「臆病度」の自己点検が必要

-- 就業規則問題のひとつの焦点 --

理工学部 豊島耕一

すでにこの組合ニュースでも指摘されたように,「国立大学法人」の就業規則案の多くに,とんでもない言論抑圧の違憲条項が見られます.ここに来て「法人化」の一つの本質,大学を小中高並みに官僚的統制でがんじがらめにしてしまおうという,文部科学省のどうしようもない本性がもたらすものが露呈して来たように思われます.

つまりこの問題の背景には,文部科学省のなにがしかの「指導」があると見られるので,きちんとした対応をしないと押し切られてしまうでしょう.独立行政法人の就業規則の中で,このような言論規制の条項が見られるのはほぼ文部科学省系の法人だけで,このことも同省の意向の反映であることを傍証しています.

文部科学省はおそらく世界にも類い希なイデオロギー官庁で,しかもほとんど戦前に「先祖帰り」してしまったように思われます.高校までの公立学校への強い官僚統制,「日の丸・君が代」の事実上の強制への並々ならぬ執念にそのことが表れています.

1.国立大学教員の責任の重さ

この問題で,違憲条項を削除するよう「当局」に対して要求するのは当然のことですが,同時に,この問題では,そのように要求している人自身が「当局」かも知れない,という事実が重要です.あるいは,自分ではなくても,教授会で何メートルか離れた席に座っている同僚が「当局」の一部なのです.

つまりこういうことです.この規則の「制定権」をどこが持つのかについては,法人法にも規定がありません.ということは,これは現在の大学の管理機関にあるということになるでしょう.(もしそうでないという見方があればご教示下さい.)実際,どの大学でも評議会のもとに新しい規則を立案する委員会が作られ,そこのメンバーの多数は教員のはずです.ですから,教員自身に責任があるのです.そしてそこが出す案を最終的に承認するのは評議会で,やはりそのメンバーの大多数は教員です.そのような認識を前提とすると,この問題での教員の持つ責任の決定的な重みが明らかになります.

少なくとも現在,教員は自由に自分の意見を述べることが出来ます.この問題で「テロの脅威」はありません.もし評議員や委員会メンバーにそのような脅威があるのなら,それを避けるために自分の意見を曲げることもやむを得ないということもあるでしょう.しかしそうでない以上,決定への責任は会議のメンバー個人にあるのです.

これまで,ある問題についての教授会や評議会の決定に対する,または何も決定しなかったことに対する,構成メンバーの個人責任を明らかにすることがあまりにも蔑ろにされてきたのではないでしょうか.まさに「みんなの責任は無責任」がその言葉通りにまかり通ってきたように思われます.そしてこのことを曖昧にし,責任を回避する二つの行動パターンなり言説が行われてきたと思います.

2.個人責任回避のための作法と言説

責任回避のまず第一は,表決を回避し,全会一致を装うということです.反対意見が述べられても,議長は「ご了承願います」で議事を終息させてしまうことがないでしょうか.ガス抜きが終われば少数は多数に恭順しなければならないのです.批判的立場を取っているつもりの人でも,「多数決よりも全会一致が民主的である」などという欺瞞的なレトリックで自分自身を騙していないでしょうか.実際に議論を尽くした結果意見が一致すれば,それは本当に全会一致ですが,反対意見を最後まで貫くことを「自粛」しての全会一致は欺瞞以外の何ものでもありません.そのような場合はきちんと多数決を取り,出来るだけ記名投票で個人の責任を明確にしておくというのが(アカウンタビリティーにも配慮した)民主主義です.

この「見せかけの全会一致」と表裏一体をなすのが「力関係」という言説です.「かりに私一人が反対しても無駄だったはず」,「結論はすでにどこかで決められていた」,「力関係から考えて,そのような提案は無理だった」というような言い訳が聞かれないでしょうか.あるいは心の中でこれをつぶやいて,教授会で何も発言しなかったことを正当化していないでしょうか.「教授会の決定」の影に隠れて,自分個人の責任から逃げてはいないでしょうか.

