大学審「中間まとめ」のいくつかの問題点
佐賀大学 豊島耕一
矢原氏の,部分的な範囲でも意見の一致する仲間を増やすべきだという姿勢(refo rm:994)には全く賛同しますが,かといって一致しないかも知れない部分を引っ込め るわけにもいきません.したがっていろんな合意のレベルでの連合・共同が必要にな ります.
産学協同などが論じられるとき,企業や財界の要求が社会からの要求の主要なもの であるかのような錯覚を同時に持たせようとする傾向があります.これは,あまたあ る人間の活動のなかでも経済活動の分野での,しかも経営者あるいは資本家の立場か らの要求という二重に特殊な集団からの要求なのです.人口にして国民の1%にも満 たないでしょう.(これに権威を持たせるのが「メガコンペティション」とか「大競 争時代」というスローガンです.)経済活動に限ったとしても,これにはほとんどの 人が参加しているわけですが,しかし「労働者からの大学への要求」だとか「消費者 からの大学への要求」などということが云々されることはほとんどありません.或い は,数多くの市民運動やNGO,NPOからの「要求」というのもあまり聞いたことがあり ません.流通している言説はこのように著しく対称性を失っています.このこと自体 が,極端な会社主義,企業優位という日本社会の歪みの反映でもありまた原因でもあ るのでしょう.
「中間まとめ」にはさりげなく国家主義のイデオロギーがドーピングされているこ とにも注意が必要です.「国際社会で知的リーダーシップを発揮できる国」であるこ とが求められている(II-2-(1)-ア)とか,「我が国は・・・世界のフロントランナ ーとして,自らの手でフロンティアを開拓」(III-1-(1))などという威勢のいいフ レーズがそれです.個人のambitionはいいけれども,国家の,あるいは国家意識と結 びついた個人のambitionは危険です.「リーダーシップ」は「覇権」と近い言葉です .自由党の小沢一郎氏とは違った意味で,自分の国を「ふつうの国」として考える癖 をつけなければばならないと思います.ナショナリズムはワールドカップの時だけで 十分です.
「中間まとめ」が読者を包み込もうとしているイデオロギーはこのような経済中心 主義,企業主義と国家主義が結びついたもののようです.
「大学改革の基本理念」の部分の筆頭に「課題探求能力の育成」が掲げられ,これ に続いていろいろな徳目が並べられていますが,中教審の「生きる力」というスロー ガンと同様,いずれも美辞麗句の域を出ず,それらの単なる羅列ではピンとくるもの がありません.これと比べて,かつて紹介したフランスの改革文書「未来の教育のた めの提言」(注1)の次のような記述が私には内容のあることを言っているように思え ます.
「教養の果たすべき機能のうち最も重要なもののひとつは、あらゆる形態をとった イデオロギー的、政治的あるいは宗教的圧力に抗する防御術としての役割にある。こ の自由な思考{パンセ・リーブル}の道具は、武術の護身術がそうであるように、今日 の市民が、彼らがさらされている象徴権力の濫用、すなわち宣伝・広告や、プロパガ ンダによる、あるいは政治的、宗教的狂信による象徴権力の濫用から、身を護ること を可能にしてくれるのである。」(1章.科学の統一性と文化の多元性)
このようなことこそが,教育基本法の言う「国家及び社会の『形成者』」を育成する,ということの具体化ではないでしょうか.「社会から期待される『人材』」を育成する,ではなくて.ちなみにこの「まとめ」の内容を衛星中継で大学首脳部らに「研修」させるというのは,まさにこの「象徴権力の濫用」にあたると思われます.
さて,この文書についてほかに気になったことをいくつか挙げたいと思います.中 には「重箱の隅」もあるかも知れませんが....上の部分も含め,引用・転用はどうぞご自由に,というより,ぜひ転用して下さい.
1. 大学審あるいは文部省自身の「自己点検」が見られない.例えば,「大綱化」という名前の教養解体政策は良かったのか悪かったのか.また「定員削減」は大学にどのような影響を与えているのか.III-4-(1)-2)では「教員が教育研究に専念できる体制を」と言いながら,その節の最後では「合理化,専門化」の名の下に「定員削減」を容認している.
