容易に進んでしまえば、外国で大学再編と闘っている人々が不利になるというインターナショナルな観点が求められる。世界の闘いの足を引っ張ってはならない。
独法化をはじめとして大学再編を大学だけの問題として矮小化しようとする政府の意図に対抗して、グローバリゼーションにおける改憲策動=国家再編の一環であることを対置するとともに、自治の内実を築き連帯の輪を広げることが、破壊的再編に立ち向かう今後の独法化・大学再編反対運動の基調となるべきである。学内、そして学内外にわたる連帯の接点を次々と見出していこう。その際のスローガンを提起してこの小論を終えたい。
「日本資本主義が国内外で搾り取るための道具として搾り取られることを拒否する!」
(※この小論は、11月19日未明、東大駒場寮テント村で完成したものである----執筆者)