著者の許諾を得て転載いたします.


[he-forum 1353(10/21)]『鹿大広報』154号(2000年9月) "特集: 今、大学は"

国立大学の独立行政法人化−行革の論理の暴走−

鹿児島大学長 田中弘允

 私は、国の行政改革の一環として考案された独立行政法人制度をすべての国立大学に適用することについて、依然として深い懸念と危惧を抱いている。この問題は単に国立大学のみならず、日本の将来に極めて大きな影響を及ぼすことは明らかである。ここでは現時点で最も危惧される3点について問題の所在をまとめてみた。事はあまりにも大きく、しかもいまだ問題の全容はその姿を現していない。したがって、私どもはあらかじめ結論を先取りすることなく、まず虚心に問題の本質に目を向けるべきであると考える。

1 企画・立案と実施の分離は大学の教育・研究に適用できない

 独立行政法人制度は、「小さい政府」を目指す行政改革の指導理念の実現のための1つの柱である「官から民間へ」を実現するためにつくられた日本独自の制度であり、従来、企画・立案機能と実施機能の両者が一体となって運営されてきた政府の行政組織を2つに分離し、前者の機能を担う組織を政府機関として残し、後者の機能を担う組織を独立行政法人として国から分離・独立させるというものである。この制度では、独立行政法人は、主務大臣から業務の目標を指示され、計画を作成して認可を受け運営費交付金を与えられて、現場で業務を行う。そして、一定期間後に業務の評価が行われ、次期の計画の目標の指示を受けるという仕組みとなっている。一方、現行の国立大学制度にあっては、各国立大学は個別に教育・研究・社会活動などの企画・立案・実施とともに自己点検・評価を行い、それに基づいて大学改革を継続的に行ってきている。大学における教育・研究は、その性質上大学の自主・自律をもって行われるべきものであるので、企画・立案と実施は一体となって行われるべきものである。教育・研究の目標や計画が文部大臣によって指示・認可されるという制度下では、真の教育・研究を行うことは極めて困難なものとなる。もしこの制度を国立大学に適用するとすれば、大学の自主・自律は侵され、未来を創造するべき高等教育・学術研究は官僚統制・国家統制の下で衰退の一途をたどるであろう。本制度の基本設計である企画・立案と実施の分離そのものが、本制度を国立大学に適用してはならない基本理由になっていることに注目しなければならない。

2 国立大学独立行政法人と私立大学法人の区別が問題だ

 ここでは、国立大学の独立行政法人化が法制化され、すべての国立大学が法人化された場面を想像して論を進めてみることにする。そのような状況の下にあっては、日本の高等教育界は、「国立大学独立行政法人と私立大学法人をどのようにして区別するか、すなわちともに法人格を持ちながら、いかなる根拠により、国立と私立との間に国からの交付金に差が出るのか」という問題に直面することになるであろう。これに対する当局側の見解は、「国立大学独立行政法人は通則法に基づき、中期目標の指示、中期計画の認可等において国の関与(規制)がある点で私立大学法人とは異なる」というものである。しかし、この指示、認可から運営費交付金の交付を経て、教育・研究の評価に至るまでの過程が、行革推進本部と私立大学法人を納得させるものとなるためには、文部大臣の指示、認可、評価等は、国から国立大学と私立大学とに渡される交付金の差に見合う「厳しさ」を保持しなければならないであろう。つまり、文部省の規制は強化されねばならないのである。このことは、国立大学に法人格を与え、規制を緩和し、自主性・自律性を増すという法人化の趣旨と真っ向から対立する。それは、名において法人格を与え、実においてそれを奪うに等しく、本制度をわが国の高等教育界に適用するに際しての本質的な自己矛盾となっている。

 そこでもう1つの可能性としては、国立大学独立行政法人と私立大学法人との法人格の差異(自由度の差異)を少なくし、国からの交付金も均一化するという方向が浮上してくる。これはまぎれもなく国立大学の民営化と私立大学の規制強化の方向である。私立大学も主務省の評価を受け、企業会計原則に基づく会計報告を迫られる。わが国の高等教育界は、全国の国公私立大学はもとより各種専門学校をも巻き込んだ大競争・大混乱の時代に突入するであろう。

 これら2つの方向の他に第3の可能性がある。それは、これら2つの方向の間で、行政当局が微妙な舵取りをしていくというものである。しかし、これはまず第1に当局の裁量行政の強化につながり、今回の行政改革の趣旨と本質的に矛盾する。またそれは何よりも、国立大学独立行政法人の制度設計そのものが極めて不安定であることを露呈するものと言わなければならない。

 これらの問題は、わが国特有のものであり欧米では表面化することはない。ヨーロッパでは、私立大学は、国立・州立大学と比べて無視しうるほど少数であり、またアメリカでは私立大学の学生数は約2割程度に過ぎない。そして欧米の私立大学の多くは巨額の資金を有している。これに対してわが国では、学生数、大学数ともに私立大学は国立大学に比べて圧倒的に多く、かつその財政基盤も欧米ほど強くはない。これらの諸事情が重なって、日本の国立大学に欧米並の法人格を与えるのは極めて困難なのである。

