新潟大学の森田竜義氏が,文通団「大学改革情報」「大学改革の課題と展望」と題する内田博文氏の講演の要旨を提供されました.内容に重大な問題があり,批判がきわめて重要です.直接話を聞かれた方による批判がベストだと思いますが,まだなされていないようなので私がコメントさせていただきたいと思います.
 もちろん私はこの講演に関しては第三者であり,次のコメントも森田氏の記事だけを根拠としていますので,その正確さが前提になります.
 かりに森田氏によるテキストに講演者である内田氏が不満を持ったとしても,すでに公然とこのテキストが流通している以上,第三者の批判の対象となりうると考えます.そうでないと内田氏の講演の「全国中継」だけが許されてその批判ができないという不公平が生じるからです.

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「国家存亡の危機」,コップの中での再演

新潟大での内田博文氏の講演を批判する

佐賀大学理工学部 豊島耕一 

 内田博文講演の本質は権力による脅迫の代行である.文部省や自民党などが同じ事を言えばそれが見え見えだから,「身内」のものに代弁させて,「命が惜しかったら言うとおりにした方がいい」と言わせているのである.「終末論」はカルト教団の「布教」とマインドコントロールの重要な心理手段だが,冒頭の「国立大学は存亡の危機に置かれている」というレトリックに代表されるようにこれもしっかりと組み込まれている.このような言い方は,たとえば過去の戦争において,「国家存亡の危機」だから,何でもお上の言う通りにせよ,といった形で使い古されていると想像される.言う通りになった結果が実は滅亡だった.歴史家は事実だけでなくその種の言辞も発掘してサンプル展示をしてもらいたい.そのことは内田氏の,そしてこれから多くの学長や学部長らがそれぞれの評議会,教授会でふりまくであろう同種の言説の害毒を無害化することに役立つはずだ.言葉はふつう事件を記述するためのものだが,時として「事件」そのものともなる.

 内田説の致命的な誤りは次に要約される.内田氏は,「改革」をしないと「行政法人化」されてしまうというのだが,しかし後者の目的は公務員減らしである.いかに「学長リーダーシップ」体制を作ろうと,「大学評価」を行おうとそれが直接公務員減らしに貢献するわけではない.したがってそのような「改革」をどれだけやろうとそれが「行政法人化」を防ぐ理由には全くなり得ないのである.ところが内田氏はこの二つを完全に結びつけて,「改革」をすれば「行政法人化」を防ぐ望みがあるかのように言っている.もしこれに気付きながらわざと言っているとすれば彼はデマゴーグ(扇動政治家)であるし,もし気付かないのならお粗末である.公務員減らしの目的にかなう「改革」とは,個別の大学にとっては理想的には廃校(つまり自殺),次善の策が規模縮小であり,あるいは私学化,自治体移管で,これら以外にはありえないのだ.

 内田氏の説教にもし意味のあるメッセージが含まれるとすれば,それは,いくつかの大学がそうなることは避けられないので,各々「改革」にコレ勤めることで,自分の大学だけでも「行政法人化」という悪いくじを引かないようにしましょう,ということだろう.だとすると,九大に籍を置く内田氏としては新潟大学よりも自分の大学により忠実でなければならないから,この問題での最も機微に触れる情報は隠しているのではないか,という疑いがつきまとうのである.彼の説では国立大学がこの問題では互いに敵どうしになると想定されているので,「敵」に塩を送ってはならないはずだからである.

 内田講演の問題点の2番目は,「省庁改革推進本部」の方針への無批判と無条件の受け入れである.それにとどまらず関係法律の拡大解釈までしようとしている.内田氏は「省庁等改革基本法の43条は、自主改革すれば独法化の対象からはずすが、改革がなければ独法化することを法律で規定し」たなどと言っているが,そんなことが書いてあるわけではなく,これは脅迫目的の解釈以外のなにものでもない.法律案の段階で批判するときにはその危険を最大限に訴えなければならないが,成立後はできるだけ危険を最小化するように法律条文の字句に厳格に政府をしたがわせることに心を配る,という「転換」が法対策の鉄則のはずだ.これが内田氏では逆さまなのだ.

 ところでこの43条の第2項は,「政府は(国立大学の)改革を推進するものとする」というのがその構文であるが,これは教育基本法10条違反である.「政府が改革する」ということを文字どおり読めば,たとえば政府がある大学のA学部とB学部の合併を命令する,ということである.このような解釈が可能な条文である以上,10条違反は明白だ.内田氏の専門が法律関係であるのなら,このような問題点をこそ指摘すべきだろう.さらに,「省庁再編法で独立行政法人化は可能か(reform:1065)」で指摘したように,この法律が国立大学の「行政法人化」の根拠になりうるかさえ疑問なのである.ついでに言えば大学は行政機関ではないので「行政法人」という名前からしておかしい.

