任期制導入問題と大学

3月22日に地元の高教組と佐賀大学の組合の共催で教育問題のシンポジウムがあり,大学問題では私がスピーチをやりました.その内容をもとに文章を作りました.今日組合に投稿したところです.シンポジウムではほかに高校と中学の先生が話をされ,議論がなされました.

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任期制導入問題と大学

佐賀大学 豊島耕一

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去る3月22日の高教組とのシンポジウムでの話をもとに文章にした,任期制導入反対論です.ほとんどはいろんな反対論で述べられていることのくり返しですが,第5節はもしかすると新味があるかもしれません.

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 昨年の「大学審答申」で大学教員任期制が打ち出され,それを受けて間もなく法案が国会に提出されると言われている.偶然の一致かどうか,アメリカでもテニュア廃止の動きが起きている.そこで言われる理由も日本で言われていることとうりふたつのようである.例えば,黄色くなったノートで時代遅れの授業をする教授,論文を書かず給料をただ取りしている教授がゴマンといる,云々である.「ザ・サイエンティスト」の96年11月11日号の Robert Finn 氏の記事(注1)によれば,25年前も反テニュアの動きがあったが,そのとき言われたのは,大学教員には時間がありすぎるので左翼の煽動など余計なことをしてしまうのでけしからんということだった.しかし今言われるのはそのようなことではなくて,もっぱら財政上の理由や,組織のフレキシブル化,競争力をつけることだそうである.これも日本の状況とよく似ているように思われる.

1.大学審答申

 さて,大学審答申が言っていることを見てみよう.冒頭の「技術革新の加速化,国民の価値観の多様化,国際化・情報化の進展等,社会の諸情勢は近年急激に変化しており」などと言う文章はほとんど内容のない,官僚作文の枕詞のひな形である.それを受けていきなり「学生のニーズや社会の要請を踏まえた教育が行われていない,国際的な競争に耐えうる水準の研究成果があがっていない等きびしい批判がある」,「旧態依然たる授業科目が存置され,・・・などの問題点が指摘されている」などと,いわば「風説」だけをたよりに論を立てるというスタイルになっているのである.だれが「きびしい批判」や「指摘」をしているのかの明示はない.またそれが当たっているのかどうかの,審議会自身による定量的な検証はおろか,定性的な評価・検討さえ加えることなく(そう見せかけるための修辞上の取り繕いさえも無視して),議論の基礎としているのである.

 このような文章構成は,もしこれが研究論文なら許されるはずはなく,すぐに "reject" となるだろう.しかしこのような粗雑な文章がこともあろうに大学社会の中で大きな顔をしてまかり通っている.まさにこのこと自体が,日本のアカデミズムの貧困状況を反映しているといえないだろうか.

 「こうした批判にこたえ」るためと称して大学審答申はいきなり任期制を提案するのである.これはすでに指摘されているように「教員解雇法」でもある.それは再任は新採用と同じに扱われるとしている以上,「買い手市場」の場合,公平な競争では他の競争者が選ばれるほうが確率としては大きいと見みなせるからである.また,「選択的任期制」としてこの制度をとるかどうかは大学自身の判断によるものとしているが,最近の「大学改革」をめぐる動きを少しでも知っている人なら,これが空手形であることはすぐにわかるはずである.

2.外国人教員への先行実施

 ところで「任期制」が外国人教員に対してはすでに実施されていいることに注意しなければならない.82年の「外国人教員任用法」によってそれまで閉ざされていた外国人の国立大学の教員への道が開かれたのであるが,同時に任期制も導入されたのである.つまり外国人については任期を付けてもよいとされた.桃山学院大学の徐龍達(ソ ヨンダル)氏は当時,これは日本人教員にも任期制が敷かれる前兆であると警告したが,日本人教授たちは無関心で,外国人に任期を付けるのは当然という態度をとり続けたと述べている(注2).そして,もし日本人教授たちが大学自治を守るため任期制導入に反対すると言うのなら,まず外国人教員の任期制撤廃の運動から始めよと述べている.この問題に関しては,ネイチャーの96年10月24日号でも,"Tenured hypocrisy" と題して,日本人の任期制に「学問の自由」を盾に反対しても外国人の任期制を容認しているのではそれは偽善にすぎないと指摘している.この記事は全体としては日本人教員は甘やかされているので任期制は当然という論調であり同意できないが,外国人問題ではまったくその通りだと思う.他に合理的な理由のない,外国人であると言う理由だけによる差別は字義どうり「国籍による差別」である.ましていわんや,国際性をその重要な特徴とする大学コミュニティーおいてである.けたたましい「国際化」のスローガンが泣こうというものだ.