 このように、私立大学が極めて多いという特殊事情のために、わが国においてはすべての国立大学を独立行政法人化することには極めて慎重でなければならないのである。

3 地方国立大学の存在は、地方分権に必要不可欠だ

 わが国の国立大学は、歴史、規模、位置、大学院重点化等の面で極めて大きな多様性を有している。地方国立大学についてみると創立以来、差別化された予算の下で様々な成果をあげて本来の使命を果たしてきたということができる。たとえば地方における国立大学の学生数は大都市とは大きく異なりその地方の学生の過半数を占めている。また地方国立大学は主要な人材の育成や産業の活性化などをはじめ地域の文化、教育、経済、社会等に大きく貢献している。しかしながら、もし国立大学に独立行政法人制度が適用されるならば、地方に位置する国立大学は大きな打撃を受けることは明らかである。独立行政法人制度は、独立採算制を前提とするものではなく、したがって民営化とは異なるが、市場競争原理の下におかれることに変わりはない。国立大学の独法化の場合には、次の3点において市場原理が顕在化し、地方国立大学は不利な大学間競争を強いられることになる。まず第1は、3〜5年間の業務の評価に基づく運営費交付金の算定においてである。地方国立大学は施設・設備や教職員数などの教育・研究基盤が、大都市の大学と比べて著しく劣っており、スタートの時点ですでに大きな差がついているので、同じ条件下での競争とはなり得ないのである。また地方国立大学の研究は、地域に密着したテーマをとりあげ、10年あるいはもっと長い期間を必要とするが、いざ成功すれば、地域の活性化にすばらしい貢献をする。薩摩黒豚、合鴨農法、竹炭を素材とするエコ素材などは鹿児島の産業界への貢献の成功例である。これらは、大都市の大学と異なり、ハイテク技術のみに依存しない堅実な技術力の養成から生み出されたものであり、今の日本社会に一番必要とされている部分である。しかしながら、これらの研究が、大都市の大学で行われている派手で先端的で効率のよい研究と比較された場合、それ相当の評価を受けにくいであろうことは容易に想像される。事実、ニュージーランドやイギリスでは、学問への行き過ぎた市場原理の導入によって短期的な経済効果が求められるあまり、基礎的な学問がアメリカその他に流出したとのことである。またイギリスではそのことに気づいて軌道修正をするのに15年も要したとのことである。競争原理が顕在化する第2の点は産学連携による研究費の確保においてである。地方都市では大企業の支社があるといっても組み立て工場であり、産学連携は中小企業とのものが圧倒的に多い。研究費の大幅な増加を期待することは難しい状況にある。第3の点は授業料等の収入においてである。地方の県民所得は大都市に比べて著しく低く、また子弟の教育の機会を確保すべきであるなどの点から授業料等の値上げによって収入の増をはかることも実用性はうすいのである。以上述べたとおり、地方国立大学は、その位置する場所、すでに存在する教育研究環境の差などのために、独立行政法人化され、不適切な(過度の)競争原理が適用されれば極めて不利となり、衰退は免れないのである。

 しかしながら、「小さい政府」を目指す行政改革のもう1つの柱である「国から地方へ」すなわち「地方分権」からみると、地方国立大学の存在は極めて重要であり、衰退させてはならないものである。「官から民間へ」すわなわち「市場競争原理」は、カネ、モノ、ヒトの流れを大都市に集中させるが、「地方分権」はこの流れにブレーキをかけ、全国的に均衡ある発展を促し、過度の集中化を伴う社会問題の噴出を回避する働きをすべきものである。比較的均衡ある形で全国的に配置されている地方国立大学は、市場競争原理に伴う大都市集中化の流れに抗して地方分権と地方活性化を推進し、「国土の均衡ある発展」を実現する大きな可能性を秘めていると言わねばならない。この点については、文部大臣説明の中でも、「地方分権が進む中で、国土の均衡ある発展を図るためには、各地域において大学が果たすべき役割がますます重要になるものと考えており、こうした点をふまえた対応が必要であります」と述べられているとおりである。これらのことは、大都市圏の大規模大学への「拠点化」、「集中化」の方向とは逆に、地方国立大学についてはあくまでも「分散化」を維持し、一方向的に集中化のみを図るべきではないことを意味している。もしすべての国立大学に集中化の論理のみを適用し、地方国立大学の役割・機能を弱体化させるならば、それは地方分権に矛盾し、国土の均衡ある発展は困難となり、地方は自立的な発展の最大の拠点を失い、グローバル化した市場競争原理主義の猛威に押し流されることになるであろう。そしてすべての国立大学への独立行政法人制度の適用こそ、まさにこの集中化の論理の暴走と言わなければならない。今後の日本の高等教育政策は、この「集中化」と「分散化」という2つの契機を正しく制度設計の中に組み入れていくべきであると考える。

 およそ以上のように独法化問題は、日本の将来に深く関わる大問題であり、しかもいまだ誰もその帰趨を見通せない段階にある。にもかかわらず、今の社会で本質的議論の少ないことに大きな懸念を禁じ得ない。現行国立大学制は制度疲労がきているので、独法化を使って大学改革を進めようといった考えがある。もちろん国立大学には改革すべき点があるのは事実であるが、その不備な点は何かを自覚的に明確化すること、次いでその不備な点は運営の工夫などによって改善できないのか、制度を変えなければならないとすれば、望ましい制度設計は何かなどの諸点を検討しなければならない。これらの作業を省略して、まず独法化の方向を決め、それから制度設計に入るといったことは、知の怠慢と言われても仕方がないと思われる。私どもは、この重大な局面において、ジャーナリスティックな風評に心理的に流されることなく事の本質をとことん追求し、国民への説明責任を果たしつつ、未来の国民のために最善を尽くさねばならない。また、国立大学の制度設計の決定にあたっては、その重要性に鑑み、密室での議論ではなく開かれた場における議論がなされ、政策決定の責任の所在を明確にすることが必要であろう。何故なら大学の設置形態が一旦変更されてしまえばその効果の判定に長い年月を要し、したがってその影響は永年にわたって続くからである。私ども関係者全員が本質的に知的にかつ自覚的にねばり強くこの問題に取り組んでいくことが今求められていると思う。