 ここまで「独立行政法人化」ではなくあえて「行政法人化」として「独立」の2文字を削った呼び方をしてきたが,それはこの制度が「独立」の名に値しないどころか「行政従属」法人と呼ぶべきものだからである.繰り返すが,言葉の使用は事件の「記述」だけではなく「事件」そのものである.そこで「従属行政法人」ないし「行政従属法人」と呼ぶことを提案したい.

 3番目の問題点は国立大学と私立大学との対立を煽っていることである.いわく「古典的な〈文部省〉対〈国立大〉の図式では理解でき」ず,「〈私立大〉対〈国立大+文部省〉が現在の基本的図式である」というのである.

 国立と私立の間には何の矛盾もないとか,予定調和的であるなどと言うつもりは全くないが,同じ「大学」として連帯の可能性に向かう議論をこそすべきなのである.どちら側もいやしくも「官」との「連帯」などを求めてはならない.この場合それは癒着の別名だからだ.ところが内田氏は私学との分断のついでに国立大学と文部省とを一体化させてしまった.「国大協と文部省は二人三脚で第三者評価を進めている」とは恐れ入った.国大協は文部省と完全に癒着してしまったようだ.こけるときは一緒というわけだ.国大協はこけても良いが,われわれまで道連れは困る.

 最近の映画「恋に落ちたシェイクスピア」では,王権の弾圧に対して二つの劇場が「競争」ではなく連帯したが,内田氏は国立と私立の間での抗争を容認するだけでなく,「王立大学は王権と密着せよ」と言っているわけだ.逆ならばともかく,これでは面白くもない.

 それでは「行政法人化」問題に関してわれわれはどう対処すべきなのだろうか.

 まず何よりも,国立大学の設置者は国である,つまり国民全体であるという根本原則を忘れてはならない.その総意が我々の意に反するとしてもそれはやむを得ないものとして受け入れる覚悟をするべきなのだ.これに逆らってまで何がなんでも現体制を維持しようとすれば他のところに無理を生じ,もっと悪い事態を招く.

 そうは言っても「行政従属法人」化は悪政である.大学自治のほぼ完全な破壊である.(私学化の方がまだましだ.)出来るだけの努力をしてこれを避けるべきだが,問題はその努力の中味だ.文部省のいいなりになっておけばいい,つまり「答申」にしたがえばいいという考えは間違いだ.いくつもの反対声明で指摘されたように「答申」の内容の多くが大学に対して有害である.そうではなく,ユネスコ宣言など,それこそ「グローバルスタンダード」(問題のあることばだがここでは敢えて使おう)に準拠しながら,大学のかかえる問題点を学生とあるいは市民とともに明かにして本当の改革を国民に真摯に訴えることだ.(もちろん「答申」にも顕微鏡で探せば良いことがいくつか見つかるかも知れない.)たとえそれが文部省や大学審の意見と違っていても,学長や教授会などの大学の正式機関が公然と発表すれば,マスコミも無視できないはずで,世論への影響も決して小さくはないだろう.そして大学をめぐる事態が真に衆人環視となれば,文部省も簡単には裏で大学を締め付けるというわけにはいかなくなる.

 回り道のように見えるかもしれないが,大学人らしい真摯な態度こそが本当の国民的理解や信頼を得る道であり,実は「行政法人化」阻止の最も確かな戦術でもあるのだ.研究者,教育者であるわれわれが政治家のまねごとをして術策の世界に深入りすれば「曲学阿世の輩」にもなりかねない.政治家でさえ「愚直」を,たとえ口先だけにせよ言う時代である.

 これに対して内田説にしたがって「改革」すれば何が起きるだろうか.文部省が作り上げたリストに載せられた大学は,確立した「学長のリーダーシップ」により「行政法人化」を「迅速」に「自主的」に決定してしまう,というのがオチであろう.これによって目的は平和的に成し遂げられる.このようなカラクリも見抜けないほど大学教員は世間知らずと見られているようだ.

 何よりも重要なことは大学として言うべき事を正直に言い続けることだ.この春の物理学会のあるセッションで大学改革が議論されたとき,企業からの出席者が,大学が何を考えているかわからない,大学ははっきりものを言え,という発言があったのを記憶している.世間は大学が何も自己主張をしていないと見ているのである.実際そうなのだから当然だ.これからの転換こそが第一歩である.(99年6月1日,最終改訂6月3日)