「生き残り」病

ver.2.1
佐賀大学理工学部 豊島耕一

---「生き残り」は「保身」の言い換え---


 言葉は人に何かの行動パターンを強いる手段である.あるカルト教団では「ポア」と言い換えるだけで殺人が容易に実行された.殺人はともかく,このような現象は特殊な集団に限ったことではない.良くも悪くも,一般社会に日常・普通に見られることである.

 今日のわれわれの行動を悪い方向に規制しているのが「生き残り」というレトリックである.「会社が生き残るためには賃上げゼロもやむを得ない」とか「この学校が生き残るためには課外授業もやらざるを得ない」というように,ほとんどの場合,一般に支持されにくい政策を管理者側がその組織の構成員に押しつける場合に使われる傾向がある.任期制議論との関わりでは,「大学改革情報」の[reform:314]で紹介された「国立大の存在自体が脅かされている」という千葉大学学長の発言がその例である.批判者に対しては「事態の深刻さの認識がない」というレトリックが次に用意されている.このため批判の気勢がそがれ,その政策をとらないと本当に「生き残り」に関わるのかどうかの検討が実際になされることが少ない.

 かりに本当に「生き残り」に関わるとしても,そのことは声高に大きな顔をして主張されるような類のものではないはずである.つまり「生き残り」は倫理的な,もしくは価値的,理念的な言葉ではなく,それどころかむしろ下品な言葉であることを意識すべきである.個体と同様に組織も常に自己防衛の本能を働かせるであろうが,それはいわば自然法則であり,そのこと自体はけなす必要もないが同時に特に賞賛すべき事でもない.

 個人には生存権があるが組織にこれはない.つまり個人の生活権の問題と組織の存廃の問題とを過度にリンクさせてはならないのである.存在理由を失った組織は当然のこととして消滅するのであって,無理やり存続させようとすると本末転倒の現象が起きる.学校が「生き残り」のためと称してがんじがらめの管理教育を導入したとすれば,それはもはや学校ではなく「教育工場」に転換するのであって,これは消滅するよりもずっと悪い.「生き残り」のレトリックは資本主義的企業社会では相対的に意味を持つだろうが,公教育分野に適用するにはより多くの留保条件が付けられなければならないだろう.

 はじめに述べたようにこの言葉は今日の日本のあらゆる分野の活動から「歯止め」を失わせているように思える.教育だけでなく産業社会の分野でもそうであろう.あたかも昔の「どこそこは日本の生命線だ」という表現とうりふたつである.「生き残り」説に抗して,「そんなことをするぐらいなら死んだ方がましだ」と言って,より重要な倫理的価値を主張するのは難しいことだ.本当に会社の存亡がかかっているかもしれないし,だとすれば失業は誰にとっても恐ろしいことだからである.しかしそのような発言のできる勇気ある人は人口の数%ないし零コンマ数%は存在するだろうし,また必要でもある.集団としては企業社会では例えば労働組合がこの役割をになうべきだろう.そのことによって「自由競争」にも自然と節度が生まれ,ひいては社会全体の健全さが保たれることになろう.

 生命現象からのアナロジーをもちいた言説は情緒的にも強い効果を持ちやすいので多用されるが,「生き残り」もそのひとつに違いない.しかし同じ生物からのアナロジーでは交感神経と副交感神経のことも思い出す必要があろう.組織や社会において,ある特定の目標が絶対視されることがしばしば起きる.これに対して消極論を唱えることはいつも大きな勇気を必要とするのであるが,生体ではシステムに消極論があらかじめ組み込まれている.それが副交感神経である.言語の領域でこの役割を受け持つものとしてわれわれは「節度」という表現を持っているが,この言葉をもっと大事にしなければならない.

 今日の「教員任期制」の議論のさい,「大学の『生き残り』のためには受け入れもやむを得ない」などという言い方があるとすれば,これは「ダブルスタンダード」の見本のようなものだ.なぜなら,任期制は「役に立たない者は去れ」(注)ということで,これを組織に当てはめれば,「役に立たない組織は消えよ」となろう.しかし「生き残りのため」というレトリックはもっぱら組織の存続それ自体を最優先させることを意味するからである.(1997.1.31)

(注)現在考えられている「任期制」は「役に立つ者も去れ」ということのようである.なぜなら再任も新規採用と同様に扱われるようなので,もし公募であれば同じ人が任用されることは確率的には可能性が少ないからである.