「力関係」を無視すれば,そのために命が危なくなるというのであればやむを得ないでしょう.私も臆病ですから尻尾を巻いて逃げ出すかも知れません.でも幸いなことに大学社会はそこまで行っていませんし,文部科学省はテロも暴力団も使いません.(このような危険はおそらく,闇社会とのつながりを持ってしまった金融機関などの職場では実際に存在するのでしょう.)

気の強い人も弱い人もいるでしょうから,万人に一律に発言や演説や「徹底抗戦」を要求するわけには行きませんが,やはり教員は過度に臆病になっているきらいがあります*.言うべき事を言わなければそもそも何事も始まらないのです.その会議の結論を直接変えることは出来なくても,いわば「アナログ量」として,将来には何かしら影響を及ぼすでしょうし,同僚や,他の教授会や評議会メンバーには勇気を与えるでしょう.そのように,たった一人の短い発言一つであっても,すべてとつながっているのです.

3.教授会の責任,組合の役割

国立学校設置法の改悪でその審議権に枠をはめられたかに見える教授会ですが,しかし「意見表明権」というものは常に持っています.そしてその意見は,少なくともその大学の評議会に対しては大きな影響力を持つはずです.権利と影響力とを持つ者は,必要なときにはそれを行使しなければならないという「義務」を,法的なレベルではなく道徳的なレベルでの義務を負っていると思います.その意味で,教授会がこのような大学の規則の中の違憲条項を見逃すことは許されません.たとえ自衛隊派遣問題で声明が出せなくても,この問題を放置してはいけません.

「学問の自由」どころか,より一般的な自由権に属する集会の自由,表現の自由が,こともあろうに大学において失われるかも知れないという,とてつもない,凡そ考えられもしなかったアナクロな事態に立ち至ったわけですが,これへの反撃にエネルギーを使わずして他に使うべきところはありません.どんなにひどい話を持ち出しても,組合は「条件闘争」で対応してくれるので安心だと思われているのかも知れません.運営交付金の毎年定率の減額案にも誰も「キレ」ないので,事態はこのまま決着しそうな雲行きです.「学長指名拒否も辞せず」と言っていた国大協は,振り上げた拳を一体どこに隠したのでしょうか.大学社会は,組合も含めて本当にナメられてしまっているのかも知れません.

たまたまリアルプレイヤーでチューンしたラジオ・フランスの国際放送RFIは,「放送の公共性を守るため」のストライキ中で**,ずっとレコード音楽だけを流しています.フランスではラジオもストで止まるのです.かつて「中期目標」策定という,国会無視の「先行実施」に手を染めた大学ですが,「非公務員化」で得られるスト権を「法人化準備」の一環として,「先行」して行使することも考えてみたらどうでしょうか.全大教には相当な額の「闘争資金」があると聞きます.

なお,国立大学の独立行政法人化は違憲であるという主張が行われましたし,私もそう思っています.であれば,もし「法の支配」を信じるのであれば,当然のこととして違憲訴訟を考えなければならないと思います.皆さんのご意見はいかがでしょうか.

2月19日追記:佐賀大学の就業規則の第二次案では,ここに述べた懸念は解消されたように思われます.

(本稿はメーリングリスト「大学改革情報」への2月13日の投稿 ([he-forum 6683] 『就業規則問題』のひとつの焦点) にわずかに手を加えたものです.2月19日発行の佐賀大学教職員組合のニュースNo.36に掲載されました.)


*B.マクベイ氏の“Japanese Higher Education as Myth”という本に,日本の大学の教室における学生の異常なほどの沈黙のことが書かれていますが,むしろ多くの教授会にこそこのことが当てはまるのではないでしょうか.(もちろん活発に議論する教授会もたくさんあるでしょう.)また,教授会だけでなくいろんなメーリングリストも議論が少なすぎるように思われます.
** 13日夕方の時点.15日現在もスト続行中.