2. 「・・・問題点が数多く指摘されている.」という言い回しが多用されている. 例えばI-2-(1), (2)など.「指摘」しているのは誰かを明らかにしなければ(例示で もよい),「うわさに基づく議論」ということになる.また,「知的リーダーシップ を発揮できる国」であることが「求められている」とあるが(II-2-(1)-ア),やはり求めているのはどこの誰か明示してもらいたい.「わが国の発展方向と高等教育の 役割」を論ずるために「引用」しているのだから,ただの2〜3人では困る.
3. 「大競争時代」なる流行語を無批判に使っている.わが国を代表するような大学 のもと学長が何人もメンバーにいるのに,安易に時流に乗るような態度は軽薄そのもの.上に述べたようにこの言葉は一種のスローガンであり特定のイデオロギーが背景 にある.また,「キャリア・アップ」などという言葉を「国語審議会」は認めるだろうか.それともこれは英語か?
4. II-2-2)では国立大学の機能を勝手に限定し,これと対比する形で私立大学は「 特定の固定的な機能を想定する」のは適当ではなく「自主的に運営され」るべきだとしている.つまりウラを返せば国立大学は「固定的な機能」を果たすためには全面的 に自主的な運営はさせられないと言っている.設置形態の違いにともなう当然の事柄は別として,それ以外のどのような面で自主的な運営がだめだと言うのか,はっきりさせてもらいたい.
5. 設置認可について,II-3ではあからさまに,(たとえ設置基準を満たした申請であっても)国策に沿わない大学は認可しない,と言う意味のことをのべているが,これはそもそも「法の支配」そのものに反するのではないか.これは,項目4と共通の ,大学のあり方は自分たちが決めるという審議会=文部省の思い上がりに由来するものだろう.大学設置審の「審査内規」にも同様の問題があることを以前に指摘しましたが(注2),こちらの方も多分改められていないかも知れません.
6. III-2-(1)-1)では,「教養教育と専門教育の『有機的連携』」という,教養解体 の時以来の美辞麗句が相変わらず使われている.当時もそうであったが,「有機的連 携」とは何を意味するかの記述が全くない.
7. 授業料については値下げを言うどころか,III-6で「物価水準等を考慮した程度の改訂」ならよいとして値上げを容認している.
8. 「大学自治」の意味での「自治」という言葉は(わずか)4回現れるが,いずれも否定的な文脈においてだけ使われている.例えば「学部自治の名の下に学問の進歩や社会の変化に対応した改革の推進に支障を生じている」という具合である.大学自治をいかに今日的に発展させるか,というような観点からの記述はない.その代わりに使われている用語が「大学の自律性」である.大学審は「自治」という言葉が嫌いなようだ.
対照的なのは「省庁再編法」の地方自治の部分である.第十七条の「総務省の編成 方針」の第4項には次のように書かれている.
国の地方自治に関する行政機能の在り方については、地方自治が国の基本的な制度であり、かつ、地方自治を維持し、及び確立することが国の重要な役割であることを踏まえるとともに、地方分権の推進に伴い国の地方に対する機能を縮小することを基本とし、地方分権の推進の状況を勘案しつつ、中期的な観点にも立って、各省の関連する行政の見直しと併せて、次に掲げるところにより、国の地方公共団体に対する関与を必要最小限のものとするよう、その見直しを行うこと。
ここで「地方自治」を「大学自治」に,「分権」を「自治」に,「地方公共団体」を 「大学」に,という変換を行うと,
国の大学自治に関する行政機能の在り方については、大学自治が国の基本的な制度 であり、かつ、大学自治を維持し、及び確立することが国の重要な役割であることを 踏まえるとともに、大学自治の推進に伴い国の大学に対する機能を縮小することを基 本とし、大学自治の推進の状況を勘案しつつ、中期的な観点にも立って、各省の関連する行政の見直しと併せて、次に掲げるところにより、国の大学に対する関与を必要 最小限のものとするよう、その見直しを行うこと。
このような条文になるが,これが「教育省の編成方針」になっても不思議はなかった はずだ.そうならないところに今日の大学の自己主張の弱さが示されている.地方自治体での「自治」と大学のそれとを同列に置くというアナロジーとしての限界を差し引いたとしても,である.
(注1)../education/PPEA.HTML
(注2)「文部省の違法行為・従順な大学」の「5.設置審の審査内容にも違法性」を 参照下さい.../UniversityIssues/obedient-universities
(1998年8月12日)