時間軸からの問いかけ / 九州大学理学部院生協議会 1969年



大学紛争収拾の名の下に「大学の運営に関する臨時措置法」が国会で審議されている最中,大学が上申した学長事務取扱の発令を文部省が拒否するという事態が起こった.これに対して妥協的な姿勢をとる評議会や教授会を追及して「団交」を行った院生・学生の報告文書である.

論理と論理の対決

闘う論理の勝利!
6.21理教授会団交報告

この闘いを全学へ!!

理学部院生協議会

(まえがき)

 現在,政府反動のうちだしてきている大管法の意図を粉砕するためには,それがわれわれ一人一人にかけられた攻撃であることをみぬき,真に闘う立場を確立する必要がある.ところが,先の「井上辞任問題」をめぐる5.20,5.21評議会において,大管法粉砕の立場が,攻撃の枠の中でしか「闘わない」姿勢にうらうちされたものでしかないこと,そして,それを陰ぺいしつつ支えてきた教授会の体質と姿勢そのものに問題があることが明らかになった.我々は,以上の評議会,教授会,--ひいては個々の教授のあり方を徹底的に追求していくことなしには,真に大管法を粉砕し,大学民主化を押し進めることができないと考え,6月10日,12日,2回にわたって理学部自治会とともに,対理学部教授会団交をもった.

1. 団交の目的は何であったか

 我々は現在,大管法粉砕のためにたたかっている.大管法闘争はすでに国会に上程されている法案を粉砕するたたかいと,その実質化阻止--大学民主化のたたかいを結合させたものでなければならない.

 5月21日,評議会は,文部省の発令をみないまま井上学長事務取扱の辞任を認めたが,我々は,その論理,その過程こそが大管法を実質化させるものだと認識したが故に,今回の団交で,5.21決定に責任をもつ教授会に自己批判を要求した.

 我々が自己批判を要求したのは,4項目の確認書をかちとること自体を自己目的化したのではない.そのようなものを強制的に認めさせても,決して教授会の体質を克服することにはならない.

 我々は団交において徹底的に論理で対決し,いっさいのゴマカシを許さない姿勢を貫いた.我々は,評議会の論理が,実は「屈服を自主的に遂行する」論理でしかないことを暴き出し,みずからの論理の破産を教授一人一人に認識させ,その認識を共通の土台として打ち固め,更にはそのような論理を生みだす現在の教授会自治の限界性,教授の体質そのものを克服する闘いに発展させること--この不断の闘によってこそ大管法闘争は勝利しうるのだという観点を貫いた.

 我々が5.21決定の自己批判的総括を要求したのは,あくまでも大管法闘争を発展させるためであったことを銘記しなければならない.

2. 評議会の論理

 5.21井上学長事務取扱辞任決定を正当づける評議会,教授会の論理とは次の様なものであった.
(イ)3.11評議会で井上氏の任期は「学長選のメドがたつまで」と確認しており,その後メドとは「学長選を現行法でゆくか,改正するかの態度が決まるまで」になっていた.
(ロ)文部省の発令拒否と任期問題は切り離して考える.
(ハ)九大の方針を政府の干渉に関係なく断固貫くことが大学自治の原則である.九大は所定の方針を貫いたのだから,辞任によって政府に屈服したことにはならない.
(ニ)井上氏自身が強く辞任を希望した.

3. 我々の論理(闘う論理)

 大学の自治の原則は時の政府権力の政策によって大学における教育・研究が左右されることが学問と科学の発達を妨害し,大きな害悪をもたらしたという歴史的経験から学生・院生・教職員のそれに対する強固な闘いの中から確立されてきたものである.大学の自治は政府権力との不断の闘いの中で強化され,守られてきたものである.権力との闘いなくして大学の自治は絶対ありえない.ここから我々の闘う論理が引き出される.

 大学は権力と独立して存在しない.現在の社会体制から独立した孤立系でもない.資本主義社会の中で大学コミューンを幻想することは現実に政府の攻撃と闘わないことを意味する.文部省の発令拒否という挑戦を受け,大学の自治の生死をかけた大管法闘争が闘われている中で大管法,発令拒否,辞任問題等すべてを別問題として考え,切り離して無関係なものとして考える形式論理は闘わない論理である.それは政府権力との対決点からすべて逃げる逃げの論理である.敵の攻撃に屈服した屈服の論理である.そのような思考方法は客観的に政府からワクをはめられた範囲内での自由であり,自主的決定でしかない.それは国大協の自主規制路線そのものである.