3.大学の反応

 このような大学審議会と文部省の動きに対する大学の反応はきわめて鈍い.教員個人のレベルでは反対派が多数のようであるが,賛成論も少なくない.後者には,現状の人事の不公正さを正したい,停滞を打破したいという気持ちからのものもあろう.他方,反対論の表明が自信のなさの表れと受け取られるかも知れないという心理的圧力が作用することはあり得るだろう.勇ましさという点では賛成論の方に分がある. 教授会レベルではこの議論を避けようとする傾向がある.せいぜい「教官会議」という非公式の場で議論することでお茶を濁すぐらいである.このような対応の背景には,「大学改革」でますます堂に入った大学指導部の権力迎合体質,「財政誘導」や窓口「指導」への恐れがあるのだろう.もしかすると,人事は公正だと胸を張れない内情やうしろめたさがあるためかもしれない.

 全国の国立大学の学長の組織である国大協は,いろいろと問題点を指摘しながらも,条件付き賛成ともとられかねないような見解を出した.全大協など労働組合は反対を打ち出している.(ただし外国人の任期制については触れていない.)

4.「任期制」のもたらすもの

 つぎに「任期制」が導入されたら研究・教育はどうなるかを考えてみよう.任期切れの時の業績審査で,業績の質にまで立ち入った高度な審査がなされるのならともかく,そうでなければやたらと論文の数だけを増やすことになろう.いわば「学術ノイズ」が増大する.また,結論の得やすい短期的なテーマがはびこることになろう.先に述べたような粗雑な「答申」がまかり通っているこの国の現状から考えても,このような高度な審査のシステムが作られる蓋然性は少ないだろう.また,よく言われるように教育の軽視が起きるだろう.教育の努力や成果を測定する「公正な」方法は誰も知らないので,評価がされにくいからである.研究業績の評価の問題では,賛成論者も危惧を表明している.桜井邦朋氏は,「教員の評価にあたって皆が十分に納得しうる基準とその法的処置,そしてそれらを実現するための評価機関が確立されることが,その前提条件である」とし,それの困難性を,「大学教員の任期制に賛成しながら,私が考え込んでしまう重要な問題点」だと述べている(注3).

 任期制という強度の競争主義のシステムは研究内容そのものにも影響を及ぼすだろう.いかに綿密で公正な評価システムが作られたとしても,内容に序列を付けることは出来ない.しかし学問研究における最も重要な要素は「何を研究するか」ということである.任期制導入でこのことを深く考える余裕はなくなるだろう.米国では周知のように科学者が軍事研究に広範に関与している.彼らと旧ソ連の科学者の「業績」である核戦争システムが人間に何をもたらしているかを考えるだけで,この問題の重要さは十分理解できるだろう.

 わが国に固有の問題も見逃せない.国立大学が「官」の一部として政府に取り込まれ,私立大学もそのマナーに倣っている現状では,そしてまた日本社会の根強い儒教的風土の中では,任期制は大学への官僚支配をいっそうグロテスクなものにし,学内の封建的支配を強める道具となるだろう.これは米国と大いに異なる点である.前者に関連して,国家公務員法102条の存在にも留意する必要がある(注4).信じ難いことだが,この条項によって国立大学の教員にはその言論活動にまで制限が加えられている.これをそのままにして任期制が実施されれば,大学教員の言論の自由や学問の自由は決定的なダメージを受ける.しかし大学審はこの問題にはひとことも触れていない.

 たしかに大学審がいうように任期制によれば「流動化」は強制的に進むであろう.定年によって30年ないし40年に一度しか空かなかったポストがたとえば5年ごとに空くとなれば,有能な若手がポジションを得られるチャンスも増えるだろう.しかしそのようにして得る地位は上に述べたような品質のものなのである.

