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国大協と教職員

佐賀大学 豊島耕一
ver. 1.3(30/6/00)

 「国大協がもし『次善の策』を取らざるを得ない事態になれば,われわれとしてもその線で国大協を”バックアップ”して,一致してがんばらなければならない」というような意見が出そうな雰囲気が何となく感じられる.単なる私の思い過ごしであればいいのだが.しかしこのようなイデオロギーの発生をあらかじめ想定してこれへの批判を考えてみたい.

国大協の「説明責任」

 まず,国大協の6月14日の立場は,私が批判したように原則的だけでなく,戦術的にも誤りであると言うことを指摘したい.国公労連が批判したように,国民の理解や支持を得るという立場,その努力をしようという気持ちがない.国大協がこの面で最大限の努力をして,それでもどうしても国民の理解が得られないというのであれば,「条件闘争」もやむを得ないかも知れないが,実は本気でそれをやってはいないのである.会長自らがテレビに出演して,「独立行政法人」が独立でも何でもないことを,わかりやすく的確に説明すればよい.NHKは多分OKしてくれるのではないか.文部省の指令があったのだろうが,ほんの数年前に全国の傘下の大学の評議会で反対決議をやったが,こんどは全部の教授会でこれをやるように国大協自身が encourage すべきであろう.これらは世論やマスコミへのかなりのアピールになるはずだ.そのような,いわば予算ゼロで出来る活動さえもやろうとせず,「強く反対するという姿勢は維持され」る,などと言っても信用されないのは当然である.

 国大協から論客を送り込めばこちらの要求が入れられる,と考えるのも幻想にすぎない.ゲームのルールはすべて文部省が作るのである.過去の例を見ても,たとえば大学審議会に大学関係者が何人も入ったが,結局それがどういう役割を果たしたのか,決算はすでに出ているのだ*

 国大協の本音がもし屈服であればはっきりとそう言うべきだ.そうすればそれなりに責任の所在も明確になる.最も卑怯なのは責任を取ろうとしないことだが,それが今回の「玉虫色」だとすれば困ったことだ.

 ところで,国大協はその名前の通り互いに協力し合うための会であって,中央集権的に決定を「会員」に強制する権限を持つようなものとは見なしにくい.会則第4条,第5条を見ればこのことは明らかだろう.(さらに言えば,国立大学廃止を承認するような決定は会の「目的」に反する疑いもある.)したがって個別の大学が国大協の「決定」と異なる態度をとるとしても何の問題もないのである.もちろん個人については言うまでもない.

取るべき態度

 次に,この問題を真剣に考えようとする個人やグループはどうすればいいのだろうか.

 初めに述べたような国大協追従のイデオロギーは,国大協へのメンタルな殉死とでも言うべきものだ.どのような個人やグループ(教授会,個別大学,組合など)も,名実ともに原則的な立場をとり続けるべきだし,またそのことによる何の不都合もない.そしてこのことは「最後の審判」の日まで「公論」を続ける基盤を持つことであり,また,かりに行政法人化が国会で決まるとしても,いくつかの大学が国立大学として残る可能性につながるだろう.(実際,有馬朗人氏はそのような可能性について言及している.)そして,来るべき真に独立した地位を得るであろう日に備えるべきなのだ.かつての全国一律教養部解体のような愚かしいことはくり返すべきではない.(有馬氏は物理学会での講演でこれをとんでもないことと評した.)今度は教養部解体の比ではない.いわば国立大学がまるごと「省令施設」**になってしまうのである.

 この問題でも,かつての教養部解体問題でも,だれもクビの脅しをかけられている人はいないはずだ.私個人の例にすぎないが,佐賀大学の教養部解体には私は最後まで反対したが,そのことで一円の不利益も受けたことはない.(有馬氏からはむしろ褒めてもらえるかも知れない.)

 それでも,「対応がバラバラだと権力にやられてしまう」というようなお決まりの意見が出てきそうだが,これも間違いだと思う.もちろん原則的立場を堅持して統一できるのであればベストであるが,これとは反対に,一部が(あるいは多数が)変節したからと言って何も全員がそれにつき合わなければならないはずはない.国大協は大学の自由を守る砦の一つになりうる可能性はあるが,もしその障害物に変わったときは批判の対象にしなければならないというだけである.

 国大協は組織の形態の面でも,総会メンバーを学長とし,一般構成員の意見反映の実効的な制度的保障を持たない家父長的な性格のものである.自由を守る砦は他にもあるし,また作らなければならない.

”価値相対主義”は危険

 これからの対応を考える上で重要なヒントを与えてくれる「故事」がある.「茹でガエル」という話を聞かれた方は多いだろう.最近よく引き合いに出される話である.原典は知らないが,何でもミシガン大学のある教授の実験ということらしい.カエルを熱い湯に入れると飛び出して逃げるが,水から少しずつ温度を上げると逃げずにそのまま死んでしまうという実験である.本当かどうか知らないが,いかにも尤もらしい.そしてこの「故事」を使って例文を作ることは誰でもできるが,やはり自分自身に適用することは難しいようだ.

 行政法人化は数年前まではとんでもないこと,大学にとって致死的なものだったはずだが,文部省の妥協,国大協の玉虫色化というように少しずつ徐々に「温度」を上げられると,みんななかなか暴れて飛び出そうとはしない.むしろ苦しみもだえている人間が風変わりに見えるようだ.茹でガエル第1号はどうやら国大協になりそうだ.しかし,くり返すが,みんなが道連れになる必要はない.

 「大勢」がそうなった以上,もはやこの流れに乗るしかない,と考えて,何となくぬるま湯に浸かろうとする人も増えるだろうが,問題は温度感覚が麻痺してしまわないかということだ.この話の一般的な教訓は,体感温度に頼ってはならず,絶対温度計をいつも見ていなければならないということだろう.その温度計の重要な目盛りは憲法23条と教育基本法10条のはずだ.


*10万字にものぼる98年答申には権利,人権,民主,学問の自由という言葉がどれも一度も使われなかった.また,この答申によって昨年の法改正とそれに続く最近の学内規則の改悪が行われたのは衆知の事実である.

** 学部は「政令」で,教養部は「省令」で設置が決められているので,よく後者が格下と見られたものだ.