 又もし我々が,マスター二年間の内に何とか論文をまとめなければならないという現行制度のワク内で,自分の研究目標,研究内容を決め,日々ヒイヒイ言いながら研究しているならば,それは我々自身による自主規制である.我々の研究体制・研究条件の改善は政府との対決なくしてありえない.我々の研究の中にも闘う論理は存在する.

 「辞任をみとめることは政府文部省に汚点を残させたことであり,我々の勝利だ」と考える主観主義は,まさに形式論理の必然的結果である.問題は我々がどう頭の中で思うかではなくて,文部省に実質的にどう認めさせたかにある.それは闘かいの論理からしか引き出されえないものである.闘かう論理は変革の論理であり実践の論理である.

 5.21決定を合理化する評議会の論理はまさに屈服の論理でしかなく,国大協自主規制路線そのものである.我々はこのような危険な論理を容認する思想的基盤・体質と徹底的に闘かい,根本的にそれを変革しなければならない.なぜならたとえ言葉で大管法反対と言っていても,本質においては大管法の実質化を容易に受け入れてしまう思想性である.この体質を根本から変革することなくして,我々は大管法闘争を闘いぬく力を大学内に作り上げることは出来ない.

 大管法闘争は法制化阻止の闘かいとそれの実質化阻止の闘いとを同時に闘わなければならない.

 我々は屈服の論理に闘う論理を対置し,屈服の論理をあくまでも粉砕しなければならない.

4. 団交の経過

  --その中で何が明らかになったか--

 我々は6月10日の団交において次の5点を確認していた.

 (1) 5/21評議会決定は現時点でもう一度検討すべきである.
 (2) 近日中に再度団交をもつ.
 (3) 次の団交までに全教授は「井上辞任決定」に対する態度,その論拠,それは大管法の実質化と闘うという立場とどう関係するか,について明確に答える.
 (4) 5/20,5/21の評議会の議事録を公開できるよう努力する.
 (5) 評議会は公開すべきである.

 6月12日の団交は,この基礎のうえにもたれた.我々はまず全教授が大管法に対してどういう立場に立っているかを質問した.全教授が大管法に反対であることを表明したので,我々は5.21辞任決定に際して,教授会のとった態度が,その立場を貫くものであったか,あるいは大管法反対が口先だけのものにすぎないのかを明らかにしていった.一人一人の教授に(3) に対する回答を求めた.その回答と我々の論理を闘わせるなかで次のようなことが明らかになっていった.

 1)評議会のいう規定方針さえ貫かれていない.我々は井上学長事務取扱の発令をかちとっていないのであり,卒業証書等一切の事務処理は原(前)学長事務取扱の名前で遂行されていた.そして何よりも原→問田氏の発令を受けたこと自体が屈服を示しているのではないか.

 2)更に重大な事実は,発令拒否のあった時点で「規定方針」そのものが実際には歪曲されてしまっていることである.
 3月11日の評議会で井上氏の任期は「学長選のメドがたつまで」と確認されていたが,その後4月25日,そのメドとは「学長選を現行法でゆくか改正するかの態度が決まるまで」と「明確に」された.学長選のメドは自治組織の同意なしに立つはずがないが,何故,4月25日の時点でそのような矮小化されたものとして「明確に」したのか?
 我々はこの点で評議会のいう「政府の干渉に関係なく九大の方針を貫く」という言葉さえ疑問に思わざるを得ない.本当に評議会は「関係なく」ものごとを考えたのであろうか,実際には,「関係なく」どころか,発令拒否という事実をふまえ,文部省と対決する方針を避けて,いいかえれば,貫ける方針だけを「自主的に」決めたのではないだろうか.とするならば,これは政府から与えられたワクの中で「自主的に」ものどとを遂行しようという自主規制路線そのものではないか.

 3)多くの教授が井上氏個人の問題では断じてなく(この呼び方自体が誤っているが),文部省の大学に対する公然たる人事介入であり,大学自治への挑戦である.我々は井上氏自身の行動も,個人問題的に解決しようとする誤ったものである(5/9記者会見etc)として批判するとともに,そのような井上氏自体の行動を許す評議会のあり方こそが問題とされなければならない.