5.組織と個人の力のバランス

 日本に特殊の問題や,アカデミズム固有の問題を別にしても,任期制はこのほかにも基本的な問題を含んでいる.人間はふつう怠けようとするものなので,これに対する抑止策はもちろん必要であるが,しかしこれはものごとの一面にすぎない.つまり「効率」の名のもとに構成員のいろんな意味での「居心地の良さ」を一面的に攻撃したり無視したりするのは片手落ちである.両者は,組織の機能と個人の安逸という互いに独立した価値に関わるのであり,もし両立しない点があるとしても片方を切り捨てるのではなく,少なくともトレードオフを見つけなければならないのである.そうでなければ時代遅れの「24時間たたかえますか」のスローガンの企業戦士,ないしは古めかしい「モーレツ社員」のイデオロギーの忠実な主唱者になる他はなく,そしてこれをアカデミズムに持ち込むだけのことになってしまう.しかし任期制賛成論にはこのような視点からの論及は見られない.大学の教員も,私生活はもちろん大切だし,一人の市民として地域の活動やボランティア活動から無縁であってはならないはずだ.

 任期のない雇用制度では,採用(個人から見れば就職)時の決定権は組織の側に,辞職(組織から見れば解雇)時の決定権は個人の側にあることで組織と個人のバランスがとれているが,任期付きの雇用制度ではこれらの決定権を両方とも組織が持つことになる.これは一方的に組織の側の力を肥大化させるだろう.

 冒頭にアメリカでのテニュア廃止の動きに触れたが,このような世界的な「競争」や「効率」の強調は,ソ連・東欧の崩壊に付随した資本主義・市場主義万能論の傾向と無関係ではないように思われる.(任期制は大学教員の労働市場を成長させることに他ならない.)そうすると日本における「任期制」反対の運動は,ひょっとすると,このような傾向にブレーキをかけるものとしてグローバルな意味を持つことになるかも知れない.

 ジャーナリズムを中心に「これからきびしい時代になる」などど言われるようになって久しく,またこの春の卒業式の「祝辞」でもこの言葉はあちこちで繰り返されたことだろう.たしかに彗星が地球に衝突すれば厳しい時代になることは間違いない.しかしこれを言う人の頭にあるのは社会現象のことである.これはわれわれ自身の選択にかかっているのであって,「ラクな時代」を作るようにすればよいのである.それは彗星の衝突を回避するよりはずっと容易なはずだ.

 くり返しになるかも知れないが,この節で述べたかったのは,任期制についての功罪論もさることながら,問題はわれわれ自身がそのような制度やそれによって規制される生き方を好むのか好まないのかということであり,われわれの社会自身の自由な選択の問題であるということだ.今日までわれわれは何とか審議会の御宣託にコントロールされ過ぎている.

6.大学教員の人事と市民

 大学の人事も,大学や学部によって大いに異なる面もあるだろうが,平均的には日本社会のどこにでもありそうな閉鎖性や不公平さを含んでいると思う.しかしだからといって「定期首切り」というのはあまりにも粗雑な議論であって,もっとまともな手だてがいくらでもある.二つだけ例を挙げるとすれば,まず教員公募の際にしばしば年寄り排除の年齢制限条項が見られるが,これが年功序列維持のためのものであれば正当化しにくいだろう.(私自身がそのような人事に関わったことを告白しなければならない.)少なくともあからさまに年功序列制を正当とみなす論調は聞いたことがないからである.また,昇任や採用人事は「大学自治」の重要な要素として教授会権限となっているが,しかしなんらの「他者」によるチェックのかからない権限というのはいずれ健全さを失う.このことは人間社会の普遍的な法則であって,学者社会だけが例外というわけにはいかない.したがってこのための何らかの補助的なメカニズムか(注5),あるいは少なくとも「情報公開」が必要であろう.後者によって市民には大学批判の材料が与えられる.

 これまで「大学の自治」という言葉が,権力からの介入というよりはむしろ国民からの自由な批判を封じる呪文になっていたきらいがある.もとより国民の税金によって成り立っている大学であれば,その自治権が「絶対不可侵」ということはない.法的には何の根拠も持たない「市民オンブズマン」が「官」の閉鎖性に風穴を空ける以上の大きな成果を上げているが,今度は大学をターゲットにした市民オンブズマンが出現するかも知れない.

 任期制導入の動きに対して,「怠け者はどこの業界にもいるものだ」と居直ってもいいけれども,政府の意図は別として大学教員の地位や働きぶりが国民の注目を浴びることになったのだから,このような機会が得られたことを我々としてはむしろありがたいと思う方がよい.そして大学教員の人事にかかわる問題点をみずから明らかにしてその解決策を逆提案するべきである.実はこのことが任期制導入阻止の最も強力な戦略となるだろう.

