佐賀大学理工学部 豊島耕一
今わが国の大学の労働組合は,「組合」(union) という名称が適切かどうかという問題に直面している.unionという言葉を辞書で引くと,結合,団結という訳語が出てくる.結合したり団結したりするのにはもちろん目的があって,それは相手との関係で出来るだけ有利に立とうとすることである.もし問題が重要な利害関係に関わるものであれば,相手と「たたかう」ためでもある.しかるに今,独法化がいよいよ国会に提案されようという時期に,大学教職員の組合とその連合体は,「たたかう」意志をもっているのかどうか疑われる兆候があまりにも多い.本当に独法化が「絶対に受け入れられない」と考えるのであれば,少なくとも1%でも可能性がある限り,あらゆる想像力と智恵を動員して,どうしたらその可能性を高められるかということに心血を注ぐべきなのである.そして,国会にかかる前に1%の可能性さえ否定すること,つまり独法化が阻止される可能性が全くないと決めてかかることは,この社会が民主主義社会であることを否定するに等しい.
口で「反対」と言っても,そのための最善の(さまざまな行動の組み合わせの最適化と資源投入に最善を尽くす)行動をとらなければ,それは欺瞞であってむしろ有害である.なぜなら人々が「当然のこととして最善を尽くしているはずだ,それでもダメなら仕方がない」と思ってしまうからである.
大学の組合は「教員組合」の色彩が強い.そして組合の教員メンバーの中には,この組織を学会と間違えているのではないか,と思われるふしがある.現象を説明し,予測すること,そして「行動」らしきものとしてはせいぜいその予測に「対応」すること,このような態度としか思われない言説,態度が多すぎるように思われるのである.その一つの表れは「基調報告」における,阻止・反対の方策を論じるべき重要な章の欠如であり,「中期目標・中期計画」作成作業への「参加」である.
加藤周一氏の近著「私にとっての二〇世紀」*の中で指摘されている,文系の学者の陥りやすい「決定論の罠」の問題はつねに存在するようだ.事が政府の決定であったり,(表面上)社会の大勢であったりすると,それを「必然的現象」と考えてしまっているようだ.これでは社会に主体的に関わることはできないし,ひいては民主主義さえ否定することにつながる.
可能性を信じることで可能性が生じるのである**.これを非科学的と言ってはいけない.人間を含む現象,つまり社会現象の「非線型性」を述べているに過ぎないのだ.(このような考えは「ポピュリズム」「ファシズム」だとの批判もお断りする#.)何も我々は動乱や革命を起こそうというのではない.独法化という違法な政府の計画を止めるためには,当然この「非線型力学」も応用しなければならないというだけである.そして「ユニオン」が団結するとは,ほかでもないこのメカニズムによっているのである.
いろいろと理屈をつけてこの問題と,そして文部科学省・国大協執行部など推進勢力とまっとうに confront しようとせず,結果的に相手の逆鱗に触れるのを避ける対応をしてしまう原因は,結局のところ臆病さである.新しいことへの挑戦,つまり間違ったことは折り目正しく拒否するということに挑戦する勇気がないということである.「葉隠」は知識人の習性を鋭く見抜いて次のように記している.
又学問者は,才智・弁口にて本体の臆病・欲心などを仕隠すもの也。人の見誤る所也。(葉隠,聞書第一)
百歩譲って,独法化は「ほぼ絶対に止められない」としても,間違いを間違いと最後まで言い続けることは,真理に仕えるべき研究者の義務ではないだろうか.「愚直」という言葉を政治家さえ使っているが,むしろこれは「大学の先生」の十八番(おはこ)ではなかったのか.(2002.9.11)
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* 岩波書店,2000年刊,72ページ.著者の許可を得て該当の数ページをウェブに転載しています.
../UniversityIssues/kato-p72.html
「・・・・政治学、あるいは歴史学の場合には、学問が進めば進むほど歴史的な現象が現在起こっていることの必然性を理解することになるので、進めば進むほど批判力が低下する。つまり、批判しても無理だからということになる。・・・・」
さらに,「歴史に『もしも』は禁物」という例の俗論も寄与しているかもしれません.
** 「激震!国立大学」に書いた文章の末尾でも同様の事を述べました.
# 小中学生向けのコメント:ファシズムはそのような集団心理を使ったから,そのような手法はファシズムだ,などと言う人はいないとは思います.でも念のために付け加えます.ファシズムが宣伝を重視したからと言って,宣伝を重視したらファシズムだ,とはならないでしょう.「AならばB」が真であっても,「BならばA」が必ずしも真でないというこは,中学校で習う論理学です.