 4)評議会,部局長会議で「井上問題」が議論されたとき,発令拒否=それが大管法の実質的第一歩であり,これとどう闘うのかという問題と切りはなして,もっぱら任期がきたかどうかという問題として議論されていたこと.評議会の報告を聞いていくと「学長選挙規定改正案に対する賛否を求めているのか」,「井上氏の任期がきたかどうかの判断を求めているのか」,「井上氏の辞任を認めるのか否かで議論されているのか」が混同して報告されており,結局のところ「井上氏の任期がきた」という判断がそのまま横すべりして「辞任決定」となったことがわかる.
 我々は人事介入とどう闘うのかという本質的な問題を単なる手続き論や,処方箋さがしに解消させてしまってはならないと考える.我々は今回の団交では論点を処方箋さがしに歪曲する一切の傾向に対して文部省の人事介入と闘う「闘いの論理」を対置させ任期問題と発令拒否問題を切り離して考える誤りを明らかにしていった.

 5)評議会で議論されていた事の内容は我々の自治組織には全然知らされてはいなかった.「規定方針」とはあくまで評議会の方針であり実質的に九大の方針ではない.更に評議会の方針が全面的に教官会議に報告もされていなかった.(5月21日の辞任決定についても,最初の意見分布で半数の学部から異論がでていた事実は,6月10日の我々の団交で初めて明らかにされたことだ.)何故,そういった段階で辞任決定をいそぐ必要があったのか.全学の力に依拠して発令拒否と闘う立場に立つのなら,全学の総意を結集するために民主主義を徹底的に貫く必要があったのではないか.それをぬきにして「闘いを放棄したのではない,長期的にこれからも闘っていくのだ」といっても,それは現実に評議会が困難にぶつかっているという事実の前に論理の破産を宣告されているのではないか.我々は「井上辞任」という事実だけをもってそれが誤りだった,と言っているわけではない.我々は今回の団交で,5.21辞任決定が闘う体制をつくりあげるのとは全く逆の方向で行われたことを明らかにし,その様なことでは大管法闘争を闘えないからこそ徹底的に自己批判的総括を要求したのであった.

 6)最後に,多くの教授は,現在の大学制度の中での教授が実際には,権力をもった存在であることをぬきにして学生と対等の「責任」を論じたり,「一緒に話しあいましょう」というが,このことのギマン性を徹底的に追及しなければならない.
 我々は,今回の団交で自己批判した教授の中の少なからぬ部分が,自らの講座にもどれば「権力者」としてふるまうであろうことを銘記している.それは彼自身が悪意があってそうしているというような問題ではない.体制の論理は,我々が闘わないとき常に貫徹しているのであり,学問の論理とは,これに対する不断のたたかいでなければならない.我々は学問の論理を貫徹することにおいてのみ教官と手を結び大管法粉砕をたたかえるのだということを銘記しなければならない.

 12時間に及ぶ団交--論理と論理の対決,闘いの論理の勝利のうえに次のような確認書をかちとった.

確認書

1)理学部教授会は5月21日の評議会における井上学長事務取扱の辞任決定が,文部省の大学に対する人事介入に屈服したことになり,大管法を実質的に許したことであると認める.

2)理学部教授会は,(1)の意味において,5月21日の評議会決定が誤りであったことを認め,自己批判する.

3)理学部教授会,大管法を粉砕するためには,評議会が,5月21日の評議会決定を自己批判し,その誤りを犯した体質と要因を徹底的にあらためることが不可欠と考える.

4)評議会は今までの無責任体制を改め,早急に責任ある体制を確立し,大管法粉砕,人事介入粉砕のため全力をあげて闘うべきである.
 理学部教授会はその先頭にたって努力する.

 以上を確認します.

 1969年6月13日

九州大学理学部教授会

九州大学大学院理学研究科大学院生協議会
九州大学理学部学生自治会        殿

5. 闘いの方向

 I 闘いの基本的観点
 I-1 闘いの方向は何か

 我々の大管法阻止闘争の基本的方向は63年大管法闘争の歴史的総括,即ち法制化阻止闘争の勝利と,その後の大管法のなしくずし的実施,国大協自主規制路線を許したという弱点を明確にとらえ返した中から,次の二つの側面を統一したものとして打ち出さなければならない.即ち大管法阻止闘争は

 1)国家権力に直接的に対決する法制化阻止の闘争
 2)大学内部から権力に追従し,その実質化を許していった「自主規制」を行う教官層に対する徹底的な追求と,その反動性の暴露,そしてその経過を通じて大学全体を国家権力に対決する体制に作り上げていく運動(民主化闘争)

として位置づけ,展開されなければならない.

 I-2 大学の自治とは何か,そしてその担い手は何か

 大学は基本的に学問研究を中心とした教育と研究の場である.研究の本質は,自主的な発展と創造にあり,同時に既成の概念,既成の体制を打ち破らなければならぬ必然性をもっているが故に,常に権力との対決を迫られ,これとの不断の闘いの中で勝ち取り守り発展させられてきたのが”大学の自治””学問の自由”の内容であった.(戦後日本学術会議の”将来計画”の運動を見よ!)

