過去の教授会,学部長会議などの声明の「復活」を

佐賀大学・全国ネット 豊島耕一

わたしはまた、死者たちが、大きな者も小さな者も、玉座の前に立っているのを見た。幾つかの書物が開かれたが、もう一つの書物も開かれた。それは命の書である。死者たちは、これらの書物に書かれていることに基づき、彼らの行いに応じて裁かれた。(ヨハネの黙示録21章12節)

 いくつかの教授会などから,法案についての意見表明がなされていますが,今こそまさににこれが必要な時なので,たいへん尊敬申し上げます.(もちろん私も所属の教授会で努力しています.)そこで思い出されるのは,法案提出以前に数多く出された「声明発表」という行為の首尾一貫性の問題です.

 今からほぼ4年ほど前がピークかと思われますが,いくつかの教授会や学部長会議が,文部科学省の指導によるものではない反対決議を上げています.例えば1999年11月の国立大学理学部長会議声明「危うし! 日本の基礎科学- 国立大学の独立行政法人化の行方を憂う -」は多くの人の記憶にあると思います.

 しかし,法案提出以前に出されたものはいわば「想定問答」であり,当時の「xx報告」などの類の文書から将来を推定して,予防的な警告を出したものです.つまりそれらは,国会に法案が提出されたまさに今日のこの状況を「標的」として出されているのです.そうであれば,それらの宣言者,決議者たちは,本物の法案の存在をいま目の前にして,何も言うことがないはずはあり得ません.つまり,それらの「予言」が当たったのか外れたのか,明確に表明する責任があると思われます.

 上の理学部長会議声明は次のよう独法化を断罪しています.

「各独立法人は3年以上5年以内の期間についての「中期計画」を定め,その計画の達成度を評価委員会が評価することになっていま す.万一,このような短期間での成果を評価することで行政の効率化を図ろうとする 通則法に従って,国立大学の独立行政法人化が行われるようなことになれば,理学部 及び関連大学院における教育・研究は息の根を止められ,明治初年以来の営々たる努 力の結果,ようやく多くの分野で世界をリードするまでになった日本の基礎科学が衰 退するであろうことは,火を見るより明らかです.」

5年が6年になったから,あるいは名前が独立行政法人ではなくなったから問題ないというのでしょうか.少なくとも現在の法案について何かコメントがあってしかるべきでしょう.もし元々このような危険は実はなかったのだと言うのであれば,いたずらに世間を騒がせたことを謝罪すべきでしょう.いずれにせよ今の段階での沈黙はだれにとっても理解困難です.

 実は,ささやかながら私の所属する学科でも,01年に反対声明を出していますので,全く同じ事が言えます.そこで次の教室会議でこの問題を話し合う予定になっています.もちろん同じ事は97年の文部大臣の声明にも当てはまりますので,これは国会で本人を参考人招致するなど,是非とも「自己責任」(?)を追及していただきたいと思います.

 理学部長会議の当時の当番校と現在の当番校をご存じの方は,ぜひ上の趣旨で働きかけていただけないでしょうか.あるいは,知らせていただければ私の方で働きかけて見たいと思います.

* * *

 話題が変わりますが,今日大学で進行している事態に関しては,最近大学のカリキュラムにも取り上げられるようになった「科学技術者の倫理」という観点からも光を当てることが必要だし,また可能だと思われます.

「情報を省略したり留保したりすることは,人を欺く行動のもう一つのタイプである.ジェーンが,自分が進めているプロジェクトのマイナス面についての情報を,意図的に上司に提出しない場合,嘘をついているのではないとしても,重大な欺瞞を行っていることになる.」(科学技術者の倫理 その考え方と事例.Charles E. Harris, Jr. ほか,丸善,2002年,136ページ)

この文章の後段は次のように読み替えることもできるのではないでしょうか.

国立大学の教員が,政府が進めているプロジェクト(独法化)のマイナス面に気付いているにも関わらず,意図的にそれついての情報を国民や国会にに通報しない場合,嘘をついているのではないとしても,重大な欺瞞を行っていることになる.*

また同じ本の別のページには次のような文章もあります.

集団思考

2.外部者を反対側又は敵とみなし,他者を“共有定型化”しようとする強い「我々感情」

5.「波風を立てたくない」ことから生じる個々のメンバーが“自己検閲”をするようになる傾向

6.集団のメンバーの沈黙を同意と解釈される“満場一致の幻影”」
 (同上,129ページ)
  引用者註“”は傍点の代わり

また,同様のテーマを扱った別の本には,個人責任についての次のような記述があります.

会社という存在

普通,会社と呼ばれる法人は,商法という法律に定められていて,会社名に「株式会社」の文字がある.・・・・・・・・・

こうして法律によって創作されたる虚構(fiction 擬制,架空)の存在である.われわれ自然人は,五感をそなえている.法人には五感はなく,したがって,モラルの意識もない.雪印食品の牛肉偽装のような事件が起きると,“企業倫理”の低下がいわれるが,企業体そのものには倫理はありえず,結局,企業の中で業務に携わる人の倫理である.“企業倫理”を強調することは,個人の倫理から目をそらすことにもなろう.・・・・・・・」
 (大学講義 技術者の倫理入門,杉本泰治ほか,丸善,46ページ)

「会社という存在」はもちろん「学校という存在」,「学部という存在」に置き換え可能です.(2003.4.18)


* もちろん,自分が重要だと思う要素の順に強調しなければなりません.これを偽って,重要度の低いものをことさら強調すれば,それも欺瞞の一形態になるでしょう.