7.大学問題の重点(注6)

 いくつもの「問題」がある時,いうまでもなく最も重要な問題に最も大きな力を割かなければならない.だからいま大学にとって何が一番肝心な問題かということを見定めることが何より大切なはずだが,なぜかこのこと自体を主題にした議論が少ない.私は,大学の,特に国立大学の文部省依存体質を改めることがすべての前提となる重要課題だと思う.文部省は予算編成の実務を握っていることを濫用して大学の行動を縛り,片や大学側は,事態の責任は文部省にあって,自分はそれに従うしかなかったのだと言い訳をする.(エイズ問題をめぐっての最近の厚生省と医学界との関係を連想させる.)最近出版された大学問題の本の中で,河合塾講師の中西光雄氏は「いまや,過剰な現実への適応から起こるシニシズムを,大学人も大学院生さえも堪えているように思われる」と述べている(注7).

 大学の会議などで文部省のことを「本省」などど呼ぶ人がいたりすることから,国立大学は文部省の一部と思われているふしがある.実際,国立大学の教員は「文部省職員録」に載っているし,文部省設置法8条には「本省に国立学校を置く」とあるので,これも無理のないことかもしれない.しかし大学を政府の行政機関の一部とみなしたのでは,「学問の自由」も「大学の自治」も成り立たちようがない.幸いなことに国立大学は「国立学校設置法」にその存立の根拠を持っているのであって,文部省設置法によって存在している文部省との間に上下関係があるわけではない.いわば両者は「国会の前に平等」である.しかし実際には,「事務を取り扱う」はずの東京の小さな役所による違法な支配が続いている.これを法律のとおりの状態に戻すことが大事である.

 そのためには何をすべきか.まず何よりも教授会じしんの頭の切り換えが第一である.次に,国大協を文部省の下請け機関ではなく,きちんとした「談合組織」にすること,事務局長を文部省の「天下り」ではなく大学自身の意志で人事を行うことなどが考えられる.

 大学の歴史をひもとくと,「ガウンとタウンの争い」がその物語のテーマの一つをなしているようだ.しかし今日の大学をめぐっては,大学が社会に対してなんらかの自己主張をしている様子は見られない(注8).ことさら「争い」を起こす必要はないが,これらの間には少なくとも緊張関係が必要であって,「タウン」による一方的な支配であってはならない.もっとも文部省が「タウン」に当たるのかどうかわからないが.なにも「反権力」でなければならないなどと言っているのではない.本当の自治にもとずく「自己責任」を獲得しなければ,意味のある改革は出来ないだけでなく,大学の通常の機能もあぶないということである.(1997年4月3日)

(注1)インターネットで読めます.アドレス http://www.ahc.umn.edu/td/gs.html

(注2)国際在日韓国・朝鮮人研究会の第17回研究集会レジュメ「大学の外国人教員

任用と任期問題」,1996年5月発行

(注3)川成洋,「だけど教授は辞めたくない」, ジャパンタイムズ,1996年,50ページ,48ページ.この本は著者も大学教員だけでなく予備校講師や大学非常勤講師など多彩で論点も豊富で新鮮.任期制についても賛成論から反対論までいろいろ.

(注4)豊島耕一,「国家公務員の政治活動の制限・禁止について」を参照して下さい.

http://pegasus.phys.saga-u.ac.jp/UniversityIssues/PoliticalActivities.html

(注5)豊島耕一,「『民間大学審議会』の提唱」(科学・社会・人間,55号,1996年1月)を参照して下さい. http://pegasus.phys.saga-u.ac.jp/UniversityIssues/daigakushin95

(注6)この問題での少し詳しい議論は,拙文「文部省の違法行為・従順な大学」(科学・社会・人間,53号,1995年7月)をご覧下さい.

http://pegasus.phys.saga-u.ac.jp/UniversityIssues/obedient-universities

(注7)前出の「だけど教授は辞めたくない」,139ページ.

(注8)もう一つの新しい大学問題の本の中で,立命館大学の大南総長は,「天下国家を論ずることが今の大学ではあまりにも少なすぎると危惧しているんです.戦後,節目節目に大学が学長さんはじめ,教授会が教授会声明を発言してこられたんですが,そんな発信が今は全然ないんですもん.私は心配する面がありますね」と述べている.中村龍兵,「立命館の挑戦」,エトレ,1997年,195ページ.