 同時に”大学の自治”は被抑圧人民の基本的人権,即ち思想,信条の自由,集会・結社の自由などの表現形態実体でもある.

 だからこそ,大学の自治は研究者・学生・院生・職員など,すべての大学人によって守られるものである.ここに法制化阻止闘争が全国の大学,全国の労働者とともに闘い,政府を孤立化し,勝利へ進む方向が示されている.

I-3 教授会・評議会の二面性

 教授会は,上記の意味で研究を担う研究者の組織であるという側面において,権力と闘う必然性をその本質においてもっている.

 他方,現行の大学制度では,教授会,評議会が国家権力から学内における権力の一部(それは制限されており,文部省の権力直接支配が拡大されつつある.予算権,高級官僚人事権など)を与えられていることも,重要な側面である.即ち,学生に対する処分権,予算配分権,機動隊の導入権,人事権,あるいは「全学」の意思を決定することなど,学生・院生・教職員に対する権力として立ち現れる.

 ここで注意しなければならないのは現行の体制自身が,教授会に反動的な「自主規制」派としての行動を許し,さらに国家権力の介入を容易にしているという点である.その要因は評議会,教授会の非民主性,秘密性(閉鎖性)にあり,同時に学内の学問的権威,職階的身分制自身にある.この様な体制自身が今年以来続いている評議会の無責任体制,ローテーション方式を生み出し,学内に様々な疑惑と対立を生み出してきているので

I-4 「評議会解体論」の誤り

 しかし,ここで注意しておかなければならぬ事は,この二面性を正しく把えず,教授会を一面的に国家権力の秩序として規定することである.勿論,この様な規定は,教授自身がその本質において反動であるならば,教授会は打倒される対象以外の何物でもない.このような規定から出て来る方針は当然の帰結として「評議会解体」と「教授会解体」であろう.

 だが,彼らの決定的な誤りは,教授を本質において権力と闘わざるを得ない研究者と見ないことである.かような教授に反動的な行動を強要し,それを許すような現行制度自身に基本的な問題があることを彼らは見過しているのである.
 ダイナミックに発展する研究こそが,大学自治のモメントであり,教授もその主要な一翼を担うべきである.真実大学の自治を守り発展させようとする者は,教授を権力と闘う立場にたたせることであり,それは教授を闘いから切り離そうとする現行の体制自身を我々の力で変革し,全大学として権力に対決する体制を作りあげねばならない.
 教授を敵と規定して,他の大学人と切り離そうとする者は,現行制度が教授を他の人々から切り離しているように,政府権力者とおなじことをやろうとしているのだ.

 同時に,評議会を解体することは,文部官僚の権限を増大させるだけだということも彼らはみぬけないのである.

II 5.20決定自己批判を軸に,我々は何を闘いとるのか

     ---闘いの方向---

 1で述べたように,「自主規制」を教授に行わせたのは,現行の体制自身の,非民主性,秘密性,及び職階的身分制度にある.我々は,このことによって教授層が行ってきた様な反動的な行動を,いささかも容易(容認?)しているわけではない.我々は現行体制の中に安住し,反動的な行動を行っている教官層に対しては徹底した追及を行ってゆく.

 我々の課題は,ヘルメットとゲバ棒による脅迫で責任を追及したり,坊主ザンゲをさせたり,評議会を解体させることではない.我々の課題は,論理と論理を対決させて教官層の意識を変革して行くことであり,教官自身に現行の体制の諸矛盾を考えさせることである.意識的であれ,無意識的であれ,彼らが学長人事介入問題で示した態度は国大協自主規制路線そのものである.このことに対する教官層の自己批判なしに,どうして教官自身が現行の体制の諸矛盾に気付くであろうか.

 我々は,5.21決定自己批判を迫った.そして自己批判を通じて,現行体制そのものが諸矛盾を持っていることを教官層に考えさせた.次の我々の闘争課題は,現行体制のもつ諸矛盾を一つ一つはぎとり,新しい体制,大管法と闘い,自主規制を許さない体制を作りあげることである.具体的には(1)学長選の民主化,(2)評議会,教授会の公開,(3)予算の公開を要求し,評議会,教授会の非民主性,秘密性をはぎとって行くとともに,論理と論理の対決を迫る中で,教官層の意識を変革し,我々の力で教官に新しい体制を作りあげさせていくことである.